騒源
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 豪雨が止み、オゾン層を通さない強烈な日差しがあちらこちらに刺さっていく。冷えた陸地から削られた黒っぽい砂がゆっくりと海へ流れていく。この惑星が発する初めての潮騒の音が先カンブリアの空に鳴り響く。

 突如その均衡が破られ、怪物が原始の海へと飛び込んだ。醜悪な緑色の肢体が大海の中に呑まれていく。そこには怪物の求めていた全てがあった。泡が海面へと浮かび、怪物自身は星の中心へ向かって落ちていく。海の冷たさは焼けるような思いを繰り返してきた怪物にとっては至福だった。そしてなによりそこには怪物以外の何者も存在しなかった。

 無数の瞼がゆっくりと閉じられる。怪物の背筋に生える羽毛が徐々に抜けていく。歯茎が緩み、刃のように鋭い牙が歯槽膿漏の患者の如く抜けていく。爛れながらも強靭さを保ち怪物をここまで支えてきた鱗と皮が剥離していく。怪物自体が緩やかに崩壊を始めた。剥き出しになった筋繊維からは体液が漏れ出て海水と混ざる。眼球が濁り、水圧に負けて弾けた。鰓から黒ずんだ血が吐き出される。脳髄はあらゆる機能をとうに放棄していた。何故に必要であろうか?自らの記憶などひたすらに騒がしいだけである。静かなるこの場に走馬灯は不要だ。
 分離していった各器官には未だにその機能を保とうとする反射が働いている。しかし長くは保てず、一つずつ細胞が停止していく。分子レベルでバラバラになった怪物のパーツが広がれば、それは黒い花のようにも見えた。それらは潮の流れと共に世界中に拡散していくだろう。

 しかし、そんなことは怪物にとってはどうでもいい。怪物の魂は安らぎを感じていた。その憤怒は向ける対象を失い、ゆっくりと癒えていった。そして怪物は完全に世界との関わり方を失った。最後に残ったのは小さく単純な蛋白質の塊、ひどく怠惰な生命であった。もしかするとこの先、万が一、偶然静寂が破られるということもあるだろう。しかし、それは怪物の魂が極限まで薄まり消滅したことを意味する。だが少なくともそんな可能性を考えることすら怪物にとっては煩かったのだ。怪物は自身のあらゆる波を止めた。

 そして、静けさだけが世界となった。


「しかし、過去改変タイプとクロステストだなんて。何も起きてないからよかったものの……いいのかねぇ?」
「仕方がないでしょう。こいつだけは破壊しなけりゃならないんですから。安全管理だってかなりの体制でやりましたし」
「いや、まぁ、殺そうとすること自体がそもそもおかしいんだが……評議会の考える事は解らんよ」
 汚れた白衣の男達がモニター越しに収容房を見つめている。画面の中では体長10mもあろう巨大な爬虫類、SCP-682が酸のプールへ叩き落とされていた。怪物は抵抗する意思を見せるものの、最終的には身動きを止めた。安心した博士のうち一人が顔を天井に向け、首のつけ根を掻き始める。なにせ彼はここ数日風呂に入っている余裕が無かったのだ。灰色の垢の塊が皮膚に現れ、それらが爪の間に挟まる。
 突然、職員の間で叫び声が起こる。けたたましいサイレンが鳴り響き、照明が赤い回転灯になる。理由は一つ、SCP-682が瞬時に酸のプールから消失したのだ。空気が緊張に包まれ、人々は自らの成すべき職務に取り掛かる。だから、男は気づかない。自分の垢の中から小さな小さな鱗が落ちたことに。

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