いつものこと
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概要紹介:採石場にて、岩に直径10cm深さ1mの穴が数十個開けられていた。
発生日時:20██/██/█
場所:██████市郊外の採石場
追跡調査措置:石材泥棒として警察に届け出があったところを、財団のエージェントが発見。警察に紛争して現場に向かい、採石場の従業員にCクラス記憶処置を行った。穴のあけられた岩は回収されたが、検査の結果一切異常性は認められなかった。

 なんだかんだ言って、日本は島国だ。自動車や鉄道が発達したと言っても、まだフェリーなどの船舶は交通機関として重宝されている。
「うぅー、失敗しましたー」
 エージェント柳瀬は、フェリーの客席に腰を下ろしたまま呻くように言った。
 貨客船第3サンセット号。太平洋側のとある島と本州を結ぶフェリーだ。片道数時間の道のりで、多くの人や荷物を運搬する。その本州へ向かう便に、柳瀬は乗っていた。
「でっかい船は揺れないって聞いてたのにー」
 停泊中のフェリーに乗った時点からゆっくりと前後左右に揺れており、柳瀬は出港後30分と経たないうちに船酔いに襲われていた。
「大丈夫ですか?」
 柳瀬に向けて声がかけられる。見やると、若い女が彼を心配そうに見下ろしていた。
「船酔いですか?」
「ええ、まぁ…」
「船酔いの薬、持ってますからどうです?」
「薬を飲んでこれなんですよ…ですから大丈夫…いや、大丈夫じゃないな…」
 柳瀬はそう言ってから、彼女に向けて力なく微笑んで見せた。
「それより、人と話をして少し気が紛れました…ありがとうございます」
「いえ、私は何もしてませんし…」
 柳瀬の例の言葉に、彼女は少しだけ慌てたように手を振って見せた。
「でも、気が紛れて楽になるなら、もう少しお話してもいいですか?」
「ええ、お願いします」
 柳瀬の言葉に、彼女はじゃあ、と言ってから隣の席へ腰を下ろした。
「あ、忘れてました。私、高垣って言います」
「僕は柳瀬です。ご丁寧に、どうも」
 二人は軽く頭を下げて挨拶を交わした。
「それで、柳瀬さんは船に弱いのに、どうしてこのフェリーに?」
「仕事なんですよー」
 柳瀬は高垣の問いに、弱々しいながらもおどけた口調で答えた。
「僕だって、出来ることなら船は嫌だったんですけど、あの島に行くはフェリーしかなくて…」
「へえ…お仕事大変なんですね…」
「ですねえ…やりがいがあるのが幸いと言えば、幸いかなあってところです」
 柳瀬はそう、肩をすくめてみせた。
「それで、高垣さんは?お医者さん志望の学生さんとか?」
「あれ?何でわかったんですか?」
 高垣は驚いたように目を丸く開いた。
「いえ、僕みたいなのに心配して声かけてくれるお嬢さん、ってところでそうなんじゃないかなーって思っただけですよ」
「でも、すごいですよ…あ、もしかして柳瀬さんって探偵さんですか?」
 おそらく柳瀬の推測から連想したのだろうか、高垣がそう職業を推測した。
「うーん、ちょっと違いますね」
「あれ?」
「正解は保険会社の調査員です」
「調査員?」
「ええ。何か事故とかが起きた時に、それが本当に自己なのか、保険金狙いのでっち上げなのかを調べるのが仕事なんです」
「ということは、あの島で何かあったんですか?」
「ノーコメントです」
 柳瀬は唇に指を当ててみせた。
「さーて、高垣さんのお陰で大分楽になりました」
 指を口元から離しつつ、柳瀬は続けた。
「少し、外に出て風に当たれば、大分すっきりすると思います。高垣さんはどうされますか?」
「じゃあ私も」
 二人は席を立つと、座席の間を通り抜けて船室の外へと出た。甲板には潮風が吹き渡っており、日の光と合わせて船酔いの醒めるような心地よさを作っていた。
「いやあ、割と人がいますねえ」
 柳瀬は甲板に出ている乗客たちを見ながら、呟いた。
「これなら中でじっとしていずに、外に出てた方がすっきりしてたでしょうねえ」
 船の縁に歩み寄り、手すりに手を置いた柳瀬が、目を細めつつ空を見上げた。いい天気だ。
「そうですね。ところで柳瀬さん」
「はい?」
 高垣の言葉に柳瀬が応じた直後、彼の手首に向けて彼女が手を振った。直後、かしゃんという音とともに、銀色の輪が彼の手首に嵌まっていた。
「な、なんですかこれ!?」 
「静かに。人に見られます」
 不意に手首に掛けられた手錠に柳瀬が目を白黒させる中、高垣は静かな口調で続けた。
「柳瀬さん。あなたを違法薬物運搬の疑いで一時拘束させていただきます」
「へ?なんで?」
「保健の調査員、とおっしゃいましたけど、あの島ではここ最近事件事故の類は起きていません。そしてあなたの船酔いに似た症状は、胃に不溶性カプセル入りの各種薬物を収めた人と全く同じです。フェリーが向こうにつき次第、湾港警備事務所で話を伺います」
「ちょ、ちょっと待ってください、高垣さんあなた…」
「申し遅れました」
 高垣は上着の懐に手を入れると、手帳のようなものを取り出した。
「貨客船泊護衛官の高垣雪と申します」
「かきゃくせんぱく、ごえいかん…」
 柳瀬は手帳の内側に掲げられた肩書きと顔写真、そして高垣の顔を見比べながらそう呟く。
「昨今のテロ増加により、各種公共交通機関の安全を守るために配置されています。あの島を通じての密輸もありますので、こうして取り押さえさせていただきました」
「そ、そんな…」
「とりあえず、このまま大人しくしていてくださいね。ちなみに女だからって逆らおうとしちゃダメですよ。私、柔道三段ですから」
 念を押すように高垣はそう言った。
「ま、待ってください、実は急ぎの仕事が…」
「仕事?仕事帰りではなかったんですか?それとももしかして、船から降りたところでもう一仕事ということですか?どちらにせよ、湾港警備事務所で取り調べはさせていただきます」
「そ、そんなわけじゃなくてですね…あぁもう…」
 柳瀬は手錠と高垣の顔を交互に見比べながら、ちらちらと甲板の乗客に目を向けていた。
「…ん?」
 高垣が柳瀬の視線を追うと、甲板を行き交う乗客を見ている様だった。
「なるほど…柳瀬さん、こっちに来てくれませんか?」
「あ、いやちょっと、え?」
 柳瀬を手錠で引っ張りながら、高垣は船内に入って行った。そして、通路を進み、乗客用の大きな船室を通り過ぎる。
 そして、『関係者以外立ち入り禁止』の文言が掲げられた通路に足を踏み入れる。並ぶ扉の前をいくつか通り過ぎ、とある一枚の前で彼女は足を止めた。軽く拳を握り、数度金属製の扉を叩く。
「…あれ?」
 返事がないことに、高垣は首をかしげた。
「誰かいるはずなのに…」
「る、留守中に入るのはいけないと思いますよ…」
 柳瀬の言葉を無視して、高垣は扉の取っ手を回し、開いた。
「入りますよー」
 だが、扉の向こうには机と椅子、そして配管があるばかりで特に何もなかった。
「仕方ないな…じゃあ柳瀬さん、ここで待っていてください」
「え?こんなところで?」
 窓もない、狭い船室だ。こんなところに閉じ込められて波に揺すられていては、船酔いの症状も酷いものになるだろう。拘束されていることよりも、船酔いの悪化の方が柳瀬は気がかりな様だった。
「外からカギを掛けていきます。手錠を壊したり、勝手に外に出たら、罪状が加算されますからね」
 柳瀬の体をぐいぐいと引っ張り、彼女は机の脚に手錠のもう片方の輪を掛けた。
「た、高垣さん…!」
 柳瀬の言葉を背に、高垣は船室を出て行った。
「さーて…」
 乗客用のスペースに戻りながら、高垣はつぶやく。とりあえず探すべきは、柳瀬の仲間か取引相手だ。甲板でちらちらとあちこちを見ていたのは、自身の逮捕を伝えようとしていたのだろう。だとすれば、今頃柳瀬を探す何者かがいるはずだ。
 船室に戻ると、十数人の乗客が思い思いに到着を待っているのが見えた。携帯を弄る者、文庫本に目を落とすもの、腕を組んで目を閉ざしている者。そのどれにも妙な様子の者はいない。
 まだ柳瀬の捕縛に気が付いていないのかもしれない。だが船の到着まで時間はたっぷりある。甲板や食堂など、探す場所はまだいくつもある。
 そんなことを考えながら高垣が甲板に向けて足を進めると、また一人新たな乗客が船室に足を踏み入れた。ほぼ黒に近い濃いグレーのスーツを着た男だ。同時に、花のような香りが船室に流れた。
「ん…?」
 高垣の脳裏を、一瞬何かが掠めた。花の香りに、何か妙なものを感じたからだ。高垣は鼻をスンスンと鳴らすが、その正体には思い至れなかった。
 そうしているうちに、スーツ姿の男は船室を横切り、奥へと続く通路に入って行った。あの先にあるのはトイレと乗組員以外立ち入り禁止の通路ぐらいだ。
「柳瀬さんが助けを呼んだのかな…?」
 スーツ姿の男の後を追い、彼女は座席の間を通り抜けようとした。だが、奥へと続く通路に入る直前で、彼女は足を滑らせた。
「わ…!」
 一瞬バランスを崩すが、どうにか踏みとどまる。見ると、床に水がしたたり落ちており、濡れていた。滴りは船室の出入り口から通路の奥へと続いている。どうやら、スーツ姿の男のもののようだ。
「…晴れてたよね…?」
 甲板で濡れたのだろうか、という考えが脳裏をよぎるが、高垣はすぐに否定した。だが、そんなことはどうでもいい。問題はあの男の行先だ。彼女は水滴に気を付けながら通路に足を踏み入れ、トイレの前に立った。
「……」
 拳を固めて扉を打つが、返答はない。開いてみると、狭い便所が彼女を迎え、立ち上る刺激臭が鼻を突いた。
「やっぱり奥ね」
 高垣は扉を閉ざすと、通路に沿って奥へと足を踏み入れていった。そして乗組員以外立ち入り禁止の表示を越える。
 足音を忍ばせ、耳に意識を傾ける。聞こえるのは船のエンジン音と、船体に波がぶつかる音ぐらいだ。足音の類は殆ど聞こえない。
 もしかして、適当な物陰に隠れてやり過ごされてしまったのだろうか。そんな不安が、高垣の胸中で膨らんだ。
「あれ、高垣護衛官?」
 思わず立ち止まってしまった高垣に、男の声がかかった。振り返ると、彼女の背後に制服姿の男が立っていた。この船の乗組員で、割と顔見知りの男だ。
「あ、お疲れ様」
「お疲れ様…って、どうしたんですか、こんなところで」
 本来ならば高垣は、乗客に紛れて不審人物を探るのが仕事のはず。そんな思いが、船員の視線や口調からうかがえるようだった。
「妙な男がいるの。気を付けて」
「妙な男?」
 高垣の言葉に、乗組員は声を潜め、耳をそばだてた。
「スーツ姿なんだけど、ずぶ濡れの人。さっき、船室からこっちの方に歩いて行ったはずなの」
「ずぶ濡れって、今晴れてますよ?」
「そのはずなのに、さっきその人が落とした水滴で滑ったのよ」
 高垣は靴の裏を床に擦り付け、先ほどの自分の足の滑り具合を思い出していた。
「とにかく、変な人がいるから、見かけたら押さえて」
「分かりました」
 乗組員はそう頷くと、踵を返して通路の奥へと進もうとした。
 だが、彼の足はぴたりと止まったまま、びくりとも動かなかった。
「ど、どうしたの…?」
 高垣が不安げに問いかけると、乗組員はゆっくりと、彼女に向けて倒れ込んできた。
「…!」
 倒れ込む船員に巻き込まれぬよう、一歩距離を置くと、彼は通路に仰向けに倒れ込んだ。受け身も苦鳴も一切なく、ただ重力に引かれるがまま、彼は通路の床に倒れ込んでいた。おそらく疲れすぎていたのだろう。乗組員の顔が残っていたならば、高垣はそう思って納得していたはずだった。
 だが、彼女の目に入ったのは、顔のあるべき位置にある赤くて黒い肉の窪みだった。
 一体何が起こったのか。彼は何をされたのか。誰がこうしたのか。高垣の脳裏を、いくつもの思考が円運動を描き、彼女の動きを完全に硬直させていた。
「ふるしゅ…すぬしゅるふ…」
 倒れ伏す乗組員と、彼の全く無事な手足を見比べることに熱中していた高垣に、何者かが声を掛けた。顔を上げると、ちょうど通路の向こう、顔を失った男の死体越しに誰かがこちらに向けて立っているのが見えた。
 例の黒スーツの男であった。ただ、彼女の意識はもはや足元に転がる乗務員ではなく、妙に額が突き出て、目が左右別々の方を向いている黒スーツの男に集中していた。
「あ…」
 男を目の前に、高垣は声を漏らしていた。こうして彼の眼前に立つことで、彼のスーツが黒ではなく濡れて色が濃くなったグレーであることや、辺りに花の香りが漂っていることに気が付いたからだ。だが、いくら自身の状況を把握しようとも、それに対応しようという意志が無ければ、何もできない。高垣に向け、スーツの男が手を伸ばす。折れ曲がった指先が、彼女の肩口に触れんとしていた。
「ふるしゅふ…」
 唇の薄い、下手すれば常人の三倍ほどの幅はありそうな口から声が漏れる。
 しかし、男の指先が高垣の肩に触れる寸前で、彼は真後ろに向けて不意に吹き飛んだ。
「ぬすふ!」
「…!」
 濡れたスーツの男が声を漏らし、直後高垣を衝撃が襲う。胸元と腹を抱きかかえられるような、真後ろに引っ張られる衝撃だ。
「だ、大丈夫ですか、高垣さん!?」
 衝撃の直後、彼女に降りかかったのは妙に高い声だった。顔のない乗組員と濡れたスーツの男、そして衝撃を脳みそが順番に処理し、彼女は自身がどうなっているかをようやく把握した。
「あ…柳瀬さん…?」
 自身を抱える柳瀬に向け、彼女はそう問いかけていた。何故柳瀬がここに?手錠は?罪状を重ねて怖くないのか?様々な意図を込めての一言だったが、柳瀬の返答はひとつだった。
「間に合ってよかった…」
 柳瀬は、一度だけ仰向けに倒れる乗組員に目を向けてから、高垣に微笑んで見せた。彼の手首には手錠が嵌まったままだが、金属製の鎖は切断されていた。
「もう大丈夫ですよ、柳瀬さん。ここからは私の仕事です」
「で、でもあの男は…」
 一体何をどうやったのかはわからないが、乗組員を一人殺害している。高垣にとっては、それで十分この貨客船を対象とするテロリストとして認定し、逮捕するだけの材料があった。
「大丈夫です。僕に任せてください」
 柳瀬は高垣に向け、念を押すように言った。その言葉には、ただの保険会社の調査員では説明しきれない、自信があった。
「立てますか、高垣さん…僕の後ろにいてください」
 抱え込んでいた高垣の身体を、心なし自身の背後に立たせながら、柳瀬はそう言った。
「柳瀬さん、この男は…!」
「知ってます」
 倒れる乗組員との因果関係を説明しようとした高垣の言葉を、柳瀬は遮った。
「この…いえ、こいつは人類の敵です。話すと長くなりますが、逮捕や話し合いの出来る相手ではありません」
 濡れたスーツの男を見据えながら、柳瀬は背後の高垣にそう説明した。
「話し合いも出来ないって、そんな…!」
 高垣が抗議しようとした瞬間、濡れたスーツの男が一歩踏み出した。重心にも両手足の位置にも、一切の気を配っていない、素人の一歩だった。だが、柳瀬はその動きに俊敏に反応した。
 一歩、いや、一跳びに濡れたスーツの男との距離を詰めると、拳を握り固め、瞬時に繰り出した。濡れたスーツの男の、平たい鼻を拳が深くえぐる。
「…!」
 声もなく、スーツの男がたたらを踏みながら後退し、柳瀬はその場にとどまりながら身構えた。
「柳瀬さん!」
 高垣はいくらか混乱しながらも、直近の記憶を基に一つの判断を下し、声を上げていた。
「無抵抗の相手に、そんな…!」
「これぐらいでは足りませんよ」
 左拳を握り、右手の指をピンと揃えて、左半身を一歩引いた構えのまま、柳瀬は応じる。
「ここからが、相手の本領発揮なのですから…」
 柳瀬の言葉に応じるように、濡れたスーツの男が顔を上げた。
 殴られていたばかりの鼻先から手をのけると、そこが明らかに凹んでいるのが高垣にも見て取れた。おかしい。あれほどの打撲ならば、先に出血があってしかるべきだ。だが、濡れたスーツの男の鼻からは血の雫一つはおろか、血液特有の鉄の臭いもしなかったのだ。辺りに漂うのは、何かの花の香りと、それに紛れる微かな臭いだけだ。
「始まります…」
 不意に柳瀬がそう漏らした。すると、その言葉に反応するように、濡れたスーツの男の体が、大きく脈打ち始めた。しゃっくりでもするように、その幅広い肩がびくん、びくんと大きく上下して、振れ幅が大きくなって行く。そして、高垣が見てもそれとわかるほど、濡れたスーツの男の身体が膨張していく。
「連中は徐々に知恵を付け、最近では人間に紛れようとさえし始めています」
 スーツの布地が引き裂かれていく音を背景に、柳瀬が言葉を紡ぐ。
「連中の体は非常に強靭で、多少水分が抜けたぐらいでは生命に影響を及ぼしません。それに加え、柔軟な骨格は硬骨生物では実現不可能な体格の圧縮を可能とします」
 みしりみしりと、柳瀬の説明を背景に、スーツの下に押し込められていた肉体が膨張していく。そしてただでさえ幅広であった体格が1.5倍ほどに膨れ上がったところで、妙に生白い肌が引き裂かれた。
 皮膚の下から現れたのは、灰色の地肌だった。粘液に塗れているためか、船内の照明を照り返している。
「肉体の圧縮により、浮力調節のために蓄積されたアンモニアが浸出し、刺激臭を辺りにもたらします。この花の香りは、それを誤魔化すためにトイレの芳香剤でも被ったのでしょう」
 サイズの小さいシャツでも脱ぎ捨てるように、身体に纏わりつく皮膚を引きはがし、脱ぎ捨てる。そして、顔面にへばり付いていた皮膚を掻き毟ると、男であった者は柳瀬と高垣を見据えた。
「うるしゅふ…るるふぅ…る!」
 かつて左右別々の方向を見ていた目玉は、完全に頭部の左右へと位置を変え、妙に突き出していただけの額は鋭角的な鋭さを手に入れていた。
 高垣は、男のその姿にある生き物を連想せざるを得なかった。
「高垣さん、これが、私たち人類の敵であるサメです」
 高垣の連想を、柳瀬が言い当てた。
「さ、サメって…ここは船の上ですよ!?」
 予測通りだったとはいえ、高垣は意識の一角に残っていた常識に基づいて声を上げた。
「高垣さんは、サメがどういう生物かご存知ですか?海のギャングとか言われる、肉食の魚以外に何か知ってますか?」
 柳瀬の言葉に、高垣はそれ以上付け加えることができなかった。
「高垣さんの知っているそれが、一般的なサメです。ですが、我々の相手するサメは、あなたの知るサメとはもはや別物です。喰らい、殺し、喰らうためだけに生存し、進化する生物です」
「それで…『アレ』もサメってことなの…?」
「はい」
 頷く柳瀬の前方で、濡れたスーツの男であったサメは、身体にへばり付く皮膚の残骸を全て払い落としていた。
「陸上の無防備な餌を貪る為に特化した、陸上型サメ…その亜種の一つです」
「るぅふるふ、しゅふるぅぅ…」
 柳瀬が説明を締めくくると、サメはそう歯列の間から吐息とも声ともつかない音を漏らした。そして、太いケーブルをより合わせたような屈強な両腕を軽く掲げると、柳瀬に掴み掛らんと足を踏み出した。
「ーっ…」
 柳瀬は低く吐息を紡ぐと、迫るサメの懐に飛び込み、左拳を繰り出した。腹、鳩尾、胸、首元。四連打にサメの体が大きく揺らぐ。
「これで…!」
 そして一撃をサメの鋭くとがった鼻先に打ち込もうとしたところで、柳瀬の動きが一瞬止まった。直後、彼は足を掲げ、サメの腹に蹴りを一つたたき込み、その反動で背後へと跳んだ。
「倒したんですか!?」
 四連打ととどめの蹴りを受けて、大きく背後に退くサメの姿に、高垣が気体の籠った声を上げる。しかし、返ってきた柳瀬の言葉は、あまり明るいものではなかった。
「いえ…どうやら、もう少しだけ手間取りそうです。どうやら、ただの陸上型サメではなかったようですから」
 柳瀬の言葉に呼応するように、サメは通路の天井を仰いだ。すると、その尖った鼻先を突き破り、手のひら二つ分ほどの長さの棒のようなものが飛び出した。先端はとがり、表面には小指の幅ほどの溝がらせん状に彫られている。
「うるぬしゅふ…とぅるくすすどぅるる…」
 サメは、顔を左に向けて、右目だけで柳瀬と高垣の姿を見た。そして、鼻先に生えた角を二人に向けると、何かをした。瞬間、サメの鼻先から生える『角』が、回転を始めたのだ。

ギュゥゥイイイイイイィィィィイイイイイイィィィイイイイ

 高く、低く、唸りを生じさせながら、角が空を掻き回す。その様子は、二人の脳裏にある人工物を否応なしに想起させた。
「ドリルサメ…!」
 柳瀬の言葉は、高垣の連想を端的に表現していた。
「うりゅる、どぅるる」
 サメは、鼻先の角を高速で回転させながら柳瀬に、あるいは高垣に対しても何かを言った。そして、両腕を緩く掲げると、二人の方に向けて足を踏み出した。サメの目的が、高速回転する角で獲物を穿つことは明らかだった。
 サメが緩く背を反らし、柳瀬に向けて頭を振り下ろした。柳瀬は、そのゆったりした頭突きに対し、とっさに通路に並ぶ扉の一つを開いて応じた。
 柳瀬とサメの間に、金属の扉が立ちはだかる。しかし、サメは構うことなく頭を振りおろし、鼻先から飛び出た角を扉に打ちつけた。

ィィィィィギュゥゥゥゥゥルルルルルルルゥゥゥゥ

 甲高い回転音が濁り、金属と塗料の粉末を撒き散らしながら、回転する角の先端が扉を貫通する。
「うぉ!?」
 扉を支える柳瀬は、飛び出してきた角に思わず声を上げ、その先端から顔を背けた。すると柳瀬の頬のすぐ手前で、角の先端が止まった。サメの鼻先が、扉にぶつかったのだ。
「うるる、るくする」
 扉越しにサメが何かを言い、無造作に顔を横に振る。すると、角は金属を真横に引き裂きながら扉から外れ、壁面に深い溝を刻みつけた。どうやら、このぐらいではサメの足止めにもならないようだ。
「や、柳瀬さん、離れましょう!」
 目の前のサメは、お世辞にも俊敏とは言えない。でも、左右方向の動きが制限されたこの通路では、サメに捕まる危険が高まる。
「広い所に出て、相手の背後に回り込めば…」
「残念ですが、できません」
 柳瀬は頭を振った。
「なん…」
 高垣が問い返そうとした瞬間、その理由に思い至った。自分たちの背後、通路の向こうにあるのが何か、思い出したからだ。
「我々の活動は秘密…ですが、それ以前に一般人を危険に巻き込むわけには行けません」
 ゆっくりと迫るサメに向け、柳瀬は身構えた。
「ここで、仕留めます」
 一歩、サメが足を進める。
 一歩、柳瀬が左足を踏込み、取り残された右半身に体重を加える。
 一歩、サメが足を進め、柳瀬に掴み掛らんと腕を伸ばす。
 一歩、柳瀬は左足を軸に、右足を踏み込んだ。
 サメの両腕が、柳瀬に伸びる。
 柳瀬の腕がサメの手の間をすり抜け、その中央、頭部に迫る。
 尖った鼻先から突きだすのは、高速回転する角だ。触れれば一瞬のうちに骨など穿たれることは明らかだ。
 それでも、柳瀬は右手を繰り出した。柳瀬には、回転する角に勝つ自信と、技術があったからだ。
 SPC―Shark Punching Conquer。その名の通りならば、右手は固く握った拳であるべきはずだ。だが、柳瀬の右手の指はまっすぐにそろえられ、中指の先端が今まさに回転する角の先端に触れんとしていた。
 だが問題はない。柳瀬の貫き手もまた、サメの角以上に鋭かったからだ。
 回転する角と揃えられた指の先端、二つが接触した。そして、一瞬の拮抗状態を経て、片方の先端が砕けた。
 それは、サメの角の方であった。高速回転しているとはいえども、その中心軸はほぼ微動だにしていない。そして、回転の中心軸と角の中心軸に微妙な齟齬があったため、柳瀬の貫き手に耐えきれなかったのだ。
 角が引き裂かれ、急には止めきれない回転がその破壊を押し進めていく。
 そして、柳瀬の貫き手はサメの角を圧し割り、ついに根元からサメの頭部に入り込んでいった。
「るしゅ…!」
 柳瀬の手首までが鼻先に入ったところで、サメがびくんと身体を震わせつつ、動きを止めた。
「やった…!」
 ついに、サメを仕留めたのだ。高垣がそう喜びの声を上げるが、柳瀬の顔には緊張が未だ宿ったままだ。
 すると、サメの手が柳瀬の肩を掴み、口を大きく開いた。そう、サメの武器は高速回転する角ばかりではない。むしろ、こちらこそが本領なのだ。
「るぅぅぅぁぁああああああ!」
 手が鼻先の傷口を押し広げ、頭部の奥深くに入り込むのも構わず、サメは大口を開き、柳瀬に噛み付かんと迫った。
「ふぅ…!」
 サメの歯列が迫る。その瞬間、柳瀬は低く息を吐き、未だ自由なままの左腕を操った。直後、サメの顎が勢いよく閉じられる。だが、サメ自身に歯ごたえは無かった。無理もない。サメの顎が閉じたのは、サメ自身の力と意図によるものではなく、サメの下あごから頭部に向けて、柳瀬の左貫き手が繰り出されていたからだ。
 細かな甲殻を生え揃わせた表皮を突き破り、筋肉を引き裂き、口腔に達する。柳瀬の貫き手は、文字通りサメの顎を貫いていた。
「まだまだ…!」
 柳瀬は低く呟くと、両腕を同時に引き戻した。サメの鼻先と顎、右手と左手が肉から引き抜かれ、再度繰り出される。僅かな捻りを加えた貫き手が、サメの体を穿っていく。
 そして、その顎から胸までに十数の穴をあけたところで、ようやくサメの両腕から力が抜けた。
「……」
 歯列の間と、身体にあいた丸い穴から、音のようなものを漏らしながら、サメは仰向けに倒れ込み、完全に動かなくなった。

 フェリーが港についてからも、高垣はただただぼんやりとしていた。海上での、二足歩行するサメとの出来事が、夢のように思えていた。
 だが、彼女はそれが夢でないことを誰よりも知っていた。第一に、船室奥の通路の先に転がっているサメの亡骸と、そこから放たれるアンモニア臭。そして―
「はい、はい…クラスはイタチザメ、陸上型のドリルサメでした」
 今も彼女の隣で、携帯を通じて何かを報告する柳瀬の存在が、全てが現実であったことを物語っていた。
「はい…ええ、お願いします。はい…処置はこちらで…分かりました。では、失礼します」
 柳瀬は最後に一礼してから、携帯での通話を切った。
「お待たせしました」
「うん…」
 柳瀬の言葉に、高垣は低い調子で応じた。
「いろいろ、聞きたいことがあるのではないのですか?」
「正直…あり過ぎてわかんない…何でサメが歩いて回るの?何でそのことを知ってるの?というか、柳瀬さんは何者なの?」
 思いつくままに、高垣は質問を並べた。
「えーと、高垣さんへの返答になるかはわかりませんが、簡単に説明します。私はSPC、サメ殴りセンターのエージェントで、人類の敵であるサメを殴るのが仕事です」
 柳瀬は、高垣に向けて説明を始めた。
「危険なサメを殴って倒す。そして今回、フェリーにサメが紛れ込むという情報が入ったので、私が乗ったんです」
「そう言う話、聞いてないです…」
「我々の存在は、公的には秘密ですから。それに、フカヒレの材料ぐらいにしかならない肉食の魚が人類を狙っていると聞いて、誰が信じますか?」
 柳瀬はそう肩をすくめてみせた。
「でも、現に一人犠牲が出て…」
「彼のことについては、別のチームが対処します」
 いつもの事のように、柳瀬は説明した。
「対処、ね…」
 フェリーに乗りこみ、怪しい乗客を捕まえる日々を送っていた高垣は、柳瀬の口調から今日の出来事も日常の一つだと感じ取っていた。
「では、もうすぐ同僚がやってくるのですが…何か聞いておきたいこととかは?」
「ええとね…あれ…サメに手が刺さってたでしょ?」
 サメに捕まれながらも、十数の穴を穿ったあの瞬間を思い返しながら、高垣は尋ねた。
「あれ、なんなの?」
「あれは、鮫貫きカラテ("Shark Piercing Carate")です」
「しゃーく、ぴあっしんぐ、からて…ね」
 高垣は数度繰り返してから、口の端に笑みを浮かべた。
「変な名前…」
「そうですか?」
「うん。今日の出来事も、柳瀬さんの事も、シャークピアッシングカラテのことも…私がおばあちゃんになっても、きっと忘れないぐらい変ね…」
 日常は変わらずとも、そのすぐ隣に非日常は潜んでいる。高垣は、そのことを実感していた。
「さあ、どうでしょうねえ…」
 だが、柳瀬から返ってきたのは、微妙な言葉だった。
「私は、今日の事なんてすぐに忘れると思いますよ」
「どうかな…だって、ほら」
「高垣さん」
 不意に名を呼ばれ、高垣は柳瀬の方を見た。
「さようなら」
 柳瀬は高垣に向けてそう言うと、手にしていた何かを

「お待たせしました」
「いいですよ、そこまで待ってません。とりあえず、鮫が一体と犠牲者が一名で、通路の奥にいます」
「はい」
「あと、目撃者が一名。初期記憶処理は完了していますから、後はよろしく」
「了解。カバーストーリーを与えます」
「じゃあ、僕はここで」
「お疲れ様でした、エージェント柳瀬」
「いつものこと、です」

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