個性的な芸術家についての本
rating: +5+x

fortepian.png


Aleksander Kokoszkiewicz

何世紀もの間、芸術はわたし達を驚かせることは決してなかった。様々な時代の芸術家たちは、喜び、後悔、恐怖、混乱などの反応を視聴者から得ようと、常に努力を続けてきた。獲物を待つ獣のように、人間の認識を絶え間なく追及し続けている。アポロの信者たちは、非常に疑わしい道徳的な行為とやらに、越えてはならないとされた一線を超え、他人の感情に敬意を示すことができる。悪魔との交渉や、発狂してしまった可能性のある芸術家のケースは、いったいいくつに上るだろうか。芸術の潮流が議論の的とみなされたとき、一体何人の批評家が、アヴァンギャルドな人々を賞賛していただろうか?

それは芸術の世界だ。庶民にはわからない世界。芸術家に対する認知の機会が乏しい人たちは、どれほど阿呆であるかがわかる。Aleksander Kokoszkiewicz、40年前に40歳で死亡したピアニスト。この記事の中で語られる話は、他人の心を探る詐欺師のようなものだ。

彼は、1837.05.15、オルツティンで裕福で尊敬の的だった家庭で生まれた。AleksanderはErnestとNicholasという二人の兄を持ち、彼の父、Wojciech Kokoszkiewiczは優秀な詩人で、母親のKatarzyna Kokoszkiewiczはかつて優れたチェロ演奏家であったが、家と子供のためにそれをやめた。 Kokoszkiewicz家の家庭環境を推測すると、この若いアーティストの成長をどのように想像できるだろう?Aleksanderは7歳でピアノを習い始め、すぐに頭角を現した。彼は9歳で知り合いのKokoszkiewiczów Wojciecha Strzebrzykから、リズムとコンポジションに関する最初のレッスンを受けた。1850年、彼はワルシャワにはじめて赴き、ワルシャワ・リセウムに出席した。そのころ、彼は、彼の叔父の家に引っ越した。

彼は、3年間学んだ後卒業し、ベルリンのプロイセン芸術大学で研究生活を続けた。この期間中、彼は他の芸術家たちとともに、ヨーロッパのあちこちを何度も旅行した。この期間中に、彼の人生における道徳観は変わり、当時の既存の価値観は崩れ去った。それは、彼と父親とのやり取りの記録にうかがうことができる:

"息子よ、私はお前の好奇心は良く理解している。それは芸術家にとって重要なものだ。だが、私は母とともに、お前の育ち方を心配している。創造心は、それを表現するスキルと両立して育てなければならない。"

"あなたは私を理解していません、父上。それは好奇心についての話ではなく、旅行先での真実、あなたの見たことのない真実、かつて発見されていたものを、再発見したという事実です。それは経験、そして感情です。表現したいものが無ければ、自分自身を表現することに意味はありません。"

"母といっしょに、わたしたちはお前の選ぶ道を常にサポートしてあげよう。私はただ、お前が心配で、これを書いていたのだ。私が前にお前に言ったことを、きちんと考えるんだよ。"

"心配は要りません。私はそれについてよく考えました。あなたがこのことについて心配する必要はありません。しかし、私はこの態度を変えることはないと思います。私が言ったとおり、私は旅行がしたいのです、そして、その機会がある。あなた方がもし、私を心配してくれているのなら、私と一緒に旅行に行くFriedrichが今回の旅行の準備の手助けをしてくれたということを覚えておいてください。彼はいい家族を持っていて、何から何までサポートしてくれます。ですから、私も彼を助けます。私が、あなた方に何をいいたいかということを、良く考えていただきたいです。"

しかし、Aleksandrの未来は、卒業後1年目の1857年に行ったインド旅行で大きく変わった。彼は、まったく異なる文化、特に宗教とぶつかった。彼は、インドの神格と、儀式の多様性に敬意を表し、そして魅了されたのだ。彼は特に、芸術の神、サラスワティに興味を持った。彼は彼女をたたえる曲を書いた。それがこれだ: Sonata Navaratri

当時、彼は人気のピークにあった。彼は故郷への短期滞在の間にはじめてのメジャーコンサートを行い、まもなく、ワールドツアーを開始した。彼は、サンクトペテルブルク、ローマ、ロンドン、ニューヨークでコンサートを執り行い、たくさんの群集が彼のコンサートを見に訪れた。これは、当時彼の曲が、「だれもの心を捉える曲」と表されていたからである。

Aleksandrのコンサートでは、ピアノの音色が聴衆の感情を激しく揺さぶるものだったため、このうわさは信憑性があった。しかし、聴衆は皆、それを聞きに行ったことを後悔した。笑い声に苦しみ、痴呆のようになることも恐れていた。だれも、この現象の原因を推測することはできなかったが、今日、我々は自身を持っていえるだろう: 彼はサタンだったのだ!彼の死んだ後、何度も他のプロの演奏家が演奏したが、群集は、普通の曲のようにしか聞こえない、と述べていることが何度も証明されている。

ポーランドの最大の芸術家であり、詐欺師。-懐疑論者にはこのAleksandr Kokoszkiewiczに関する話が、作り話だと思えるかもしれない。しかし、彼らは1869年秋のコンサートの犠牲者の顔を目の当たりにしてなお、それを言うことはできないだろう。それは、ワルシャワのグランドシアターで行われたもので、全席満員だった。Aleksandrの活動記録上、最後の曲である、新曲の発表会だった。

ホールやピアノは完璧な黒に包まれ、それは舞台のほとんどを占める暗闇と融合していた。ざわざわとしたささやきは、背の高い、スリムな金髪の芸術家がステージに上るとすべてやんだ。彼の顔は真剣で、楽しげなものだった。彼の目は暗く、そこに恐れは無かったが、彼は、彼が演奏しようとしていた楽器を慎重に凝視していた。彼の唯一のおかしなところは、彼の手の震えだった。特に、聴衆の前で、ステージ上にいるミュージシャンのようには見えなかった。彼は楽器の前に座り、鍵盤に右手を乗せた。生き残っていた証人は:"彼は躊躇しているようだった。"と語る。しかし2秒後、彼ははじけるように演奏を始めた。何が起こったのか、誰にも説明できなかった。最初の音を聞いた後、人々は狂った動物のようにお互い駆けずり回った。死んだり、重傷を負っている人がそこらじゅうに倒れこんでいた。突然、全てが止まり、人々は混乱して辺りを見回した。ホールから、恐怖に慄く嘆きの声が上がった。Aleksanderは、ピアノに倒れこんで死亡していたのだ。

これまで、この悲劇の原因について、様々な論争が行われた。論争は、Aleksandrの個人的なノートを見つけ、彼の最新の作曲、「Frederic Chopinへのソナタ」についての彼の手記が見つかったことで、全てが明らかになった。Aleksandrに関するもっとも信憑性の高い説は、彼が反抗的な子であったということだ。どうやら、彼は全ての「出張」コンサートについて、父親に知らせることに大きな意味を見出していたようだった。その後、業績を積み重ねるごとに、彼は親との以前の論争における彼の論理の正当性を実感し始めたのだ。このプライドが、彼を終焉に導くこととなる。Aleksanderは、まだ、何かを証明しようとしていた。彼のこの欲求は、父の死後もとまらなかった。あなたは、すでにこの狂気の結果を知っている。結論は、あなた自身で導くことをおすすめする。問題と所見に関する全ての質問は、編集者におくってくれたまえ。

- 週刊誌の臨時号, 1909.12.25

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。