リチャード・モス研究助手は走った。
人生において恐るべき物は無し、と彼は悠長に言っていたものであった。
蜂が頭上を飛び回るかのような、この20秒の記憶。
爆発。
警報。
保安違反。
攻撃者。
何!?混沌の造反団──カオス・インサージェンシ―──!?
発砲音。
囚人房動作停止。
駆け抜ける。
更なる爆発。
更なる弾丸。
異様な旋律が彼の耳を満たした。
あらゆる物が律動の中にあった。
自身の呼吸、脈動、アドレナリン分泌、けたたましい緊急警報。
今、銃弾が背後を行く。
延々たる時間だと、彼は思う。
それは決して長い時間ではない。
彼が辛うじて分かっている事は、果てる迄ホールを駆け降りねばならないという事か、それとも、フットボールの様に物を小脇に抱えなければならないという事か。
止まろうとすべく横辷った様は、殆ど勢い付けて地面に蹴躓いたようであった。
こここそが彼の望んだ部屋であった。
胸が動悸し喘鳴を上げながらも、IDカードを通した。
正規状況下であったならば、これは保安違反となるため何の役にも立たない。
招かれざる客共は、監禁手順を取り外すという思わぬ天恵を与えてくれていたのだ。
スーッという音とともに扉が開く。
リチャードは部屋の中へ飛び込んだ。
「ブラックウッド卿!」
うみうしは小さな塊の頭をリチャードに向けた。
「ああ、おはよう。君は私のことを知っているようだが、何処であったか思い出せないな……どうかしたのかね?」
「申し訳ございません。話すことが出来ないのです。保安違反。貴方の力が必要です。」
「まあ君、落ち着き給え、一息ついて。」
リチャードは、少しだけ休んだ。
彼の息切れ動悸は緩まった。
「サイトが破られ、敵がこの行掛けに居ります。我々自身で連中を阻止できるかどうか分からない、故に貴方を開放して、そして貴方に期待を寄せているのです。
ポケットの中にキーカードが入っています。これで貴方は金庫室に入ることが出来ます。
金庫は、階段を降りてホールを右に、3階下って、第16室に……。」
廊下から聞こえる掠れた悲鳴を懸命に聞き取ろうと声を窄めた。
「畜生!ラテン語を知っていますね、正しく!?」
「ああそうだとも、来し方も小学生の小僧の頃から勉強し始たものだ。
どういった類の攻撃にこのことが必要だというのかね?」
「どうか信じて下さい。たちまち使うことになります。」
リチャードは錆びた兜を腕の下より持ち出し、頭の上に冠った。
—
プブリウス・カルテフィルス・アエティウスは意識を取り戻しつつあった。
彼は、死を夢と非常に似た物だと断じていた。
深く夢を見ない。
漆黒は心の片隅から去っていく。
彼の認識に熱と知覚と聴覚が徐々に流れ込んでいった。
唯の一瞬も年月も、間髪を入れずに過ぎ行く。
最後の一押しは、滲む色と彼にとぐろ巻く喧騒、止めは気の狂った大きな螺旋であり、遥か高くから落ちて行くようであった。
そしてぱちりと彼の焦点がはっきりした。
彼は小さな質素な部屋に立っていた。
書類整理棚、机に置かれた水と熱帯性珊瑚と晴れやかな色をしたうみうしの入った水槽以外に別段無かった。
部屋の向こうから聞こえる、繰り返される甲高い物音が騒々しかった。
彼は新たな体を見下ろした。
ひょろく。
やせっぽち。
普段の橙色の落下傘降下服に似た上下つなぎの服と違い、先生達が着るような長い丈の白い上着に変わっていた。
「君、大丈夫かね?」
何処の言葉か分からなかったが年配の男性の声であった。
プブリウスは辺りを一見した。
先程と同じく、他の誰も居やしなかった。
「誰か居るのか?」
「それこそ、君がラテン語が必要と言った理由だな。」
水槽から同じ声色で、今度は極めて本式にアクセント付けられたラテン語が聞こえた。
「貴公は誰ぞ?何故身を隠す?」
「おい君、私は何処にも隠れていないじゃないか。だがそんな所ではない。
我々は早々にここから出て行かないとならないのだ。敵がここに迫っている。」
「待て、何事ぞ? 何奴が攻めくると云うのだ?」
「私とて知らない。だが誰であろうとも突き止め、そして連中を止める。君の援助は大いに有難い。」
プブリウスがうみうしを見つめる。
何とも気不味く凍り付いた。
他の理に適った選択肢を見ること無く、プブリウスは水槽の蓋を取り外し、中に手を伸ばしてうみうしを拾い上げた。
白衣の胸ポケットにうみうしを入れると、ポケットの開け口から頭だけだした。
プブリウスは廊下の外に踏み出すと、警報音に怯んだ。
「右へ、それから階段を降りてくれ、そうすれば……おお、こいつは愉快じゃあないか。」
彼らの左、恐らく30フィート先の3つの人影の方から叫び声が上がった。
2人の男性と1人の女性がいた。
女性は頭を剃り上げており、顔には黒い刺青が施され、両手に鉈を握っていた。
1人の男は肩に負った環状の傷から出血していたが、まだ使える手で肉断ち包丁を握っていた。
もう一方は素裸で、くびれの辺りまで乱れ髪を伸ばし、戦闘化粧と血に塗れ、当座凌ぎの槍で武装していた。
プブリウスの頭脳が俄に活気付き、当意即妙に対応する。
敵方は三人、全員武装。
対するは非武装男性、及び同様に非武装うみうし。
いい加減な姿勢に、粗が目立つ武器、この容姿から察するに、連中は如何なる類の戦闘訓練及び鍛錬を受けていない。
当然まだ危険は残る、この体では不調過ぎるのだ。
裸男が初めに攻撃を仕掛けてきた。
プブリウスは槍の刺突をうみうしと共に白衣を脱ぎ捨てることで避け、男の手から武器を奪った。
男は攻撃の弾みで床に無様に大の字になった。
プブリウスは槍の柄で男を強く回し叩きつけ、気絶させた。
女の鉈の初撃を、辛うじて脇へと躱した。
彼の周辺視野は傷を追った男が走り去るのを捉えていた。
後方から増援を見つけに行った事は疑いようがなかった。
これは後に問題である。
女は確かに槍男よりも優れた戦士であった。
彼女の動きは、プブリウスが後ろを取ろうとするのを妨げていた。
彼は心地悪いほど僅かな間合いで斬撃から身を躱し、活路が開かれるのを待った。
この距離では槍は役立たない、何とかして間合いを取る方法が必要であった。
だが彼女は都合の良い位置に入ったのだ……
今ぞ。やれ。
彼女は余りにも強く、余りにも広く振り回していた。
プブリウスは後ろへ跳躍すると、槍を投げた。
命中。
鋸状の鉄の破片が女の首を穿刺した。
彼女は斃れ墜つ前に、血をごぼりと流した。
プブリウスは槍を彼女の屍から抜き取り、彼女の服で槍にこびり付く血を拭い、鉈を一つ拾った。
気絶させた裸男の元まで歩いて行き、これを用いて首を切断した。
白衣はその場に脱ぎ捨てたままに、代わりにうみうしをポケットの中から出すと肩に乗せた。
「御見事。さあ急がねば。ホールから出よう。」
もう方向感覚を完璧に失ったのにも関わらず、指示されるがままにプブリウスは走った。
今のところ、うみうしを信頼していた。
第一に彼はこの場所について何も知らない、そしてこれは彼よりこの場所を知っていた。
「おおっと、失礼だった!」うみうしが肩越しに言う。
「私はトーマス・セオドア・ブラックウッド卿。英国女王ヴィクトリア陛下の臣民である。」
名前は野蛮な響きがあり、彼の女王、国はプブリウスには何の意味を持たなかった。
それにも関わらず、喋るうみうしに自己紹介をする事は礼儀に適っていた。
「我が名はプブリウス・カルテフィルス・アエティウス。ガイウス・マリウスの兵であり、ユグルタの戦いに於ける……本意無き生存者。」
「ああ……事情を説明せねば。私は恐らく君は兜に縛られたのだと思う。
君は我が家から、我が友から、非常にかけ離れた場所、時間にいる。
だが、そんなことで落胆してはいられんのだ。
君の体の前の所有者が、私のコレクションが何処に保管してあるのか教えてくれた。
そこが我々のゴールだ。優れた兵器はそこにある。」
プブリウスはブラックウッドを見下ろした。
「貴公はうみうしであると本当に理解しているのか?」
「ああそうだそうだ、実に可笑しい。前にもそんなことを聞いたことがあったな。」
—
ハザード・ジャック1は有刺鉄線で包んだバットで、男の頭を打ち潰した。
熟れた果肉の感触を彫り物を入れた指の間で味わうことを彼は愛していた。
残るゴロツキ共も同じように楽しんでいた。
強姦、放火、掠奪等という事を朝っぱらからしていた訳ではない。
血飛沫が跳ねかかるよりも前から、ヤニついた深い息を漏らした。
ここでの楽しみは枯れ果てた。
時が進む。
財団の馬鹿野郎。
世界が保護出来る等と考えて、世界をカラカラと紡ぎ続けていやがる。
宿命を仕舞い込んでは、”確保”出来たなんぞと考える。
全く何と子供地味ているのだろう。
エントロピーは常に勝つ、ハザード・ジャックは勝つ事が好きであった。
阿婆擦れ女を犯し、阿婆擦れ女を殺す。
地獄を引き揚げて、混沌を広め散らす。
これこそ彼のモットーであった。
待て……一体全体どうなっていやがる?
戦いから逃げてきた?
臆病者どもが逃げ帰ってきた。
肩に鉛球を食らった以外に何もなかった。
彼が言うには、兜を冠った男が自分並みに手強い者どもを下したのだという。
ハザード・ジャックはこれを考慮するのだ。
—
「これは本当に働くのか?」
「鍵穴に用いるんだ。結局こいつは鍵なのだよ。」
プブリウスはキーカードを覗く。
当然、彼はこの場所に縁もゆかりもなければ、知る物一つすらなかった。
それでも、これは彼に親しみある如何なる鍵にも似つかわなかった。
「鍵穴が見つけられぬ。」
「それに何処を向いているのかすら分からない、だろう。丁度そこだ、ほれ、君の手の横だ。」
"鍵穴"とは、割れ目の入った艷やか黒い箱であった。
それは、扉の横に彼の胸の高さのあたりに据え付けられていた。
プブリウスは再びカードを覗く。
ここまで見た何もかもは、彼の知る何処ぞやか世界のようであった。
より良き時代を知ら無かった為に、只々、不可思議であった。
これは、こうでなくてはならない。
カードを溝に入れると扉が引かれ、向こうに金庫室が現れた。
非常灯の灯りに部屋は薄暗かった。
台に乗った剥製の動物は、薄暗闇から飛びかかってくる準備が出来ているようであった。
「さて、君が興味惹かれるような決闘用の剣もあるがね、我々が本当に探しているものは、我が分子安定崩壊銃だ。
長い鉄の筒で、中空、口の向こう側には木の取っ手が付いている。」
ブラックウッドは言った。
「目を二つ使えば直ぐに見つけることが出来るだろう。」
幸運にも部屋は良く纏まっていた。
動物標本はここに、向こうには植物標本、年代と大きさによって区分けされた人工品。
マスケット銃は、刀剣類の戸棚の隣に、ありきたりな銃火器と共に、ガラスの陳列棚の中にあった。
プブリウスは、ケースを開いて銃の一丁を携えるとそれを精査した。
ある種の棍棒のようだが、どうして連中は、邪魔な金属の取っ手、それも中空な物を付けたのだろうか?
彼はブラックウッドの説明を期待した。
「そうそう、君はこれの使い方を知らないだろう。心配はいらないとも。
至極簡単であるぞ。
単に敵の方向に口を合わせて、そこの引き金を引くとな……はてな、連中はエーテル・コレクターを外しているでは無いか。
予備を見つけない限り、こいつは棒ぐらいにしか役に立たないぞ……むっ!
向こう側にガラス玉があるだろう、それらを管の縁にある真鍮製の溝に入れて……。」
単純な指示であったから、プブリウスは直ぐに全て終わらせた。
ブラックウッドが言うように、銃を持ち上げて上手く構える。
木の部分は彼の方に合っていた。
「良くやった。さあ打つ前にするべきことが後……。」
部屋は揺れ、扉と隣接する壁の殆どが爆ぜた。
プブリウスは床に倒れ、瓦礫と塵を浴びた。
鳴り響く中、彼の耳は微かに足音と異国の会話を捉えた。
「大丈夫かね?」
ブラックウッドは静かに言った。
「あ……ああ恐らく。」
「ここは直ぐに危険になるぞ、君、立てるかね?
我々は有利な点がある。
ただ、私を信用してくれたまえ。」
息を吸い、気を引き締め、銃を摑み、プブリウスは立ち上がった。
視界が泳ぐ、それでも8人の野蛮人を見つけた。
先程戦った3人に似ていて、未だも邪悪な刺青を各種取り揃え、耳飾りに、自家製の武器を装備していた。
「マジ見ろよ。」
特に残忍な見て呉れの急襲者の一人が歩み寄ってきて、有刺鉄線で包んだバットを上下に振り回していた。
「ヘルメット男だぜぇ。マジぃハロウィーンかなんかに似てるぜぇ!」
残りのゴロツキ共がへらへら言う。
「奴等は何と言っているんだ。」
プブリウスは口の端から囁いた。
「ただの侮辱だ、無視するといい。」
ブラックウッドは問題の不良少年に集中した。
「君たち、一番重要なのは武器を降ろすことだよ。
君たちがそうする気があるなら、暴力は避けようじゃないか。」
「へいへい?じゃあ、新しいケツの穴を開けるのはどう?」
男は叫ぶと二つになって吹っ飛んだ。
プブリウスは目を閉じて、引き金を引き、マスケット銃を攻撃者に食らわせた。
砲身から眩い赤い一閃が放たれ、部屋を照らした。
そして男の胸に命中した。
彼の体は硬くなり、手足は出鱈目な方向に曲がり、服と肌は黒く焦げ剥がれ、さながら玉ねぎのようであった。
光が弱まる。
灰が床に散っていった。
プブリウスは驚きの中で銃を見る、積もった灰を見る、再び銃を見る、口を開け弛んだ暴徒を見る。
彼は歯を剥いて笑った。
“Velim caput tuum devellere deinde in confinium gulae cacare.”
ブラックウッド卿はうみうしの出来得る限りまで頭を振り回す。
「参ったな。そいつは臭い。」