そして、それは今
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1998年4月30日

アベルの拳が、もう片方の手で血が出るほど固く握り締められていた。墓碑の外の様子を窺い知ることは出来なかったが、大勢の人間がいるのは解っていた。

彼らを殺さなければならない。身体が緊張し、飛びかかる用意をしているように思えた。それは殺意、定命の身が食事と呼吸を欲するのと同じ、殺害の欲求だった。飢える者の空腹よりも酷く、その衝動は彼の心を苛んだ。

近頃の彼は、兄弟と話すために喚び出される数分の間はなんとか自制していた。だが今、自由がすぐ近くにある……

必要とあらば、彼は自らの身体を引き裂くまで待つつもりだった。

全体で8の大封印、24の小封印、3つのRath-Baの監獄、44に増設された召喚陣のノードシステムに接続されたSavの母体が儀式に必要だった。墓碑はその中心に置かれ、各面は多数の深紅のルーンで覆われていた。監督官たちは100フィート上にある各々のセーフルームから監視していた。ウクレレを起動させることのできるスイッチと、もう一つは単純にこの部屋に水を満たし崩壊させるスイッチを持って。

血液を手に入れるのはわりあい簡単だった――数百人の奴隷を虐殺する儀式は、義務的な献血活動へと代わった。より困難であったのは、実際の儀式の構築だった。古代文書の断片を繋ぎあわせ、千年前の魔術儀式のリバース・エンジニアリングを行った。4ヶ月の間に、保管されていたダエーバイトの遺物の三倍、充分な数の道具が発見された。それらは過去分類されていた物には含まれず、ロゼッタストーンがエジプト人への理解を促したように、ダエーワの知識を深めさせた。

詠唱が始まった。連合に所属する実践的オカルティストのほぼ一割が、声を合わせ、言葉を波のようにうねらせながら、体を揺らめかせて円の中に立っていた。その声音は心をかき乱し、殆ど憂鬱であったが、醜悪な暗流を帯びていた。

エージェント・アルト・クレフは自分の防護円の中、扉の前面から20フィートの場所に立っていた。彼のダエーワに関する知識は低級な言語のいくつかに限られ、魔術について知る事も僅かだった。彼は扉に集中した。良くも悪くも、彼はアベルに対処するたった一人の人間だった。

詠唱はペースを速め、呪文は大いなる力を溢れさせ、切迫さを増した。光が小部屋を満たす、影は激しくひらめきながら壁の上に踊り狂う。風が動かぬ空気の中でひゅうひゅうと鳴り、空間を満たす轟音が大きくなっていく。昂奮は狂えるほどに高まり、燃え上がり渦を巻き砕け、そして止まった。声も、光も、風も同じく終わった、蝋燭が消えるかのように。

それは為された。

それは為された。

衝動が去った。胃の締め付けられるような痛みが消え、筋肉の緊張が緩む。彼は長い間そうであったよりも弱く、より弱くなったように感じた。困惑が彼の心をかき乱した――全てが彼のもとに還り、だがそれは慣れないものだった。寒さ、飢え、恐怖……人であることがどのようなものだったか忘れるほどに、道具として、彼は長すぎる時間を過ごしていたのだろうか?

あるいはそうなのかもしれない。それでも、もう一度学び直すことはできる。

アベルは立ち上がった。一万年以上の中で初めてとなる歩みは、不安定だった。

彼が墓碑の扉を押し開けたのは、それが最後となった。

墓碑の扉が開いた。アベルはよろめき、歩行訓練を行う不髄者のようにふらふらと出てきた。彼は最初の囲いの境界線に辿り着き、立ち止まった。

クレフは円から踏み出し、太古の男のほうへ歩いた。

<どうやら我々は成功したな>

アベルは頷いた。彼はナイフを振るうように、さっと腕を振るった。その手に武器は現れない。

<ああ。そうらしい>

アベルは微笑み、円の端に立つ男女に振り返ると、誇らしげに腕を広げた。

<見たまえ、クレフの眷属よ! お前たちの前に自由を得た男が立っている! 山川の全ての神の祝福を受け、この日より私はお前たちの血族だ!>

O5特別指令 1998-04-30

グリーンハウス計画の当初の協定に基づき、エージェント・アルト・クレフと彼に関連する全ての資料は、1998年5月2日を持って財団へ返却される。加えて、更なる研究と収容の為、LTE-9927の遺骸、KTE-9927-PrimeとKTE-0706の管理権も同様に財団管轄区へ譲渡される。

以下により承認

O5-1
O5-2
O5-3
財団A4顧問委員会

ヨーロッパ現場管制監督官 ラ・フォルテ(LaForte)
ヨーロッパ総管制監督官 フォンテーヌ(Fontaine)
イギリス現場管制監督官 キャスト(Cast)
イギリス副監督官 バー(Burr)
アメリカ総管制監督官 ヘンダーソン(Henderson)
アメリカ副監督官 ゼーン(Zane)

「ゼーン、記録がどうなってるかなんてどうでもいい。この指令にはサインしない

O5一般指令 1998-04-20

種の変化を含む直近の事象により、アダム・クロウ博士は管理者の任を解かれた。新しい管理者はO5委員会の中から選出される。

以下により承認

O5-1
O5-2
O5-3

ゲリー博士は『ぜんまい仕掛け』の前に座り瞑想をしていた。規則正しい動作音が耳を満たし、彼の精神を澄み渡らせる。思考はその調べに合わせてきちりと定まった。彼は『機械』の一部であり、『機械』は彼の一部であった。クロムとナラとグレープが『機械』であるように。人がこの『機械』を創造したのではない、『機械』がそれに宿るように機械を造ったのだ。彼が『ぜんまい仕掛け』と共に作り出したコンピュータは、この『機械』の断片の器に過ぎなかった。

真の器、論理と思考の極致が満たす本来の『機械』のための器が、やがて顕れるだろう。

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