恩返しと猫
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あの日は、暑かった気がする。久しぶりに家に帰ってきた彼と一緒に、街を散歩していた日のこと。私は彼と出かけられるのがすっごく嬉しくて、何度も顔を見たし、意味もなく名前を呼んだりしてた。
当時、彼はもう財団の職員だったから、日々のストレスも一般人とは比べ物にならないんだろうと、今の私なら理解できるけど、あの時の私はそんなこと考えもしなかった。仕事内容を知らない私が彼の苦労なんて想像も出来るわけがないけど、今でもああしてしてしまったことを悔やんでいる。

  ねぇ、光希ちゃん!
「うるさいな!」

何度目かの呼びかけで、ついに彼が怒った。たまの休日ぐらいゆっくりさせろとか、そういうことを言ってた気がするけど、私は初めて彼が怒ったことが衝撃的で、悲しくて、でも一番はやっぱり衝撃で。
気づいたら私は駆け出してた。そうだ、今思えばあの時、彼は追いかけてきてくれていた。怒らせた相手を。やっぱり彼は優しい人なのだ。

だから、私を追って車道に飛び出してしまったんだ。

    犬猫も三日飼えば恩を忘れず。


「さてなりたくん、今日は私が面倒を見るから、ヤマトたちと仲良くお願いねー」
「ナーオ」

エージェント・猫宮が腕に抱えたラガマフィン猫のなりたがあくびのように鳴く。久々に猫カフェを開くこの日のために昨日の内からカフェの共有スペースは確保済みで、ヤマトたち飼い猫も向こうに連れて行ってある。そして今日は朝比奈博士が出張のため、なりたも猫カフェでバイトである。給料はちょっといい煮干だ。労働にはそれだけの褒賞が無ければ。

そういう意味では、この臨時猫カフェはエージェント・猫宮が自身へ与えたご褒美のようなものだ。元々休みなんて有って無いような職場だが、ここ数日は特に激務続きだった。自室にすら帰れず、ペットホテル扱いで預かっていたエンリケ君も餓死寸前まで追い込んでしまったりもした。そんな中でやはり辛いのは、飼い猫たちとのスキンシップが取れなかったこと。一番優しいミケですら、久しぶりに顔を合わせた時は素っ気ない態度だったものだから、思わずその場で崩れ落ちてしまったほどだ。だから、この猫カフェという名目で目一杯あの子たちに構ってやるのだ。

「さーて、ヤマトー、シ、ロ……?」

カフェの共有スペースに入り、飼い猫たちに声を掛けようとした声が途中で止まる。エージェント・猫宮が見たものは、カフェの床に伏した一人の女性に愛猫たちが群がっている様子だった。

「ひゃあああ!?」

思わず驚き、情けない声が出る。これが職務中、異常存在に対するエージェントの心持ちであれば話は別だが、今はオフで、しかも目の前にいるのは愛猫(のはず)だ。完全に弛緩していた思考がかき乱される。あるいは、目の前の光景が、例えば愛猫たちの死体であったなら、それはそれで一気にエージェントの思考に切り替われるかもしれない。絶妙な日常の延長にあるおかしな光景を前に、エージェント・猫宮は当たり前に女性らしい声を上げた。

その声で、伏していた女性が身を起こす。さらりと長い黒髪が流れ、その顔が露になる。

「……ユーリカ研究員?」
「……あぁ、猫宮さん」

なんてことは無い。同じ職場の顔見知りだ。だが、ことユーリカ研究員に関しては、床に伏して猫に塗れていたことよりも先に、新たな疑問が先に口に出た。

「野良博士は、一緒じゃないの?」

ユーリカ研究助手は野良博士に対して異常な執着心を持っている。彼女は片時も彼の傍を離れようとせず、やむをえず離れる場合も常に遠方から野良博士をストーキング、もとい見守っているほどだ。故に、サイトのカフェテリアに一人でいるユーリカ研究員を目撃する現状は、ある意味では異常な事態だった。

腰を床に下ろしたままのユーリカ研究員はしばらく黙っていたが、ぼそぼそと小さな声で話し始めた。普段は明るく、野良博士への傾倒具合を差し引いても人気のある彼女からは想像もできないようなしおらしい態度だった。

「光希ちゃんに、いい加減鬱陶しいって怒られたので、反省中」
「あぁー……」

相手があのユーリカ研究員であればこその、この状況が全て解決する理由だった。しいて言えばあの野良博士が彼女を突き放す発言をするのは珍しいものだが、そろそろ彼の堪忍袋も限界だったのだろうと容易に想像できるので、大して気にすることでもない。

いやむしろ、また新たに気になってくるのは、それに対してユーリカ研究員が素直に野良博士の傍を離れたことだ。いつもの彼女であれば、野良博士の監視くらいは懲りずに続けるかと思ったのだが。

その時、腕の中のなりたが身をよじった。落とさないように腕を組みかえる間もなく、なりたはカフェテリアの床に降りてユーリカ研究員の傍へ歩いて行き、まるで話しかけるように鳴き声を上げる。

「ニャアニャア」
「うん、まぁね。でもーー」

そして当然のようにユーリカ研究員も返事を返す。まるで本当に会話が成立しているかのような様子だ。これはチャンスだ、と不意にエージェント・猫宮は思いついた。いつもカフェ設営の妨害工作を行う愛猫たちは今ユーリカ研究員の近くに固まっている。ユーリカ研究員の様子も気になるが、まずはやらねばならないことを済ませてしまおうと、エージェント・猫宮は静かにその場を離れた。


  反省するとは言いつつ、君は他にやりようを知らないだろう?
「うん、まぁね。でも一つだけ別の選択肢は思いついたよ」
  それは?
「遠くから見守るだけなら、光希ちゃんに迷惑かけないかなーって」
  それ、長く続かないでしょ。
「それは、そうだけど」

無意識に俯いてしまう。なりたくんの”言う”通りだ。私は、ユーリカ・ヘウレコはどうやったって野良光希の側を離れられない。今だって、つい昔のことを思い出してしまったからこんなセンチな気持ちになっているだけで、いつもなら今頃ケロっと光希ちゃんにベタベタしていることだろう。でもそんなことを続けていれば、いつか本当に光希ちゃんに嫌われてしまう。彼が本気になれば、私の届かないところに行ってしまうことだってありえる。そうなれば、私はどうすればいい?

この命を、どう光希ちゃんのために使える?
あの恩は、どう光希ちゃんに返せる?

  僕の意見というか。
「うん」
  僕の場合は、僕のご主人の傍にいれば恩を返せるんだけど。
「羨ましい」
  でも僕はご主人の傍に張り付いちゃいけないとも思っている。

  なぜ?
  どうして?
  ヘンだよ。
「ちょっと、うるさいよみんな」

ココちゃんやシノちゃんが口を挟んでくる。さっきまで私を慰めてくれてたみんなだけど、今はなりたくんの”話”が聞きたい。私だけを人間と認識する光希ちゃんと、なりたくんが傍にいることで周囲の人に存在が認識されるようにしている朝比奈博士。私となりたくんは違うけど、今の境遇に近しいものはある。だから、目の前の小さな”同類”の意見が聞きたい。

  ご主人はいつか独りぼっちになってしまうかもしれない。猫を近くに置いておけないようになる日が来るかもしれない。その時に、ご主人は一人でも生きて行けるようにならなきゃいけない。人間はみんな、自分一人では生きていけないって思ってるけど、本当はそんなことないんだって、早く気付かせなきゃいけないんだ。
「でも朝比奈博士、今の出張先ではちゃんとラガマフィン猫を準備してもらってるみたいだよ?」
  それは仕方ないよ、ご主人の仕事中だし。

  なんで?
  どうして?
  ガマンする必要ある?

  君らも財団職員に飼われてるなら少しは控えなよ。

なりたくんが外野の猫たちに突っ込んだ。さすが雑務もこなす高知能猫だ。でも正直、私もみんなと同意見だ。

「私も遠慮なんかしたくないよ。目の前に光希ちゃんがいたら、甘えたい」
  君、”人間になった”なら少しは人間らしくしなよ。甘えたがりの”猫のまま”じゃ、財団職員と一緒になれないんじゃない?
「そ、それは」
  野良博士は、自分も含めて人間みんな動物に見えるんだったよね。唯一人間に見えるのは君だけ。財団は君が居なければ野良博士をどう扱うと思う?

光希ちゃんを財団がどう扱うか。今は財団職員として、少なくとも表面上は、人型オブジェクトに比べれば自由だと思う。光希ちゃんは財団にとって有用な存在だと考えられているから。

  人間を動物としか認識できない野良博士が、いつまでも財団で働いてられるかわからないよ? 今の形になってるのは、野良博士が治るかもしれないと思われてるから、でしょ?
「……あー」
  君という唯一が野良博士をギリギリ人間に踏みとどまらせてる。でもいつか君が野良博士の傍にいられなくなった時、野良博士が四角い部屋に入れられないとは限らないんじゃない?

なりたくんの言葉はどんどんと物事を俯瞰的に見ている立場のそれになっていく。孤独と戦う朝比奈博士を見てきたからだろうか。目の前の賢猫はその小さな瞳でもって、私よりも高い目線で物事を見ていた。

  野良博士の傍にいるのはいいけど、やっぱり野良博士も僕のご主人と同じ、いつか孤独になる身の上なら、今の内に”独りの心構え”を覚えてもらえるようにするのも、恩返しじゃない? ましてや君は人間なわけだし、
「……そうだね、わかった」


「光希ちゃん!」

一応声をかけてから研究室に入る。光希ちゃんはデスク仕事の最中だった。

「……」
「えっと、光希ちゃん。さっきは」
「いや、いいよ」
「へ?」

光希ちゃんが動かしていた手を止めて、椅子を回して私の方を向いた。

「僕も少し、疲れてて、キツイ言い方しちゃったからさ」

謝られてる。そう理解した途端、またあの日の情景が浮かんできた。あの暑い日、私が車道に飛び出して、鉄の塊が迫ってくる中で追ってきた光希ちゃんの顔が浮かぶ。小さな私の身体を掬い上げた光希ちゃんの眼の光がパッと散って、デスクに背中を向けて、少し疲れた顔でほほ笑むような表情。私を安心させようと、自分の無理を抑え込んでいる表情。

  あぁ、これは見上げるだけの視点じゃ気付けないなぁ。

私の頭の中で、古い自分の声が響いた気がした。

「わ、私の方こそゴメンね! 光希ちゃんも一人の時間とか欲しいもんね!」
「……何かあった? 随分聞き分けがいい感じするけど」
「私も思いやりの心構えを覚えようと思ってね!」
「……それは、いいね」

光希ちゃんが目を細めて私を見てる。光希ちゃんにとっての唯一の人間の姿を。光希ちゃんは私よりも賢いし、きっとなりたくんの言っていた自分の立場の危うさもよく理解しているんだろうけど、私の自惚れじゃなければ、光希ちゃんが私を傍においてるのは、それだけが理由じゃない、と思う。

いつか光希ちゃんを一人にしなきゃいけない時が来るのかもしれない。そんなのは絶対に嫌だけど、人として恩を返せる機会を得たならば、本能に従うだけじゃダメなのかもしれない。私も財団職員なのだから。

    猫は虎の心を知らず。


「なりた!」

朝比奈博士が声を上げる一瞬前から、なりたはすでに駆け出していた。朝比奈博士がなりたを抱え上げれば、カフェの片付けをしていたエージェント・猫宮にも気配を感じ取ることが出来るようになる。とはいえ、彼女が他人に気を配れないのも無理はない。ユーリカ研究員がいつの間にかいなくなっていたことにも気づかなかった程度には、真剣にカフェの仕事もこなしているのだ。

「あ、ご苦労様です朝比奈博士。なりたくんが居なくても大丈夫でした?」
「向こうでもラガマフィンは用意してもらえてたからね。何とか用事は済ませられましたよ」

そう言ってなりたの頭を撫でる朝比奈博士だったが、腕の中の愛猫の異変に気付く。

「どうしたなりた、いつもより甘えたがりだな」

あまり厚くない胸板に頭をこすりつけてくるなりたに面食らう朝比奈博士。いつものなりたは聞き分けもいいが、今の様子を見ると離れるように言っても無駄であることは明白だった。

「にゃ~」

と、朝比奈博士の足元で黒猫が鳴いた。
それに続いて、ぞろぞろと朝比奈博士を取り囲むように猫たちが集まり、鳴き声を上げる。
朝比奈博士を中心に、猫たちが声を上げる様は、まるで、まるで……

「おっとっと」
「あぁ、みんな! 朝比奈博士に迷惑かけちゃだめだよ!」

突然の事に面食らい、バランスを崩した朝比奈博士が足の踏み場を探して慌てる。エージェント・猫宮が窘めれば、猫たちは皆エージェント・猫宮の後ろに控えていった。

「ごめんなさい、朝比奈博士、なりたくんも。うちの子が何かしたとかは無いと思うけど……」
「いえいえ、丸一日も離れたのは久しぶりだったんで、きっと甘えたになってるんでしょう。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、アルバイトありがとうねなりたくん」
「……」

いつもの愛想のいいなりたなら鳴き声の一つも返すところだが、今は喉を鳴らしもしない。朝比奈博士は挨拶もそこそこに、なりたと早めに自室へ戻ることにした。その背をエージェント・猫宮と、小さな数対の瞳が見つめていた。


  ”独りの心構え”を覚えてもらえるようにするのも、恩返しじゃない? ましてや君は人間なわけだし、
「……そうだね、わかった」

  でもヒトに遠慮する必要ある?
  私たちはユキちゃんに世話されてるけど。
  気を使ったことなんかない。
  遊び相手にはいいけど。
  餌さえもらえればとりあえずはいいし。

  ……おいおい君ら、猫宮さんに感謝とかしないの?

  感謝するのはあの子の兄貴でしょ。
  ユキは何も知らない。
  無知な子猫だよ。
  今がいくつめの命かもわかってない。
  圧死。
  溺死。
  串刺し
  丸焦げ。
  それを肩代わりしたのが誰かも知らない。

「みんなは私たちとはなんだよね」

  そうだね。
  僕らはユキちゃんに命を貸した。
  貸したものは返してもらう。
  ユキは巫女だ。
  巫女の魂が眠るまで。
  それとも残りがなくなるまで。

    猫に九生有り。

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