支払うべき対価
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支払うべき対価

「財団の永い神話の一つですね」粋なスーツに身を包んだ赤毛の女が、カフェテリア支給のプラスチックのフォークで暇そうにサラダをつつきまわしながら言った。「『Dは使い捨てdisposableのd』」

15分後、私は茫然自失の中で彼女にクリップボードとペンを返した。

「あなたは素晴らしいことをしようとしているんですよ、ジョン」彼女はつぶやいた。「実際、これはあなたのキャリアには非常に良いものになりえます。プログラムへの志願は上層部にあなたが倫理的で、勇気があって、財団の理念に対し献身的だと示します。公然と宣伝はしていませんが、記録があればあなたの昇進に軌跡を起こせますよ。とにかく―10日で今取り組んでいるプロジェクトを同僚に移譲して、準備してください。荷物は必要ありません―こちらで全て提供いたします」

「誰かに話しても?」

「お望みならば」彼女は肩をすくめた。「大半の方は信じませんし、信じた方はあなたが降格されて処刑されると思いますよ。お好みで」彼女はクリップボードを背後に滑り込ませ、微笑みながら立ちあがった。「さて、ジョン、10日後にお会いしましょう」そして私の手を握った。

私は首を振った。サイト-104のカフェテリアで、サラダを肴に受けた怒涛のような暴露が脳内で騒音を立てていた。あなたは財団に参加した、そして天地はひっくり返った。怪物は実在する。すぐそこの実験室で魔術が行われている。そして世界と終末との間の最終防衛線は、白衣と保護眼鏡を身につけ、クリップボードを手にいかつい表情をした男女だ。

そして今世界はまたひっくり返った。その驚くべき、夜眠れなくなるような実存について知って以来、私が数か月の間戦い続けていた風車はもういなかった。それともまだ存在しているのだろうか?同僚たちの間でよく知られた事実―オレンジのつなぎを着た忌まわしき、名前というより数字を与えられた―は、全て嘘だったのだろうか?あるいは、私は地獄へ転がり落ちるように彼らに加わろうとしているのか?私はふらつく頭で一皿のケールを見つめながら、唸る蛍光灯の下で座り込んでいた。想像できるかぎり最も不名誉な方法で死ぬ羽目になるんだろうか?

それとも私は本当に、ランチの相手が言った通り、素晴らしいことをしようとしているのか?

あの日その後、私はスーパーバイザーと話をした。上司はレベル3の博士号持ちで、非常に尊敬している男だった。私は絶望的なまでに彼のインプットを求めていた。彼は何も言わず、ただ私の予定されたタスクを再割り当てすることに同意した。私がその間に何をするか告げたとき、彼は長い間、平坦に私を見つめた。安心させるでもなく、脅すでもなく。

続く10日間、遺書を更新し、同僚に何に志願したかを話し、可能な限りプロジェクトを終わらせようとした。ありがたいことに、私には気かけるべき妻子はない。

レベル0の動物学研究者で親友の一人のステラ・ネルソンは、私が話したとき泣いた―そしてその後の9日間、ほとんど会うたびに罵ってきた。彼女はこれが降格で、私は罰を受けていて、そして死ぬのだと確信していた。レベル2でサイトの精神科医のアーノルド・スコッティ博士は私の話に思慮深く頷き、すぐさまあの女性が私に話したことを確証できるかどうかを知るために山ほど電話をかけた。数日後、彼はこれが事実か嘘か決定的に区別することができないと不機嫌げに言った。時折飲みに行く仲で、レベル1で異常文学分析研究者のリッチー・ウィルキンスは激怒し、上司たちをナチスと呼び、私は反撃し、逃げるべきだと、彼は……

彼は何をする?大抵彼はこの時点で勢いをなくし、きまり悪そうに見えた。それがいつものパターンになった。私がまもなくDクラスになると知ったとき、人は気詰まりになり、目を逸らし、素早く話題を変えた。ほぼ全員にとって、私は有罪判決を受けた男だった。

10日間は日曜で終わりだった。私はサイトの外の、財団職員とその家族だけが住んでいる小さな村で暮らしていた。昼ごろにノックがあった。アパートの扉を開けるとき、黒いスーツとサングラスを身に付けた2人の男が私を引きずり出しに来たと予想していた。同僚たちのおびえた確信が身に染みついていた。

しかしその代わりにランチ仲間のマグダリーン・'私をマギーと呼ばないで'・ワッツ、鮮明な赤い巻き毛の、平静なアイスブルーのまなざし、そしてとても素敵なピンストライプのビジネススーツに身を包んだ中年女性が独りで立っていた。レベル3、倫理委員会連絡員。「ジョン、支度はできましたか?」彼女は訊ねた。

「……多分」私は外に出て、背後の扉を施錠した。我々は廊下を通り、真昼の眩しい太陽の下に出た。「あなたが言っていた事、肯定できる人も否定できる人も見つけられませんでした」私は言った。

「それほど驚くことではないですね」彼女はSUVに案内しながら答えた。「Dクラスプログラムを巡っては沈黙の文化が存在します」

「何故?」私は訊ねた。「どうしてただ真実を公表しないんですか?」

マグダリーンはあからさまに笑った。「教えようとしましたよ、80年代半ばに。覚え書きを送ったり、感謝状を出したり。効き目はありませんでした。皆偽装だと考えました。ご存知でしょう、否定が噂に有効性を与えるものじゃありませんか?そういうことがあって、現在は皆ナチスだと噂させ、信じさせているわけです。職員から本物の全体主義者やサディストを取り除くには優秀なツールですよ。それに、誰かが率直に意見を言ったら―ジョン、あなたのように―我々は彼らを雇います」

彼女は私のために助手席のドアを開けた。「我々がナチスではないことは明白でなければなりません、ジョン。財団には倫理委員会があるんです、驚くべきことに!でも、もし本当に心配ならば、まだ反故にできますよ。もしそうしたいなら、今すぐ引き返してアパートに戻ってもかまいません」

「大丈夫……です、お気遣いをどうも」私は車に滑り込み、彼女は運転席側に回った。もし嘘を言っているのなら、彼女は油に塗れた蛇より滑らかだ。そしてもしそうだとして、私は知りたかった。舞台裏には何があるのかを。

小さな名前のない町の果てにある空港まで、我々は黙ったまま進んでいった。

「あなたは来ないんですか?」小さな飛行機に乗る際に、私は彼女に訊ねた。

「私はサイト-207のための委員会連絡員です、ジョン」彼女は言った。「あなたはサイト-301に向かいます。到着時にあちらのサイト連絡員と接触できるでしょう」

私は頷き、ややぎこちなく別れを告げ、飛行機に乗り込んだ。サイトからの唯一の志願者だと思うのはナルシシスティックだったと思う。機内にはすでに2人いた。1人目、とても痩せた30代の黒人女は窓際の席に座り、静かに外を見ていた。隣で背の低い、神経質でやや猿っぽい年齢不詳の男が彼女に(会話しているというより)話しかけていた―20代かもしれないし、40代もありうるだろう。彼の髪は黒く、茶色い目はちらちらと輝き、笑い皺だらけの熱じみた顔にいびつな歯並びで、いびつな笑みを浮かべ、表現豊かに吊り上がった濃い眉をしていた。激しく絶え間ない、ブルックリン訛りで漉された言葉の流れがあふれていた。

私は近くに座って耳を傾けた。地元でなんとかごまかして三股をかけていた、3人の悪意あるまでに嫉妬深い女たちについての生彩に富んだ話の途中であるように思われた。

離陸は特に言うべきこともなかった。1時間ほどが経ち、同乗者の終わることがない演説(この時点ではファンキーなダンスの力でのみ食い止めることが可能な収容違反についての楽しい話になっていた)に割り込んで、私は訊ねた。「やあ―お二人は以前は何をしていたんですか?」

男の物語はまばたきとニヤニヤ笑いで終わり、彼が唐突に大声で「回収スペシャリスト!」と言ったとき、私は情緒不安定な死刑囚(あるいは財団の降格者)2人の陰惨な話を聞く羽目になったのではないかと恐れていた。

「回収?」私は訊いた。

「最高の連中さ、兄弟!財団のイカしたブラッドハウンド!回収チーム4・オー・9!最強の最強!」彼の笑顔は燃える白燐すら霞むほどに輝いていた。

「……なるほど。あなたの方は?」

痩せた女は私の方に向き直り、長い間冷静かつ慎重なまなざしを向けた。私は以前にこちらを一瞥した際、彼女のことをそれほど見ていなかった(思い出していた)。彼女は100ヤード先からも男を立ち止まらせ、完全に値踏みし、軽蔑的な明白さで興味がないと伝えるような視線の持ち主だった。

「……理論物理課、レベル2」

ともかく2人のどちらとも会ったことがない理由は分かった。回収チームは常に任務か宿舎で過ごし、理論物理課はサイト-207では幻の存在だ。時折注意深く警備された棟からメモと研究が流れてくるが、我々ソフトサイエンスの庶民とは交わることがない。

「私はレベル1、ミーム学です」私は言った。「ジョンといいます」

「会えてうれしいぜ兄弟!俺はニッキー、書類じゃニコラス・スコッティだ」サル顔の男は抑えきれずに捲くし立てた。

「アネット」女は窓の外に再び注意を奪われながら呟いた。「アネット・ミルグラム。はじめまして」

「それであなた方も志願を?」私は訊ねた。

「おうよ」ニッキーが言った。「2回目だって聞いたぜ。もちろん不連続な。どう考えてもしょっちゅう記憶処理薬を打つのは体に悪いだろ」

「その通り」私は言った。私はミーム学者だ。記憶処理剤の全てを知っている。「長期にわたる記憶処理剤の使用には多くの認知および心理学的な副作用があります。てんかん、脳の損傷、長期記憶の喪失、前向性健忘、失語症……」

「ウヘァ、面白そうじゃねえか」ニッキーは戯画めいて過剰な笑顔を作り、くつくつ笑った。「そんでお前さんの方はどうなんだ?初回か?」

「ええ」私は言った。「この前には一度もDクラスになったことはありません。10日前まで志願できるとは知りませんでした。2回以上できるのも初耳です」

「おおそうか。大勢2回以上やってるぜ。Dクラスが月末処刑されるって噂はシフトが30日で、何人かもう1度やるから最後にばらばらになるから出来たんだ。今じゃ俺ら哀れな魂は記憶処理されてシャッフルされるってよ……まあつまり、多分正しいんだが。それで……ところであんたはどんな風に来たんだ?暴露かなんかか?」

「実は論文を書いたんです。財団のイントラネットに投稿しました。Dクラスプログラムを支持する職権ある人間は皆戦争犯罪者だと書いたんです」ニッキーが笑ったので私は止まった。「……まだ罰を受けているのかどうか確信が持てません」

「違う」アネットが静かに横槍を入れてきた。「これは過去11年間で4度目の志願。最初に志願したときはレベル1だった。大概掛かるであろう半分の時間でレベル2になり、理論物理課の次長に抜擢された」彼女は少し考えた。「私は暴露しようとしていた。財団とDクラスプログラムの存在をジャーナリストに明かすつもりだった。彼らは私を捕まえた。処刑するか、少なくとも記憶処理するつもりだと思った。その代わりに……」

「なんでそんなことすんだろうな?」ニッキーが考え込んだように言った。「Dクラスプログラムに、なんつうか、盾突いたやつらを雇う?しかも恩赦付きで。財団の暴露を企てる―マジで死刑ってこったろ」

「良心」アネットが言った。「他に誰がこれに一度志願してみようとする?再々は言うまでもなく。道義的責任を感じていなければならない。何はともあれ、運動は個々の人間により構成される。大多数はただ顔をそむける―傍観者効果。『誰か他の人が始末をつけてくれる』という姿勢。彼らがターゲットにするのは、目をそむけられない人間」

我々は沈黙の中でこの仮説をかみしめ、彼女は窓の外を見つめる作業に戻った。

着陸は数時間後だった。サイト-207とサイト-301の違いはたちまち明白だった。207は比較的小規模な施設で、全てが開けた土地にあった。近くの小さな町を支える中規模の工場のようだった。

301は僻地のまばらな低木地帯の中にあり、散らばっていた。建物であれ、衛星アンテナであれ、大量パイプであれ、インフラはそこらじゅうにあった。しかしそれは明らかに、施設の大部分を占める地下の構造物を支えるためのものだった。滑走路は鉄条網付き外構フェンスのゲートの外にあった。禿頭、眼鏡の背後から近視じみて凝視するミルキーブルーの目、はっきり刈り込まれた白いヴァン・ダイク髭にかなり古めかしい三つ揃いという、学者然とした外見の男性が降機時に迎え出た。

「やあやあ」彼は我々に話しかけてきた。「私の名前はマイロン・フレイジャー、サイト-301の倫理委員会連絡員だ。ようこそ!かなりお疲れだと存ずる。この中の1人はプログラムは初めてで、ええとミスター……」フレイジャーは咳払いをし、目を細めながら手元のクリップボードを見た。「……ううん、ミスター・リアリー?ジョン・リアリー?」

「私です」私は言った。

「うむ、そうだ、お初にお目にかかる。心もとないこともあるだろう、質問も山のようにあろう。しかし恐れ入るが、受け入れ日は私にとって常時若干忙しい。私は君達をDクラス宿舎にご案内し、そして君達はユニフォームに着替えて食事だ。私は他にも何人かの志願者に会わにゃならん、君たちのオリエンテーションはその後だ。御一緒戴きたい。よろしく」彼は'御先にどうぞ'のジェスチャーをすると、ゲートに向かって早足で歩き始めた。

我々は重い鋼鉄のハッチを通り、長い階段を下り、さらにどれくらいの深さまで通じているか想像もつかないエレベーターへと案内された。扉が開けばそこは宿舎だった。想像していたような沢山の狭苦しい寝台の代わりに、質実剛健だが、不快ではない様子の一続きの部屋(しかし2段ベッドはあった。基本的に2人部屋なのだろう)に通じるホールだった。どうやら、私が大学時代に住んでいた部屋は最悪の部類だったらしい。

ほとんどの部屋には先住者がいた。15部屋のうち空き部屋は2つだけで、1つにはすでに1人入っていた。かなり太った、深刻な顔をして眼鏡をかけた若い女だった。アネットは彼女と相部屋になることが決まった。ニッキーと私がもう1部屋になった。寝台の上には小さく畳まれ、束になったオレンジのつなぎがあった。

私は自分のつなぎを手に取った。「何故これを着ないといけないんでしょうね」私はニッキーに訊いた。

「いろいろだろ。大抵個性がねえ―民間人っぽい服だとスキップがお前を追い回しやすくなるし、落ちねえ染みがつくし、なんかセキュリティ違反になるようなもんもつくし、分かるだろ、止めとけってこった。こっちは洗いやすいし、緊急なシチュエーションでも見やすいし、使い捨てだし―」彼は自分の束を指差し、そこにはD-3961の数字があった。「―数字がついてる」彼は自分の束をつかむと、隣の手洗いへ着替えに行った。彼が済んだ後、私も同じようにした。

不格好ではあったに違いないが、実際にはとても着心地がよかった。窮屈さはなかった。我々は部屋を出て何人かのDクラス仲間に出会い、少し雑談し、全員が宿舎に隣接する小さなカフェテリアへと夕食のために呼び出された。

我々はプラスチックの椅子に座って長いテーブルに着き、食事をした。悪くはなかった。素晴らしくもないが食べごたえある、滋養に富んだ食事だった。サラダ、チキン、ジャガイモ、パン。

食事の間、さらに何人かのDクラスが現れて食べ物をよそった。まもなく、30人のつなぎを着た男女だけで満員になった。食後に座って会話していたら、マイロン・フレイジャーが大股で部屋に入ってきた。戸口付近に立つと、彼は咳ばらいをした。

「おほん。諸君?注目していただけるかな。どうも。互いに自己紹介も済んだところだと存じる。そうだろう?ああ、念のために申し上げるならば、私の名前はマイロン・フレイジャー、ここサイト-301の倫理委員会連絡員で、Dクラスプログラムを担当している。さて、君たちの幾人かは練達の士である一方で―ファイルによれば、諸君らの60パーセントは以前に志願済みである―何人も覚えてはいない。さらに、幾人か新顔がいる。なので、オリエンテーションに突入しようではないか。

ご存知の通り、財団は19世紀半ば、通常の科学の埒外にある現象どもを収容し、研究するために設立された。そのような現象は危険であることがたちまち明白になった。諸君らも伝染性の効果、顕著な致死性、あるいは同様に不快な効果を持つオブジェクトに関わったことがあると存ずる。

慙愧に堪えんことだが、この問題に対する財団の最初期の対応はアフリカ系奴隷を使うことだった。我らの組織の暗黒期だ。我々の行為はおぞましいものだった。

1865年の米国における奴隷制廃止(当時の財団は主に米国の団体だったのだ)に続き、我らの組織にはちょっとした倫理のルネッサンスとでも呼ぶべきものがあった。別の集団、特に強いられた集団はこの任務のために必要ないと定められた。代わりに、必要となった時には財団の勇敢なる男女が志願するよう求められるようになったのだ。

今日では、実質的に異常現象との全ての相互作用は機械によって行われている。遠隔操作ドローンの類だ。この現実と1世紀以上の間発達してきた安全措置の間で、我々は有意にDクラスの死亡率を下げることに成功してきた。任務の間に重度の負傷、ないし死亡するDクラスは全体の2%のみである。未だ理想には程遠いが、昔日に比べれば劇的な変化である」

隣に座っていたニッキーが私の脇腹を肘でつついてきた。「聞いたかよ?」彼が口の隅から呟いた。「俺らのうちの中の6割だけが娑婆に戻れるんだぜ。誰かおっぱいから下が無くなるんじゃねえか!」

私は短気に小さく'黙れ'のジェスチャーをして、注意をフレイジャーに戻した。彼はまだ話していた。「よろしければプログラムの初参加者のために、Dクラスを取り巻くいくつかの噂についてお話しさせていただきたい

もちろん諸君らは、我々が囚人や難民を強制徴募しないし、これが刑罰として使われたことがないのにもお気づきだろう。もちろんだ。その前提の倫理的狂気については置いておいて、訓練を受けておらず、精神的に安定を欠き、怨恨に満ちた個人に、我々が君達に任す事物を扱わせることは決してない。さらにそのような人物の確保、および引き続く処刑または記憶処理のためのロジスティックスは恐るべきものだ。それ自体の内で、そしてそれ自体が進行中の情報漏洩を構成するだろう。一体どうやって施設内のガス室を隠すというのかね?長期にわたる記憶処理剤の連続使用が人体にどんな影響を及ぼすか御存じだろうか?狂気だよ」

私は挙手した。フレイジャーは梟のように屡叩いた。「うむ?質問かね、ミスター・リアリー?」

「ええ」私は言った。「うーん……不思議に思っていたのですが……その、どのように噂が始まったのか御存じなのでしょう?Dクラスは試験外で研究者に話しかけることを許可されていませんし、研究者側もそうです。そしてそれでさえ試験に関することのみで、番号でしか呼ばれない……もしよろしければ、何故あれが必要なのか教えてもらえないでしょうか」

「いい質問だ、ミスター・リアリー、ありがとう」フレイジャーが几帳面な頷きと共に返した。「君はミーム学の研究者だろう?」私は頷いた。「うむ、ならば答えはずいぶんと自明だろう。アノマリーの一部は感染性の効果を持ち、影響を与えるのに人の名前を用いるものもある。共感と感染だな。君が言及したポリシーは研究者とDクラス双方の安全のためにある」

ああ。ええと、理屈は通っている。私は決まり悪く首肯し、フレイジャーはうっすらと微笑んだ。「それにもちろん明白な理由により、我々はDクラス志願者を普段働いているサイトに配置しない―同僚らにとっては甚だしい利益相反になるではないか―そして我々は後ほど君達を記憶処理する、情報保安および―Dクラスの免責がなければ、君達が作業に用いるオブジェクトについて知るクリアランスを君達は持たない―我々の月末検査が見落とす残留ミーム感染を全て廓清するためにである。生存者の話はないし、同僚であると分かるDクラスもいない……噂が始まるのは不可避であると同時に至極当然である」

「ともかく、最後にこれだけは言っておこう。すでに述べたとおり、アノマリーとの相互作用のほとんどは遠隔操作される機械で行われる……」

「くそ、ロボットが俺らの仕事を取っちまうぜ」ニッキーが含み笑いした。

「…大まかに言うと、近年ではDクラスが利用される方法は2つしかない。第一に、ほぼ未知の性質を持つ新しい物品の試験。我々は大半のテストをドローンで行うが、結局のところはアノマリーが人間との相互作用にどう反応するかを知る必要がある。諸君らはここでの時間の大半を、コントロールされた状況下でRAOs―回収された異常物体(recovered anomalous objects)との相互作用に費やすことになるだろう。第二に、収容手続き上でドローンの使用が禁忌とされるSCPオブジェクトとの相互作用だ。アノマリーの周囲では、機械が攪乱されるか破壊されるやもしれず、その性質を活性化させるためにはヒトの接触が必要やもしれず。諸君らにはDクラスとして、SafeおよびEuclidクラスのアノマリーにのみ対処する資格がある。

緊急時、ヒトがKeterクラスのオブジェクトと相互作用する必要が生じた場合、典型的にはその任務は収容スペシャリストか、それに割り当てられた機動部隊人員に降りかかる。しかしながらもし必要とされた場合、君達は臨時の'Gクラス'ステータスを受け、相互作用に志願するよう頼まれるであろう。これは厳密に自由意思によるものであり、警告しておかねばならないが、Gクラス人員の任期中死亡率は50%に近い。

とはいえそのような非常事態はここでは起こりそうにもない。サイト-301はRAOsの処理施設であり、不活発なSafeクラス物品の長期貯蔵庫として機能している。実質的に諸君らは全ての任期を無害なアノマリーと相互作用することに費やすだろう。

いずれにせよ、諸君らのシフトは明日始まる。私は朝、最初の割り当てと共に降りてくる。ごきげんよう―そして今夜はしっかり眠りたまえ、明日は忙しいぞ」

彼は去り、我々は一丸となって雑談とコーヒーと爪楊枝に戻っていった。大抵の話題は無難だった。家族と友人、馬鹿話にもっと馬鹿な冗談といったような。この陳腐さが驚くほど気分を和らげた。8時間かそこら脳の後ろの方を這いまわっていた、怯えた類人猿の不安はほぼ鎮められた。やがて皆、一人ひとりと部屋へ寝に行った。

驚くべきことでもなく、私は眠れなかった。3時間ほど寝がえりを繰り返した揚句、起き上がった。「よう」上の寝台から聞こえたのはニッキーの声だった。「兄弟、起きてんのか?」

「ああ」私は言った。「どうやら眠れないみたいなんだ」

「ダーツをこっそり持ってきたぜ」彼は言った。「持ち物検査とかねえんだな。タバコ吸うか?」

「ストレスのある時はね」私は認めた。「今なら当てはまると思う」ニッキーは機敏に上の寝台から飛び降り、暗闇の中で煙草を差し出してきた。「ありがとう」私は言い、一服受け取った。

「気にすんな、情けは人のためならずってやつよ」彼は箱を受け取り、私にライターを渡すと、自分の煙草を探り出した。

「ここで吸うのかい?」私は訊ねた。「匂いがするんじゃないかな」

「いんや。よその財団施設とおんなじよ、最高の空気濾過システムがあるぜ。気にすんな、吸える時に吸っとけ」私は煙草に火をつけ、深く吸った。

「ねえ―フレイジャーが話しているときに訊かなかったんだけど―Dは何の意味だろう?Gクラスってなんだろう?知ってるかい?」

「おうよ、もちろん知ってるぜ。この分類システムだよ。回収の時に使うし、多分収容の時にも使うんだろ。多分RAISAもな。スキップに適用すれば、そいつがどういう脅威か分かる。財団の職員に適用すれば、そいつの任務が分かる。

つまりはこうだ。最初はA、奇妙だが害はないってやつだ。Anomalousアイテム一覧みたいなやつだな。アノマラスのA、聞いたことあるか?ともかく、あと9つある―分類は2種類で、ええと、軸みたいな。低、中、高、そして物理的脅威と情報脅威(それか俺らにはセキュリティクリアランス)。そんでKな―K-クラスシナリオって聞いたことあるだろ?そう、世界的カタストロフってやつよ。

人員のDクラスは最小のセキュリティクリアランスと注程度の物理的脅威。Gクラスは最小のクリアランスと最大の危険。EuclidからKeterだな。これは気にしてねえ。あいつが言った通り、ここにはねえだろう」

「ああ、そうだな」私は答えた。「それで……どうして君はここに来る羽目になったんだい?」彼はくすくす笑った。

「俺は回収チームで働いててDクラスを見たことはなかった。いつも宿舎かトレーニングかフィールドかってやつだ。ある日そいつに出くわした。誰かにあれは何なのか訊いた。そんでやつらを解放しろって一時間半サイトディレクターに銃突きつけてたってわけよ」

「凄いな!」私は言った。彼は一層激しく笑った。

「おう、撃たれなくてよかったぜ。倫理委員会と俺の部隊指揮官が全部話をつけて、そんである日気がつきゃ新しい仕事のオファーってわけよ」彼は肩をすくめてにやりと笑った。「いい仕事だぜ、そんで誰かがやらなきゃいけねえ」

「確かにそうだ」私は言って、煙草を消すとトイレに吸いがらを捨てに向かった。「煙草をありがとう」

「いいってことよ」彼は言い、まだ火のついた自分の煙草を便器に投げ込んだ。「寝た方がいいぜ。ここじゃ朝はかなり早いし」

有り難くないことに、彼はこの上なく正しかった。6時になるとホールでベルが鳴り、我々は皆部屋から狭いカフェテリア・兼・休憩室に追い立てられた。きりっとして、完璧に注意を払った見てくれのフレイジャーがそこにいた。くそったれ。そしてコーヒーの匂いがした。素晴らしいくそったれめ。「こちらでコーヒーと朝食はいかがかな、諸君」彼は言った。「諸君らの割り当て任務を持ってきたぞ」彼はクリップボードを振った。「さあさあ、早起きは三文の徳だ」

私はコーヒーを一杯流し込んだ。少数の警備員もいた。おそらく我々を任務までエスコートするためだろう。私は仲間のDクラス達が朝食を摂るのを見た―今まで生きてきて、昼前に食事したことなんてなかった―そして、フレイジャーが割り当てを読み上げるのを聞いた。「D-3961―」ニッキーの数字だ。「―RAO-7234、RAO-2290、SCP-3710」そんな具合にリストは続き、やがてD-3962に辿り着いた。私の数字だ。

「D-3962: RAO-8122、RAO-4872、RAO-7861」ええと、なるほど。3点のアノマリーか。

一旦朝食が終わり出すと、警備員らは皆を外に送り届け始めた。「覚えておきたまえ、Dクラス宿舎外では諸君らは監督なしは許されん。他の人員と交流してはならん。物品との相互作用の際には全て指示に従わねばならん。己の安全のためだ!」とフレイジャーは言った。

警備員の一人が私を宿舎の外、不吉な蛍光灯の明かりに照らされた長いコンクリートの廊下をエスコートした―厳重に警備されたある準政府的施設というものは、どこも似たり寄ったりだ。時折我々は白衣の研究者とすれ違った。彼らはいつも、非常に慎重にアイコンタクトを避けた。

一人のとても若いアジア人の研究者以外は。彼はクリップボードを胸元にしかと掴み、目を見開いて、怯え憐れむようなまなざしで私を見つめた。話しかけることは出来なかったが、私はなんとか安心を与える笑顔を作ろうとした。おそらく無意味だった。彼はただ床に視線を落とした。

まあ仕方がない。最初のテストだ: 白の無菌室(私の心臓は背後でドアが閉まると跳ね上がった)、ガラスの背後から私を見つめる研究者、そして……部屋の真ん中で明らかに重力の影響を受けずに宙に浮かび、ゆっくりと波打つ白いタオル。

険しく早口な声が内部通話装置から流れてきた。「D-3962、オブジェクトに近づいてください」私はRAO-8122と思われるものに歩み寄った。本日最初のオブジェクト: 無重力布。

「オブジェクトに触れてください」声が言った。私は極めて慎重に布切れをつついた。無重力の布がするであろうように、それは波打ちながら私の指から離れていった。「オブジェクトを持ってください」私は2つの角を指でつまみ、体から離して持った。それが……何かした時のために。「オブジェクトを畳んでください」可能な限り優しく、私は布を半分に折り、さらに半分にした。

これがしばらく続いた。それは例外なく、重力に影響されない布がするであろうように振舞った。最初の5分の後はかなり馬鹿馬鹿しくなった小一時間のテストの後、警備員が次の任務へ案内するためにやってきた。

私は同じく次の任務にエスコートされるニッキーと出くわした。彼はニムロッド・マークVIIだと分かるガジェットを首に付けられていた。人間の発話を分析するようデザインされたミニチュアコンピューター(それもかなり高度に。財団の音声分析ソフトウェアは民間技術の数十年先を行っている)で、ミーム性の内容が含まれていれば検出することができる。時々上手い冗談や、特にキャッチーな耳に残る音楽に暴発するものの、大抵はかなり信頼できる。

彼はガジェットを見つめている私に気付き、歯をむき出して笑った。「アッキング・フェイ、オマリーズ・アナイ」彼は言った。

彼の警備員が「話しかけるな、D-3961」と言った。彼は私と、私の警備員を見るて気弱そうに言った。「彼はどうやら人をピッグラテンで喋らせる小さな豚の像に当たったんだ。対抗ミームが用意され、感染性ではないらしい」

「そいつはよかった」私の警備員が言い、私は去りがてらニッキーに向かい'健闘を祈る'的な意味合いを込めて頷いた。

次の部屋も最初と同じだった、小さな使い古しのフラスコがある以外は。続いて何一つ結果の出ない、一連の似たような馬鹿げたテストがあった。私の見る限りでは、それはただの単純な非異常性のフラスコだった。私がこう言うまでは。「空なのが残念だな。なんだかのどが渇いたthirsty」忌まわしい物体は首を切り落とされたニワトリのごとく、すぐさま血液を10秒間ほとばしらせ始めた。つなぎは駄目になった。使い捨てで助かった。

いかなる言語あるいは文脈であれ、周囲で喉が渇くthirstyという言葉が使われると、フラスコは血液を生み出すことがちょっとしたテストですぐ立証された。どんな種類の血液かは、集められたサンプルによりラボで調べられるだろう。

3番目の任務に連れて行かれる間、それほど悪くはなかったと考えていた。これをやれて嬉しかった。私はサイト-207でのマグダリーンのことを思い出していた。

「私に志願してほしいと?Dクラスになることを?」

「ええ」彼女は言った、再度あの平静な、明白かつ絶対零度のまなざしを向けて。「ジョン、あなたがしないなら他の誰かがせねばなりません。それが厄介な部分です。でもあなたはもう知っているでしょう。スープキッチンで週2回ボランティアし、給与の1/3を慈善団体に寄付している。運動は一人ひとりの人間で出来ていることをあなたは理解しています。そして、もし皆が一人ひとりとして己の本分を果たさなければ―まあ、よくない事が起こりますね。ここ財団では、ああした悪いことは特に面倒なものです」

私はゆっくりと頷いた。「まいったな、選択肢がないじゃないですか」

「もちろんありますよ」彼女は苛立たしげに言った。

「道義上の選択肢という意味です」私は答えた。私はペンを取り出し、文書の必要なところにはどこにでもサインした。

「あなたは素晴らしいことをしようとしているんですよ、ジョン」彼女はつぶやいた。

***

事件レポート3509-01
関連アノマリー: SCP-3509、元RAO-7861
関連人員: サイト-301異常微生物学部門ブルース・アディソン博士(RC-2)、D-3962(ジョン・リアリー研究員、AB-1)
事件タグ: 試験; 死亡; 認知災害; Euclid; 致死性; 動物; SCP-3509
詳細: 2015年6月19日、アディソン博士はRecovered Anomalous Object (RAO-7861)、以前はその変形作用の限定的な能力と小さいサイズと敵対的行動の欠如により無害とみなされていた、部分的な変形能力を持つネズミ目の取扱者であった。試験中、RAO-7861は変形作用により自身の皮膚上に認知災害的模様を作る能力を示した。訓練を受けたミーム学研究者としてD-3962は脅威を認識することが可能であり、取扱人に警告した。事件から2時間以内に、2つの確認された認知災害エージェントへの感染と、クラスB記憶処理剤への非定形反応が大発作によるD-3962の死を不運にも引き起こした。
結果: ジョン・リアリー研究員(元D-3962)は財団勇気の星勲章を死後叙勲され、正式に葬送式が行われた。遺族には完全な年金パッケージが与えられた。RAO-7861はSCP-3509として再分類され、Euclid-RA/-AF分類が与えられた。

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