愛猫バニラ
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 バニラがうちに来たのは、あやが6歳のときのことだった。その日は一日中、雨が降っていたのをよく覚えている。


 俺が仕事から帰ると、ぐるぐると塔みたく巻かれたバスタオルがリビングに置かれていた。生臭いにおいに耐えながら湿ったタオルへゆっくり近づいていくと、中で「みぃ」という音がした。タオルの山はじたばた独りでに動き出し、やがて崩れた。そこからズポッと何かが這い出る。俺はフローリングに手をつき、覗き込んだ。
 黒い模様がぽつぽつとある白い猫が、青い眼球を俺に合わせていた。

 どたどたと大急ぎで駆けてくる娘の足音をどこか遠くに聞きつつ、俺は猫をもう一度バスタオルにうずめた。

「ねぇパパ! その子、可哀そうだったんだよ!」

 はしゃいでいる娘では内容が全く入ってこないので、後々妻に話を聞いた。猫は雨に打たれて死にかけていたところを綾に拾われたらしい。マンガみたいな話だと俺は思った。


 保護から1ヵ月経つ頃には、その猫は我が家で飼われる流れになっていた。

「ちゃんと世話できるのか」

 ドラマで見たような台詞を俺は口にした。

「うん」

 予想通りの答えが返ってくる。

「じゃあ名前をつけようか。もう決めたのか」

 モノトーンのまだら模様の猫。このときばかりは、娘のセンスを期待した。

「バニラ」

 結局なぜ娘が猫の名前をバニラにしたのか、俺は知らない。おそらく柄からチョコチップのアイスでも思い浮かべたんだろう。そうだとしても、バニラはおかしいと思うが。
 後日聞くと、娘は「もう忘れた」と言った。綾は気まぐれな娘だ。
 そんなふうに気まぐれだから、案じていた通り、バニラの餌の交換とトイレ砂の掃除は俺の仕事になった。これはバニラが正式に飼われると決まってから10日経つか経たないか、その頃に自然に起きた出来事だ。


 だからだろうか。バニラは俺に、一番に懐いた。
 何でもない日、ソファーに腰かけてテレビを見ている俺の膝の上に、バニラはよく乗っかった。毛がジーンズに張り付くし、なによりうざったいから、それをやられるのはあまり好きじゃなかった。
 振り返ると常日頃、バニラは膝で寝てたことになる。妻はそれを見て微笑み、名目上の飼い主である娘は頬を膨らませて文句を言った。バニラは娘には懐かなかった。気分のいいときにバニラを弄繰り回すことしかしていないのだ。

「世話してんのはパパなんだから、そりゃこうなるだろう」

 俺はそう言ってたしなめる。
 このやり取りは、綾が中学、高校と成長の階段を登っていっても変わらなかった。遠くの大学に進学してからは帰省の度に繰り返して、弄繰られるバニラはその都度フーッと鼻を鳴らした。
 綾が外資系の企業に就職して完全に自立すると、夜の8時のリビングは物静かになった。テレビと台所の機器たちの合唱音とバニラの欠伸の声しか聞こえなくなった。


 バニラが膝に乗っかって脚が暖まる。
 黙ってそれを感じ取る日々を、俺は過ごした。


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"庭を歩くバニラ。22才。まだまだ元気。"


 バニラの尻尾が2本になったのは、綾が28歳のときのことだ。俺は驚きを顔には出さなかった。



 
 妻によると、尻尾が割けたのは昼のことらしい。普段通りに家事をしていたら、さっきまでソファーで眠っていたバニラがいなくなったそうだ。寝場所を変えたのだろう、そう思って特に探しもせずに時間を過ごしていると、バニラはソファーの上にまた戻ってきていた。そのときには既に、バニラの黒い尾は2本に分裂していたとのことだった。
 傷口などまるでない。バニラはまるでそれが当然のことであるかのように、すやすやと寝息を立てていた。

「そうか」

 俺は妻と、妻の背後に居るバニラを一度に眺めた。

「いつ医者に連れていこうか」

 不定形の気分の悪い感情を抱えながら、俺は妻に話しかけた。
 獣医が解決してくれる問題でないことは当に知れていた。俺は妖怪を信じる性格じゃないが、同様に科学も盲信してはいなかった。
 老いた猫が化け、尾は2又となる。猫又ねこまたの説話は綾にさせていた通信教育のオマケ本に載っていた。俺だって、いつ何時でもそのことを考えていたわけじゃない。けれど身に降りかかったと察した瞬間、たかだか数行の文字は頭に鮮明に蘇ったのだった。
 俺はもう、状況を飲み込むしかない。
 だが今しばらくは現実性に染まった会話を妻と交わしたかった。本来の事実に向かうだけの冷静さを溜めておきたかった。
 妻は俺の提案に、賛成とも否定とも取り難い曖昧な相槌で返した。頑なに、後ろを振り向こうとはしなかった。
 数秒の間を空けて、彼女は言葉を零す。

「それよりも、ねぇ」

 彼女は震える手でボトムスのポケットから2つ折りの携帯電話を出し、床へと置いた。依然として静けさは保たれたままだ。フローリングの板の境界線と平行になるように置かれた携帯に、俺は目を奪われていた。

「綾にも、知らせた方がいいんじゃないかしら」

 ただの怪我のような口振りで話す彼女も、会話に現実性を求めているようだった。

「あぁ。そうするのがいい」

 俺が返事してすぐに、妻は携帯を指で押した。鈍い速度で携帯は俺に接近する。
 口で言えばいいことだろう。俺は何も言わずにそれを手に取った。携帯を開くと、待ち受けでバニラの写真が出迎える。尾は1本だ。俺はカメラモードに切り替えて、内蔵のレンズをバニラへ向ける。先ほどから抱えている感情に妻の態度への苛立ちが加わり、日常的な操作に粗雑さを含ませる。
 カシャッという電子的なシャッター音でバニラは目を覚ましたらしかった。2本の尾は俺の体の微かな揺れになびくように揺れていた。バニラは身を起こし、ぶるると太いからだを震わせる。
 俺は撮影が済んでもなお、携帯を構えるのをやめなかった。妻の怪訝そうな視線が嫌というほど俺に突き刺さる。想像と事実のズレを俺は身に受けていた。
 

 果たして今の一連の動作は、バニラではない異形の物の動作なのだろうか?


 ソファーから飛び降り、とんとんとバニラは胡坐で座る俺の方へやってくる。迫るバニラに妻は仰け反り、自ずとバニラに道を譲る形になった。
 器用に俺の脚を越え、バニラは脚の間にできた三角形のスペースに腰を下ろす。尾の軌道が2筋、へそ周辺をくすぐった。
 何も変わっちゃいないな、別に。バニラのたなびく尾を俺は蝋燭の火に見立て、ふっと口を尖らせて息を吹いた。
 携帯電話を妻に渡す。明確に異常な撮影結果が映っている。

「やっぱり、医者には連れていかないことにしよう」

 携帯の画面と現実のバニラを交互に覗いていた妻は、口を開けっ放しにした。


「ただ尻尾が2本になっただけじゃないか」
 俺はバニラの頭に手をやる。三角錐状のその頭をやや強引に押さえた。バニラは「むぉん」と鳴いた。


 娘からはすぐに連絡があった。『すぐ帰るね』という短文だけが妻の携帯に届いたそうで、実際、綾はその日の夜にうちへ帰ってきた。仕事帰りだからか、喪服のようなスーツ姿だった。あまりに急な帰宅に布団の用意すらできていなかったが、綾は「今夜中にアパートへ戻るから」と不思議なことを言って俺たちをなだめようとした。そしてそのまま、泊っていけという命令じみた願いに反発するように本当に出ていった。
 綾は家に着くや否や、ただいまも言わぬうちにバニラを拾い上げた。脇をしっかりと掴んで万歳の格好をさせ、バニラの目を細くさせたのだった。娘は尻尾が2又になったバニラを拒絶しなかった。さすがは名目上の飼い主、といったところか。
 ソファーに腰かけていた俺は、いつかの日のようなじゃれ合いをにやけて眺めていた。こんな形になってしまったが再開には違いない。


 けれども娘の表情は硬く、目が潤んでいたように見えた。俺はそれを確かな違和感として決して忘れていない。
 綾は2つに分かれた柔らかなバニラの尻尾を見て、「そっか」と何度も何度も呟いていた。


 敢えて変化を挙げるとするなら、バニラはやたらと気配に敏感になった。
 知らない人間――例えば、宅配便や新聞の料金回収人――が玄関先を尋ねると同時にバニラはいなくなる。客が帰るとまたバニラは俺たちの前に姿を現す。
 その間、どこへ行っているのかは俺にも見当がつかない。ダイニングの卓の下とか2階寝室のベッドの上。それか、空き部屋になった綾の部屋か。たぶんそんなところだろう。
 元々人見知りの激しい猫ではあったが、あいつは猫又になってより顕著になった。しかし、それは家族には心を開いていることの証明に思えた。俺と妻と綾、それからバニラ。バニラにとっても繋がりは大切なようだった。

 とはいえ、バニラが太っちょで傲慢な、油断も隙もある高齢猫であることに変わりはなかった。
 夕飯を終えて俺がソファーに座ると、バニラは必ず膝上に乗ってくる。しっかりと両目を開け、俺の身体を陣取るのだ。まるでここ以外に居場所はないとでも言うように。
 もちろん、そんなはずはない。テレビがCMを流し始めた段階で俺はその脇に両腕を通し、バニラをギュッと硬く拘束する。大抵の場合、バニラは簡単に捕まってしまう。クレーンゲームみたく掴まれたバニラは腹を見せる格好になり、そのまま床に降ろされるのだ。
 ちなみにするりと躱されたときは、ゴールデンタイムが終わるまで膝の上に居させてやることにしている。これは俺とバニラのゲームみたいなものだ。ほとんど俺が勝つゲームだが。

 2又になったからといってバニラは火の玉を操らなかったし、人語で話もしなかった。もしかすると不死を得ているのかもしれなかったが、どのみち俺には確認のしようのないことだ。


 今日もバニラは膝に乗る。がっかりはするが普通のそれとも違う、少々の特異さだけを持つ2本の尾が俺の手に触れた。


 綾からはまた連絡がきた。休日の庭仕事をしている最中のことで、妻が携帯を運んできてくれた。メールでもいいはずなのに電話だった。午前中の強い日差しから退散するように屋内へ引っ込むと、ジーンズで土を拭いてから俺は通話ボタンを押した。

「あのね、父さん」

 ひどく落胆しているときに聞く娘の声だった。

「どうしたんだ」
「今から家の前に車が止まると思うんだけど」

 車。唐突な報告に、俺はガラス越しの外を見た。何もいない。視線上にいた妻が、怪訝そうに顔だけをこちらに向けた。それからすぐに、リビングで掃除機をかける作業へと戻った。

「お前、何か犯罪でもやったのか」
「違うよ。最後まで聞いて」

 けれど、ちょうど言い当てられたときみたいに息を引く音がした。

「車から何人か降りてくると思うけど、絶対に、抵抗しないで」

 物騒な単語が飛び出たことに仰天して思わず携帯を取り落としそうになった。が、手に付着した土が滑り止めとなりそれを防いだ。妻を驚かさないよう、荒くなりそうな声をなるべく抑えて俺は聞き返す。

「何の話だ」
「ごめん、父さん。ごめん。もう言えない。切る」

 数度の謝罪の言葉が頭を飛ぶ。
 なぜ俺は、謝られたのだろう。
 困惑でいっぱいになってしまった俺は、棒立ちで娘の次の言葉を待っていた。2度目3度目の息を引くノイズが、電話を介して耳に入る。
 数秒の沈黙の後、風にもかき消されそうな綾の声がした。


「バニラは、私がいつまでも看てるから」


 娘の声は聞こえなくなった。軽やかな通話終了のサウンドがいつになく腹立たしかった。
 ちょうどそのとき、ベルが鳴る。吸引音が止み、掃除機は床に置かれて動かなくなった。
 妙な危機感に襲われた俺は、携帯の電源を切ってから無意識に目的もなく足を動かし始めた。


 バニラは。


 あいつは今、どこにいる。まず、リビングのソファーじゃない。あいつは消えるんだ。
 なら、どこだ。ダイニングの卓の下。2階寝室のベッドの上。それとも、空き部屋になった綾の部屋か。
 
 いや、そんな場所じゃない。
 俺は階段へ行って、駆け上がった。どたどたと大急ぎで、まるで子供のように音を鳴らした。

 2階寝室、その奥にある物置。直感だった。横引き戸に手をかけると、衝撃も気にせず力任せに開け放つ。


「バニラ」


 俺は愛猫あいびょうの名前を発した。バニラは畳まれた冬用毛布の上に鎮座して、動こうとしなかった。2本の尾を、手を振るように空中で漂わせていた。
 バニラはいる。実在している。

 それを捉えた直後、白い靄が俺を囲んでいるのに気が付いた。バニラの姿が霞み、見えなくなっていく。


「バニラ」


 呼ばれて、バニラは飄々と床に降りた。
 力が抜け、前に倒れ込む。最中、俺は右腕を前へと伸ばす。バニラは伸ばした手に前脚を載せてくれた。

 聞き覚えのある声が、靄のくぐもった空気の中で最後に耳に入る。
 彼女は繰り返し繰り返し、謝罪の言葉を吐き出し続けていた。


「ごめん。ごめんね。許して、父さん……」




 ふらふらと玄関戸を開ける。靴を床に引っ掛けて半ば強引に脱ぎ、リビングに入る。ソファーでひと段落ついてから服を着替えて食卓に着く。食事を終えたなら皿を台所へ運び入れ、テレビのリモコンをテーブルから探り当てる。テレビの電源を点けた後、またソファーに体を任せた。
 雑音を聞き流してしばらくが経つ。やがてテレビを消すと、ダイニングで家計簿を記す妻に俺は問いかけた。

「なぁ母さん、バニラは」
「バニラはもう死にましたよ」

 気にも留めない様子で、妻は続ける。

「1か月前に。庭先で動かなくなってたのを、あなた見たでしょ」
「そうだったっけ」

 指摘されると、そんなような気もしてくる。

 手持ち無沙汰になって、部屋着にしているジーパンを凝視した。何度か洗濯をかけたはずなのに、織り目の間には猫の毛が入り込み、干からびていた。丁寧にそのうちの1本を抜き取ると、俺は息をかけて吹き飛ばした。毛は家の中を漂い、どこかへと行ってしまう。なんとか目で追いかけようとすれば、そのうち自分は何もない空間をぼうっと見ているだけだと悟り、我に返る。

 俺は妻に言葉を投げた。

「母さんは動物を飼ったことってあるか。バニラ以外で」
「ありますよ。子どもの頃に犬を」

 妻も暇なのか、すぐに返事は来た。舌先で思案してから俺も返事をする。

「俺はないんだよ。だから、知らなくて。もう1つ、聞いていいか」

 膝を撫で、暖かみの薄れたリビングルームを眺め、俺は訊く。 


「20年以上連れ添ったペットが死んだときって、こんなに何も感じないものなのかい」


 バニラは死んだ。そう記憶しているが、まるで実感がない。
 俺は死んだバニラを前にして哀しみに浸った経験がない。亡骸は脳裏に刻まれているが、それを見て涙は浮かんでこない。

 あいつは死んだと聞かされれば、俺はそうか、としか言葉にできない。
 そんな死がこの世にあるものなのか。


「バニラ」


 俺は愛猫あいびょうの名前を発した。
 返事なんか返ってこなかった。




 ふと、愛娘まなむすめのことが頭に振りかかる。
 もしあいつが、綾が俺より早く死んだら、俺は泣けるのだろうか。
 由来のわからない不安が俺を締め付けていた。

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