TDガーデン本日試合なし
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最新の研究プロジェクトはようやく完了した。機密保持契約にサインを済ませると、カーヤ博士は念願の休暇を手に入れた。今日は、夫や娘と一緒に、TDガーデンでシーズン開幕戦を観戦する日だ。着席して、静かに試合の開始を待つ。突如、鞄の中に入っていたカント計数機から警告音が鳴り響いた。ポケットに入っている携帯とほぼ同時に。
現実改変者による襲撃。機密を漏らすな。助けを待て。
彼女はこれまでに受けてきた訓練を思い出した。それが無駄なあがきであるということも。

そして繰り返す。
セクション320を辛うじて守っている人たちは残り少ない。享楽主義者はまたも防衛線を突破して、何人かの女児と一人の男児を攫っていく。夫が鞄を振り回して、暴徒の一人を叩き倒すや否や、袋叩きにされて倒れ込む様子をカーヤは見た。女性の振り絞るような絶叫が聞こえてくる。
娘がいなくなった。
これまでの再生で、娘が暴徒たちに様々な形で蹂躙される光景が脳裏を掠める。実際、そんな場面を実際に目撃した回数はさほど多くはない。なぜならば、その時はすでに頭を割られて血溜まりの中に「死んで」いて声しか聞こえなくなっているか、別のところで暴徒たちに抗うすべもなく犯されているかのどちらかだ。ただ、たまたま目撃したことは、彼女は全部覚えている。それは何回目の再生だっただろうか?享楽主義者と信仰の番人は珍しく手を組んで、セクション320の男を全員殺して、そして……その再生は、やけに長かったように思える。

振り出しに戻る。
全員が再び観客席に戻った。選手たちはまだ入場していない。おおよそ一瞬のうちに、場が荒れ始めた――彼女は無意識的に身をよじって、左に座る娘を抱き締めて守ろうと――そして頭部を強打されて、前の座席へと横転する。やっぱり。右後方に座っているあの若者は、再生の最初に彼女の頭部を強打して、そして彼女の娘と拳銃を奪う癖があるのはとっくに知っていた。最近こそあまりしてこないが――少なくとも、ここ60回ほどの再生ではそうしていなかった。

カーヤはなんとか体を起こして、振り返ってみる。
夫がずっと武器として使っていた鞄を投げ出し、娘の衣服を剥がそうとしている場面が目に映った。「今回だけさ……どうせ振り出しに戻るんだろ?」、と、夫だった人がそう言い訳をした。娘は泣き叫んでいた。後方に座る若者が夫を殴り倒してくれるとカーヤは期待していたが、若者は既にこの場にはいなかった。
体の力が抜け、目の前が真っ黒になった。立ち上がろうとするも、バランスを崩して通路側に倒れてしまい、階段から転げ落ちそうになった。座席の背もたれを掴んでなんとか踏ん張る。誰かが彼女の拳銃を盗んでいき、ついでとばかりに彼女の尻を触った――再生が繰り返されているうちに、銃の位置はもはや周知の事実になりつつあった。彼女は無力に頭を垂れて、TDガーデンの球場内を眺める。

球場の向こう側に、レブロン・ジェームズは虚ろな目をしながら、鉄の欠片で再び自分の腹を切り開いた。それは慣れたような手付きだった。真紅の内臓がどくどくと流れ出す。その隣には、ポール・ピアースが跪いていた。

もう片側の観客席では、十数人がガラスフェンスを飛び越えて、スタンドから次々と飛び降りていった。死んだ人や生きた人が下敷きになるので、後に飛び降りた者は即死しなかった。まだ動ける人はもがきながら近くの鉄器を探そうとした。自らの命を断つために。何も見えない暗闇の中でただ次の再生の始まりを待つために。

球場の中央で、享楽主義者たちがまたも集まってきた。グラウンドの真ん中に、脱がされた服は床を敷き詰めた。喘ぎ声と叫び声に、まばらの泣き声が混ざる。

そう。
TDガーデンでは、肉体のぶつかり合いは常に起こっている。その一部は死をもたらし、一部は快感をもたらす。

まるで地獄のひしめき合いが地上に顕現したかのようだ。
その現実改変者は天才に違いない。カーヤはそう思った。

エリア-CN-07で働いていた頃、同僚に聞かされた現実改変者の拷問手法は数百種類を下らない。だが一万人をスタジアムにただ閉じ込めて、それ以外には何もしないなんて、さすがに聞いたこともない。
しかし、これは紛れもなく、もっとも残酷な手法だ。

彼女がやっとの思いで隣を振り向くと、目の前の光景に心臓を打ち砕かれそうになった。娘はもう反抗しなくなっていた。喘ぎながら、淫らな笑顔を浮かべている。小さな体は、リズムよく上下していた。
これまでと同じように、娘は目を閉じていた。繰り返される再生の中で、娘は大人になろうとしている。女性が経験し得るあらゆる形の悲劇を経験した娘は、僅か14歳の心をもって世界を知り尽くしてしまった。彼女は、もはやカーヤの娘ではなくなっていた。

カーヤは目を閉じた。彼女は知っていることを全部話そうとした。こうすれば、このすべてはすぐ終わるだろう。少なくとも、彼女は楽に死ねる。

話せ。
夫は誰かの名をかすかに呟いていた。
話せ。
娘の喘ぎ声は遠くの山の音のようだ。
話せ。
ガーデンではもう誰も祈らないから。
話せ。
カーヤ。

カーヤ。

話せ。
カーヤ。

カーヤは笑った。
血が口元から口の中へ流れ込む。甘い味だった。
彼女は話さない。なぜならば、やつらの行いは死をもってしても償えないから。

階段の角に頭を思いきりぶつけて自害しようとしたその時、カーヤはこれまでの再生で見たこともない顔を見た。
あの男は沈んだ表情で彼女の席に座っていた。キャメルのボックスから一本のタバコを出すと、タバコはすぐ着火した。男は一口吸って、TDガーデン内を見回すと、視線が彼女に止まった。男の表情は憐れみを帯びているように見えた。
まだ話さないのかい?

カーヤは凄惨に微笑んだ。
遊び飽きた?それとも、彼らがようやく来た?

男は立ち上がり、煙を吐き出す。

ドカーンと、これまでに何回も起爆された即席爆弾は轟音を響かせる。色を帯びた煙が立ち込めた。
カーヤは思わず入り口に目をやった。
閉ざされていたTDガーデンの正面入口には、ぽかんと大穴が入ったのだ。

すべてがなかったことになった。
観客全員は席に座ったまま。試合もまだ始まっていない。
煙はなおも漂っている。完全武装した黒い制服の機動部隊は、現実安定設備を携行し隊列で乱入してきた。観客たちは困惑し、何があったのかと互いに疑問を投げ合った。カーヤは、娘が手で彼女の裾を引っ張ってるのを感じた。

ボストン・イブニング・トランスクリプト 2010年10月26日
本日、TDガーデンにおいて爆発事件があった。即席爆弾と見られる爆発物は、正面入口付近で起爆された。球場の設備に一定の被害があったものの、幸いにけが人はなかった。TDガーデンで行われる予定だった、ボストン・セルティックス対マイアミ・ヒートのシーズン開幕戦は延期される運びとなった。

カーヤは顔を上げた。ピザの置かれている木製のテーブルに夫と娘は座っていた。夫はジョークを言うと、娘は手で口を隠してくすくすと笑った。
カーヤは笑わなかった。彼女は新聞を置き、立ち上がり、コーヒーを持って寝室に戻る。

夫と娘はTDガーデンには行かなかったんだ。
彼女はそう自分を説得しようとした。
いや。
彼女は覚えている。
ボストン・イブニング・トランスクリプトの購読なんて、そもそもしたことがないということを。

彼女は覚えている。彼ら全員が、その場に居たことを。
彼女は覚えている。彼らが如何にして絶望に向き合う立場から、絶望を作り出す立場に転落していったのかを。
コーヒーを机に置き、引き出しを開ける。引き出しの中には、一丁のグロック17が静かに眠っていた。

彼女は覚えている。その場に居た全員の顔と表情を。
彼女は覚えている。彼らの口調と言動を。
遺書を草々に書いて、サインを入れる。

彼女は覚えている。彼らの隠された性癖ですらも。永遠に暴かれることがないものも含めて。
彼女は覚えている。この全てを。既にあった、二度とないこの全てを。
銃を口に入れる。銃身は、氷のように冷たかった。

彼女は覚えている。彼らが人であったことを。彼女が出会ったあらゆる年齢の、職業の、背景の人であったことを。
彼女は覚えている。彼女もまた、人であったということを。

バン。

机の上に突如として現れた財団の勲章を、カーヤはまじまじと見つめた。
つい先刻、銃口から暗紅色のスキットルズが飛び出すと、銃身が真ん中から捻じ曲げられ、プラスチックのようにポッキリと二つに折られた。リコイルスプリングが弾けて、彼女の顔に当たった。

どこからともなく、タバコの臭いが漂ってくる。

耳元に、誰かが囁いた。
「焦るんじゃない、

まだ、終わってなんかいないさ。」

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