変わらない君の世界
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「せんせい、やっぱりぼくねむれないよ」
「あら、ゆーくん。さっきお外でたくさん遊んだでしょう」
「うん、そうだけど。ぜんぜんねむたくないの」

遮光カーテンの閉め切られた託児所内。数人分の可愛らしい寝息が聞こえている中で、ひとりその幼児だけがぐずついていた。串間保育士は薄暗い部屋の中、敷かれた布団の合間を縫ってその子どもの傍へ膝をつく。隣に半身で寝そべり、掛け布団の上から優しく一定のリズムで叩いてあやし始めた。

「ねぇせんせ、おひるねのじかん、あとどのくらい?」

周りの友達を気遣ってか、子どもは囁き声で串間に尋ねた。眉間に皺を寄せて、小さな足でもぞもぞと布団を蹴る。

「さぁ、どのくらいかなぁ。ゆーくんがちゃんと寝れば、終わるかなぁ」
「えぇー。ねむたくないのに」

串間に布団を掛けなおされて、子どもは諦めたように布団へ顔をうずめた。串間は可笑しそうに笑って、まだ細いさらさらとした髪を撫でた。

「おやつの時間に眠たくなっても、先生知らないぞー」
「ねむたくなったら、どうなるの?」
「先生がゆーくんのおやつ食べちゃおうかな」
「やだ!ねる、ねるから!」

子どもは少し声を大きくして、「しっ、みほちゃんたち起きちゃうよ」と保育士にたしなめられた。「うぅ……」と決まり悪そうにうめいて、子どもは串間の顔を見た。少しまぶたが重そうだ、と串間は思う。このまま寝てくれればいいのだが。

「せんせい、あのね。ぼく、みんなとはなれたくないの」
「……え?」

唐突な話に、どうしたの、と問う。不安げに揺らめく幼い瞳から、大粒の涙がこぼれようとしていた。ぐすぐすと鼻をすすりながら、幼子は横で寝そべる串間へと遠慮がちに抱きついた。小さな身体をやんわりと抱きしめて、串間は子どもの顔を覗き込んだ。

「ゆーくん?」
「あのね。おとうさんが、おひっこしするかもしれないって、いってたの」
「……お父さんが?」

彼の父親――サイトの研究員だ。まだ若く、別の職場から財団へ雇用されたのは3年ほど前だが、周囲の信頼は厚い。2年前に妻を病気で亡くしたあとは、男1人で息子を育てている。長らく伴侶を失った喪失感で塞ぎ込んでいたが、最近ようやく気持ちの整理がついた様子で、託児所へ子どもを送迎するときは典型的な良い父親というイメージだ。

「お父さんが、ゆーくんにそう言ったの?」
「ううん。きのうのよるね、おとこのひととそうやってはなしてたの。テレビみるへやで、おさけのみながらおはなししてた。ぼくこっそりきいちゃったの」
「男の人?」
「しらないひと。おいしゃさんみたいなふくきてて、ちょっとこわかった」
「お医者さんみたいな服……」
「うん。しろくて、ここのひとたちがよくきてるやつ。でもここのひとたちとは、ぜんぜんちがうの。やさしいかんじじゃないの。こないだは、べつのひとがきてたけど、そのひともこわいめしてた。おとうさん、さいきんへんだよ。おうちでも、へやにこもって、へんなものつくってるし……ぼく、ぼくこわくて、」

きゅ、とエプロンを掴む小さな手に力が入った。すすり泣く幼子の背中をぽんぽんと叩きながら、串間は聞いた言葉を脳内で反芻する。冷めた思考を子どもに悟られないよう、乾いた唇を静かに開いた。

「お父さんは、聞いちゃ駄目って言ってたのかな?」
「うん……。でもおとうさん、ぼくのこときづいたの。それで、だれにもはなしちゃだめだよって、いってた」
「……。……そう」

子どもは無邪気だ。言われたことは覚えていても、その意味までは理解していない。小さな彼にとっては、自分の家と、友達や先生と一緒にいられるここが、世界の全てなのだ。

「心配だね。これからどうするのか、先生もお父さんに訊いてみるからね」
「うん。ぼく、ずっとここにいたい」
「そうだね。先生も、ゆーくんと一緒にいたいなぁ。……さてと、この話はもうおしまい」

おねんねしようね、と彼女は子どもの身体をそっと布団へと戻した。泣き疲れた彼が寝息を立て始めるのに、さほど時間はかからなかった。
 


 
「……もしもし、お師匠さま?えっ、ああ……すみません、お養父さま。お時間よろしいですか?柳田研究員について、少しお話が」

子どもたちが寝ている隣の部屋、託児所内の給湯室に串間は立っていた。支給されたスマートフォン型端末から『上司』に連絡をする。彼女が自ら処理に動くことはほとんどない。ただ情報を集め、報告し、状況を静観するだけだ。それがどれほど非情な判断の元に遂行されようとも。

「はい、そうです。彼の自宅に。確実に裏を掴むなら数日張ったほうが良いでしょうが、『彼ら』は逃げ足が速いですから。早急に向かうべきかと思います」

我ながら冷え切った声だと思った。彼女は自らの喉元を押さえた。唾を呑みこめば温かな感触が流れ落ちていく。
『上司』たちや実動部隊の者たちとは違い、自分は未だこの体温を捨てられないでいる。

「……それと、お養父さま。彼の息子についてなのですが……」
 


 
日も暮れかかった午後5時過ぎ。親の迎えを待つ子どもたちの相手をしていた串間は、託児所の扉が軋みながら開くのを見てカーペットの上から立ち上がった。

「お疲れさまです。……ゆーくん、お迎えだよ」
「……おじさん、だあれ?」

父親ではない中年の男が来たことに、子どもは困惑した表情で積み木から手を離した。串間の顔を不安そうに見上げる。大丈夫、と串間は彼を抱え上げた。

「お父さん、お仕事が長くなりそうなんだって。このおじさんは、お父さんのお友達なの。だから、おじさんのところで待っててねって、お父さんから電話があったのよ」
「やぁ、勇太郎くん。お父さんから頼まれたんだ。おっちゃんのところで、ご飯食べさせてやってくれってな」

男は大きな口に人の良さそうな笑みを浮かべて、子どもの頭をわしゃわしゃと撫でた。広くて厚い手は、彼の父親に似て温かかった。子どもは安心したように、しかし少し寂しそうに、「そっか」と呟いた。

「おしごとなら、しょうがないよね。ばいばい、せんせい」
「はーい、さようなら。良い子にするのよ。……よろしくお願いしますね」
「おう。任せとけよ、センセ」

男は串間の腕から子どもを引き取ると、「おー、意外と重いなお前」と小さな赤い鼻を軽く摘まんでやった。朝からずっと憂鬱な顔をしていた子どもは、そこでようやく、声を上げて笑ったのだった。
 


 
男に抱えられて、子どもは託児所の外へと出て行った。見送りに出てきた串間へ向かって、姿が見えなくなるまでずっと手を振っていた。2人の姿がサイトの本部施設へと消えていくのを確認し、串間は振り返していた手をそっと下ろした。
 
「また明日ね、ゆーくん」
 
きっとあと1時間もすれば、あの子の世界はほんの少し変わるだろう。けれどあの子は、自分ではそれに気づかないまま、また明日の朝9時に元気よく託児所の扉をくぐるだろう。
大好きな『父親』に連れられて。
彼のためだけではない、これは財団のためでもあるのだ。あの子が成長し真相を知ってしまったとき、もし父親の敵を討とうとするものなら、再び同じ処置が繰り返されるだろう。彼の世界は、これからも財団によって、ずっと『変わらず』に続いていく。

「……明日のおやつは何にしようかなぁ」

串間保育士はひとり呟きながら、未だ子どもたちの歓声響く託児所内へと入っていった。
 
 
   

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