混沌
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ガゴンッと音を立てて揺れが収まった。コンテナがどこかに下ろされたらしい。
ずっと聞こえていたヘリのエンジン音が遠くへ離れていくのを聞きながら、中にいた彼はもう数えきれないほどのため息を、これで最後だと誓いながら吐いた。
ほら、どうせすぐに扉が開く。
今度はなんだ、血か、精液か、脳漿か。あるいは全部か。
このひと月は平和に暮らせていたというのに。いや、だからこそか。
そろそろ誰かがやらかすだろうとは思っていた。

錆をひっかきながら鍵が外されていく音が、コンテナ内の暗闇に響く。
そしてついに扉は開かれた。
久しぶりの娑婆の空気、14時間ぶりの光に、彼は目を瞬かせた。

「あ?」

そこはどこかのビルの屋上だった。
時刻は夜、空には月、地上にはネオンと街頭とビル明かりと車のライトと……。

「あぁ、やっと会えました」

その時、彼の背後で声がした。妙な訛りのある英語だったが、出身の違いからくる語調の違和感ではない気がする。いや、そんなことより。
コンテナには自分ひとりしかいなかった。明かりに目がくらんだのも一瞬、人が入ってきた気配もなかった。ありえない。
振り返ってみれば、そこには確かに一人の男がいた。
やせぎすで、背もあまり高くない(彼にすれば他人を見下ろしたことしかないのだが)。自分のもといた国ではあまりいない体型だ。
一瞬、漠然とアジア人かと思ったが、外からの光も届かないコンテナの暗がりに佇む男の顔は全く把握できない。
ただ、その胸につけられたバッジを見て少し、ほんの少しだけ安心した。刻まれた馴染みのあるシンボルだけはハッキリと見て取れた。

「あぁ、まーた財団の職員がラリっちまったのか。お前、タウの連中か?」
「初めまして、SCP-2662、大いなるクトゥルフ。御心配なさらず、私は正気ですよ。それと私は博士です」
「あぁそう、どーも。そうやって言い寄ってくる連中もいっぱいいたさ。よかったな、そういう連中は大体すぐまともに戻れるらしい」
「そうですか、まぁ私は最初からこうですが」
「あぁ、はいはい」

適当な返事を返しながら、SCP-2662は内心喜んでいた。
元いた国から随分と遠くまで連れてこられたもんだし、長く暗いコンテナの中で揺らされてきたとはいえ、その先に想像していた血みどろの狂信者よりはよっぽどマシな展開だ。しかも割と話が通じるタイプ。
財団ならすぐに迎えを寄こしてくれるだろう。下手人は身内の人間なのだし。自分Keterだし。

「いやー、財団に勤めてもうそれなりですが、やはり本部で収容されているものは格別ですねえ。異常存在に貴賤などありませんけど」
「あぁ、そう。ってことはやっぱりここは本部の管轄地域じゃないわけだ。どこだ? 極東か?」
「トーキョーですよ」
「おぉ、アキハバラがあるとこだな。日本のゲームは中々面白くて好きだぜ」
「そうですか、では交換しましょう」
「ん? 交換……両替ってことじゃないよな」
「えぇ、私が欲しい物を頂けましたら、引き換えに一押しのゲームをお譲りしましょう。とっても面白いですよ」

「さぞ楽しめることでしょう」

暗がりの中、男が笑ったことだけがわかった。
肥満体型のSCP-2662は、まずもって寒気というものを味わったことがない。どちらかと言えば汗っかきでシャワーを浴びるのが好きなほどだ。
だからこの、目の前の男の顔を見下ろして感じる嫌な居心地が、寒気というものであると気づかなかった。

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「実は私もゲームに目がなくてですね。正攻法もさることながら、バグ、チート、外部MODなんかもういろいろ手を出して、えぇ、もう楽しいことが大好きでして。そういうのをね、ときには人に、邪法だ、本当の楽しみ方じゃない、なんていわれるんですが、いえいえ、やはりこういうものは楽しんだ者が勝ちなのですから、マンチプレイ上等ですよ。もちろん邪道であることは理解してますよ。正道ではないでしょう。ですけどね、例えば制作者があずかり知らないところで楽しんでいて、それの何が悪いっていうんです? やはりそういうものは周りの受け入れる姿勢ってものが足りないのが悪いのですよね、度量の話ですよ。器の大きさが知れますよね。面白いことが至上であるというのに、何しに集まってるんだか。おっと、気に障られたら申し訳ないです。決して彼らに対して怒りがあるわけではないのです。むしろ彼らが物事に対して本当の楽しさというものが理解できていないことについて哀れみ、憐憫の情を抱いているのですよ。そうでしょう、器が小さいばかりに、彼らは楽しみ方法を一面的にしか理解できない。延々と石を積む作業をして満足してしまっているんですよ。可哀想に」

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言葉を重ねる男を前に、SCP-2662は思わず一歩後ろへ下がった。
そこに突然暴風が吹きこんでくる。
頭部の触手が風にもてあそばれる嫌な感覚も気になるが、それよりも風の入り込み方が異常だ。
振り返って再びトーキョーらしい夜景を確認する。
景色は先ほどと変わらない。だが気付いた。
コンテナが下ろされたのは、ビルの屋上、その端ギリギリのところだったのだ。
これではコンテナから降りられない。もちろん入ることも出来ない。
ヘリでも近づけて飛び移らない限り、足を踏み出せば地上へ真っ逆さまだ。

「どうされました?」

背後で男が近づいてくる気配がする。
振り向いてはいけない、なぜか強くそう思った。
SCP-2662は夜景のほうを向いたまま叫んだ。

「てめぇ、我の何が欲しいってんだ!」
「私は楽しみたいだけです。より派手に。より混沌に」
「……ニャルラトホテプにでもなりたいのか」
「アッハッハッハ。ノー! ノーノー、ノオオオオオウ!! あり得ませんよ、私が『彼』と同じだなんて! 私が『彼』の貌の一つだなんて!? 大体『彼』は……いや」

ポン、と肩を叩かれた。
身長4mの怪物の肩を、2m未満の人類が叩いた。
耳元で声がした。ビル風の音の一切が消えた。

「それいいね!」

ぞわりと、これまで以上の悪寒が異形の背筋を凍らせた。
不味い。これまで出会った狂信者どものイカレ具合とはかけ離れている。
今の一言は失言だったかもしれない。

「あぁ素晴らしい思い付きだ! いいぞこれ、最高じゃないか。あぁ、どうしよう、踊りたい気分だ。いい意趣返しだ、『彼女』もきっと悔しがるぞ! じゃあ、そうだな、まずはどうしよう。先に血を頂こうかな」

言葉の後に首筋に鋭い痛みが走った。
思わず腕を振って男を振り払おうとするが、腕を空を切った。
勢いのままコンテナの中に向き直ったが、そこには誰もいない。暗闇があるだけだ。
首筋を拭えば、薄く血が出ていた。針で刺されたらしい。
コンテナの中を、どこからとも知れない声が響く。

『クトゥルフ! 君の血は有効に使わせてもらうよ! 人類の5%を問答無用で自分の崇拝者に変えるだなんて、最高に邪神様って感じだ!』
「ふっざけんな! なにが邪神だ、だれがクトゥルフだ!こちとら静かに暮らしたいだけじゃボケェ!」
『そりゃもったいないよ! いあ、いあ! コズミックホラーは終わらないし、人類が暗闇を恐れる時代が終わることもない! ならばむしろ、闇に飛び込んでいったほうが面白いじゃないか! 闇そのものになれたなら、これ以上にワクワクすることがあるかい!』

コンテナ内に笑い声がこだまする。
元から無かったであろう枷を再び外せたというような、訳のわからぬ歓喜の声だった。

そして今、この声の主は、『こちら側』へ足を踏み入れようとしている。

「そして今、邪神の代名詞をその第一歩の足掛かりとしよう」

トン、と肩を押された。

「え、」
「いあ、くとぅるふ!」

コンテナから足を踏み外し、異形の巨体が街に落下していく。
その間際にSCP-2662が見たのは、この世全ての悪意を凝縮したような、暗い暗い暗い……。

落下していく怪物を見下ろして、博士は笑った。
高らかに笑った。
狂ったように笑った。
月に向けて吠えるほうに笑った。


それから数か月後、財団が大きな代償を払いながらも全ての後始末を終えたころ。
全治3年の大怪我を負いながらも財団の収容下に戻ったSCP-2662の下に、大量の日本製のゲームが送られてきたが、これは完全に余談である。

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