カモと商人
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 氷河にマッチの火を放り込んだような、くぐもった騒がしさが街を包む。
 秋葉原、年も明けて間もない日の夜。いくつかの集団とすれ違うが、彼らは会話に夢中で此方には気付かない。まぁ、独りで脇を過ぎようとも知覚されまい。
 取引を終えて景気づけに一杯。そう言い出したのは、彫りの深い顔をした我が社の社長だ。人間の風習に興味を惹かれているらしいが、些か俗に染まり過ぎではと思う節もある。告げたところで、直りはしないだろうが。
 その彼に先行して、夜闇を進む。電器屋を通り掛かった。ウインドウの照明が身体を照らし、濃影を生む。陳列されたブラウン管の群を目の端に捉えた。大小様々な製品が、新春企画と称されたバラエティ番組を映す。「1993」という数字が目立つ舞台装置の上、二人組がマイクの前で喋り倒している。早口と笑い声が耳に流れ込む。
 構わずに歩くと、続く足音が途絶えた。喧しい音の中、背後を振り返る。

「社長?」

 ハットを被り直し、彼はテレビへと向いている。光に照らされ、その肌は一層白く見えた。
 目だけを動かして手招きし、彼は呼び寄せる。

「静かに。この番組、何か近しい者を感じる」
「それは一体……」
 
 拍手が遮った。司会が番組を進め、紹介文を読む。
 裏手から駆け足で、血相の悪いローブの女と縮れ髪の男が画面に飛び込んだ。
 男の頭には、牛耳と角が生えていた。
 


皆さまどうも、明けましておめでとうございます。目出度い日にお邪魔させていただきました、くだん・バンシーでございます。

知らない人も居ると思いますけど、新年ですからね。忙しいんで、泣き芸女と死に芸の牛くらいで覚えといてください。

いや、そこは正しくいきましょうよ。我々も有難いことに今年も新年を迎えられましてですね、そこは感謝感謝ですよ。

目出度いですね。お正月というと料理なんかも豪華になったりしてね、楽しいことは多々ありますけども。バンシーさん、今年に入って何か食べました?

おかしいでしょ。その聞き方だと普段何も食べてないみたいになりますよ?

うっかりしてました。じゃあ、何か美味しいもの食べました?

そうですねー、おせちとか好きなんですけど、まだですね。

あ、勿体ない。僕はね、牛のすき焼きとか食べに行ったんですけど、良かったですね。

良かったんですか。ウシがすき焼き食べて何か変な感じとかしないんですか?

不満を言うなら、白菜と葱が少なかったのがダメでしたね。

そこはウシなんですか。

それは置いといて、ですよ。紹介したい美食があってですね。鴨肉って分かりますか?

カモというと、トリですか。あんまり味が想像できないんですけど。

これがクセなくスッと食べれまして。ベタは鍋ですけど、僕は焼き鳥なんかも合うと思うんですよ。これ何が便利ってね、ガッと羽根を掴んで食べれるのが良いですね。

羽根って、捌かずに直で焼くんですか? 身体に悪いから止めた方がいいですよ。

はぁ? そんなわけないでしょう。流石に僕でも下処理してない直焼きを食ったりしませんて。

……。ま、まぁそうですね。それはゴメンなさい。

カモの話に戻りますけども、基本は身もあって美味しいんですけどね、ただ噛んでるとガリッっとなる部分があって、そこだけ気を付けないとダメなんですよ。

へえ、なるほど。骨ですか?

あー、違いますね。正解は矢じりです。

そのカモ矢が刺さってません?

鮮度が大事って言いますからね。

程度があるっていうか、がっつり下処理してないモノ食べてるじゃないですか!

まあ冗談ですよ。でもどうしますか、矢の刺さったカモが出てきたら。

何なんですかその話の転換は。うーん……可哀そうっていうのが一番最初に来ますかね。

普通ですねえ。

いや、なら悪くないでしょ。それならあなたはどう思うんですか?

何でしょうね、アイドルみたくなりそうですよね。

アイドル?

物珍しい立ち振る舞い絶対するでしょう? 飾り物付けて命懸けで水を泳ぐとか。

矢をアクセサリーみたいに言わないでくださいよ! 皆してそんな風に飛びついたりしますかね。

鮮度が大事、ですから。人ってのはそういうもんです。ま、矢の刺さったカモ自体、現実で起こるとは思いませんけども。ところで、アイドルというと……


 一幕を見届け、隣にいた社長が動く。黙って横を過ぎていく。光の当たる地点から外れ、靴と舗装路が打ち合って硬い音が鳴っていた。

「社長……ヘルメース社長! どこへ行くんですか?」

 慌てて後を追う。ヘルメースは微笑を湛えると、電器屋と隣との店舗の隙間を指で示した。

「取引さ。行くぞトート、呑みはまた後日だ」

 爽やかに口の端を結び、路地へ潜る。
 居酒屋からの解放と仕事追加の報せを受け、名前を呼ばれた私は重い足を引き摺った。クロトキの嘴が狭路に引っ掛かるなどと、人間体である彼にそんな考えは起こらない。旧時代から配慮はないし、今更言っても変わらないだろう。
 私は嘴を、路地裏の臭う空間へ突っ込んだ。


 この夜、月は浮かんでいなかった。厚い雲が夜空を塗り潰し、自然光は微かに瞬く青い星のみ。故郷、それも在りし時の国と比べれば、何とも脆弱に思える。
 黒い顔を冷気が覆う。嘴の先が震えている。一月の日本の気候はいくらか堪えるものがあり、和気藹々とした空気が消え去れば体感温度は急速に下がった。
 吐く息の白を認識しながら先を睨む。前方を往くヘルメースの足が止まった。
 両脇に雑居ビルが並ぶ暗い路に、二つの人影が伸びている。移動の最中には見えない。濃淡な陰をあたかも棲家にしているかのように、そこへ身を落として静止していた。
 人間にしては、暖かみが一切感じられない。確固たる魂が宿っていない存在、そう類推する。根拠はないが、直感として。
 一人は灰の外套を纏り、フードから黒髪を垂らす。また片割れの者の頭では、獣の部位が露見していた。

「くだん・バンシーさんですよね?」

 ヘルメースは後援者みたく言葉を掛けた。
 両者が彼へと向く。男は髭面を晒して怪訝そうに首を動かした一方、もう一人が凍り付いたような表情で我々を眺めていた。若い女だった。口許は引きつり、充血した眼を見開いて身体を硬直させていた。雰囲気から危険を悟ったのだろう。現代人の衣服を身に纏っていても、察する者は察するらしい。
 その視線を妨げるようにして、男は彼女の前へ躍り出た。我々のビジネススーツとは趣の違う、少々遊んだ色調の礼服を着た彼は、革靴の先を揃えて笑顔を作る。この顔に切り替わる直前、陰に駐在していた男の表情が酷く冷淡だったのを私は記憶に留めようと決めた。
 男が何かを発するより早く、ヘルメースが口を開く。

「ヴェールや隠匿術の心配は不要ですよ。干渉し合って互いが互いを認識できる、その状態です」

 表情は変えぬまま、男はじろじろと視線を流す。最初に社長、そして此方。舐めるように這わせ、歯を覗かせた。

「ああ、なら安心しました。けれど、何処の輩か分からん奴に身を明かすことはできませんね。僕らは信用商売ですので」

 笑いを挟む。返し言葉に、女が大きく凝視の方向を切り換えた。抑えた怒りか、懇願か。鋭く目を細くして、男の肩を揺する。依然として、男は何処か悠々とした対応を崩さない。

「それは失礼。我々、こういった者で」

 促されてヘルメースの横に立ち、内ポケットを探る。ケースを掴み、一枚の名刺を取る。ヒエログリフの上方、相手の言語により改変される文字列を薄く眺め、男へと差し出した。接触した男の掌は、生体とも取れぬ微妙な温度の熱を保っていた。

トリスメギストス・トランスレーション&トランスポーテーション代表取締役社長、ヘルメースです」
「同社代表取締役副社長、トートと申します」

 数回頷いて、男は二枚の紙の端切れを懐に仕舞う。頭を揺らす様子から、名前の意味を深く理解してはいないらしい。傍らで、後ろに隠れた女は縮こまっていく。
 気に掛けつつも、天へ立つ角を振って男が礼をした。動作の慣れ。それが推し量れた。

「詳しい話は後で聞きましょう。 くだん……まぁ、今はこの国で芸人やらせてもらってます。で、こちらが」
「貴方たちほどの存在が、一体何用か」

 大きな背の裏、震え声が路上に沈む。目が後方へと泳ぐが、件と名乗った男の表情は崩れない。
 関西訛りの日本語。白い顔に反してその言語が飛び出したことに、ヘルメースは若干興奮を露わにしていた。元より、あの漫才も我々の翻訳を利用していない。洗練され切った発話に多少なり関心があるのは、私も同じだった。
 少々の間を挟み、件は後ろを確認してから我々に向き直る。

「バンシーさん? ……すみません、知り合いですか?」
「いえ、初対面です。ああ、改めての紹介は不要、と言い遅れました。以前から噂には聞いていましたから。今日も御出演、してましたよね?」
「へぇ、ご覧に。生の声援ってなかなか聞かないので有難いですねぇ」
「活力になれれば幸いです。ただ、それのみを伝えに来たのではありません」

 談笑を締め括り、ヘルメースは人差し指で空を指した。その些細な動きを警戒してか、バンシーと呼ばれた女はまたしても後退りする。ここまで怯えているのも無理もないし、堂々と直立する件の方が異様ではある。きっと知らないのだろう。我々を日本の妖の一種とでも思っているに違いない。

「件様、バンシー様。娯楽として極められたその芸、より円滑に披露したいとは思いませんか?」

 始まった、と心で吐露する。誰に憧れたか、仰々しい商売人口調が彼のここ最近の癖になっている。身分を意識して欲しいものだが、元より商人の真似自体が俗物的。敢えて、プレゼンテーションは止めない。
 相手は黙したまま、小首を傾げた。

「詳しく、頼みます」
「我々トリスメギストス・トランスレーション&トランスポーテーションは、そのサービスを多くの神々に御活用頂いております。勿論、神といっても、聖人、仏、妖精、妖怪など、利用者の性質は問いません」
「はあ。それで、貴方がたの商いと僕らに何の関係が?」
「いかがでしょうか、御漫才をより幅広い客層に見てもらっては」

 ぼんやりと顎を向ける件に大声を張って、微笑を浮かべる。そのまま調子を落とさず、ヘルメースは続けた。

「顧客調査により、貴方がたの能力と近年の行動は把握しております。『三種の神器』の一つであるテレビを用い、さらに流行の演芸に乗せて恐怖を与えず悲劇を伝達する。大変、現代人類的です。我々もコマーシャルに取り入れたいと、感銘を受けておりました」

 顧客調査とは物は言い様だ、と私は彼の背を見て思う。果たして調査と呼べるほど労力を掛けていただろうか。何にせよ、目の前の二人の素性は割れている。少なくとも、漫才師ではない。
 件。日本を起源とする牛の妖怪。記録の多くは牛体人面の姿だが、あの背広を着た男の恰好からしてそれも仮の肉体か。
 バンシー。世界に渡って分布する泣き女の一体で、この個体はイギリス周辺の生まれだと思われる。故に、日本語を話したのが気に掛かった。
 両者、共通して凶事に対する予知能力を有する。あたかも冗談のように語ったカモの話すら、恐らく近いうちに世に降りかかるだろう。ただし、1993年の人々は最早それを信じない。未来予知はオカルト雑誌の産物となり、事あるごとに外れている。明日を正確に推測する技術が過去の俗習をジョークの一つにまで追いやった。きっと、漫才に落ち延びたのも苦し紛れだ。
 ヘルメースはこの二人を知るなり、ずっと気に掛けていた。長期間――とはいえ、我らからすれば時計のズレ程度の認識だが――に渡り、追跡していた。神とて万能ではない。能力にも限界値は存在する。だから徒党を組む。痕跡を追うにしても、足跡を掴む必要があった。
 オリンポス十二神が木端妖怪を追い回して何になる、と我に返りそうになった。貴方ほどの存在が。泣き女の言葉を回想する。全く以てその通りだ。ゼウス神の密命を幾度となく果たした英雄がビジネスマンに成り下がっていいのかと苦言したくなったところで、思考の底へと追いやった。それに関しては、私も他人のことは言えない。彼に賛同したからこそ、知恵の神として貢献している面がある。現に、調査とやらで私の蔵書を貸してやった。ヘルモポリスの民よ、泣くなら泣け、と柄でもなく押し殺した。
 画面の中では饒舌だった彼らも、ヘルメースに圧倒されているらしい。茶々など入れず、聞いている。これが土着神なら一言一言、概念を確認しながらでないといけないので、助けられている方だ。

「使用言語は日本語、それも上方ですか。しかも、降臨はテレビ番組に限られているようで。元来の降臨方法は、牛の赤子として母牛からの産出、そして死去する者の発生に伴って家の近辺に……現在の人間体での御漫才も、かなり工夫されているのだと思います」

 しかし。彼は逆接を加えた。

「我が社にかかれば、多言語かつ自由な形態での降臨も可能となります。人間の前で劇場の大舞台に立つことや、生放送への登場も不可能ではありません。どうでしょうか。条件付きで、代償は不要です」

 隠れて、小刻みにステップを踏む。小さく硬い音が響いた。商談の前後にこれはよく見たが、最中は久々だ。よほど気分が良いらしい。

「不可解だ」

 男の背から顔を覗かせる、バンシーの声がした。
 不可解、それは私も言いたい。アイルランドに伝わるバンシーが日本にいる理由が見つからない。単に日本を尋ねられるほど、移動する妖精ピクシーでもない。ヘルメースは「自分のことを棚に上げるな」と元より気にしていなかったが。
 その彼が目を合わせる。軽く震えてから、バンシーは繰り返し口を開く。

「私たちに肩入れしようとする意味は何だ。誰も囁きを聞き入れぬ妖に、神ともあろう者が」
「僕が神であるから。答えになりますかね」

 素っ気なく即答したヘルメースに、バンシーは口を開けっぱなしにした。

「貴方がたの力は役立つでしょう。問題は、聴衆が消えてしまったことだ。天候占いは気象衛星に取って代わられ、祈祷は医術に変異した。それでも、未来予測の能力は大いに世界を揺らすでしょう」

 女の頬が緩んだ。
 件にしてもバンシーにしても、真正面から予言を聞く者は現在では皆無だろう。そのうえ、それは我々とて他人事ではない。
 神秘錬金術トリスメギストスが死んで、科学が栄えている。ある哲学者が神の死を宣告してから、人間は世界の所有を始めた。

「神であるから、同族に、人間の隣で生きた者に仕事を与えたい。……実のところ、広報戦術を迷っていましてね。テレビ放送で演技ができる人材を探していて。条件というのは、それです。未来の情報と一緒に、社の取り組みを発信して欲しい」

 ヘルメースは小さく笑った。気取るのがこの社長の一貫した特徴だ。恰好を付けたがるから、すぐに本心を濁す。
 信仰の失せた存在に役割を与え、新たな価値を一滴。神の社会のサイクルは、そうして回り始めている。
 君らを救いたい。それを真っ直ぐ言えればどんなに良いか。青年神の背面を眺め、思いをただ飲み込んだ。
 件の腕を掴むバンシーの手の力が弱まってか、彼のスーツのシワは際立たなくなった。警戒心は解けた、と断定する。目で私がそれを示すと、ヘルメースが僅かな仕草で応えた。
 あとは落としに掛かるだけ。

「件様、バンシー様、我々と一緒に神格社会を動かしませんか?」

 ヘルメースの言葉が狭路に渡る。
 バンシーが件の腕を放し、脚を動かした。隠れず、並び立とうとしたのだろう。
 だが、彼女は阻まれる。他でもない、件が身体で彼女を制し、またしても腕を盾みたく垂らす。
 攻撃性は、表情から感じられない。いや、むしろ積極的に説得を図るのはこの牛であるべきだった。そう後悔したのは、一貫して彼の顔が微笑から変動しなかったのを思い出したからだ。
 唖然。それがバンシーの顔を覆っていた。無視して、件はにこやかに語る。

「申し訳ないですが、お断りします。僕たちと貴方たちでは、余りにも違い過ぎる」
「そんなことはありません。神も妖も、互いに手を取り合って」
「いやいや、そこは気にしてないんですよ」

 胸の前で手を振って、口角を尖らせる。物腰の柔らかな芸人の瞳と焦点が合った。忘れていた、と気付かされる。
 冷徹な眼は、彼が間接的な死を告げる存在だということを静かに提示していた。

「流石、信仰の厚い神様は随分と余裕がありますねぇ」

 笑いが零れる。前に立つヘルメースの顔は見えなかったが、脚を接地させたまま踵を浮かせる。神話に準え決めておいた、『劣勢』を表すサイン。ジョークが割合の多くを含むその合図を使ったのは久々だった。

「ヘルメス、トト……僕としてもね、お二人の名前くらい知ってますよ。ちょっと前、人間のオカルトブームで耳にしました。御高名なんですねぇ。異国を訪れて道楽でサラリーマンをやるってのも面白い。芸人に成れますよ」

 くつくつと声を沸かす。言葉は次から次へと投げられた。

「悪い話じゃない、それは理解できます。でも残念、僕らのはもう戻れない決死策なんですよ。畏れも何もかも捧げ、娯楽に身を染める……あ、娯楽、先ほど貴方も仰いましたね。存在しない、一転してそれを貼り付けられた怪異の行先をご存知ですか?」

 私もヘルメースも、何も発せなかった。場は彼の立ち振る舞いに支配され、独壇場へ変貌していた。

「人知らず消え入るか、人々の感情の傀儡に成り下がるか。僕らはね、条件付きで後者を選んだんです。来たる惨事を笑い飛ばして素通りし、やがて笑い伏せたことを後悔する。彼らは忘れません、一度忘れた僕らの存在と一緒にね」

 腕をバンシーの肩に回し、件は彼女を連れてくるり踵を返した。困惑して焦りながらも、バンシーは件に従って歩き出す。
 目だけで我々を見て、彼は最後に突き放した。

「貴方たちは、僕らを飾り付きのカモだと思ったんでしょう。なら、今度からは気を付けるべきです。そのカモの飾りとは凶刃で、重篤な傷を負っているかもしれませんから」

 言葉の一端が穿つような鋭さを形成し、身に刺さる。釘留めされた我々が呆然としているうちに二人組は路地の角を折れ、影すらも見えなくなった。
 気配の消失と包むヴェールの圧迫、両を肌で感じ取る。息を吐いて、私は建物の壁に寄りかかった。社長は伸びをして、彼らが消えた道を未だに視界に入れていた。

「いやぁ、上手いことしてやられたな。今日は完敗だ」
「……あの漫才も、我々の来訪を読んでのものでしょうか」
「まさか。彼はコメディアンだ。持ち前の頭の回転で結び付けたのさ」

 捻られた蛇口みたく胴を回してから、ヘルメースは深く呼吸する。
 暫く、彼は沈黙していた。商談の失敗は、既に何度か経験済みだ。上手くいかない日もある、割り切る精神が大事だと大口で笑うのは彼自身だった。
 恐らく、あの妖の言葉を噛み締めているのだ。いや、言葉だけではないかもしれない。遠慮のない態度と、追い詰められた信仰の無い怪異そのものの存在。
 それでも、原動力に変えてしまうのだろう。私は確信している。オリンポスの英雄神がこれで折れてしまうことはない、そう信じているから声は掛けない。
 やはり、暗路の静けさは突発的に破られた。
 
「トート、呑みに行くぞ」
「……はい?」
「反省会だ。夜も更けてしまったけど、何処かはやってるはずだし。行くぞ」

 漫才師が去った方に背を向けて、ヘルメースが私を抜かして足音を立てる。夜闇に黒のスーツを着たクロトキを残し、異色は私の眼くらいだ。間抜けと誰かに指差されても反論できぬ状況に追い込まれ、私は慌てて彼に続く。
 


 我々は、時間も計らぬうちに繁華街に出た。意外にも営業する店は多く、ネオンが通りを照らしていた。賑わいも近く、都市はささやかな喧騒が埋めている。
 ふと、考えが降りかかった。この街に居る数多くの人間の何割が、人間界での知識として我々を知っているだろうか。

 件の嘲笑が理解できたような、薄い膜に似た認識がヴェールの中の私を覆った。


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