小さく溜息をついた
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広いキャンパス内を歩くと、熱く、重たい空気がまとわりついてきます。
私はこの空気が嫌いではありません。頭がぼぅっとして、なにやら優しいものに包まれている気分になります。尤も、それを誰かに話したとしても、理解してくれる人はあまりいないのかもしれません。
そろそろ7月になろうかというのに、未だに梅雨らしい梅雨は顔を出す様子を見せません。それにもかかわらず、気温は明らかに真夏のそれでした。

「ひーちゃーん、課題終わった?」

「あっ、えっと、うん。ちょっとわからないところあったけれども大体は終わってる」

「おー、流石!じゃーさ…」

「どうせ見せてって言いたいんでしょ?いいよ。丸写しだけはやめてね」

いつの間にか隣には綾乃がいました。尻尾を振る子犬のようでかわいらしいですが、尻尾を振る理由は私ではなくレポートを見ることができるからでしょう。
仕方なく近くのベンチに重いリュックを下ろしてレポートを手渡すと、「やったー!また今度お礼するね!」と綾乃は笑いました。今まで何度その台詞を聞いたことでしょうか。お礼と言いつつ、実際には1度だけ、黄色い百合の形のお菓子をくれただけです。あまりその言葉に期待はしてません。

「あー、そうだ。土曜の夜にゆか、もえちと飲むんだけど、ひーちゃんも来るよね?」

飲み会はあまり好きではありません。アルコールの、喉が焼ける感覚が嫌いだからです。勿論飲まないという選択肢もありますが、いつも空気に流されてしまいます。
けれど、そろそろ付き合いで行った方がいいかもしれません。最近彼女たちだけで仲良くしているのを知っています。あまり断り続けたらいつか相手にされなくなってしまうかもしれません。また一つ、黒い染みができる気がしました。

「…うん、ちょうどバイトの給料はいったところだからいいよ」

私は小さく息を吐いて、気持ちを抑えて答えました。




***




私は基本、一人で行動します。一応友達がいないわけではありませんが、あまり遊びには行きません。
母曰く、『ただでさえ良い大学に行けなかったのだから、周りに引きずられないように人付き合いは程々にしなさい』とのことでした。母の事ですから、"程々に"とは"極力関わるな"という意味でしょう。当時の私は楽しい大学生活に心躍っていたものですから、不満に思っていました。しかし、私は小さく息を吐いて、気持ちを抑えて頷きました。母は怒らせると面倒だと考えたのです。

しかし、実際には極力関わらないなんてできません。友達付き合い、先輩後輩関係、どれも大切です。疎かにしては大学生活に支障が出ます。ほんの小さな段差でも、私にとっては怖いのです。我ながら現金だと思います。

私がそんなことを考えていたのは、綾乃の後ろをついて歩いていたからです。土曜日18時過ぎ、待ち合わせの居酒屋へと向かっていました。

「…雨が降る気がする」

「ん?雨?」

「うん、雨。なんか、そんな気がする」

微かに雨の匂いがします。天気予報では雨は降らないとのことでしたが、折り畳み傘を持ってきて正解だったかもしれません。

「たまーにひーちゃんってへんなとこあるよねー」

「そうかな?」

「そうそう、私は別に嫌いじゃないけどねー。ま、とりあえず店に入りましょかねー」

綾乃はあまり笑ってる様子ではありませんでした。

由佳と萌恵はまだついていないようです。私達が着いた時点で待ち合わせ時間は過ぎていたのですが…。いつものことなので私も綾乃も気にしていません。気にしていないはずでした。

「…ひなー。あの二人、急用だってさー。さっき連絡来た」

綾乃は案内された席に着くなりスマホを確認していたようです。口調だけはのんびりとしていました。

「ん、そうなの?急用なら、仕方がないかな」

無言でスマートフォンの画面を突きつけられました。小さな画面は傷だらけで、大変見づらいのですが、どうにかそれがSNSを映していることがわかりました。

由佳、萌恵、知らない男性達が一緒に写った写真が投稿されていました。どうやら宅飲みのようです。並んだ空の瓶や転がった大量の空き缶を見ると胸やけがしてきて、グラスの水と共に飲みこみました。

「そういうやつらってのはわかってるんだけどさー、やっぱりちょっとむかつくよねー」

二人の事を言っているらしいです。気持ちはわからなくはないですが、私は綾乃以外とは親しいわけではないため、そっか、くらいにしか感じませんでした。寧ろ、彼女達がいない方が気が楽かもしれません。
しかし、綾乃は”そっか”では済ませることが出来ないのでしょう。この雰囲気で飲み続けるのは気乗りしませんでした。息苦しく感じるのは料理の熱気が原因ではないでしょう。心臓が重くなり、胃がきゅっとなりました。

「そうだね…」

「もー、最悪!ひーちゃん飲もう!酔いつぶれてしまおう!」

「うん、いいよ」

黒い染みがまた一つ。私は小さく息を吐いて、頷きました。


ほんの少し口に含んだコークハイは、どうやらウィスキーの量が多かったようです。独特の香りが喉を突いて、綾乃に合わせずカシオレにすれば良かったと少し後悔しました。

もて余したジョッキをゆらしてカラリと音を鳴らしていると、ふと、いつまでこんなことを続けるのだろう、という気持ちが浮かび上がりました。私は自分の身かわいさに、常に誰かの顔を見続けています。その結果、数えきれない程の黒い染みを心に付け続けていました。本末転倒とは言ったものです。

私は誰も信頼することができないのです。家族も、友達も、私の事を本当はどう考えているかなんてわかりません。本当に家族だ、友達だと思っているのかも不安でたまりません。信頼していたのに相手がそうではなかったと知るのが怖かったのです。
しかも、怖くて勝手に心の距離を置いているのに、一人になるのも怖いのです。自分の一言で相手にされなくなってしまうかもしれない、ひとりぼっちになってしまうかもしれない、そんなことを勝手に考えてしまうから、誰かのそばを離れず、自分の気持ちをうまく伝えられないまま、年齢ばかりを重ねてしまいました。

私が楽になりたいならどうすればいいか、そんなことはとうにわかりきっています。少しでも相手を信頼すればいいのです。きっと、実際には一言二言で愛想をつかされるなんて、そんな事はそうそうないでしょう。信頼してしまえば全て済む、簡単な話なのです。

…いえ、それができていれば、最初から悩んではいないでしょう。
情けないな、と、思わず笑ってしまいました。綾乃は愚痴を言い続けるのに忙しくて気がついていません。これからも気が付かないのでしょう。

いつからでしょうか、ぱらぱら、という音が窓の向こうで響いていました。
どうやら外は雨が降っているようです。




***




散々愚痴を聞き続け、好きでもないお酒を飲んで、ほぼ喉を通らない料理を無理やり口に放り込んでいたら、いつの間にかあたりは薄暗くなっていました。まだ真っ暗とはいいませんが、雨も降っていますし、治安を考えるともう切り上げた方が良いのかもしれません。ふわふわと、度の合わない眼鏡越しにものを見ているような感覚を味わいながら、綾乃を介抱しつつ彼女の家へ泊りに行きました。

翌日家へ帰ると、消したはずの電気がついていました。

「やだなぁ」とつぶやいたあと、慌てて口をふさぎました。聞こえているはずがないのですが、それでも恐ろしかったのです。

誰が家にいるかなんてわかっていました。独り暮らしの家に勝手に入っているなんて、1人しかいません。

「入りなさい」

母でした。笑顔でしたが、目を見ることはできませんでした。きっと、目は笑っていなかったことでしょう。

「言いたいこと、わかってるでしょ」

「…はい」

言葉だけで言いたいことがわかるわけありません。いえ、予測はできますが、私はこの言葉が嫌いです。

「あなた、いつになったら言う事を聞いてくれるわけ?一人暮らしさせる条件、言ったはずよね?」

「はい」

なぜそこまで監視されないといけないのでしょうか。私はもう20です。私が女だから、心配しているのかもしれませんが、私だって何も考えていないわけではありませんでした。それなのに、それなのに。

「朝帰りなんて信じられない。心配したのよ?」

「…友達の家に泊まってました、大丈夫ですから」

「大丈夫?何が?だから程々にしなさいって言ったのに」

「けど、私もたまには…」

「黙りなさい」

「…はい」

言葉に詰まったのは、頭の中に黒い染みの残す感情を抑えるためでした。なぜ全てを母に決定されないといけないのでしょうか。私だって、私だって少しでも自由は欲しいのです。

「家に帰ってきてらっしゃい。一人暮らしなんてさせてられない」

頭を抱える母を見て、黒い染みが増えました。いえ、増えるどころではありません。寧ろ、黒くない箇所を見つけるのが難しいくらいです。黒い染みは、これまでの積み重ねで、もう消すことができません。

「返事は?」

私は、私は。

「………はい」


私は小さく息を吐いて…"私"を殺した。


「じゃあ、すぐとは言わないけれど大家さんに伝えて…ちょっと、雛。その顔どうしたの」

母から言われて顔に手を当てる。
ぽろ、ぽろ、と。
何かが落ちてきた。足元をみると、肌色の何かが落ちていた。なんだか、人の鼻のような。…鼻?

「っ、き、きゃぁぁぁああああっ」

風の音が強くなった。鼓膜に痛い悲鳴と窓際の金属音が煩わしい風鈴の音も合わさって、耳を塞いでしまいたくなる。

何が起こったというのだろうか。顔を確認したくて、未だ真っ青な顔をして尻もちをついている母を尻目に洗面所の鏡を確認すると、顔に大きくヒビが入っているのがわかった。そして何より、鼻。あるべき凹凸の感触がなかった。呼吸は容易に行えている。けれど、どれだけ触っても綺麗につるりとしていた。寧ろ、顔を触れば触るだけ、口、目、頬、眉…同じようにぽろぽろと取れていってしまった。

気が付くと、鏡の向こうにはのっぺらぼうが写っていた。

「そっか」


鏡を見続けて、どれくらいたっただろうか。近くでサイレンの音と、ドアをたたく音が聞こえる。出た方がいいのかもしれない。けれど、何もする気にならずにその場に座り込んだ。




***




「吉本雛、20歳。████大学在学中。間違いないですか?」

「はい」

あのときドアをたたいていたのは警察ではなかったらしい。いや、警察の格好はしていたけれど、少なくとも警察であるならばいきなり気絶させることはないだろう。

気が付いたら真っ白な壁、真っ白な天井、真っ白な机に真っ白なベッドという異様な部屋にいた。綺麗なのに、空気は真っ赤に感じるのはなぜだろうか。目が覚めたらドアが開き、白衣の女性が別の部屋へと連れて行った。同じく真っ白な部屋に、ぽつんと机といすが用意されていた。

「うーん、どこから発声してるのか…ちょっと五感はどんな感じなのか教えて?例えば…目は正常に見えているのかとか、においはどうとか、しゃべってるときに口の感覚はあるのかとか、ね。あと…もし、他に何か今までにできなかったことができるようになったとかあれば、教えてほしいな」

このひとはどうやら堅苦しいことが苦手らしい。敬語をやめてしまっていた。

「どれも前と変わりません」

「んー、そっか。OK…では、ここからは重要なお話をします。唐突だと思うかもしれませんが、貴女は顔に異常性があるということで、本施設に隔離されることとなりました」

この施設、そもそもなんなんだろうか。そう思わなくもなかったが、その反面、正直どうでも良かった。

「そうですか」

「冷静ですね。もう少し困惑するものと思いました。例えば、家はどうなったのかとか、家族のもとに帰りたいとか。大学には通えるのかとか」

首を横に振った。思い返せば変な話だ。いきなり攫っておいて本人の許可なしに事をすすめるなんて。しかし、拒否する気も、質問する気にもなれなかった。

「特にないようですね…今後はその顔について研究調査が行われるかと思います。もし、復帰できる状態になったら再び大学に通うこともできるでしょう。それまでの間は、暫く原因調査やカウンセリング等が度々行われるかと思います。また、本名ではなく、SCP-████-JPという番号で呼ばれることとなります。慣れないかもしれませんが、暫く辛抱してくださいね」

この人は嘘をついているのだろう。笑顔の裏にどこか、ほんの少し陰があった。その陰はきっと、うしろめたさというものなのだろう。どうでもよかった。

「わかりました」




***




「——つまり、彼女は感情が欠落してるってことでしょうか?」

微かに声が聞こえる。存在しない瞼は重く、薄く開いても視界は白く霞んでいた。どうやら実験時の麻酔が切れたらしい。喉が乾燥しているようで、顔をしかめたつもりになった。

実験というものをどれだけ行ってきただろう。何を行ってるかもわからない実験。実験がない時も、最低限生きるに必要な行動しかとった記憶がない。その最低限の行動というのも、この顔になってから食事が必要なくなったせいで、ただ着替えて寝るだけの味気ないものである。
私の生活は顔の謎のみを主軸としてまわっていた。

とりあえず体を起こそうかとも考えたのだが、鉛にでもなったかのように重かった。どうすることもできず、聞き続けるしかなかった。

「ううん、欠落じゃなくて、自分の感情を殺し続けてたんだと思う。カウンセリングのログを全て見た限りではそんな印象を受けた」

「カウンセリングですか…。今のところ生体面での異常は発見できていませんが、津軽さんはSCP-████-JPの感情と異常性に何らかの関連性があるとお考えなのですか?」

「多分ね」

私について話しているらしい。
私の担当をしている女性研究員。彼女は多分と言いつつ確信を持っている様子だった。

「とりあえず、カウンセリングは続けよう。あと何か、刺激となるものがあるといいんだけどね…彼女が意欲的になれる何か。本当ならば異常性が失われる危険性がある事は避けるべきだろうけれども、これやんないと研究も進まないと思う……きっと本人が思い込んじゃってるだけで、まだ心は死んでないからね」

ふと疑問に思ったことだが、研究員だと言うのに被験者の前でこんなにべらべらと喋って良いものなのだろうか。
…もしかすると、彼女は敢えて私に聞かせていたのかもしれない。そんな気がした。


それから暫くして、いつもの白い部屋へと戻った。ふと見た鏡には相変わらずのっぺらぼうが写っていた。口もないのに笑っている気がする。
…あぁ、やっと気が付いた。これは自分が望んだ結末だ。その証拠に、人と接する度に増えていた真っ黒な染みは綺麗に消えていた。もう、保身の為に自分の本心を隠す必要がなくなったから。

だけど、なぜだろうか。私が望んでいたことは、私がしなければならないことは、もっと別の何かだった。なんとなく、そんな気がするのだ。

ベッドに横になり、二度と目が覚めないように祈りつつ目を閉じた。





でも、何のために祈るというのだろうか?
小さく息を吐いて……ここには誰もいないはずだった。

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