東京の一等地にある店にしては、落ち着いた雰囲気を持っているここのレストラン。私はウェイターにベリーニを頼み、食前のワインを堪能することにした。
『お客様、ご注文のベリーニをお持ちしました』
「ありがとうございます」
ウェイターが来て、綺麗に磨かれたグラスに入っている紅く光るワインをワゴンに載せて運んできた
「このベリーニは……?」
『こちらは三笠依子様の特性ワインでございます』
「原料は?」
『依子様の血液をベースとしたシロップを使用しています。そのままですと血生臭いため、石榴果汁を少々お入れしております』
「あぁ、やっぱり……」
この店、弟の食料品の噂は聞いていたが、その通りであった。
私の姉…。両親が幼い頃に死んでしまい、私をここまで大切に育てくれた、尊敬していた一人。学校も行かずに毎日夜遅くまで金を稼いで、私の生活を支えてくれた。借金取りに追われて脅されても私だけを守ってくれた人。数日前、ほんの些細な口喧嘩が大きくなって、そのときは私も理性を保っていられないほどに激昂し、そして手元にあった陶器で姉を──。本気で殺すつもりはなかった。ただ気絶させて落ち着いてもらいたかっただけなのだ。……思い出しただけで吐き気がしてきた。酷い頭痛もする。
私は複雑な感情を抱いたまま、姉の血で作られたベリーニを一口。
「……」
『どうかされましたか?』
「いや、ワインにしては味が薄いような気がして…」
特段ワインに詳しいわけではないが、どこか味気ないというか、雑味が多いというか。決して不味いわけではないが。…そういえば姉はワイン好きだっけ。ソムリエの資格もとっていたし、どんなワインが好きだったかな……。
『失礼しました、他のものと変えましょうか?』
私は少し思い悩んだが。
「いえ、どこかこっちのが私に合っている気がするので……」
『左様でございますか、ではメインディッシュが出来上がるまで、しばしご堪能を』
ウェイターはそう言って厨房の方へと戻っていった。
メインディッシュが来るまで、私は姉の血で作られた雑味が多いベリーニをゆっくりと堪能した。まだ頭痛が治まらない。
『こちら、三笠依子様の胸部を使ったステーキでございます。テーブルにある岩塩をお好きにお使いください』
「ありがとうございます」
『では、ごゆっくり』
そう言ってウェイターは立ち去っていった。
これが実の姉の血肉だとはじめは戸惑いを感じた。
鉄板の上にはブラックペッパーが振りかけてある厚肉が「じゅう、じゅう」と音をたてて焼けており、香ばしいガーリックの匂いが辺りを包みこんでくる。見るものすべてに食欲を与える料理へと姉はなったのだ。私は器用にナイフを使い、姉の柔らかい血肉を口に運んだ。綺麗な白い歯並びと肉の隙間に、びぃんと筋がのびることを感じた。ブラックペッパーがかなり効いてるようにも感じるが、それがまたいいアクセントになっている。また脂肪と赤身のバランスが最高であり、高級肉にも劣らないものであった。何故か懐かしい味がする厚肉をたっぷりと咀嚼して、私は喉を鳴らし、思い出した。そうだ、この味は料理ベタな姉が小さい頃の私にいつも作ってくれたステーキの味に似ている。そういえば姉もコショウをたっぷりつかったステーキが好きだったっけ。毎週日曜日に決まって作ってくれてた。当時の私は姉が作るステーキが大好きであり、日曜日が楽しみであった。
あぁ、私は姉を食べているんだとそこで初めて実感した。
気づけば私は涙を流していた。姉を殺したことの罪悪感からか?姉の肉や血を食べたという非道なことをしたからか?……また、吐き気がしてきた。今までとは違う、酷く重い吐き気が私の中を襲ってきたのだ。呼吸も荒くなり、震えや汗が止まらない。明らかに体調が悪くなっていくのが自分でも分かる。……殺人者はこういう罪悪感や後悔を一生背負って生きていくのか、と思った。
『お客様、大丈夫でしょうか?』
「えぇ、大丈夫です。…少し悲いことを思い出してしまい…」
そう言って私は、冷たい水を一口飲んだ。吐き気は治まらず、震えも止まらない。体調は酷くなる一方だった。……お姉ちゃん、ごめん。
ある程度の食事を終え、会計を済まし、ウェイターに挨拶をして外に出ると空は灰色の雲に覆われ大量の雫を落とし、私の肩を濡らしてくる。
道行く人は皆、均一のビニール傘を挿しているため、見分けがつかないがその中でひときわ目立つ人達が私の目にとまった。
その人達は黒傘の向こうから私を疑うような目で見ると、こちらに近づいてきて、こう訊いてきた。
「失礼、三笠楓さんでよろしいでしょうか?」
「…はい、そうですけど?」
私はそう弱々しく答えると、一人の男性がある手帳を私に見せてきた。
それはこの国の犯罪を取り締まる組織に所属していることを意味する──警察手帳であった。
「私達は警察のものです。あなたの姉──三笠依子さんの事件について、少しお聞きしたいことがあるので、署までお願いします」
あぁ、ついにこの日がきたか。
別に逮捕されるから絶望しているわけではない。
覚悟はしていたのだ、姉を殺したときから──ずっと。
けど。
「…はい、分かりました。でも少しだけ待っててくれませんか。少しあそこのワインを飲みたいので…。別に自殺したり逃げるつもりはありませんから…」
「…分かりました。ゆっくりで構いませんからね」
「ありがとうございます…」
最後に姉の味を覚えるために。
私が罪の意識を忘れないために。
もう一度私は、あのワインを飲みにレストランの戸を開く。そこで待っていたのは。
『お待ちしていました、準備は出来ておりますよ』
そこには綺麗に磨かれた二つのグラスと照明の光で紅く反射し、煌めいて見えるあのベリーニ。そしてピースをしてこちらを微笑んでいる姉が写っている写真がテーブルに置いてあった。私は席について、グラスを持ち上げ、姉の写真に向かってこう言った。
「…最後の晩餐に、乾杯…」
口の中で広がる罪の味にほんの一時酔いしれるのであった。