もう思い出せない
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 這いずる巨人が通り過ぎるのを見送って、アラン・パーカーソン研究員はジープのエンジンをかけ直した。
 2、3回エンジンキーを回して少し焦るが、4回目で無事にエンジンが回り出した。あたりを見回して、こちらを認識してくる異常存在がいないか確認。山の向こうに雲を突くような影がそびえ立つのが見えて、吐き気を我慢する。空は血に染まったような真紅で、対ミーム災害用のクラスF認識補正処理を受けていなければ、きっと今頃アランはあの忌まわしい鳥の餌となっていただろう。だが油断は出来ない。
 地図を確認し、アクセルを踏む。視界の端で巻きひげに似た肉の触手が見えた気がしたが、絶対に振り返るものか。
 アランは必ず、必ず『約束の地』に辿りつかなければならないのだ。狂うわけにはいかない。狂うわけにはいかない。

 世界がどうして終わってしまったか、断言できる人間は一人もいなかった。
 ただ、母胎に眠る悪魔が突然目を覚ましたのだという。地の底に揺蕩う魔神が産声を上げたのだという。閉めてはならない船の扉が閉められたのだという。阿頼耶識の奥から緋色の怪物が飛び出してきたのだという。本当のところはわからない。
 だが事実として、不死身のトカゲは翼を生やして大陸を飛び、狂気のテディベアが街の住人全てをお友だちにした。異界より肉と疫病の邪神が顕現し、鏡の向こうから不浄の巨人が這い出てきた。
 かの彫像は、収容房から消えて久しい。
 すべてはあまりに唐突に、そして理不尽に閉幕を告げた。人々は、いや財団ですら何もできず、悲鳴と嘲笑が流れるエンドロールを眺めることしか出来なかった。

 だが、悲劇を覆すのは機械仕掛けの神様の役割だ。
 終末に備えて、アランを含めた財団の職員には仕掛けが施されていた。
 K-クラスシナリオ。非公式にそう呼ばれる事案が発生した時、条件を満たした職員はその対処法を『思い出す』。SCP-1422はきっとそのための処置だったのだろう。ともかくアランは全ての破滅的な異常存在の目をくぐり抜けて、今この場所にいた。

 イエローストーン国立公園。
 SCP-2000──機械仕掛けの神が眠る地。
 放棄されたパークレンジャーステーション、それこそが財団が隠し持ってきた最後の切り札、Thaumielへの入口。

 こんな状況でも要求されるクリアランスや未だ生き続けるセキュリティを、アランは顔パス同然に無視できた。長大なパスワードも数字ひとつズレることなく入力し、地下への階段が口を開ける。躊躇いなく地下へ進もうとして、アランはすぐに違和感に気付いた。埃の積もり具合がおかしい。既に誰かSCP-2000のもとへ向かっている?
 ならばもうSCP-2000は起動しているのか。それとも。怖ろしい想像を振り払い、アランは希望を胸に階段を下りた。
 扉は独りでに閉まった。まるで口を閉じるかの如く。まるで中から外へ出て行かないようにするかの如く。

 か細い電灯の光を頼りに階段を降りて、やがて狭い事務室に出た。おそらくこの場所がSCP-2000の研究室だったのだろう。不気味なほどに整頓された部屋は、ついさっきまで誰かがいたかのような気がしてくる。
 いや、既に誰かがいた。床にうつぶせに倒れ、顔を血だまりで濡らしていた。まだ乾いていない。見ると血は眼孔から溢れていた。自ら眼球を抉り取ったのか。
 やっとの思いでここまで来たのだろう。だが、最後の最後で彼は異常存在に敗北したのか。無念は晴らしてやる。アランは奥の扉を開けて、先へ進んだ。

 再び長い階段を下りて、最後の扉がアランの前に立ちふさがる。資格無き者を通さない情報災害プロテクトの仕掛けられた門番は、しかしアランを待ちわびていたかのように自ら鍵を開けた。
 ああ、いよいよだ。ゆっくりと持ちあがっていく鋼の門に、アランは自身の鼓動を感じていた。
 使い方は『思い出し』た。既に修復も済んでいる。少なくともかつて二回は行われた『再起動』をもう一度行うだけ。
 さぁ、いよいよだ。この悲劇を覆してやる。どうしようもない絶望を茶番へと変えるその瞬間が、

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 そこには何も無かった。
 あるべきものは何も無かった。
 ただ果てしなく広がる空洞があって、そこにあるはずだったSCP-2000は、その痕跡すら見当たらなかった。

 そんなもの、最初から無かったかのように。

 アランはその場で崩れ落ちて、泣きだしていた。ああ、神よ、どうして。
 がらんどうの空洞で、どうして、どうして、と。世界の理不尽に泣き喚く赤子のように。
 もうアランには、思い出せるものは何も無かった。

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