紫水晶の涙を
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私は目の前にいる、仮面をつけた人物の会話に全神経を集中していた。

彼の電話の行く末しだいで、私の人生は大きく変わるのだ。
ここで失敗すればきっと最悪の結末が待っているのだろう。
不安に押しつぶされそうだった。彼の質問には、一つを除いて模範的に答えられたと思うし、自分の払える代償ならすべて払った。それに、彼らには人材が足りていないことも察してはいた。しかし、不安はぬぐいされず、私には祈ることしかできなかった。

……そして、エージェントはつながっていた電話を切った。そしてゆっくりとこちらへ振り返り、採用、とだけ言った。
私は喜びのあまり、言葉にならない――ほとんど呻き声のような――歓声を漏らした。


小さいころから、私はずっと世間に隠れて生きていた。安いアパートや公園を転々とし、公園の蛇口の水をすすり、時には野草や残飯を喰らって生き延びてきた。
何故そんなことをする必要があったか。それは、財団が血眼になって探し、研究している、アノーマリー。あるいは異常オブジェクト。そう呼ばれるものを私の家族が所持していたためだ。……いや、所持、という言い方は適切ではないかもしれない。『居た』と言った方がいいだろう。

私の妹は、超能力者……財団の言い回しを借りると、人型オブジェクトという奴だった。いつからだったかは忘れた。そのころ、私は確か、中学に通っていた気がする。
妹は小学生にもなって、ひどく泣き虫だった。事あるごとに泣くので、私も両親もひどく世話を焼いていた。実際、そうさせるだけの価値はある、と思えるくらいには愛らしい妹であった。
ある秋の日の事。確か、午後6時くらいで、空が何とも言えない夕暮れ頃特有の紫色だったのは覚えている。私が学校から帰ってくると、妹はひどく泣いていた。その光景自体は、何もおかしなことはなかったし、いつもの出来事であった。
ただ一つ違ったのは、妹がそのまぶたの隙間からこぼしているのが、涙ではなく、その時の空の色と同じ紫色をした石であったことだけだった。

その日、両親が帰って来てから、家族会議が行われた。妹は、その間中ずっと、紫色の涙を流していた。もしも財団なんてものがこの世に無ければ、両親はそれこそ泣いて喜んだことだろう。
一家はその晩のうちに夜逃げをした。幸い、財団には嗅ぎ付けられてはいなかったようだった。

どうやら妹の涙は一般にアメジストと呼ばれる宝石と同じものであったらしく、そこそこの値で売れた。私たち家族は妹の涙を宝石商に売りながら、生計を立て、各地を渡り歩いていた。
まだ10歳にもなっていなかった妹には相当堪えたらしく、しょっちゅう泣いていたので、涙はよく採れたが、考えても見てほしい。薄汚れた浮浪者一家の持ち込んだ宝石をそうやすやすと買う商人が世にどれほどいるだろうか。
売れるときに売れるだけ売り、あとはずっと蓄えを削りながら、細々と生きたのだった。

最も困ったのは当然妹の扱いだ。
ある程度たてば自分の体に起こったことには慣れたろう。だが、持って生まれた性格である泣き虫だけはついぞ治らず、いつ泣き出すか知らんとずっとひやひやしながら過ごしたものだ。
なにせ、見知らぬ誰かにその異様さを見られようものなら即通報なんてこともありうる世の中だったし、現に、何度か通報されたこともあった。

正確にはわからない。ただ、おそらくは2年程度、逃げ回っていただろう。灰色を通り越して薄汚れた土気色の青春だった。

こんな三文小説のような人生はまっぴら御免だったし、同年代の学生が楽しそうに暮らしているのを見るたびに恨めしく思った。
だが、それも今日でおしまいだ。神は私を見離さなかったらしい。最も、神なんているかどうかわかったものじゃないが。何にせよ、私は訪れたチャンスを逃さなかった。

私は家族を売ったのだ。

仮面の男は名の知れたエージェントであった。
そして彼に取り入るだけの材料がこちらには有った。これ以上のチャンスが、私の生涯にあるだろうか?

後ろを振り返れば、動かない父と、その周りに広がる血だまりがあった。
妹と母はすでにここにはおらず、ただ、床に点々と散らばる紫色の輝くものがその痕跡を残すのみであった。
良心が痛まないかと言えばそんなことはない。しかし、少なくとも赤の他人に密告されるなりして家族と一緒に殺されるのよりはましだった。
ただ、それでも、家族を売ったという事実は胸に重くのしかかった。別に家族が嫌いだったわけじゃない。母は優しかったし父は賢かった。妹は愛らしかった。だが、それ以上に自分が大事だった。こんな逃避行を死ぬまで続けるのが嫌だった。それだけの事だ。

なんにせよ、これでいつ見つかるか怯えながら暮らす人生とはおさらばだった。そう思うと、私は……


仮面の男は、小さな笑い声を漏らした。
「オイオイ、嬉しいのは分かるが、泣くほどの事でもねえだろうがよ」
「あ、うう、だって」

「……両親の事か?」
泣きやまない青年に、仮面の男は申し訳なさげにそう聞いた。

「う、いいえ、ちがいま……っ」
「そうか、ならいい……ごめんな、ホントはあんなことしたかねえんだがよ、上の方針だかんな。な?」
「っはい、そのことはもういいんです。今はただ」

そして仮面の男はわしゃわしゃと、青年の頭をなでた……というより、髪をかき回した。

「おうおう、辛かったな。だがよ、これで人生日向だぜ、きっと。……まあ、じゃっかん汚いけどな」
「は、はい」
「だからよ、泣くのなんてやめて、景気よく笑おうや、な?」

仮面の男がそう言うと、青年は薄汚れたワイシャツの袖で、ゆっくりを顔をぬぐった。
そして、
「はいっ……!」

晴れやかに笑った。

「おう、良い顔してんじゃねえか。まあ、いろいろあるかも知らんが、お前は良いエージェントになれるぞ」

「ありがとう、ございますっ!」

そして、気をつけの姿勢を取る青年を見て、仮面の男は、青年に聞こえない程の小さな声で
「……今月のノルマに追加で一点だな」
とつぶやいた。

青年の袖には、小さな紫水晶の欠片がこびりついていた。

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