鳥が鳴く国の官僚 後編
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日本国憲法15条2項

公務員はすべて国民全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない。


20██年 01月 PM:20:35 臨時混成分隊-つぶら指揮官 御蔵 
宵闇の中を4台の車両が疾走する。連合の兵員輸送車である。VARIOと言うドイツのメーカーがリリースした大型の高級キャンピングカーをベースに、世界オカルト連合の天地PLOTEMY部門が開発したものだ。その長大なキャビンは、搭乗人員12名と装備を積載してまだ余りある。もっともその外見は、青と白に塗装された警察の人員輸送車にしか見えない。これは、連合の認識災害発生装置によるものだった。その背後を、財団機動部隊のミニバンが2台続く。

尾宿及び臨時混成分隊隊長である御蔵みくらは助手席に座り、厳しい顔つきで夜の街路を睨んだ。

────戦力が少なすぎる。

“円”の総員は20人。内訳は、連合側が御蔵を含めて10人、財団機動部隊も-9“都の狩人”第二連隊から抽出した人員が10人、混成分隊の人数はたったこれだけだ。道策の提案で、橋の周辺に機動部隊も-9から2個分隊ほど後詰めの戦力が提供された。橋の側面にある横浜スカイタワーに1個分隊が待機しており、タワー最上層の電波塔頂上に狙撃班が待機している。また、スカイタワーには橋の下層部側面に繋がる遊歩道「スカイプロムナード」が連結されており、プロムナードを通じて援護を行う事が可能だった。しかし、後詰めの部隊を使用するような局面になったとすれば、それは敗北に等しいと御蔵は考えていた。結局、アテにできるのは手持ちの“円”だけだった。

“円”は、もともとは、“夜鷹”の後始末のために編成された部隊である。省庁に対する呪術的な痕跡をGOC側が消去し、事件の目撃者を財団側が記憶処理する、そのために編成された部隊であった。しかし、“円”にはもう一つの目的があった。それは、排撃班と財団機動部隊の連携体制の確立である。

御蔵は、現場で明かせるだけの戦術的運用を財団側に提示していた。あえてそうする事により、排撃班の戦術機動に追随できるだけの戦力を速成する事が御蔵の狙いだった。そして機動部隊員たちは御蔵が考えていた以上に優秀で、すぐに排撃班の作戦に適応した。結果、“円”の作戦行動はスケジュール通りに成功。これならば、“円”に参加した人員を指揮官に据えた上で、さらに多くの混成分隊を短期間で組織することも十分可能と御蔵は判断した。

最終的には、“円”を元に軽快な機動が可能な混成部隊を2個小隊規模まで拡大、その後は日本政府側の正常性維持機関の部隊も巻き込み基幹戦力を確立する。その上で条約軍の圧倒的戦力を背景に、五行結社との交渉に臨む腹積もりであった。御蔵の構想は過大に思われるようにも見えたが、相手は108議会の一角を占める五行結社である。緻密に協働する事が可能な戦力が、是が非でも必要だった。

しかし、条約軍が停止した今となっては、御蔵のプランは画餅同然となっていた。連合も財団も、自らの体内に潜り込んだ「モグラ」の対処を行うべく沈黙を続けている。特に連合側は、五行結社側の情報提供に頼らず自らの手で離脱者テロリストに対処しようと動きつつあった。

部隊を組織できる時間は残されておらず、手持ちの機動戦力はたったの20人、これだけしかいない。条約軍が健在ならば潤沢に使用できるはずの兵器や人的リソースにも手を出すことはできない。頼りとなるのは、この兵員輸送車と、作戦領域を飛行中の連合と財団のUAV群のみ。うち5機は連合の攻撃型UAVだが、これでも充分とは言い難い。これだけの戦力で、五行結社と対峙するのは不安があった。

御蔵は座席からおもむろに立ち上がった。背後の待機室に繋がるドアを開けた。キャビン内部には完全武装の排撃班員及び機動部隊員が、キャビン内の壁に向かって設置された横向きの座椅子に待機している。それぞれが、排撃班員と機動部隊員でバディを組んでしる。御蔵を含むほぼ全員が、認識災害及びNBC対化学兵器マスクで顔を隠す中1人の女スナイパーだけが、青白い顔を晒している。

「そろそろ会合ポイントに到着する。狙撃手、“蛍雪”けいせつ、横田」

“蛍雪”と呼ばれた青白い顔の女が椅子から立ち上がった。ラフに結ったポニーテールが揺れる。彼女は傍のマウントに固定されていた大振りの狙撃ライフルを手に取った。横田と呼ばれた機動部隊員も立ち上がり、同じくライフルを手にする。

「狙撃ポイントに移動しろ」

「はい」
「了解……また“飛ぶ”んですか、いい加減慣れましたけどね」
“蛍雪”と横田はそれぞれ返答を返す。だが、横田はどこか不安げだった。

「お前さん高いところは好きだって言ってたろ?行け」

“蛍雪”が横田の肩に手をかけると、“蛍雪”と横田は蛍のような発光現象と共に消失する。これで良し、と御蔵は頷いた。“蛍雪”は道路に敷設された魔術経路レイライン1を使って転移した。道路は、今までに数多くの人間の血を吸っている。そしてこれらの霊的痕跡は、車両の移動とともに拡散され定着する。道路とは人の手によって作られた魔術経路レイラインでもあるのだ。彼らが“飛んだ”先は、横浜ベイブリッジを支える主塔である。大黒埠頭側から見て、左側に二人同時に転移したのち、右側に“蛍雪”が転移する事になっていた。

突如消失した“蛍雪”と横田を見ても、機動部隊員たちは動じない。御蔵が構築した共同体制の成果がここに現れている。排撃班員は、首都を走る魔術的経路レイラインを使って自在に転移する事が可能であり、機動部隊員とバディを組ませているのは、機動性を向上させると共に、転移に対して適応させる事が狙いだった。

「ここから先は地獄だ、覚悟しとけ」

この車列が向かう先は、五行結社ごぎょうけっしゃとの合流地点だった。場所は、横浜ベイブリッジ上層の中間点である。横浜ベイブリッジは、本牧A突堤と大黒ふ頭を北北東から南南西にを結ぶ860mの橋梁である。上下2層構造となっており、上層は首都高速湾岸線、下層は一般道・国道357号線が走っている。

なお、横浜A突堤側と大黒ふ頭側の高速道路及び一般道は警視庁公安部特事調査局の強力によって交通規制中────“ベイブリッジに対する爆破予告”と言うのが欺瞞情報カバーストーリーだ────現在は橋の上下共に一両の車両も通っていない状態である。

横浜ベイブリッジ中間は袋小路も同然。だが、御蔵には、彼らに対して物理的な経路の封鎖など無意味だと言う事が分かっていた。公安調査庁に対するテロの際、彼らは血液で描かれた転移術式を用いて現場を強襲した。恐らく、今回も似たような方策があるのだ。気に入らない────御蔵は内心で呟く。

御蔵たちは、大黒埠頭のジャンクション側から横浜ベイブリッジに向かっている。ベイブリッジの中間点から見れば、大黒ふ頭側は北北東、この方角は、陰陽道で言う所のうしとらの方角にあたり、別名「鬼門」とも呼ばれる。本牧A突堤の方向からエントリーすれば、本牧A突堤側は南南西、ひつじさるの方角であり、こちらは「裏鬼門」にあたる。

どちらの方向から侵入しようとも、橋の中央で待ち受ける五行結社は呪術的に不利な状況となる。まるで、どこからでも攻めて来い、と言わんばかりのポジョニングであった。だが、相手は陰陽道の秘術を極めた五行結社である。おそらく、なんらかの罠を張っているに決まっている。

御蔵はヘリもしくはHALO降下、または魔術的経路用いた強襲作戦も検討はしていた。しかし、分隊員全員を輸送できるだけのヘリを用意する事はできなかった。これは条約軍が停止している事に直接の関係があった。そして、対呪術的装備を持った布陣を整えるのであれば、兵員輸送車を使うほかないという結論に至ったのである。

「そろそろ鉄火場だ。2号車、3号車のバックアップ班は橋のたもとで停車、命令あるまで待機」

車列は大黒ジャンクションの交通規制を既に通過し首都高速湾岸線に入る。そろそろ横浜ベイブリッジに差し掛かる頃合いだった。御蔵は手首の戦術端末を叩くと、御蔵の視界に現場上空のドローンから送られてくる3次元マップがオーバーレイ表示された。現在のヒューム値とEVEの閾値は概ね正常だった、ベイブリッジ主塔の左右に輝点が見える、これは“蛍雪”と横田の二人だ。どうやら彼らは無事主塔頂上に転移できたらしい。これで準備は完了した。

御蔵は助手席に戻ると、前方を睨みつけた。兵員輸送車はベイブリッジに侵入した、数分もしないうちに会合地点へと到達するだろう。その刹那、前方に何かが見えた。それは────全高5mほどの赤いゲート、大鳥居だった。見ところ、鳥居は何か不明な機構で光を放っているように見えた。橋上にそんなものはないはずだった、しかし鳥居はどんどん近づいてくる。

「スピードを落とせ。奴ら、仕掛けて来やがっ────」
気がつけば、車体は鳥居の下を潜っていた、あたかも鳥居が車体を吸い込んだかのように思われた。御蔵は速度計を見る、車体は時速90km台をキープしていた。その間にも、前方には鳥居、また鳥居。鳥居が現れては消えていき、その出現と通過の速度は上がってゆく。あたかも地面が勝手に動いて車体を運んでいるかのようだ。

気に入らない、と御蔵は思い、そして大声で叫んだ。
「スピードを上げろ!」

車体の速度は90km台から100を数えた、しかし体感速度は車体の限界速度を上回り、さらに上がってゆく。御蔵は、この仕掛けをなんとなく察した。恐らくは“縮地”だ。地面のレイラインを伝って行う短距離の空間跳躍。五行結社は橋の上にその通路を設置した。そして、車列を飲み込んだのだ。この空間が何なのかも、御蔵には見当が付いていた。車体の速度が上がるたび、淡く発光する鳥居が恐るべき速さで視界を流れてゆく。何千本、何万本もの鳥居を通過したかのように思えた。そして、車体は突然停止した。速度計は0になっていた。

「おい、どうした」
御蔵は排撃班のドライバー、“大蚊ガガンボ”に声をかける。

「アクセルをベタ踏みしてますが……動きません、いや……アクセル自体が固まってます」
「つまり、ここが本当の会合地点ってわけか……全員降車!」

御蔵は無線をONにして、全車両に通達した。御蔵はライフルを背負い、スライドドアを開いて路面に降り立つ。それと同時に違和感、足元のブーツの感触はアスファルトのそれではない。整然と敷き詰められた石畳だった。周囲を見渡すと、頭上には大鳥居。その奥に、若干背の低い鳥居が幾千列も続く鳥居のトンネル続く。鳥居には五芒星の紋が付いた提灯が吊るされており、石畳の左右には延々と連なる石灯籠が、石畳の上にほのかな明かりで照らしていた。


20██年 ██月 首相官邸オペレーションルーム 機動部隊も-9第二連隊臨時指揮官 道策常道

「臨時混成分隊“つぶら”、GPSタグの反応消失!」
「作戦領域内でEVEが上昇しています!」

副官の鎌倉と“高駒”が口々に叫ぶ。御蔵たちの車両を示す輝点が、モニターから消失した。私はオペレーション・ルーム内の大型モニタを眺めながら、今後の対策を思案した。現状、橋の上で戦闘行為は行われていない。事実、UAVのカメラ映像はベイブリッジを驀進する兵員輸送車と、それが消える瞬間を捉えていた。

「後詰めの部隊に連絡を取ります」
「やってくれ」

私は鎌倉に頷きつつ、今後の対策を考えていた。後詰めの部隊を動かすには、時期尚早に思える。今のところ、状況を見守るほかない。

「こちら司令部、“円”からの応答が途絶えた。コードFに備えよ、繰り返す、コードFに備え待機せよ────」

鎌倉がバックアップ班と連絡をとる声がセンター内に響いた。


20██年 01月 臨時混成分隊-つぶら指揮官 御蔵 現在地不明

御蔵は、つい先ほどまで乗っていた車体に触れる。確かにそこにある、そして戦術端末の戦闘モードを起動。周囲のEVEを確認する。この空間はに恒常的に高い濃度のEVEが流れている事が分かった。財団の機動部隊員が所持している戦術端末から、ヒューム値の情報が流れ込んでくる。ヒューム値も恐ろしく低かった。つまり、ここは何が起きてもおかしくはない空間、という事になる。

御蔵は背後を見た。降車した分隊員が、全員整列している。どうやら欠員はいないようだ。しかしスナイパーが本隊と切り離されたのは痛いところだった。御蔵はハンドサインを上げて進もうとして、手を下ろした。ここは奴らの庭だ、ここで静粛性を維持したところであまり意味はない。

「行くぞ。分隊、警戒しつつ前進」

御蔵はそれだけを告げると、ライフルを構えて姿勢を低く取り前進し始めた。その背後を分隊員達が続く。石灯籠と提灯の明かりは隊列を照らして長く黒い影を生み出した。鳥居の奥から風が吹いてくる、提灯がほんのわずかに揺れ、その刹那、強風と共に何かが視界を掠めた。それは、5cmほどの長方形の和紙だった。気がつけば、何百枚もの和紙が紙吹雪のように分隊に吹き付けた。御蔵はそのライフルを肩から外し、飛んできた一枚を素早く風の中から掴み取る。すると、途端に風は止んだ。和紙には、以下のような文言が和筆で書き付けてあった。


後白河院編蒐 梁塵秘抄二句神歌・五一四

稲荷なる三つ群烏あはれなり
昼は睦れて 夜は独り寝


「野郎、舐めやがって……」

御蔵は片手で持った和紙を噛み噛み破った。口中に残った紙を吐き捨てると、再びライフルを構えて前進を再開する。御蔵の後方に続く分隊員は、御蔵の背中から漂う濃密な怒気に晒された。何故この男が怒っているのかは、尋ねない方がいい。彼は本能的にそう判断した。前進を開始してから5分、行けども行けども鳥居と石灯籠が続くだけだった。御蔵は片手を上げ、おもむろに分隊を停止させた。

御蔵は大きく息を吸い込んだ、そして腹中に貯めた気を発散させた。

「ここに居るのは分かってんだ、さっさと出てきやがれ!“オモダル”!」

発せられたのは雷鳴のような怒号であった。それに答えるかのように、鳥居の奥から奇妙な人影が見えた。
ずしり、と地鳴りがした。鳥居をくぐり、身長2.5mはあろうかという大男がこちらに向かって歩いてきた。

「我が主人をお呼びになられたか。なれば貴殿が、御蔵殿でございますな」

肉付きの良い大柄な体躯に全時代的な紋付の羽織袴を纏っていた。顔は歌舞伎役者の如く目鼻立ちが秀でており、顔には絶えず柔和な笑みを浮かべていた。そして、それの周囲に従うは毛むくじゃらの獣。耳は長く、目は赤く光っている。魍魎と呼ばれているKTEの一種だと、御蔵は気づいた。

男は突然地面に蹲踞し、恭しく頭を下げた。
「本日はこのような場所にはるばるご足労頂き、感謝に絶えませぬ。謹んでご案内いたしおり候」

御蔵は懐から片眼鏡を取り出し、対象の驚異度を判定した。極めて驚異度の高いKTEだった。この男は、否、このモノは……御蔵が知る限り、ありとあらゆるモノを「隠す」事ができる。こいつは、人間の目が瞬く一瞬の世界に身を置いている存在なのだ。

「────あんた、今はどこに罷り在るんだ?」

御蔵は男にそう尋ねた、顔を上げた男は柔和な笑みを浮かべつつ答えた。

「唯今は橋の上に罷り在る、すなわち橋乃上悪左衛門はしのうえ あくざえもん

悪座衛門、と名乗った男はおもむに片膝立ちになり、数歩引き下がった。
「なればご案内致しますゆえ、こちらへ」

くるり、と背を向けた悪座衛門は魍魎を引き連れて歩き出した。歩くたび、地面がずしり、と揺れる。
その後ろを、御蔵と文体が続く。御蔵はあくまで、ライフルの照準を悪座衛門から外さなかった。

「分隊長、一体どういう事になってるんだ?そもそもここはどこだ?あいつは誰なんだ?」
御蔵の背後を歩く分隊員の一人が、御蔵に無線を通じて話しかける。この男は財団の機動部隊から抽出した人間の一人で──名は笠置と言ったか──御蔵は数瞬置いて、応えた。

「無駄口を叩くな!」

若干の怒気を含んだにべもない回答に、笠置は口を閉じざるを得なかった、だが笠置の傍にいた一人の排撃班員が口を開いた。

「隊長はおかんむりみたいだから話しかけるな、代わりに俺が教えてやるよ」
排撃班員の一人、“二口”が声をかけた。アナウンサーのような明瞭な発音と美しい声色。この男は通常、人的諜報ヒュミントを担当しており、尾宿の中ではもっとも多弁な男でもあった。この男の声が無線に響き始めるや否や、御蔵は内心で舌打ちをした。しかし、“二口”は気にせず喋り続けた。

「お前、遠野物語とおのものがたりは読んだことあるか?」
柳田邦夫やなぎだくにおの?ああ、ある。でもそれが────まさか、ここは“迷い家”2だって言いたいのか?」
「よく勉強してるな、その通りだ」

“二口”は得々と応える。どうやら暇つぶしにはなりそうだ、と“二口”は思った。ここでむやみに緊張を保ったところで益はない、自分たちの周囲には敵しかいない事は明白であり、戦端を開けば全滅は免れ得ない。御蔵もそれは承知の上だろう、それに、財団の人間との交流は決して無益ではない、“二口は”そのように考えた。

「でも、迷い家ってのは山奥にあるもんだろ?なんでこんな都会の片隅に」
魔術経路レイラインを繋げば距離は関係ない、それに、俺たちの前を歩いてる奴。あいつがいれば、どこにでも迷い家が作れるだろうからな……」
「一体なんなんだ、あいつは」

笠置は現在の状況に絶えられなくなりつつあるようだった。ともなれば、緊張をほぐしてやるのも──仮初めだが──戦友の勤めだ。東京なら怖いもの知らずの“都の狩人”シティボーイも、田舎の怪談には恐れをなすと見え、それが“二口”には妙に愉快に思えた。

「じゃあ、泉鏡花は読んだことあるか?草迷宮だ」
「そりゃ……待ってくれ、それじゃ、俺たちの前を歩いてるあいつは」
「到る所の悪左衛門、奴がその本人だ」

横田の脳裏に、かつて読んだ草迷宮のワンシーンが蘇った。人間が瞬きをするほどの一瞬、その一瞬の世界に永遠の世界があり、妖怪たちはそこに住まうと云う。その狭間の世界で妖怪を率いる頭目こそが、悪左衛門。“悪”の一字は人を呪うものではなく、人を避けるという意味を持つ。常世で人に出会ったならば避けて通り、悠々と狭間の世界に消えてゆく。仮にアレが本物の悪左衛門だったとするならば、この奇妙な空間があるのも頷くより他はない。

「だが、あれはフィクションじゃないのか?」
「俺たちにとっては現実ノンフィクションだよ。泉鏡花の著作には事実が含まれている」
「冗談だろ?泉鏡花はただの小説家だ、俺たちはきっと認識災害に被曝してるんだ」

横田はまだ、信じる気はなかったようだ。どうやら財団の教育過程には、異常政治史の科目はあっても異常文化史の科目はないらしい。ならば、せっかくだから一つ講義でもしてやろうと“二口”は考えた。それを聞いていた御蔵は、この男の演説癖が首をもたげた事に気づき、あからさまに大きな舌打ちをする。が、“二口”は黙るつもりはなかった。

「昔この国の超常機関は蒐集院が仕切ってた。泉鏡花は蒐集院研儀官の一人だよ。知らなかったのか?」
「嘘だろ……あんた、俺を担いでるんじゃないのか?」

ずしり、と足音が止まった。悪左衛門は、振り向きつつ、にこりと笑った。

「鏡太郎どのの書き物かな?あの方のお陰で、拙者それがしも巷間に名を────失礼、無駄話でござった」

ははは、と呵々大笑しつつ、悪左衛門は再び前方に向き直り歩を進める。鏡太郎とは、泉鏡太郎3の事だろうか、と横田は考えた。しかし、これもまた真偽のつかぬ事ではある。横田は防護マスクとヘルメットを脱ぎ捨て、眉に唾を塗りつけたい気持ちになった。それを横目に、“二口”は悠々としている。

「無知ってのは怖いね、世界オカルト連合は超脅威に関する基礎知識を拡大せんとあらゆる努力を行うんだよ」
「じゃあ、柳田邦夫はなんなんだ?研儀官か?」
「近年の研究では、柳田邦夫は蒐集院の傭人ようにん、フィールド・エージェントだと言われている。嘘だと思うなら、財団のデータベースを漁ればいい」
「その情報が、俺のセキュリティ・クリアランスに開示されているならな」
「クリアランスね……全く、財団の連中と来たら、どんな些細なことにも口を開けばセキュリティ・クリアランス、そればっかりだ。教育の機会を奪っているとしか思えないね。そもそも超常文化史というものは────」
「無駄口を叩くなと言ったのが聞こえなかったのか?」

おしゃべりにたまりかねた御蔵が、二人を黙らせにかかった。ドスの効いた声には、先ほどよりもさらに強い怒気が込められていた。“二口”と横田は口を閉ざし、再び奇妙な行軍は続いた。

鳥居の先に、ひときわ強い明かりが見えた。

パチパチという火が燃える音と、松脂の燃える匂いが漂ってくる。

そして、一行は鳥居を抜けた。

その先には長々と続く石畳。左右に幾十もの篝火と、大袖おおそで4付きの胴丸どうまる5に身を固めた武者の一団が並んでいる。

兜のしころ6、両肩を覆う大袖おおそでと7つに別れた下半身を覆う前草摺まえくさずり7は、左から青・赤・黄・白・黒の五色の絲威いとおどし8が編み込まれ、それが上から五列続く耳坐滋みみすそご威色目おどしいろめ9で彩られていた。五色の絲は、木・火・土・金・水の五行に対応しているのであろうと思われた。鎧の下の直垂ひたたれには、白木綿の生地に金糸で縫い取られた五芒星、晴明桔梗紋があちこちに散る。武者はそれぞれ大刀、長巻、鉞、槌、矛、長刀を持ち、顔を覆った鉄の面頰だけが、平安風の様式にそぐわない。

御蔵たち混成分隊は、石畳の上をしずしずと進んでゆく。石畳の前方には、流造ながれづくりの様式の拝殿が聳え立っている。大きさは、明治神宮の拝殿に相当するほどの見事なものだった。そして、拝殿の前には烏帽子を被った鎧姿の男が悠々と床几に腰掛けており、その周囲左右を10人ほどの武者が大弓を構えて護衛している。それぞれ、草摺りの色は五色であったが、大袖の色だけは黄威で揃っていた。これが、財団を廃滅の危地に陥れた「土軍」の精鋭である。そして────床几に座った男こそ、「土軍」総帥、“オモダル”であった。

その顔色は雪のように白く、その目鼻立ちは少年を思わせ、人間離れした美しさを持っていた。オモダルはおもむろに床几から立ち上がる。悪左衛門が引き連れていた魍魎2匹は突然跳躍し、どこともなく姿を消す。悪左衛門は一礼すると進み出で、オモダルの側に片膝立ちで控えた。

「ご苦労」

それを見たオモダルは頷きつつ、視線を御蔵へと向けた。御蔵は無言で、オモダルの頭部にライフルの銃口を重ねる。その刹那、「土軍」の武者は弓弦を指にかけて引き、鏃を分隊に向けた。無論、これはただの矢ではない。財団海軍-丁("グレートウォール") の艦艇の装甲板をも穿つ、恐るべき威力を持った強弓である。

「お久しぶりですな、御蔵どの。未だに連合の走狗を勤めておられるとは、御忠勤なにより」

オモダルは嘲りに満ちた笑みを浮かべつつ、御蔵に視線を投げた。それはまるで、不出来な子供を見つめるかのような、哀れみに満ちた目だった。御蔵は、この男──否、そもそもヒトであるかどうかも怪しい──と何度か会合を持っていた。結社が連合のコントロールを脱して身勝手な軍事行動を取った際、連合側の特使として赴く事が専らである。オモダルの姿は会うたびに違っていた、ある時は老爺、妙齢の美女、あどけない小児、あるいは龍虎の姿を取る時もあった。これがオモダルの方術なのか、人外の存在なのか、そもそも“これ”は本当にオモダルなのか、御蔵にはわからなかった。

「お前のツラにはもううんざりしてんだよ、あの紙切れは何のつもりだ?」
「さて────そもそも御蔵殿は、梁塵秘抄などご存知ではありますまい?」

再び嘲りの笑み、御蔵は一呼吸置いて口を開く。

「稲荷なる三群烏────これは伏見稲荷の上・中・下三社に客を当て込んでたむろっていた遊女あそびめの事を云う。そしてお前はそれを連合・財団・日本政府に喩えているんだろ?昼は睦れて夜は独り寝とは、超常組織の反目の事だろう?要するに、『お前たちを心から嘲笑っているぞ』と言いてえわけだ……ガキみてえな物言いだがな」

何があはれなり、だ。と御蔵は憎々しげに呟く。それをみたオモダルは、おお、おお、などと言いつつ目を見張り、柏手を打つ。頬からは満足げな笑みが溢れるが、それでもなお嘲りの気は消えていない。

「おや、これは失礼。粗にして野だが卑にあらずとはまさに御蔵殿の事を云うのですな」
「ふざけてんのかこの野郎!」

雷鳴のような怒号が再び響き渡る。御蔵の体内に蓄積された、攻撃的な気が、大気を振動させた。
それに対してオモダルは、ただただ嘲笑の笑みを浮かべるのみ。

「よりにもよって連合おれたちを淫売に例えやがったな……いい加減にしねえと、107組織抱き込んでてめえら潰すぞ!」

「どうぞ、お出来になるのならいつでも。ですが、連合は戦争を恐れているのではなかったのですか?」

ぱん、とオモダルが柏手を打つと、拝殿の廊下から二人の男が歩み出る。一人は鬼の面を被った戦闘服の男、そして今一人は東方朔の面を被った背広姿の男。

「連合は何を恐れている?」
「決まってるだろ、戦争だよ」

仮面の男二人は冗談めかした滑稽な口調で、会話を始めた。これは、御蔵と道策が官邸地下のオペレーション・センターで交わした会話に他ならなかった。

「この国において、我らの知らぬことなどないのです。虫がいれば使役してその耳を借り、ネズミがおればその目を借り、鳥がいればこれもまた使役して鳴き声で人を驚かし動かす。強がりはおやめになられては?」

それは御蔵にとっては、ある意味予想した通りの答えだった。曲水がモグラ狩を始めた理由、そして自分たちをあえて孤立させた理由が、これだった。

「そうそう、あの中に出入りする人間の中にも、我らの式がおりますので……愉快!」

オモダルが嘲笑をあげると、周囲に居た武者たちもそれに釣られて笑い声をあげた。オモダル
の傍に侍る悪左衛門だけは、笑い声をあげず、柔和な笑みを浮かべている。笑い声の合唱の最中、御蔵たちだけが笑わず、その場を微動だにしない。そして、その嘲笑の幔幕は銃声によって引き裂かれた。

御蔵の放ったフルオートの一連射が、拝殿の廊下で滑稽劇を演じて居た鬼の面と東方朔の面の男を引き裂き、血袋に変えた。すると、仮面を被った演者は毛むくじゃらの魍魎の姿となった。赤黒い血が廊下に広がってゆく。

分隊の左右を囲む武者が手に持った武器を構え、御蔵の正面に侍る武者たちは弓弦をさらに強く引き絞った。それよりも早く、分隊の面々は前後左右にライフルを構える。前列に居たものは片膝立ちになり後方の分隊員の射線を確保しつつ、武者に照準を合わせた。ずしり、と地鳴りがするや悪左衛門が立ち上がって進み出で、御蔵と武者の間に割り込むや、見事な元禄見栄の姿勢を取る。悪左衛門が石畳を踏むや、ずしり、とまた地鳴り。

しばらく

悪左衛門は掌を御蔵に向け、元禄見栄の姿勢のまま動かない。武者たちも武器を構えて塑像のようにその姿勢を止めた。ぱん、とまた柏手が鳴ると、悪左衛門は再びオモダルの傍に控える。

「せっかくのもてなしをご理解いただけぬとは、誠に残念至極です」
「そこまで暇じゃねえ、本題に入ろうぜ。離脱者の情報ゴー・トゥを寄越せ」
「お仕事熱心な事ですな。悪左あくざ、これを渡して差し上げなさい」

オモダルは懐紙を取り出すと、それを悪左衛門に渡す。恭しく跪いてそれを受け取った悪左衛門は、それを持って御蔵の前に進み出て、懐紙を御蔵に差し出した。御蔵はその懐紙を手に取って開く。何重にも折りたたまれた懐紙には、五行結社離脱者の情報が和筆で描かれていた。本名、潜伏している機関、支援者とその繋がり、性格と行動傾向などの詳細なプロファイル、そして──和筆で描かれたとは思えぬ詳細な人相書きは、視線を合わせると立体化してその人相と体型が視界に浮かび上がってくるようになっていた。これは、人間に害を与えぬほどの極微な認識災害を利用したものだろう。そして、懐紙には現在その離脱者が生存しているかどうかさえ書かれていた。その離脱者の殆どは、既に死亡していた。残る離脱者は2名だった。

「あれほど気を持たせた割に、随分と素直じゃねえか?どうしてお前らは会議を退席した?」
「我らにとって大した事ではないからです。遊びたがっていた童が、屋敷を抜け出したほどの事」
「手間をかけさせやがって、だがこの情報があれば条約軍は元通りだ……本当に何を考えてやがる?」

オモダルの口元に、半月型の笑みが浮かんだ。
「童は戸口でお待ちのようですぞ、御蔵どの」
「そうかい、そういう事か。わざわざ教えてくれてありがとうよ」
御蔵の貌に、獰猛な笑みが浮かぶ。

オモダルの策は二段構えだった。まず会議を離脱して連合に混乱を産み、条約軍を停止させる。そして離脱者の情報を餌に御蔵か道策を呼び出す。離脱者が結社の意図に反して動こうとやる事は同じなのであれば、オモダル自身が手を下すまでもない。離脱者は御蔵たちを殺し、機構にさらなる混乱を産み出すという筋書きだ。

「そうそう、道策とかいう小役人とも遊びたがっているようです」
「ほう、そりゃいい事を聞いた……」

道策の身も危ういようだった。であれば、急いで戻るに越した事はない。だがしかし、たかだかそのために、108議会の足並みを乱すような事を、五行結社がやるだろうか?御蔵の脳裏には疑念が渦巻く。

「いいのか?“夜鷹”の次はお前らだって話も出てるが」
「我らはあなた方に協力をした。青天白日、疚しいことなどない。極東部門の議会にも改めて伺う予定です。それに、所詮“夜鷹”は鳥の一羽に過ぎません、厄介な鳥が後に控えておりますので────“星鳥”」
「ほう……」

オモダルが呟いた言葉に対し、御蔵は不審げに言葉を返す。“星鳥”とはサンコウチョウの呼び名を持つ鳥に他ならないが、それ以前に何らかの呪術的な意図でもあるのかと御蔵は訝しんだ。

「既にこの国の中枢に、星鳥の声は響いております。我らはその様をただ見守るのみ。せいぜい殺し合い、互いに力を削いで頂かねば困るのですよ────卑しい稲荷烏いなりがらすどもが」
「言ってやがれ、それより、気づいてねえのか?拝殿が燃えてるぜ」

御蔵の言葉の通り、拝殿の一角が燃え出していた、炎の舌は見事な流造の屋根を伝い、拝殿の木材を舐め取るかのように燃え広がってゆく。オモダルは背後を振り返り、徐々に燃え殻と貸してゆく拝殿を見遣った。

「悪いな、さっきの一連射に曳光弾が混じってたみてえだ。さっさと消した方が良くねえか?」

無論、曳光弾程度で魔術的防護を施した五行結社の拝殿を燃やせるはずもない。御蔵が撃ち放った弾には、5発ほどの対異常存在用焼夷弾が混ざっていた。この弾頭には奇跡論に基づいて召喚され、縮小化された火蜥蜴が生きたまま鉛に封入されている。それを対象に打ち込むことにより、息を吹き返した火蜥蜴は、怒りに任せて対象を灰と化すまで燃やし続ける。この弾頭は異常存在に対し多大な焼夷効果が期待できた。そして今、弾頭はその効果を十全に発揮したのである。

「火遊びとは児戯、ですな。遊びたいのなら、外で遊ぶが良いでしょう」
「言われなくても出て言ってやるよ、最後に俺からの返歌でも聞いていけ」


後白河院編蒐 梁塵秘抄四句神歌・三九七

見るに心の澄むものは 
社毀れて禰宜もなく 祝なき
野中の堂のまた破れたる 


赤い炎に照らされながら、御蔵は朗々と梁塵秘抄10を読み上げる。その声は、狡猾なオモダルの意図を跳ね返さんとする硬い意志を感じさせた。これ以上余計な事をすればお前たちの社は悉く廃墟となるだろう、そうなったらどれほどに清々しいか、御蔵はそう言い放ったのだ。しかし言葉よりもこの炎こそが、御蔵にとっての返歌であった。

「もう充分です、これ以上はもう沢山!悪左、この者たちにお帰り遊ばすよう」
傍に控える悪左衛門、懐から扇を抜くや夏の朝顔が咲くが如くにパッと開き、御蔵たちに示す。

く、お帰りあれい!」

悪左衛門がそう叫ぶと、燃え上がる拝殿と悪左衛門、オモダル、鎧武者の一団が、がどんどん遠景に遠ざかってゆく。御蔵たちは微動だにせぬが、足元の石畳は御蔵たちを恐ろしい速さで後方へと運んでゆく。そしてどこまでも続く石灯籠、幾千も続く鳥居が視界から遠ざかってゆき────御蔵たちは、気づけば兵員輸送車の中に居た。

御蔵は腕の戦術端末を起動する、視界の隅に映る現在時刻は20時40分。会合時間より5分しか経過していない。胸ポケットには、懐紙の感触がある。御蔵は幻覚を見たわけではなく、御蔵たちは確かにオモダルと会合を果たしたのだという実感があった。戦術端末に緊急入電、オペレーションセンターの道策からだ。御蔵は通話回線を開いた。

「どうした、何があった?無事か?」

道策の声が響く、自分たちのビーコンが突然消失したのだから当然の反応だろう。

「俺だ、会合は完了した」
「君達は五分間、この世界から消えていたぞ。五行結社との会談は果たしたんだな?」
「ああ、情報提供もあった。だが気をつけろ、奴らの手下はまだそっちにもいるらしい」
「“そっち”とは、具体的にはどこだ」
「官邸内か、さもなきゃ紀尾井町だ。とにかく気をつけろ、情報を送信する」
「了解、確認する」

御蔵はツールボックスから、スキャナを引き出す。懐紙をセットし、暗号化回線を用いてデジタルデータをオペレーションセンターへと送信する。数秒で送信完了、これで任務は9割がた終わりだ。このオリジナルの書面は108議会に証拠として提出する必要がある、だがひとまずは官邸へと帰還せねばならない。

しかし、御蔵の脳裏にはオモダルの言葉があった。童は戸口でお待ちのようですよ────

つまり、離脱者は既にここにいる。襲撃に備えて周囲を偵察せねばならない。御蔵は戦術端末の情報を視界にオーバーレイ表示させつつ、会合予定地点上空を飛行中のドローンの偵察情報を確認する。横浜ベイブリッジの立体構造が表示され、周囲のEVEの閾値が緑・赤・黄色の三色で簡易表示されている。現在の閾値は平常グリーン、否、突然立体図が赤く染まった。兵員輸送車の前方に、高い閾値を持った超常存在がジャンプアウトしてくる兆候が見られた。橋に繋がるレイラインを通じて、何かが流れ込んでくる。

その時、御蔵の耳に歌が響いた。


後白河院編蒐 梁塵秘抄四句神歌・三五九

遊びをせんとや 生まれけむ
戯れせんとや 生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さえこそ揺るがるれ


御蔵は片眼鏡型のVERITASを装着すると、フロントガラスを通して前方を確認。視覚増幅機能と暗視機能により、兵員輸送車から100メートル離れた前方に、“それ”が見えた。

狩衣を纏い、虚無僧のような深編笠を被った身長170cmほどの人影。
そいつは片手に錫杖を持ち、梁塵秘抄を高々と歌い上げながら、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。

「来やがったか、戸口でお出迎えとはよくできた童だ」
「何があった?」
離脱者テロリストを1名視認、これより戦闘体制。切るぜ」
「了解した、幸運を祈る」

通話が切れた。気楽に言いやがって────御蔵はひとりごちつつ、状況を再確認した。

梁塵秘抄はは広く高く空間を渡り、御蔵たちの耳に届いた。妖術者の声はそれそのものが力を持ち、遮断することは難しい。あの歌は呪術的行為そのものだ、それを許した形になる。御蔵は内心歯噛みする思いだった。

─────野郎、やってくれるじゃねえか。

妖術者は周囲の空間を『観測』する事により、生命エネルギーであるEVEを操り、世界に自ら望む現象を産み出す。今回行われたのは『見立て』だ。これは「共感呪術」とも呼ばれる。妖術者が対象を何かに見立てる事により、その意味を書き換える儀式的行為だ。『観測』を終えた呪術者は、自ら声を発して自称に対する観測結果を告げる。それにより、現実の余剰次元であるEVEは妖術者が望む任意の現象を発生させるのだ。

あの歌は、その前振りの段階である。妖術者は周囲を観測し、見立て、状況を素早く定義した。その定義の中身を判定する事は非常に難しい、敵が行使する妖術の様式さえわかっていれば対処のしようもあるが、相手の正体は掴めていない。オモダルが離脱者の能力を伏せたのも、御蔵たちを退っ引きならぬ状況に追い込むための策か。

御蔵はこの梁塵秘抄を読み解きつつ、状況を観察し続ける。そして違和感を覚えた。
梁塵秘抄四句神歌・三五九番。この歌は、遊ぶ子供を穏やかに眺める大人の視線を歌ったものだ。しかし、離脱者はオモダルから“童”と呼ばれており、さらに離脱者は御蔵たちに向けてこの梁塵秘抄を放った。これは、離脱者本人からしてみれば、これから子供にも等しいお前たちと遊んでやるのだぞ、と宣言するに等しい。あからさまな挑発である。だが、それだけではない事に御蔵は気づいた。御蔵の装着したVERITASは、周囲の空間に流れ込むEVEのさらなる増大を告げていた。

────もう充分だ、いい気分で歩いてくる馬鹿を放置する手はない。

「こちらアルファ、“蛍雪”、横田、聞こえるか」

御蔵は回線を開き、狙撃班に連絡する。

「“蛍雪”、目標確認ターゲット・インサイト
「横田、目標を確認タンゴ・インサイト

二人とも臨戦態勢を整えている、御蔵は決断した。

「撃て」

“蛍雪”と横田はほぼ同時に発砲した。1秒も待たずして、離脱者は脳漿を撒き散らして地面に転がるはずだった。
だが、人影は地面を滑るように移動し、弾丸を避けた。

「野郎、“縮地”を……」

敵もさる者、たった独りとはいえ五行結社の構成員である。対象は魔術経路レイラインの位置を把握している。御蔵たちを空間異常領域に引きずり込んだのと同じ手管で、自らも移動する事が可能だった。だが、射撃を予測したその手段は如何なるものか、御蔵には判断がつきかねた。御蔵の視界の中で、対象は深編笠を掴むと、勢いよく投げ捨てた。短く刈り込んだその髪と目鼻立ちから、対象の性別は男だと思われた。

男の両目の上には、横一文字の傷跡が走る。
これを見た御蔵は、この男がどのようにして弾丸を見切ったのかを察した。

盲僧もうそうか」

盲僧とは、天台宗に存在した僧侶の一派である。所謂「琵琶法師」と呼ばれるものたちであり、日本各地の村を廻っては地の神を治め奉る「地神経」を唱える事を生業としていた。連合の資料によれば、このものたちの中には盲目でありながらも、目明き以上に周囲の状況を的確に察知していたものも一定数存在していたと言う。近年の研究により、盲僧は妖術者の集団であったと言う事が明らかになっている。盲僧は「空」に在る「色」を見分けていた。仕組みとしては、周囲に高濃度のEVEエネルギーを放射しつつ、そのアスペクト放射を脳内の空間識に反映し、3次元空間把握が可能なのだ。だからこそ、狙撃手の位置も弾丸の軌道も読む事ができたと言うわけだ。

アスペクト放射で周囲を把握しつつ、魔術経路レイラインを用いて素早く移動する。縮地については、地の神を知る盲僧であれば使えて当然、と言っていいものだろう。おそらくこの男は、この男は五行結社で学んだ道術に、天台宗の秘教を混ぜ込んだのだろう。仏教と導術の習合を見るに、五行結社に合流した蒐集院残党の流派を汲んでいる可能性が高い。そしてあの目の傷は、術を行使するために自ら目を潰したのだ。ならば、機構に対する敵意もまた、推して知るべし。

御蔵の視界の中で、男の口元が笑みの形に歪んだように見えた。

しかし、御蔵は怯むことはない。向こうは一人でこちらは一個分隊。そして、妖術者を相手にするための装備も用意してある。この兵員輸送車がそれだった。魔術的な影響を極力排するための呪術的装甲が、この車体には施されている。妖術者が何を望もうと、この車両がカボチャの馬車に変わることはない。相手が現実改変者タイプ・グリーンならばそれも可能だろうが、妖術者はできてせいぜい現実を歪める事しかできず、そして御蔵たちにはなんらの影響もなかった。

そして、対妖術者にもっとも有効とされている兵器もこちらにある。まずは火力で圧倒し、そこに切り札を叩き込めばいい。御蔵は即座に決断し、分隊全員に降車の命令を出しつつスライドドアを勢いよく開き、アスファルトの上に降り立つ。御蔵は周囲に集まってくる分隊員を確認しつつ、車体の左右に分隊員を配置する。対象との距離は200mほど、ライフルの射程範囲内。前進位置の分隊員は総勢10名。残りは後方で支援要員として待機させた。

「各員、兵装使用の制限を解除。フルオートで射撃開始。」

御蔵は引き金を引く。情報の漏洩を考慮し、減音機サプレッサーを装着した銃口が、圧搾空気のような音を上げて弾丸を吐き出す。銃列から白い硝煙がたなびくが、離脱者は再び地面を滑りつつ、50mほど後退。弾丸は虚しく空を裂きアスファルトを抉って火花を上げた。しかしそこへ狙撃班の未来位置予測射撃、銃弾が離脱者に迫る。

った────離脱者に照準を合わせた“蛍雪”と横田は確信した。

離脱者の頭部が弾け飛び、血と脳漿を撒き散らす。胸部の中心に開いた穴からは大量の血が流れ出し────それらは忽然と消え、後には紙の人形ひとかたが宙を舞う。空蝉うつせみ。橋上に居た男は身代わりの式だった、いつの間に入れ替わったものかは判別がつかない。しかし、御蔵は冷静だった。

「敵はベイブリッジ下層、一般道に転移した。バックアップ要員の各バディは即座に下層に転移!」

横浜ベイブリッジは上下二層構造。ならば、離脱者が逃げた先はそこだ。御蔵はそう判断した。離脱者の本体は橋の下層で、悠々と式を操って板に違いない。命令を聞いたバックアップ要員達は、魔術経路レイラインを使用して下層に飛び、周囲を索敵し始める。しかし、対象は見つからない。せいぜい、空間を歪曲して隠れ蓑にしているのだろうが、炙りだすのは時間の問題だろう。

これくらいならば、ハナから予想の範疇。そして、これでおしまいだ────

「UAVの使用を許可、“堤体”射出用意」 

御蔵は無線でそれを告げると、兵員輸送車内のドライバー、“大蚊ガガンボ”は手元の戦術端末を操作する。作戦領域上空を飛行していた連合の無人機が3機反応を返す、武装システムは信号を受信し応答を返した。ドライバーの視界に周辺を飛行中のドローンと3次元マップが視界にオーバーレイ表示される。さらに、ベイブリッジ周辺を流れるレイラインとEVEの流れが表示される。EVEは赤い奔流となって橋の上に流れ込んでいた。ドライバーは、UAVのシステムを視界に呼び出す。全システムオンライン。

これはロシアが開発した無人攻撃機“コルサル”をベースにしている。翼幅6.5m、胴体長4.2mと非常にコンパクトなサイズであり、フレームには各種センサ・電子機器アビオニクスを搭載。総重量200kgの機体は、高出力のピストンエンジンと機体背部のプッシャープロペラによって時速120kmで巡行可能である。特筆すべきは、胴体フレーム下部に搭載された通称複眼All-seeing Eye。これは高性能なハイパースペクトルカメラに、レーザ、アンテナ、赤外線暗視装置、EVE測定装置、などのセンシング機器の複合機器であり、優秀な対地マッピング・3Dイメージング機能を持つ。御蔵たちが作戦領域を詳細に把握できるのも、この“コルサル”に依存するところが大きかった。

現在、現場上空を飛行しているのは5機。これらの機体は相互にデータリンクを行いつつ、自律的な群制御を行う事が可能だ。ベースから発進したのちもオペレータのコントロールを受ける事なく、一糸乱れぬ編隊飛行を行なっている。なお、この機体にはEVE測定装置以外にも、連合が誇る超常技術が詰め込まれている。例えばそれは、GOCデータネットワークとAR拡張現実を融合させた、擬似思念制御システムだ。

“大蚊”は戦術端末を戦闘モードに設定。“大蚊”の視覚は遥か上空を飛行するUAVの複眼All-seeing Eyeとリンクする。これは、連合極東部門で訓練を受け、侵襲型脳内インプラントの適合手術を受けた“大蚊”にしかできない芸当である。無人機の制御権を得た“大蚊”は、全機のセンサと複眼を用いて攻撃地点を見下ろルック・ダウンした。5機のカメラの合成映像、さらに、各種センサ類の情報が視野に反映され“大蚊”の視界内に広がる。橋に流れ込むEVEの流れ、御蔵たちの現在位置などがたちどころに確認できた。敵の位置は現状不明、“大蚊”はUAVを編隊から解き、橋の東端と西端を攻撃目標地点に指定する。2機が機首を下げ、攻撃体制に移行。

視界の片隅に2機の視点、二つのウィンドウがワイプのような形でが表示される。複数の機体と視野を共有する事によりいくつもの眼が体に生えたかのような、奇妙な感覚が“大蚊”を襲う。訓練を受けたとはいえ、この感覚にはいつも慣れないと“大蚊”は思った。天地PLOTEMY部門の技術者たちは得意げにこれを「全観眼」全てを見そなわす“プロビデンスの目”などと言っていたが、それを使用する物理PHYSICS部門の排撃班員たちは、人間を昆虫化させる蜻蛉の目玉がいいところだと思い、“複眼”と呼んでいた。

全兵装ALL ARMSチェック」
“大蚊”の視界に、“コルサル”に搭載された兵器のチェック・リストが表示される。

ALL ARMS CHECK OK

AE2-AGM-1 RDY

AE2-AGM-2 RDY

AGM-114-1 RDY

AGM-114-2 RDY


SYSTEM CHECK[]

画面上に全兵装が待機状態を示すアラートが表示された。
コルサル翼下のハードポイントには、全長3mほどの長大な金属製の針が2本設置されている。これが、対妖術者排撃装備“堤体”である。正式名称はAnti EVE Embankment Body、通称A$E^2$B。そして、直接攻撃用のAGM-114ヘルファイアミサイル。これが、“コルサル”に搭載された武装の全てである。

もっとも、強力な破壊力を誇るヘルファイアミサイルは、飽くまでも最後の手段。分隊が壊滅してもなお、敵を排撃できなかった時のためのものだった。橋梁の上にいる自分たちの位置を考えれば、使用する事はまずもって論外である。妖術者を排撃するための手段は別にあった。

2機の“コルサル”は橋の北端及び南端、さらに言えば、橋の左右両端に“堤体”を撃ち込む手はずである。“堤体”は端的に言えば、路上に巨大な針を撃ち込み、魔術的経路レイラインを寸断するための兵器だ。

A$E^2$Bは、大まかに行って2段に別れたタンデム弾頭としての構造をもつ。全長3mのケーシングの半分はロケットモーター・推進剤・弾体加速用の炸薬であり、もう半分が弾体、A$E^2$B本体である。

発射されたA$E^2$Bはロケットモーターで飛翔、弾体と攻撃地点の距離が200mを切った時点でセンサが作動、電気式雷管エレクトリック・パーカッションが炸薬に自動点火し、そのガス圧で弾体は攻撃地点に向けて発射される。弾体が目標地点に打ち込まれると、底部のジャッキが作動し、弾体は2mの長さに伸長、先端が4つに割れ、アームを伸ばす。アームは風車状に回転を始め電磁波を発振する。電磁波にはあらゆる宗教の祝詞と呪詛が乗せられ信号として発振される、これによって周囲のEVEは弾体に吸入され空間を安定化。さらに、弾体をフェンスラインのように横並びに打ち込むことで、不可視のEVE防波堤を構築する。これにより、魔術的経路レイライン寸断、流入してくるEVEを遮断する事が可能だった。

そしてこれこそが、“堤体Embankment Body”と呼ばれる所以である。

妖術者は世界を観測する事によって世界を歪める。そして、そのために必要となるのが生命エネルギーたるEVEである。EVEは“現実の余剰次元”を流れる流体、または量子と定義されている。そのため、妖術者が観測を行い、現実を歪曲するたびに世界は再び確定し、周囲のEVEもそれと同時に現実の一部へと還り、消費される。そして今、離脱者は魔術的経路を用いて橋の上に不活性EVEを流入させている。そこにA$E^2$Bを打ち込む事により経路を遮断する事が可能だった。EVE流入の源を断てば、妖術者は現実歪曲を行使できなくなり、無力化されるのだ。

“大蚊”は射撃準備態勢に移行、ここまでが1秒にも満たぬ数瞬の出来事である。これは、“大蚊”の脳内インプラントが処理可能な情報を急激に増大させたためであった。“大蚊”の視界内にあった二つのワイプ映像がさらに4つに分裂し、攻撃予定地点が表示される。そこで、“大蚊”の耳に、否、その場にいた全員の耳に、再び歌が響いた。


後白河院編蒐 梁塵秘抄四句神歌・四三八

ゐよゐよ蜻蛉よ 堅塩参らん
さてゐたれ 働かで


遥か高空にいたはずの“大蚊”の視覚は、兵員輸送車の運転席へと戻っていた。急いで手元の戦術端末を起動し、無人機の稼働状況を確認する。

Terminal #001


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Welcome, Striker
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Korsar-1 OUT OF CONTROL
Korsar-2 OUT OF CONTROL
Korsar-3 OUT OF CONTROL
Korsar-4 OUT OF CONTROL
Korsar-5 OUT OF CONTROL
ALL UAV OUT OF CONTROL


20██年 ██月 首相官邸オペレーションルーム 機動部隊も-9第二連隊臨時指揮官 道策常道

「作戦領域のEVE閾値、さらに上昇!」
「“コルサル”-1から5、GOCネットワークからの上位命令に対する応答がありません!」
「全UAV、制御不能!」

現場をモニタリングしていた“高駒”が叫ぶ。鎌倉がオペレータ席の端末に駆け寄り、ターミナルの画面を睨む。OUT OF CONTROLの文字が、無機質に状況を告げていた。

「このエラーは?」

鎌倉は静かな口調で“高駒”に質問する。

「安定した飛行が不可能な際、例えばUAVが高速の乱気流に巻き込まれた時に表示されるわ」
「わかりました、機体のモニタリングは可能ですか?」
「可能です、現在モニタリング中。鎌倉くん、これを見て」

モニタ上に、“コルサル”の機位と対地高度、センサが受け取った周囲の対気流速度と機体の受けているモーメントが表示されている。鎌倉はそれを素早く読み取った。

「全機正常、ですね」
「ええ、全ての機体は問題なく飛行を続けているわ」
「“高駒”さん、状況を大型モニタに」
「了解」

UAVの飛行状況がモニタ上に表示された。私は現在の状況を“高駒”に確認する。

「UAVは、敵に奪われたと考えていいのか」
「ええ、おそらくは」
「鎌倉くん、コードF実行」

鎌倉は耳元に装着したインカムのスイッチを入れ、バックアップ班との通話回線を開いた。

「聞こえるか、コードF。繰り返す、コードF。直ちに撃て!」
「了解」

横浜スカイタワー屋上に待機したバックアップ班は、XM25lawsグレネードランチャーでクラスA記憶処理剤を充填したガスグレネードを投射する。コードFとは忘却Forgetの意だ。
通信が切れる。さらに、御蔵への通信回線を開く。

「援護射撃を開始する」
「了解、記憶処理剤バカグスリをぶち込んでやれ」

妖術者への対策として財団が用意し得る対策として有効なのは、記憶処理である。妖術者は現実改変者と違い、意識を観測行為に向けることによって奇跡を行使する。ならば、その意識を数秒でも断つ事ができれば、相手を無力化する事は容易だった。だが、御蔵も道策も、“堤体”とUAVのシステムを過信していた、今の惨状は、それを突かれた形となっている。その事実を、私は噛み締めざるを得なかった。

刹那、オペレーターと私はモニタを見つめて息を呑んだ。点滅するアラートが、その場にいた全員が恐れていた事態を告げていた。

FIRE

Korsar1 SALVO

AGM-114-1 RDY

AGM-114-2 RDY

A2E-AGM-1 RDY
A2E-AGM-2 RDY

RDY TO FIRE[]


臨時混成分隊-つぶら狙撃手 横田███ 横浜ベイブリッジ 主塔部頂上

風もなく静かな夜だと横田は思った。しかし、ここの頂上は肝が冷える。弾が飛んで来ない安全地帯、高い場所は好きだとは言ったが、どうやって降りるかもわからないような場所に置き去りにされるなどとは思ってもいなかった。横田をここまで転移させたあの女────“蛍雪”についても、あまり好きになれない。

蒼白な肌に整った目鼻立ちは美人と言って良かったが、あれはどこか死人を思わせる顔だと横田は思う。連合にはあんな女しかいないのか、とぞっとする思いだった。“蛍雪”は、主塔頂上────大黒埠頭側から見て左側────に横田と転移した後、あろうことか、自らは主塔頂上から勢いよく跳躍、何もない虚空を蹴りながら反対側の主塔頂上まで移動した。

あまりに人間離れした動きに、横田は感嘆した。狙撃能力にしても、“蛍雪”の能力はズバ抜けていた。横田はライフルに暗視スコープを装着していたが、あの女はそれらしきものを用意しているようには思えなかった。だが、あの女は抜け抜けとこう言い放った。

「狙撃のタイミングは私に合わせてください。私が頭を、貴方が心臓を」

そして、“蛍雪”は言った通りに標的の頭を撃ち抜いた。おそらく、あの女は跳躍能力以外にも異能を備えている。魔術経路レイライン用いて、敵の移動範囲を予測し、そして自らも、何らかの方法で敵を視認している。おそらくあの女に、暗視スコープは必要ないのだろう。

────こいつは、本来なら敵だ。できれば対手にはしたくない。

だが、この仕事ももうすぐ終わる。聞けば、連合は妖術者に対する必殺兵器を所持しており、それをこれから使うという。それならば、あとはそれを待てば良いだけの話だった。横田はそう思っていた。楽な仕事だった、これでサイトに帰ってゆっくり休める。

安穏として横田の思考を、御蔵の無線が切り裂いた。

「UAVが奪われた!狙撃班、どこでもいい、退避しろ!」

衝撃が来た、耳から音が消失する。そして湧き上がる炎。突然片足の感覚を喪失する。意識はスローモーションとなり、横田は自身の右足が切断されている事を悟った。否、片足が明後日の方向に飛んでいくのを見た。しっかりと踏んでいた主塔のコンクリートの感触はなく、体は空中に投げ出されている。大量の出血と、そして、自信を抱える柔らかな感触。横田は傍を見ると、そこに蒼白な顔をさらに真っ白にした女の横顔を見た。────“蛍雪”

なぜこの女が自分を助けるのか、その理由については、横田はなんとなく察していた。

────“狙撃班”、どこでもいい、退避しろ!

横田は、“蛍雪”が己を救った理由を悟った。

この女はあくまでも、命令に従ったに過ぎない、だが────

彼女の体の中心には、巨大な金属製の棘が突き刺さっていた。どこまでも落下する感覚。海面が近づき、横田の意識は消失した。


臨時混成分隊-つぶら指揮官 御蔵 横浜ベイブリッジ上層

光の華が橋上に炸裂した。ベイブリッジ主塔頂上部分で爆炎が湧き上がり、そののちに鼓膜をつんざく轟音が響き渡る。コンクリートの細かな破片が、頭上から降り注いでヘルメットを叩く。鉄とコンクリートで強固にに造成された主塔はそれでもなお強靭さを誇り、幾本かのワイヤーが分断されたのみであった。

“蛍雪”と横田からの応答はない、分隊は狙撃手を失った。

だが、御蔵たちは橋の上から逃げるわけには行かなかった。敵がUAVを奪取した以上、これを放置すれば被害はどこまでも広がるだろう。特に、ここから北東に位置する扇島には世界最大規模のLNGタンクが存在する。

離脱者がその気になれば、タンクをミサイルで破壊し京浜工業地帯を火の海にする事も容易い。
それが、この国にどれほどの経済的なダメージを与え得るか、御蔵はしたくもなかった。

御蔵は気づいた、コードF────エアロゾル記憶処理剤ガスグレネードの援護射撃が来ない。
背後を振り返ると、バックアップ班が待機していた横浜スカイタワーが爆散するのが見えた。

御蔵は咄嗟に判断する、兵員輸送車には対空射撃も可能な無人砲塔が一基、ルーフトップに格納されている。UAVが奪われた今、あれで無人機を撃墜する他ない。

「“大蚊ガガンボ”、無人砲塔だ!対空射撃────」

頭上で炸裂音と風を切る音が聞こえた。御蔵は、咄嗟に判断する。次の狙いは、おそらく車両だ。

「車両から離れろ!」

御蔵は分隊員と共に兵員輸送車から退避する。金属が擦れるような音、御蔵は背後を振り返る。兵員輸送車に、一本の長大な金属製の針、A$E^2$Bが突き刺さっていた。フロントガラスは鮮血で染まっている。中にいた“大蚊ガガンボ”がやられた────離脱者テロリストは、まず狙撃手、次いで車両のドライバーを狙った。攻撃手段を封じた後に、足を潰したのだ。適切な標的の選定と言えた。

見ると、兵員輸送車の屋根に“離脱者”が立っていた。竹の杖を頭の上でゆっくりと振り回しつつ、歌う。


後白河院編蒐 梁塵秘抄四句神歌・四三八

簾篠の先に馬の尾より合わせて
かいつけて
童冠者ばらに操らせて遊ばせん


兵員輸送車の上で朗々と梁塵秘抄を詠じる離脱者は、竹の杖を頭上でゆっくりと振り回す。頭上には巨大な鳥の影、否、あれは行動を下げた“コルサル”だ。UAVは杖に呼び寄せられるように、悠々と空を舞っている。

御蔵は即座に反応し、撃つ。だが離脱者は素早く飛びのき、兵員輸送車から飛び降りて姿を消した。

さらに、歌が響く。


後白河院編蒐 梁塵秘抄四句神歌・四◯八

舞え舞えかたつぶり
舞はぬものならば 


20██年 ██月 首相官邸オペレーションルーム 機動部隊も-9第二連隊臨時指揮官 道策常道

私はモニターを見つつ、現在の状況を観察していた。いや、そうするほかなかった、というのが正しい。

「これを見てくだい。エラー発生前のEVEの伝播状況です」

“高駒”が端末のキーを叩くと、端末上に作戦領域の3Dモデルが表示される。橋を中心に。高濃度のEVEが発生している事がわかる。発生源は離脱者テロリストだ。3次元モデルのタイムラインが、エラー発生時の状況に切り替わる。離脱者を中心に、EVEがドーム状に広がり始めた。その伝播距離は3次元方向に3km、この半球状の領域は、無人機の高度にまで達していた。

「離脱者はEVEの領域を広げて無人機を包み込み、“観測”を行ったものと思われます」
「つまり、共感呪術で無人機を何かに見立て、それを操る呪を発したと」
「はい、それ以外には考えられません。しかし、こんな事が……」
「そもそも、これだけ大量のEVEに干渉して、無事に済むものなのか?」
「いいえ。本来妖術者はEVEに干渉する際、可能な限り慎重にそれを扱います。簡単な現実歪曲を行っただけでも、バックラッシュで自身が黒焦げになりかねない事を知っているからです」

バックラッシュ、EVEに干渉を行った際に発生する反作用効果である。妖術者がなんらかの奇跡を行使した際、それに伴って膨大なエネルギーが発生する。妖術者はバックラッシュを可能な限り抑止し、エネルギーの暴走から身を守る。私は奇跡論については素人同然だが、この程度の知識なら持っていた。しかし、作戦領域内でバックラッシュは発生していない。これは────私の脳裏に、かつてCIが行っていた工作員に対する改造手術が浮かんだ。

「恐らく、体内になんらかのEVE制御用インプラントを埋め込んでいる。カオス・ゲリラ側と提携していたのであれば、なんらかの改造手術を受けていてもおかしくはない」

SCP-3033は、人間から苦痛という感覚を奪い去ることに成功していた。ならば、バックラッシュを制御しきれているのも頷けた。だが私は思う、あれは死兵だと。

体内インプラントでバックラッシュを抑え込めば、内臓を始めとした各器官へのダメージは無視できないものとなるだろう、もとより生還は望めない。たとえ御蔵達を斃したとして、離脱者もまた悲惨な死を遂げるのは必定である。この執念と憎悪は異常だ。そもそも、これほどまでの犠牲を自らに強いる意図とは、一体何なのか。だが今は、目先の状況に対応せねばならない。

「警視庁より入電、特事課の敷島しきしま理事官が、APSATからの支援を行うと言っています」

鎌倉が、さらなる問題の発生を告げた。

日本の各超常機関は、それぞれが対アノマリー部隊を所持している。
警視庁特事課のAnti Paranomal Special Asult Team、APSATもその1つだ。

私は、敷島の言葉を思い出していた。

────可能であれば マル被被疑者は我々でヒットする、ご了承ください。

状況の混乱を察知した敷島は、事態に介入する好機と見做したのだろう。だが、しかし────あまりにも無謀すぎる判断と言えた。それに、今ここで兵力の逐次投入を行っても結果は変わらない、死人が増えるだけだ。

「状況が混乱している、コミット不要と伝えろ」
「了解」
「鎌倉くん、大黒ふ頭に増援要請を」
「了解。も-9第二連隊第一中隊に通達、大黒ふ頭へ急行して記憶処理を実行せよ」

鎌倉がすかさず指示を飛ばす。

まず、大黒ふ頭と本牧埠頭の一般市民全員に記憶処理を行わねばならない。そしてそのためには、都内各所で待機中のも-9第二連隊の戦力を動かさねばならなかった。動かした分、都内の兵力h手薄にせざるを得ない。だが、事ここに至った以上、“つぶら”の作戦行動を秘匿裏のまま終える事はもはや不可能であり、さらなるヴェールをかける必要があった。“円”の生還も絶望的だろう、だがしかし、可能性はまだある。

────用意していた二の矢を射つ頃合いだ。

私は、も-9の行動を支援するべく複数人のエージェントを実動要員として確保している。
彼らは現在、都内各地で活動中。そして、御蔵たちが窮地に陥った時の支援要員に2名が配置に付いている。

私はポケットからスマートフォンを取り出した。素早くダイヤルし、秘匿回線をコール。

「私だ、二人ともよく聞いてくれ。君たちが必要になった」


歌が響く間、5人ほどの分隊員が兵員輸送車の横を通り背後を確認する。だがそこには何もいない。

「どこだ!出て来い!」


後白河院編蒐 梁塵秘抄四句神歌・四◯八

馬の子や牛の子に
蹴ゑさせてん
踏み破らせてん


その間にも歌は響いている。分隊員の視界に、何かが勢いよく路面を転がってくるのが見えた。バックアップ班が乗って来た、ミニバンだった。恐ろしい勢いで路面を転がってくる。

「分隊長────」

分隊員が脅威を伝えようとしたその時、数トンクラスの兵員輸送車が5cmほど宙に浮き、勢いよく水平に回転した。その直撃を受け、5名の分隊員が腕や足、首を不自然な方向に曲げ、あるものは橋の外へと吹き飛ばされ、あるものは路上に肉塊と化して勢いよく転がった。

路面を転がりながら御蔵たちに迫ってくる。

「橋の下層に転移!」

御蔵は兵員に告げつつ、魔術経路を用いて下層に転移した。
彼らをあざ笑うかのように、歌が響き続ける。


後白河院編蒐 梁塵秘抄四句神歌・四◯八

まことに美しく舞うたらば
華の園まで遊ばせん


橋の下層に転移した御蔵は、周囲の人数を確認する。転移したのは自分を含め5人。そして、ブラボーとチャーリーの別働隊が御蔵の周囲に集まってくる。分隊の総数は総勢13人に減っていた。

「奴は上だ。いいか、この人数でもう一度上層まで転移だ。今度こそ────」

コンクリートを蹴る音が、頭上から響いた。離脱者が地面を滑りながら疾駆してくるのが見えた。全員で発砲、離脱者は銃弾を受け、十数枚もの“人形ひとかた”を派手に撒き散らして消失する。人形は離脱者の姿に変化する、3人、4人、5人、10人────その群が、御蔵たちに向かって駆け出してくる。御蔵はハンドサインで自身の前面に4人分隊員を配置。射撃体勢を取り、さらに発砲。発火光マズルフラッシュの光の中で、離脱者の式が一人、また一人と血霧を吹いて穴の空いた人形へと変わってゆく。幾本もの薬莢が落ちる音が、コンクリートを叩いて耳障りな金属音を発した。

全て、空蝉うつせみ────ならば本体は?

上方に気配、御蔵が天井を見ると逆さまになりながら離脱者が、竹の杖を片手に天井を疾駆してくるのが見えた。
トリガーに指をかけた瞬間、離脱者は天井を飛び降り、分隊の列に踏み込んだ。

離脱者は分隊員の列の間を駆け抜ける。刹那、4人の分隊員のジャケットが勢いよく裂け、鮮血が吹き出した。
それぞれ首や心臓に当たる部分を切り裂かれ、3人が即座に絶命。縮地による高速移動と、仕込み杖による見事な居合の業である。まだ息のあった分隊員は、息も絶え絶えにライフルの台尻で打ちかかる。だが、離脱者は右手に血に塗れた刀身を閃かせ、後方の分隊員を串刺しにした。

離脱者は御蔵の気配を、その鋭敏な感覚とEVE放射によって察知。勢いよく踏み込んで斬りかかる。御蔵は咄嗟にライフルで斬撃を受け止める、両腕のが痺れるほどの重い斬り込みだった。御蔵の背後にいた分隊員は、御蔵を援護せんと駆け寄るが、離脱者はさらに力を込め、血刀を押し込む。切っ先が御蔵の喉に届くかに見えたが、御蔵はそれに抗う。

「俺ごと撃て!躊躇するな!撃て!」
「これで、もう9人────情けないな小僧ども、もっと遊んでやろうと思うたのに」

離脱者は、御蔵を嘲けるように血刀を押し込みつつ言った。

「てめえ、随分と手の込んだ真似をしてくれたな。ミサイルを使えば、俺らを一掃できたはずなのによ」
「術者なれば、術を尽くして殺すのが礼儀というものだ。しかし翻ってお前たちは、児戯に等しい」
「そうかよ」

銃声。離脱者の腹から血が噴き出した。

御蔵はライフルに当てていた右手に幾倍もの力を込め、左手を離して素早く腰のホルスターから拳銃を抜き、至近距離で射撃した。血が滴り落ちる音が、アスファルトに反射した。

離脱者は顔に笑みが浮かべた。

「ああ、今のは良かったな。だがどうする、蜻蛉トンボがまた来るよ────」
「総員、上層に転移!」

FIRE

Korsar2 SALVO

AGM-114-1 RDY

AGM-114-2 RDY

A2E-AGM-1 RDY
A2E-AGM-2 RDY

RDY TO FIRE[]


20██年1月 大黒パーキングエリア 会社員 田所██

年明けの大黒PAは、全てが光り輝いていた。ありとあらゆる改造車・スーパーカーが揃う祭典。もちろん、誰かがカネを取って開いてるわけじゃない。

どこかの誰かがこれを初めて、今でも続いてる。ただそれだけ。
ここに集う者中で共通するのは、自らのクルマを愛するという事。ただそれだけ。

まあ、柄の悪い奴らが大挙して押し寄せて来る事もある。無駄にエンジンを空吹かししてイキる奴だっている。でも、そんな奴らは警察にでも任せておけばいい。それよりも今日は、このクルマの饗宴を楽しむ事だ。ベイブリッジは爆破予告だとかで通行止め、だから、普段は口うるさい警察も、俺たちがここに止まるのを無言で見逃している。もちろん、騒ぎが酷くなれば出て行かなくちゃならないだろうが、大黒に留まる時間が増えるなら、爆破予告も大いに歓迎できるってものだ。

そう言えば、今日はスゲエのを見かけた。俺が愛車のセリカで大黒に乗り入れてしばらくした後、漆黒の影がPAに走りこんできた。

俺は目をみはった、そいつは間違いなく往年のスーパーカー、ポルシェ911カレラ4Sそのものだったからだ。しかしそいつは、大黒に来るにはいかにも控えめな様子だった。大黒に集まる奴らのクルマはどれも気合が入ってる、例えば車体の改造だけじゃなく、バックランプをクールにライトアップするようにしたり、アニメキャラの絵をラッピングした痛車なんかもいる。

でもそいつは、誰かに見られるのを嫌がるように、さっさとパーキングに向かっていった。良く整備されているのはわかる、エンジンの音だってにイカしてた。それなのに、だ。

渋い!俺はそのカレラに惚れ込んだ。
まあ、俺のセリカほどじゃないが、それでもそいつはイカしてた。そいつをドライビングしてるドライバーのセンスにも。だってここには「俺のクルマを見てくれ!」って奴が大勢いるのに、そいつは周りの目を避けるみたいに無愛想な感じで走った。あれだけのクルマを持っておきながらだ。そこが最高にシビれた。だから俺は、あのカレラを探した。

あたりをうろついて数十分、俺はそのカレラをようやく見つけた。PAのエリアの一番端、人目につかないような場所に停車してた。俺はあのクルマのドライバーと話がしたかった、クルマとそのセンスを賞賛したかった。まあ、相手の迷惑にならない程度に。俺はカレラに近づいたが、そこには先客がいた。

真っ黒なライダースーツに身をまとったそいつは、何かのホルスターみたいなのを身につけていた。腰には何かを収納するポーチ、デザインはどこか軍用っぽくもあった。イカれたコスプレイヤーか何かか?とも思ったが、どうもそうじゃないらしい。そいつが跨っていたのは、GSX1100S KATANAだったからだ。クロームシルバーとブラックに塗装された鋭角的な機体は、獰猛な荒馬を思わせた。

カレラにカタナ、この取り合わせは俺の心を鷲掴みにした。
俺はおずおずと、カレラとバイカーに近づいた。

「あ、どうも。カタナですよねそれ?めちゃくちゃカッコいいっすね!」
「どーもッス、こいつの良さがわかるとは嬉しいね。で、どうかしました?」
「いや、実はそのカレラのドライバーさんを探してて。めちゃくちゃシブかったから」
「ああ、別に留守じゃないッスよ。なあ?」

やけに気さくに応対してくれたバイカーは、カレラに向かって話しかけた。どうやら、ドライバーはまだ、運転席コクピットにいるらしい。俺もドライバーに話しかけようとした瞬間、轟音が響いた。

音がした方向を振り返ると、横浜スカイタワーの頂上が赤く燃え上がっていた。
あれは、爆発?嘘だろ、何かの間違いじゃ────また爆発音、今度はベイブリッジで火の手が上がる。

「え、え?なに、何なんだよ?」

今度は、橋の上からバスみたいにデカいクルマとミニバンが、橋の上から転げ落ちていくのが見えた。
派手な水しぶきをあげながら、クルマは海に沈んでいく。

困惑する俺をよそに、ライダースーツの男は電話で誰かと話をしていた。ライダーは、ぶっきらぼうだがやけに丁寧さが混じる口調で対応していた、まるで職場の上司に応対するかのように。

それから、カレラのウィンドウの中からも声が聞こえた。女の声だった、でも、まるでカーナビの自動音声がしゃべっているように聞こえた。一体、彼らは何者なんだろう?そうこうしているうちに、再び爆音が響く。

ベイブリッジの方向が赤く光っていた。まるで何かが爆発したみたいだ。しばらくすると、橋の下層、国道357号線が一部分吹き飛び、崩れ落ちていくのが見えた。一体何が起きているんだ?まるで映画の戦争みたいだ。

バイカーはカタナのエンジンを吹かして風のように走り出した。そして、セリカも俺を綺麗に避けつつ、派手なエンジン音を上げて疾駆する。そのコンビの走りっぷりに、俺は今の滅茶苦茶な状況も忘れ、惚れ惚れと見送っていた。

ここまでが、ついさっきまでの話。

そして今は、警察だか自衛隊だかわからない、銃を持った奴らが突然大挙して現れ、大黒PAを完全包囲した。あちこちにブロックが置かれて出ていくこともできない。

そしてドライバー全員が車から引き出されて、それから何かのガスが、ガス?なんだ、これ?


横浜ベイブリッジは、下層部を破壊されながらも、依然としてそこに在る。

ミサイルの直撃を喰らえば虚しく肉片と化す生身の人間と比べ、この橋は馬鹿馬鹿しいほどの強靭さを持っていた。特筆すべきはその主塔である。主塔の高さは172m。幅は上部35m、下部46m。主塔の太さは上部4m、下部6m、基礎部分の幅54m×56m、基礎地中部分の直径10m、長さ75m。ケーブルの最大直径は17.5cm。この橋は主塔とケーブルから成る長大なトラス構造を持ちつ。そのため、一部分が破壊されようとも、橋全体に破壊が及ぶ事はない。たとえこの世の終わりが来て人が滅びようとも、この橋は残るに違いない──────御蔵にとっての問題は、ここが自分たちの墓標になりかねない事だ。

橋の上層に転移した御蔵は状況を確認する。9人いた人員は、今や御蔵を含めたったの3人だけ。落伍した6人は転移に間に合わなかったのだろう。ミサイルの直撃を受け、ベイブリッジ下層部分と運命を共にしたようだ。

────クソが、やりやがったな。

離脱者を放置する事は許されず、そして御蔵も、ここまでやられた以上絶対に引き下がるわけには行かなかった。
御蔵は分隊員を確認する。排撃班は“二口”、機動部隊は“二口”と喋っていた笠置。生き残りはたったのこれだけ。

勝機はほとんど無に等しい、だがやらねばならない。御蔵は前方を見据えると、ふわりと離脱者が出現した。
腹から大量の血液とそれから何かの青みがかった液体────おそらくパラ・テクの冷却液──が吹き出している。
だが、そいつの顔は笑っていた。御蔵もまたそれを見て、笑みを浮かべる。

離脱者は笑みを浮かべたまま恐ろしいスピードですうっ、と橋の彼方へと後退してゆく。

そして、再び歌が響く。


後白河院編蒐 梁塵秘抄二句神歌・四九一

さ夜ふけて 鬼人衆こそ歩くなれ
南無や帰依仏 南無や帰依法


御蔵の視界に、片眼鏡モノクル型のVERITASを通して不活性EVEが橋の上に勢いよく流れ込んでくるのが見えた。離脱者の最後の業、それは、橋の上の現実を歪める事により北北東の「鬼門と」南南西の「裏鬼門」より、異界のものを招き入れる事だった。橋の上に、突如霧が立ち込める。そして……生臭い空気が漂い始めた。

何がくるのか、御蔵はそれを察していた。

「おい、“二口”てめえの口演が役立つ時が来たようだぜ」
「はいはい、やりゃあいいんでしょう!やりゃあ!」
「それから笠置、前もって配っておいた特殊弾倉、まだ持ってるな」
「はい、2つだけですが」
弾倉交換マガジンチェンジ!残った弾は捨てろ、これから来る奴らには役に立たん!」

御蔵は叫ぶと、ライフルのマグ・リリースを押し込んで弾倉を落とし、ポーチから新しい弾倉をライフルに叩き込んだ。笠置と“二口”もそれに倣う。

「笠置、お前は前、“二口”は後ろに構えろ」
二人は片膝立ちとなり、前後にライフルを構えた。

「セレクタを3点バーストに切り替えろ、命令あるまで射撃は禁止。無駄弾は撃つな」
「一体、何が来るっていうんです?」
「もう一つだ。笠置、これから何を見ても悲鳴一つあげるな。声を出すな、いいか?」
「了解」

霧の向こうから、明かりが見えた。それは提灯行列のように、後から後から続いて来るかのように思えた。
そして、排気音エギゾースト・ノートが響き渡り、大気を震わせる。

濃霧を切り裂いて現れたのは、異様な一団だった。
先頭は2台のオートバイクに跨り、腹から内臓をはみ出させたバイカーだ。
顔面はヘッドライトに置き換えられており、バイクのヘッドライトのあるべき部分に人間の首が据付られている。
血とオイルを撒き散らしながら、突進して来る。

次に続くは、巨大なバンのように見える、人体の集合物である。シャーシこそ金属製に見えるが、タイヤはゴムではなく、二人の人間が両手と両足を繋いだものを幾重にも重ねて無理やり圧縮したものとなっている。何か、車体からドンドンと窓を叩く音が聞こえる。やめて、という女の悲鳴が聞こえるような気がした。

「“二口”!尊勝陀羅尼!」

御蔵の声を聞き、“二口”はライフルを構えつつ深い呼吸を始める。
そして、“二口”は口を開く。

那謨薄伽祓帝 啼隷路迦鉢毗 失瑟咤耶 勃陀耶 失瑟咤耶唵

“二口”は朗々と呪を唱えた。これは密教の陀羅尼経典の一つ、尊勝陀羅尼である。
正式名は「尊勝仏頂」梵語表記ではvikiraṇoṣṇīṣa。御仏の加護によりありとあらゆる罪業と業苦を撃ち払い、悪魔外道を打ち砕くとされている。朗々と唱えるその声は空間を響き渡り、そのたびに生臭い臭気も薄れていくようである。これは“二口”のもつ才能の一つだ。“二口”は、元々口から先に生まれたような男であり弁が立つ。彼は元自衛官であったが、退官したのち何を思ったか密教の寺院に身を寄せて修行を積み、短期間で真言の要諦をものにした。しかし“二口”は仏門には向かぬ男で、素行不良で寺を追い出された。そこを連合に拾われたのであった。

笠置は、息を殺しながら先頭のバイカーが接近して来るのを見つめていた。もう目と鼻の先、というところでバイカーはハンドルを捻り、御蔵たちを避けた。どうやら、この陀羅尼を嫌っての事らしい。“二口”が陀羅尼を唱え続けている限り、あの者共はこちらに手を出せない様子だった。

鉄と肉でできたミニバンがすれ違う、ミニバンはスピードを落としたように見えた。こちらをどうにもできない事に、そのモノは口惜しく思ったのか。笠置は暗視スコープ越しに、ドライバーと目が合った。
否、“見てしまった”という方が正しいか。

異形がやけに克明に若者風の出で立ちをしていたが、そいつには身体中に何かが纏わり付いていた。

唇のついた歯が、幾十幾百も体に纏わり付き、ドライバーに噛みついている。歯がドライバーの肉を食いちぎるたび、ドライバーは苦悶の表情を浮かべる。齧られた部分からは蛆が湧き出し、蛆は絡まり合って肉と皮を再構成する。そこへまた唇が齧り付き、そしてまた蛆が────かと思えば、ドライバーの全身を肉でできた数本の突起が貫いた。肉から血が迸り、ドライバーの体が押し広げられて臓物が風船のように膨らみながら溢れ出す。突起は、ドライバーの体をブラシで擦るかのように前後に動作し、さらに苦悶の声は増す。かと思えば肉の槍の先端から赤ん坊のような顔が覗き、赤ん坊そのものとなっては男の顔思い切り食いちぎる。口から吐き出す白い断片は頭蓋骨で、男の頭からは脳が白く覗いては、赤ん坊がその小さな手を脳に差し込んで粘土のように握り潰した。

「いたい ああ ご ごめんなさ ご う ひひいでえひひ」

だが、男の声を凌ぐほどの絶叫が笠置の鼓膜を貫いた。女の声だ、大人の女の声もあれば、あどけない少女の声も聞こえる。その全てが悲しみと怨嗟と涙声、そして抵抗する声と、命乞いをする声、場違いな啼泣が混ざり合って響いていた。側面のウィンドウガラスに目をやると、夥しい数の手形が、内側からベタベタと幾十もついては新たな手形に塗り替えられる。ドンドンとフロントガラスを叩いているのは、学校の制服を来た少女、ビジネススーツを着たOL風の女、髪を茶色に染めたラフな服装の女、それらが代わる代わるに窓に現れては消える。かと思えば、笑みを浮かべた複数の男の人影が浮かび、そして、それらの女たちはひとかたまりの肉塊となって、蠢いては後部座席で男を噛み砕き、引き裂き、あるいは肉の槍で運転席の男を責め苛んでいる。

これが一体なんなのか、笠置には察しがついた。様々な“見たくもないもの”を見て来た笠置であったが、“これ”は今まで見て来たものを遥かに凌ぐ陰惨さと醜悪さを持っていた。“二口”はそれを横目で見ると、尊勝陀羅尼を一度止めた。構えていたライフルを投げ捨てて合掌。右手と左手の親指と人差し指を合わせて円を作り、両手の中指から薬指までの指先を合わせて合掌結印。何を?と笠置は蒼白になるが、“二口”は丹田に全身全霊を込めて呪言を発した。

唵歩嚕唵唵阿弥陀如来薩婆訶

途端に女たちの悲鳴は消えた。バンの中には肉塊になった男たちが残されるが、男たちへの責め苦は続く。突如地面から半透明のごつい腕が伸び、バンを掴んで遥か地中へと引き摺り込んで行った。後には長々とした悲鳴が残された。“二口は”尊勝陀羅尼のた短縮版である「心呪」に力を込めて唱えた。女たちの魂は涅槃へと逝けたのだろうか、と笠置は考えた。あの男たちが女たちに何をしていたのかを察すれば、バンが引き摺り込まれた先は恐らく────

再び尊勝陀羅尼が響く。先ほどの「心呪」を発したのち滞りなく、独特の音律を刻むかの如く呪言を発し続ける。何か啜り上げるような音が聞こえた。泣いているのは“二口”だった。女たちの悲哀に当てられたのか、それとも何かを思い出したのか、或いは狂気に至ったかは分からなかったが、滞りなく陀羅尼の詠唱は続いた。

霧の向こうから、再び異形の影が現れた。

「3点バースト、各自の判断で撃て」

御蔵は小声で言い、笠置は照準を異形の列に定め、引き金を絞った。

黒い高級車、車内にはお互いを解体し合いながら聞き取れぬ言葉で罵言を飛ばし合う、頭部から口だけを生やした男と女が乗っている。それが行き過ぎたかと思えば、車体から十数枚の舌根を生やしてベチャベチャと音を立てながら高速歩行しする幼稚園バスが見えた。そいつは通り過ぎる際、チューリップの花の歌に合わせて幼児に対するどす黒い劣情を込めた男の声が響貸せた。そしてスポーツカー、ランボルギーニ・カウンタック。内部から電話の受話器とケーブルが溢れ出し、ドライバーの口内から老人の顔が出ては入りを繰り返す────などの怪異が次々と現れる。

あの流れに飲み込まれれば、死者の時間を共有し、彼らの仲間入りを果たすことになるに違いなかった。
しかし、笠置が引き金を絞るたび、それらの死者たちは消えていった。

死者の列が過ぎ行くと、今度は妖異の群が現れた。バイクやスポーツカーやミニバンやトラック、ただし車輪は燃える輪の中心に達磨大師のような顔のある輪入道。そのあとに続くは剥き出しの肉と骨とで構成されたスポーツカーのような形状をした車両。窓からは、金輪を巻いた生き霊や付喪神が顔をのぞかせる。次いで機械でできた駿馬の群。鉄馬を乗り回すは、鎧兜に身を固め、片手に武具を持った鬼どもである。

こいつらは死者の群よりも早かった、笠置は緊張のあまり一瞬瞬きをしたが、その刹那、金棒を振り上げた鬼の顔が間近に迫っていた。だがこれらも、撃ち放つ銃弾を受けるたびに虚空へと消える。

笠置は作戦開始前に、御蔵からこの特殊装弾の説明を受けた。この弾丸は霊山で護摩壇の煙にで燻したのちに、山深い神域で祓の儀式を行い、レーザ刻印で千の真言と祝詞を刻みつけたものであると。そんなものが一体何の役に立つのか、笠置は甚だ疑問であった。しかし今、その威力を目の前にした笠置は、連合の超常技術の一端を垣間見た思いだった。そして、“二口”の真言。これは、死者や妖異を寄せ付けぬ呪術的な力場フォースフィールドを生み出していた。

笠置にとって奇妙に思えたのは、死者や妖異が奔流のように押し寄せたかと思えば、笠置たちのそばに寄った瞬間、スローモーションのように動きを遅延させるのだ。いかなるカラクリが働いているのか、笠置には分からなかったが、どうにか推測することはできた。

死者たちは、普段とても希薄な存在なのだ。空気中に漂う細かな水分子のように希薄で、大気の流れのように生者たちの世界を通り過ぎてゆく。人間の敷いた道路を通ってあてもなく、だ。しかし、誰かがその濃度を凝縮して流れを開放すればどうなるか、結果はご覧の通りだ。そして、死者たちの時間は生者の体感時間よりも恐ろしく早い。時空間異常という現象があると、笠置は耳にした事がある。恐らくあの死者たちは、異常な時の流れの中に存在するのだろう。妖異の群れの速さについても同じ理屈で説明はつく。草迷宮で悪左衛門は言った、人が通れば脇に避けると。妖異とはそういうものだ。ならば、瞬きをするほどの短い感覚、光の速さと同じ速度で奴らは動く。あの異常な移動速度はそのためだ。“二口”の尊勝陀羅尼が生み出した力場は、死者や妖異の時間流から生者を隔離する効果があるに違いない。

────確保する方法はある、メトカーフ霊体捕獲機が有効だろう。

だが収容・保護はできるのだろうか。そも、する意味などあるのか?大気のように流れ続ける死者と妖異の群れを?ナンバリングはどうする?SCPの後にハイフンをつけるとして、何番までナンバリングすればいい?笠置の脳裏に、今まで抑え付けていた疑問が湧きたが、死地にあっては余計な考えだと思い、笠置はそれを振り払った。

────離脱者はどこだ、どこに消えた?

尊勝陀羅尼の詠唱が続く中、これがいつまで続くのか、笠置には分からない。そして、離脱者は忽然と姿を消している。“二口”の体力が尽きるのを待っているのか、或いは────と笠置の思考が夢想の中にさまよい出た刹那、突然笠置は背中を押された。押したのは御蔵だ。剛力で、アスファルトにへばりつくように伏せられている。笠置の頭部に生暖かいものが降りかかる、血だった。御蔵は脇腹から血を流しながら、機械化モータライゼーションされた百鬼夜行の群れを睨みつけた。離脱者は、あの群れの中に潜んでいた。

死霊と妖異の群れに身を隠しながら、御蔵の腹を仕込み杖で突き刺したのだ。笠置は御蔵に視線をやるが、御蔵はそれを手で制す。新たな妖異の群れが再び高速で迫りつつある。今度は、北北東と南南西の両方から、御蔵たちを挟み撃ちにせんと迫ってくる。

「投擲用意」

御蔵は、腰からグレネードを取り出しつつ小声で言う。笠置と“二口”は頷き、同じようにグレネードを手元に用意した。御蔵は三本の指を立てつつ合図する、2、1────投擲。グレネードは妖異の群れの中に投じられた、炸薬が弾け、そして────グレネードから聖別された塩、更に財団と連合の死者の遺骨の断片が勢いよく空中に撒き散らされる。生者の死者に対する思い入れと、死者の残留思念は魔を祓うための最高の武器である。

再び百鬼夜行は消え失せ、そこに離脱者が姿を現した。

「随分とやってくれたな、だがこれで終いだ」

御蔵が引き金を引こうとしたその瞬間、風鳴りと破裂音が響いた。
御蔵の大腿部に巨大な針、UAVから発射されたA$E^2$Bが突き刺さり、御蔵の足をアスファルトの路面に繋ぎ止めていた。その途端、橋全域を覆っていたEVE放射が衰え始める。どうやら、離脱者の気力・体力ともに限界を迎えているようだった。

離脱者は杖を片手に踏み込もうとするが、そこへ笠置と“二口”のバースト射撃が浴びせかけられる。一発は、離脱者の足をもぎ取った。足は道路の傍に、水の入ったビニール袋のような音を立てて転がった。
今度こそ殺った、と思うのもつかの間、2発の銃声。

離脱者は片手に拳銃を持っていた、恐らく分隊員から奪ったものだろう。
1発は笠置の腹を、もう1発は“二口”の胸を貫いていた。

2人が倒れるのを確認すると、離脱者は拳銃を捨てた。
御蔵はあくまでも、離脱者だけを睨みつけていた。

「余計な手出しは無用、つて事か。上等だ、サシの勝負でケリつけようぜ」

御蔵はライフルを捨て、悠々と拳銃を抜く。それからマガジンを一旦抜き、そしてまた差し直して遊底を引いた。
離脱者は竹の杖でアスファルトを叩くと、縮地を応用して吹き飛ばされた足を引き寄せ、真新しい靴を履くかのように足首の切断面を切り落とされた足にピタリと当てた。

「その足で居合はやめとけ。さっき捨てた銃、拾った方がいいんじゃねえのか」
「不要。それを言うなら、お前ももはや────」

御蔵は間髪を置かずに撃った。乾いた音が響き、離脱者の頭部が破壊され────“式”────人形ひとかたと化した。

「そんな、こったろうと、思ったぜ」

御蔵の戦闘服のジャケットが横一文字に裂け、血が吹き出す。
意識が遠くなり、御蔵はアスファルトにくずおれた。

御蔵の傍を離脱者が勢いよく通り過ぎた、片手には血刀。
渾身の居合抜きが一閃、斬撃は深思いの外深い。

離脱者は竹の水筒を、アスファルトに投げ捨てた。
すでに、足首はなんの問題もなく再生していた。恐らくはこれもCIの技術、SCP-006の複製品だ。

あれを飲んだとして不老不死にはなれまい、どのような副作用があるやも知れぬ。だが、細胞の再生作用だけは十二分に再現できているように思われた。もとより離脱者は死兵、怪しげな薬品だろうと躊躇せずに使用できる。

「馬鹿め。対等にやる、とでも思うたか?」
「どうやら俺だけがバカを見たらしいな、だが────まだだ馬鹿野郎!」

御蔵は全身の力を込め、太腿に突き刺さったA$E^2$Bを引き抜かんと、両腕に満身の力を込める。
太腿からは大量の血が間欠泉のように噴き出すが、御蔵は構わずさらに長大な針を引く。

「どうやら本物の馬鹿か。ではな、ここがお前の墓場だ」

そう言い捨てると、離脱者は踵を返してその場を立ち去ろうとする。
一陣の風が吹き過ぎ、そこで離脱者は己が片腕が切断されている事に気づいた。

一陣の風の正体はUAVだった。1機の“コルサル”の翼が離脱者の傍をかすめ、結果、その腕をもぎ取ったのだ。
遅まきながら、UAVの制御権は何者かによって奪い返されれていた。そして、爆音とともに大黒ふ頭から何かが疾駆してくる。離脱者は意識を集中した、バイクが1台走行中。何者かは知らぬが、百鬼夜行で迎え撃つのみ。


後白河院編蒐 梁塵秘抄二句神歌・四九一

さ夜ふけて 鬼人衆こそ歩くなれ
南無や帰依仏 南無や帰依法


バイクの男の背後に鎧に身を固めた鬼の一団が20騎出現し、骨と肉で作られたバイクに跨って走り出す。片手には大太刀、薙刀、長巻などの長柄の武器。さらにバイクの前方からは、異形の車両が十数台、鬼火をテールライトの如く曳きながらバイクに跨ったシルエットに向かう。バイカーの背後に回った一騎が、長巻を片手に迫る。

長巻の先端でアスファルトを擦りつつ接近、長巻の先端が火花を上げた。

バイカーの左後方に位置した大鬼は、片手で長巻を振り上げ、首を狙って横一文字に振り抜く。
だがその刹那、バイカーは鬼の視界から消え、背後からの銃撃が鬼の頭部を撃ち抜き、鬼は斃れた。
バイカーは相手のスピードを肌で感じ取り、減速。斬撃を躱した上で素早く騎乗射撃を行ったのだ。

バイカーが抜いた銃は、タウルスPT100の40口径仕様。使用弾頭は、清められた柊の枝を鉛で覆い弾芯に使用した、蒐集院謹製の対妖異弾頭。魔除けの効果を持つ柊の弾芯を用いれば、鬼すら殺せる。

騎乗射撃自体が難しく、かつこれほどの大口径であれば常人ならばバランスを崩して転倒するだろう。
だが、バイカーはそれをいとも容易く実行に移した。これには、現在のスピードと一瞬のバランスを捉える反射神経が必要であり、その射撃はまさに神業と言えた。

しかし、スピードを上げた後続の10騎が迫り、バイカーを両側から挟み撃ちにする。
手に手に持った長巻、大太刀を持ってバイカーを膾に刻もうとするが、あろうことか、バイカーはハンドルから両手を離し、一瞬のうちに拳銃を抜き両腕をクロスさせ、左右に連続射撃。全ての弾丸はバイクの車輪に命中し、10台中6台が転倒。後続の10騎も巻き添えを受ける、そこへ、後方から勢いよく転がってきた手榴弾が炸裂した。

衝撃を吸収し、ベイブリッジがさらに大きく軋む。

後方の集団を全滅させたバイカーは、さらにスピードを上げた。前方から迫るは異形の車両群、バイカーは躊躇うことなくそのまま直進した。運転席の中で魍魎が随喜の笑みを浮かべる、新鮮な屍肉が腹一杯喰らえるとでも思ったのだろ、だがバイカーの騎乗するGSX1100S KATANAの、4ストロークエンジンが咆哮を上げた。

あわや正面衝突かと思われたカタナは、車体を大きく左側にバンクさせ、進行方向を車両群と同方向にチェンジした。この動きと同時にバイカーはグレネードを至近の車両のフロントガラスへ叩きつけるように投擲した。

容器内部に骨片とテルミットを充填した、焼夷手榴弾である。

爆炎が沸き起こり、バイカーは強引なVターンを決めつつ車両の隙間を勢いよく擦り抜けた。煙と炎の中を、カタナは勢いよく突き抜けた。車両群を通り抜けたバイカーは再び両手離しになり、ポーチから取り出した破片手榴弾フラグ グレネードを両手に握り真後ろに投擲した。車両は手榴弾の衝撃により、あるものは横倒しになり、あるものはまともに爆風を食らって大破炎上。

炎を背に受けながら、テールライトを流星のように後に曳き、鉄騎は橋上を矢の如く疾駆する。
離脱者はEVE放射を用いて周囲を探索、居た。すでに距離は200mまで詰まっている。だが離脱者は、息を吸い込み、バイカーを待ち受ける。正面にバイカーすでに距離100m、離脱者は口に竹の杖を加え、仕込み杖の刀身を引き抜いた。距離50、30、10、0距離。離脱者は刀を振り抜き、そして刀身になんの手応えもない事を悟った。

刹那、離脱者の意識が飛ぶ。
呪────観測──五行結社────百鬼──棟梁オモダル──否、梁塵秘抄、否、否、否、敵は──────敵は!

意識の混濁が何秒間だったか、離脱者にはわからなくなった。
勢いよく振り返ると、バイカーは左方向にバイクをバンクさせつつ、強化ブーツの踵をアスファルトに擦らせながら、機体を横倒しにしつつ強引にブレーキングをかけた。

真横になったバイクに跨りつつ、バイカーは離脱者を見た。
フルフェイスヘルメットバイザーからは、なんの表情もうかがい知る事はできない。

「小僧、やりおったな」
「足元がお留守だぜ、ドンガメ野郎Slow mo Guy!」

離脱者は足元に転がった、無愛想な金属製の缶の如きものをみた。
「Amnestic-A」と書かれたそれは、財団が使用するAクラス記憶処理剤ガスグレネード。
無味無臭、無色のガスを半径30メートル単位で放出。揮発性の高い組成であるため、即座に大気中に分解される。

バイカーは機体を路面すれすれまでバンクさせて斬撃を回避しつつ、ガスグレネードを離脱者の足元にそっと転がしたのである。超スピードによる強襲には、さしもの離脱者も判断が鈍った。

「おい、後方注意だWatch you behind

バイカーは離脱者を指差した、そこには全身を血で染めた御蔵が立っていた。
足元には、全身に血を含ませた蛞蝓が這うかのような長大な血痕、否、血の路が続いていた。
今もなお足からは噴水のように血が流れ出ている、そして血で染まったA$E^2$Bを両手に抱え、大きく振りかぶって構えていた。顔も戦闘服も血で濡れ、その表情にはには苦痛と怒りが深く刻み込まれていた。

鬼。離脱者は恐怖を覚え、残された片腕に持った刀を御蔵に突き刺そうと姿勢を低くして下段突きの構えに入ろうとした。それが、離脱者の誤算だった。

「くたばりやがれ!」

雷霆の如く発せられた御蔵の怒気は大気を震わせ、A$E^2$Bの先端は離脱者の体の中央へと怒涛の如く叩き込まれた。先端は胸郭を通り、離脱者の体内に埋め込まれた強化された心臓の右心房を破壊しつつ、肉と内臓を突き抜けて脊椎へと到達。脊椎は粉々に打ち砕かれ、A$E^2$B先端は背中の肉と皮を貫いた。

ごぼ、ごぼごぼと離脱者の港口から大量の血液と内臓の断片を混合した液体が溢れ出た。

それでも御蔵は勢いを止めず、串刺しになった離脱者の体を大きく頭上高々と差し上げ、そのままアスファルトに叩きつけた。あたかも蝶の標本のように、或いは目覚め間際の吸血鬼ノスフェラトゥのように、離脱者はアスファルトの上に繋ぎ止められた。そして、離脱者の身体から発せられる膨大なEVEを検知したA$E^2$Bの回路が作動、底部が四つのアームに分離し、アームは風車状に回転を始めた。

A$E^2$Bによって周囲のEVEが吸引されてゆく、そして離脱者の体内に満ちていたEVEも、瞬く間に吸い上げられた。離脱者の肌は急速に萎んでゆき、若々しかった顔は皺だらけになり、肌がパリパリに乾燥し始める。
そして後には、一帯の白骨死体と、大量の用途不明な火花を上げる機械のパーツが残された。

これで、ようやく終わりか。これで、離脱者はあと一人。あと一人「も」、残っている。
御蔵は呼吸を整えつつ、状況を確認した。短期間のうちに速成した戦力はたったの一晩で壊滅した。
戦果は、御蔵の戦闘服の内ポケットに残されたオモダルの懐紙のみ、19人の戦力を犠牲に得たにしては、あまりにも虚しい戦果だと御蔵は思った。

「おい、お前。財団の奴か?」

御蔵はカタナの傍に立つ、バイカーに声をかけた。
バイカーはそこで初めて、フルフェイスヘルメットを取った。
黒い前髪に鋭い目をした容貌が露わとなる。

「イエス、俺の名前はエージェント・速水速水神一郎はやみじんいちろう、人呼んで────財団最速の男Foundation of GOD SPEEDさ」

「────ああ?」

御蔵は面食らった。この男は財団のエージェントらしい。だがこの男は、エージェントが顔を秘匿するための装具を自ら取り外し、その顔をあろうことか敵対組織でもあるGOCの排撃班隊長に向かって平然と晒したのだ。

“蛍雪”の事が脳裏をよぎったが、あれは別格だ。あれは、顔がわかろうとわかるまいと、今ままで多くの標的を屠ってきた。だからこそ、あえて本人に許していたのだ。だがこいつは、この大バカ野郎は、エージェントのくせに本名まで平然と名乗ったのである。舐められているのか、それとも惑星直列級の馬鹿なのか。御蔵には判断がつきかねた。

「ああ、助けてくれてありがとな。速水神一郎さんだったか、覚えとくぜ」
「速水でいいッスよ。それより、迎えの車用意したんで、乗ってください」

エギゾーストノイズが再び大気を揺るがした。
また別の闖入者だ、御蔵はノイズの方向に首を巡らすと、そこには黒いポルシェが一台停車していた。
奇妙なポルシェだった、車内からロボットアームを伸ばして、笠置と“二口”を掴んでいる。
自動的にドアが開くと、ロボットアームは笠置と“二口”をやけに柔らかな動作で車内に収納した。

「速水くん、終わったんだね。UAVのコントロールは奪い返したよ、大変だったんだから!」
「ロロ、お疲れさん。御蔵さんでしたっけ、さっさと乗ってください!早く!迅速に!急いで!Fast! Hurry up! SPEED!

「ああ、わかった、よ。安全運転で、頼む、ぜ」

御蔵はロロ、と呼ばれた男のポルシェに駆け寄る。機械的な音がして、ドアが開いた。
急いで乗り込むと、運転席は無人だった。

「ご乗車ありがとうございます、僕はエージェント・ロロ。シートベルトをお締めしますね」

カーナビの、それも女の合成音声のような声が車内に響く。運転席は無人。ダッシュボードは全て液晶画面で、複雑なコードの羅列や今日の交通情報のストリーミング映像、そして官邸地下オペレーションルームのライブ映像などが複数のワイプ画面でランダムに流れていた。どうやらロロという奴は、このポルシェそのものらしい。
シートベルトが御蔵の体をゆっくりと固定する、傷に痛みが走るがこの際贅沢は言っていられない。

「特別オプション、応急処置パック準備完了・展開します」

ロボットアームが伸び、先端から発射されたレーザが御蔵と“二口”と笠置の身体を高速スキャンした。

「IVRによる外傷部位のスキャン完了、モルヒネ、投与します」

別のアームが伸びてきて、御蔵達に注射針を打ち込んだ。
痛みが引き、そして意識が薄れてくる。急激な疲労と大量出血によるめまいが御蔵を襲った。
さらに別のアームが御蔵の胸元から戦闘服の切り裂かれた部分を広げ、生理食塩水を傷口に振りかけて洗浄する。

「お前、なんなんだよ」
「僕はただのポルシェです!焼尽止血しょうじんしけつ開始。耐えてください!」

レーザーメスが発光、切り裂かれた胸元に、文字通り灼けるような痛みが走る。室内に焦げ臭い匂いが漂った。
出血が止まった。鋭い刃物で切られた分、傷口を焼結する事は簡単だったらしい。

────止血処理とは言え、荒っぽい真似をしやがる。

そう思うのも束の間、今度は輸血パックがバックシートから飛び出す。さらに小さなアームがカテーテルに繋がる注射針を器用に掴み、別のアームが御蔵の腕を掴んで動脈を確保、針を動脈にゆっくりと突き刺した。

見れば、“二口”も笠置も同じ目にあっているようだった。二人とも貫通銃創を受けていたが、幸い致命的な部位への直撃は避けられているようだ。これならば、二人とも助かるかもしれない。

「負傷人員の止血処置完了、バイタル・微弱ながらも安定」
「ありがと、よ。そ、れより……早く……行ってくれ」

「了解、橋を離脱するまでは危険速度。橋を離脱したのちの目的地はGOCベースです」
「行くぜロロ!全てはスピードだ!ALL OF SPEEEEEEEEED!!!!!
「おい────」

矢のように速水が飛び出した、そしてロロもそれに劣らぬロケットのようなスピードで、御蔵たちを橋の上から運び去った。


20██年 ██月 首相官邸オペレーションルーム 機動部隊も-9第二連隊臨時指揮官 道策常道

「“コルサル”全機、制御権を取り戻しました!」
「EVE反応、消失!」
「橋上に敵性反応なし!」
「救出班、現在高速で橋を離脱中!」

救出班を示す二つの輝点ポインタが、橋を南南西に突っ切り、本牧埠頭へと到達した。

「機動部隊も-9第二連隊所第三中隊へ通達、速やかに現場へ急行。大黒ふ頭で待機中の第一中隊と合
流、現場の“清掃”を開始せよ。生存者の捜索と救助も忘れるな」

「横浜市内のGOCアウトポスト、救急チームの用意ができました。至急、救出班をアウトポストへ」
「了解。今、救出班にアウトポストの座標を送った」

鎌倉はインカムで機動部隊に指示を出す。
私はそれを見ながら、一瞬瞑目する。

「管理官、私たちの勝利です。“御蔵”と“二口”は生還するでしょう、排撃班の一員として、感謝します」

“高駒”が私に小さく頭を下げた。

「あなた方にも感謝を、ありがとうございました」

私は、連合のチーフ・オペレータに返答した。我々の勝利、だが、苦い勝利だった。20名の混成分隊のうち生存者は1割以下。バックアップに投入した分隊員も含めれば、死者は30人を下らない。財団と連合が流してきた血の量に比べれば、それはあまりにも少ない犠牲と言えるかもしれない。

だがしかし、条約軍が初めから動いていれば────あの様な戦闘は発生せず、彼らが死ぬ事もなかった筈だ。
これは勝利とは呼べない、そして、コードFの実行が遅れたのは私のミスだ。

────無為に戦力を浪費する事は許されない。だが安心したまえ、それは連合側に任せればいい。

私はマクリーンの言葉を頭の中で反芻する、結局、彼の思惑通りに話は進んだという事になる。
事実、私はここで傷を負うこともなくモニター越しに戦場を眺めるだけで済んだのだ。
だが、そもそも今ここでこうしている事が、何かの間違いのように思えてくるのも事実だった。

「管理官、現場のエージェント・ロロ、並びに速水より入電」
「繋いでくれ」

「こちらエージェント・ロロ、橋を突破しました」
「同じくエージェント・速水。トロい奴らだった」

雑音混じりの声が聞こえてくる、どうやら二人とも無事のようだ。

「エージェント・ロロ、エジェント速水、ご苦労だった。現在位置を報告してくれ」
「GOCアウトポストに急行中。救急班を用意してください」
「既に準備している。至急アウトポストへ向かってくれ」
「了解しました」

「管理官、ちょっといいっすか?」
「どうした」
「ここ数日なんですけどね、サイト間の人員交代にちょっと問題が出てて」

冷やかな液体が一筋、背中に流れる。
最悪の事態が再び持ち上がりつつある、そんな予感がした。

「サイトに転任する筈の研究者やエージェントから連絡が途絶える事が多いんですよ」
「それは──────」

わたしは絶句した。もぐら狩りモールハントが、サイト81-系列に僅かな影響を及ぼし初めている。
菓子岡に与していたサイト内の研究員やエージェントが、密かに拘束されたのだ。そして、手を下したのは恐らくマクリーンだ。彼らは今、“夜鷹”の関係者として収容所で尋問を受けているのだろう。

「マクリーン、でしたっけ?もぐら狩りだか何だか知りませんけど、やりすぎじゃないスか?」

エージェント・速水は財団のつわもの。彼は財団を覆う異常事態を鋭敏に察知していた、エージェント・ロロも同様だろう。彼が今の状況を不審に思うのも、当然と言えた。

「心配しないでくれ、間違いがあっただけだ。財団われわれでも間違いは犯す」
「その間違いのせいで、何人死んだと思ってるんですか?いや、管理官のせいだって言ってるわけじゃ」
「すまなかった、君達には感謝している」
「ああ、その、すんません。通信切りますね。以上オーバー

通信が切れた、私は静かになりつつあるシチュエーション・ルームを眺めつつ、懐に仕舞い込んだ一枚の紙について思い出していた。御蔵から送られてきた離脱者の情報、そのハードコピーだ。

ご丁寧な事に、重層的な認識災害処理が行われたその長大な懐紙は、データ化されたとしてもその特異性を失う事はなかった。私はそれをプリントアウトし、丁寧に折りたたんだのちにそれにざっと目を通して居た。

これを見るのは二度目だ、既に離脱者の情報は財団とGOCのネットワークを通じて共有され、東京都内に待機中の機動部隊とGOC排撃班それぞれに、捜索命令を下している。

だが私には確信があった。離脱者は見つからないだろう、と言う確信が。

何故なら、彼らは都内のあちこちを魔術経路レイラインを使って移動し、そして聖域へのポータルを任意に開くことができる。事実、御蔵達は彼らの聖域の一つに足を踏み入れ、この世界から消えたではないか。
無論、時間をかければ発見する事は可能だろう。しかし、捜索を行うためにどれだけの時間と人員が確保できるか、それは今度の財団と連合────正確に言えば、マクリーンと曲水ごくすいの────協議の結果いかんにかかっている。彼らはからの連絡はない、条約軍は依然として沈黙を続けていた。

一人残された離脱者はどう言った行動を取りうるか?私は紙に目を通しながら、その事を考え続ける。そして、懐紙のある一点に、私の視線は吸い寄せられた。ああそうか、そういう事か────否、これは自分自身への言い訳にすぎない。最初に懐紙を一瞥したとき、既に仮説は出ていた。分隊の救出作戦に集中するという名目で忘れたふりをしていた。ただそれだけの事だ、私はもう、誰がもぐらなのかを突き止めていた。

その結論を出した瞬間、私の中で何かが粉々に砕け散った。
まるで目の前にあった鏡が砕け、世界がミラーハウスだった事に気付かされたかのように。

私は懐紙を折りたたんで胸ポケットに仕舞い込むと、この場にいる全員に声をかける事にした。

「最終段階はこれからだ。全員、5時間の休息を取ってくれ」

私はオペレーション・ルームで高らかに宣言する。

オペレーターや待機していたエージェント達が、一斉に私を見た。そして、彼らは私に一礼しつつ、オペレーションルームを退出してゆく。だが、私にはやるべき事があった。まだやるべき事が。

私はガラス張りの喫煙所に入ると、ハイライトメンソールを一本点けて、紫煙を深々と吸い込んだ。
私はまず、最初に戻る事にした。御蔵とのやりとりを想起する。

目を閉じて、開く、目前には映像記憶の中の御蔵がそこに居た。

「こちらの動きが読まれていた場合はどうするつもりだ?君が帰って来なかった場合は?」
『まだ巻き込める相手がいるだろ?そいつらとナシをつけるしかねえ』

結局、御蔵は帰って来なかった。恐らく生きてはいるだろうが。ならば、彼の言った通りにする他ない。
だがこれは、GOCの現場責任者が退場した事を意味する。完全なる財団われわれ手番ターン。しかし、条約軍は未だ沈黙を続けたままだ。私はただ一人、機構と言う名の闘技場に取り残された。

状況は依然として変わらない、私の戦うべき相手は怪物だ。

問題があるとすれば、頼るべき相手全員が信用できないという事だ。もぐらはどこにでも居る──────
私は瞑目し、映像記憶を脳内から呼び出した、私の唯一の取り柄、記憶力のなせる業。

記憶の闇の向こうにはテーブルが1つ、その奥に、JAGPATO総裁である蔵部外火くらべ がいかが笑みを浮かべ、4枚のカードをテーブルに滑らせた。

これは、誰を味方にし、誰をもぐらとして指差すかと言うゲームだ。

手元のカードを確認する。配られたカードは4枚。

警視庁、公安調査庁、経済産業省、そして国土交通省。

それぞれのカードのスートには、省庁の連絡要員リエゾン横顔プロファイルが描かれている。

私はそこから威力部隊を持たない経産省のカードを弾く事にした。経産省にコミットした『重臣会議』関係者から線を引き、離脱者にたどり着くこともできるかもしれない。だが、今はそんな時間は残されていない。

残るカードは3枚、私はその中から3枚のカードを選んで手元に残す。
2枚を手元に、最後の一枚を、薄笑いを浮かべる蔵部へ提示する。

私は目を見開く。これでまず一つのタスクをこなした。私は喫煙所の中で、誰かに見られて居るような感覚を覚える。事実、マクリーンも曲水ごくすいも、私がどう切り抜けるのかを観客席から見ているのだろう。
否、誰が見ていようともはやどうでもいい。頼りになる戦士は傷を負って去った、もう私しかない。
無論、私にも機動部隊がいる。だが、離脱者の行確ができない以上、都内で活動中の部隊全てが標的となりうる。

部隊の動きは、もぐらを通じて離脱者側も掴んでいる可能性が高い。
そして彼らはおそらく、ここぞというタイミングで強襲をかけてくる筈だ。

ならば私は、条約軍に招集されていないエージェントを非公式に使う必要があった。現在JAGPATO案件に関与せず、それぞれサイト外での任務に従事しているエージェントが必要だ。しかし、もう切れるカードは残っていない。ロロ、速水。この二人を引っ張り出すだけでも、細心の注意が必要だった。二人とも、オブジェクトの捜索やPOIの追尾など、多くの任務を抱えている。此の期に及んでまた誰かを使えば、後で問題にされてもおかしくはない。制止される可能性もあった。だが、やるしかない。財団の人事ファイルは、私の権限が及び限りに於いて、閲覧した人事ファイルは全て記憶している。

その中でもすぐさま脳裏に浮かんだのは、省庁テロに対処した時に現場を共にしたエージェント達だった。
海野、西塔、来栖、そして“夜鷹”を巡る陰謀に巻き込まれながらもしぶとく生還したイヴァノフ。
その4人が、映像記憶として喫煙所の中に出現する。

否、彼らを動かす事はできない。少なくとも今は無理だ。

海野・西塔・イヴァノフ、彼らは事態の核心に居た。そして来栖はマクリーンに近い立場であり、今連絡を取ったとしても、彼女は静観を決め込むだろう。今の機構は、マクリーンが設置したモグラ獲りの罠に等しい。その罠に、自ら潜り込んでくるような事は決してしない筈だ。だが、離脱者はあと一人残っている。私は自らの生命を担保しつつ、モグラを警戒しながら離脱者を捕らえねばならない。もう選択の余地は無い。

私は数多居るエージェントの中から一人を想起した、私はガラス越しに彼の姿を探す。
果たして、そこにちょうど彼が入ってきた。そう言えば、この男も喫煙者だったな。

「やあ。お疲れのところ申し訳ないが……一つ付き合ってもらいたい事がある」


20██年 01月██ 霞ヶ関 国土交通省 緊急災害対策派遣隊 特事班EXTRA TEC FORCE連絡員 野辺征吾

紀尾井町から霞ヶ関へ、慌ただしいスケジュールだったが仕方がない、と考えつつ野辺は車から、永田町の風景を眺めた。財団と連合の尽力により、離脱者の一人が殺害されたという報告が機構を通じて伝えられたのは深夜の事だった。官邸は、いつもに増してものものしい雰囲気だった。官邸に駐車する機動隊の輸送車両が見えた。恐らくは財団の機動部隊だろう。これは“夜鷹”の事案以来の事であり、官邸に出入りする野辺はこの状況に適応しつつあった。しばらくすると、野辺の視界にガラス張りの建物が見えてくる。そして、何か奇妙なものが見えた。首相官邸の周囲を覆う壁に足場が建設され、そこに、5色に塗り分けられたパネルが設置されている。

これは国交省TECが持っている対アノマリー装備であり、「1号パネル」という無愛想な呼び名をもつ。

国交省は内務省解体前に存在した内務省国土局の時代から、日本の土木部門系省庁は「土地」と言うものの霊的性質と関わり続けてきた。土地に建物を建設する際に行われる「地鎮祭」などを始め、日本国内の土地隅々に存在する霊障・荒御魂を鎮めるべく、省庁では様々な方式が模索され続けてきた。その成果が、この1号パネルだ。

具体的な動作原理としては、一つの土地の四方パネルで覆う。その際に重要となるのは、パネルと地面を接地させることにある。地面と接触したパネルから、パネルの内部に埋設された吸着機構が作動。土地の四方を祓い清める
四方祓しほうはらえを、経験を積んだ宮司なしで行う事ができる。

これはひとえに、官邸を魔術経路レイラインから隔離する事が目的だ。これにより、魔術経路レイラインを通じてジャンプアウトしてくるカオス・ゲリラの侵入を防ぐ事ができる。だが、このパネルを起動するためには大量の電力が必要だが、配線の引き回しと接続は、見た所行われていない。しかしこれは、野辺が命じた通りの状況となっている。野辺は内心で、この作業を行ったスタッフたちに頭を下げたい気分だった。

野辺の命令によってひとまず突貫工事で1号パネルを設置しているが、これから4台の電源車両を接続した上で起動テストを行い、その上で、事案が収束するまで仮設する予定だった。テスト作業はこれから行われるものと思われたが、パネルの周囲は無人だった。おそらく、地下のオペレーションセンターにいるのだろう。

パネルの下に、奇妙な人影があった。赤いTシャツに眼鏡、霞ヶ関と言うフォーマルな場には相応しくない、カジュアル極まりない装をした青年。暇を持て余した大学生が、見物でもしているのだろうか?と野辺は訝しむ。だが、1号パネルについて、外壁の補修作業と言う欺瞞情報カバー・ストーリーが流される予定であり、特に問題はなかった。野辺は青年をみて、彼の事が羨ましいように思えた。この世界の裏側で異常極まりない事が起き、その事が原因で、多くの人間が血を流し、或は姿を消している。彼は、そんな世界とは無縁の存在に思えた。

────なあ君、この世界には陥穽があちこちにあるんだ。頼むから、気をつけてくれよ。

野辺は青年に、そんなことを話しかけたくなる衝動に駆られた。だが、そんなことをしたところで何になるだろうか。野辺はそう思い直した。しかし奇妙に思えたのは、もう一つ理由があった。彼はパネルをスマートフォンで撮影するでもなく、周囲を右往左往していたのだ、道に迷ったようにも思えない。まるで、歯医者に入ろうか入るまいか決めかねているかのようだった。彼は何かを恐れているようにも見えた。

────セキュリティに捕縛されなければいいが。

野辺の思案を断ち切るように、車が止まった。野辺はガラス張りの建物を静かに見つめつつ、官邸エントランスを通過。何事もなくエレベーターへと滑り込んだ。エレベーターが地下1階へ到達、オペレーション・ルームに到着する。

エレベーターを抜け、オペレーション・ルームへ。そこでは、大量の人員が行き来している。各省庁のリエゾンの姿も確認することができた、しかし、場の空気はどこか濁っているように思えた。そして、そこには、TECのスタッフの姿はなかった。ここに待機するよう命じた筈だが、一体どこに────しかし、まずはやるべき事がある。野辺は、オペレーション・ルーム最奥のモニターを眺める一人の男を見つけた。

「道策、話を聞いたよ。橋の件については今現在、国交省うちも頭を痛めている」
「ああ、あの損傷を修復するのは手痛い被害だろう」
「仕方ないさ、あの程度で済んだだけまだマシだよ」
「そうだな、TECの装備については礼を言う。スタッフから聞いたよ、切り札の一つだと」

昨夜、官邸に待機していたEXTRA TECのスタッフから、道策がTECの力をぜひ借りたいと打診したの。赤坂のある会員制クラブで道路族議員と会合していた野辺は、その知らせを聞いた。ついに来た、道策がそうしたいと言うのであれば、野辺はいつでもその力を使うつもりだった。そして野辺はスタッフを招集し、官邸周辺に1号パネルを設置したのである。

「だが、離脱者はまだ見つかっていない」
「わかっているさ、今鋭意捜索中だ。も-9、第13分隊、状況を報告せよ」

道策は野辺に答えつつ、インカムで機動部隊に指示を出す。

「こちら第13分隊アルファ、もぬけの空です。離脱者を確認できず、申し訳ありません」
「ご苦労だった、帰還してくれ」

どうやら道策たちの苦労は、未だ実を結んでいないように思われた。

「あちこち都内を探し回っているが、概ね空振りでね」
「そうか。だが、この馬鹿騒ぎはそのうち終わるさ」
「分かっている、もう今日で終わりだ」
「それはどういう────」

そこへ、眼鏡をかけた一人の青年がこちらへ向かって歩いてきた。赤いTシャツに眼鏡、フォーマルな場には相応しくない、カジュアル極まりない装い、1号パネルの下に居た青年だった。

「おはようございます管理官。あの、持ってきました」
「ご苦労だった、エージェント・育良

育良は私に、小さく一礼した。

「書面で通達した通り、今回の件の責任は全て私が取る。付き合わせてすまなかったな」
「いいですよ、仕事ですから。でも、大丈夫ですか?」

育良は周囲を見渡す、何かを恐れるかのように、お化け屋敷に潜り込んだ子供のように。官邸は、多くの人間から伏魔殿のように認識される事がある。だが、彼のこの脅えようは、一体何だと言うのか。あたかも、これから何かが始まる、その事を恐れているかのようだった。

「何がかね」

道策は書類を素早く手繰りつつ育良に答えた。
野辺の脳裏に国交省時代の記憶が蘇る、そういえば、道策は書類を恐ろしい速さで読破できる男だった。

「ここ、かなり雰囲気が良くないです。避難命令、出さなくていいんですか」
「ありがとう、だがその必要はない。もう済んだ」

道策は書類をまとめつつ言う。

「そうですか、なら良かった」

“もう済んだ”?

「それよりスタッフはどうだった、頷いたとは思うが」
「ええ、事情を説明しましたから。最後には分かってくれました」

スタッフ、それはどこの省庁の事だ。まさか。

「分かった。エージェント・育良、サイトに帰還してくれ、いや、今日はもう休むといい」
「気をつけてください。身内から人死にが出るの、好きじゃないですから」

育良は、エレベーターを目指し、早足で歩き去った。先ほどから、道策の発言には奇妙なものが多かった。道策が手渡された書類、育良がサインした書類、避難命令、“もう済んだ”“今日終わる”

野辺が道策を問いただそうとしたとき、野辺は違和感を感じた。淀んでいたように思えたオペレーション・ルームの空気が、何か別のものに変わり始めた。ここにいる全員が、自分に視線を集めているかのような、そんな感覚だ。まるで、抜き身の刃を持って迫られるかのような、これは────

野辺は道策を見る、彼は書類を既に読み終えた後でで、必要な書類だけを抜き出し、残りは封筒に仕舞った。道策は、傍のミニテーブルに封筒を置いた。野辺の視線が、封筒に集中する。

それは国交省が内部で使用している形式の封筒で、“保秘”の一文が刻まれていた。

「野辺征吾。“機構”及び日本政府に対するテロに協力した嫌疑により、君を捕縛する」

道策の左手には書類、そして右手には、拳銃が握られていた。

────この世界には陥穽があちこちにあるんだ。

野辺は、自らがその陥穽に嵌まり込んでしまった事を悟った。


20██年 01月 永田町 育良啓一郎

育良は官邸を出た。歩きながら、育良は道策から受け取った命令書について考えていた。

西暦 201█年 1月██日

財団職員へ通達

財団日本支部理事会 幕僚部
総合企画局員
機動部隊も-9臨時指揮官 道策常道

 
 

特例指示

 
 

非常事態に於ける特別指示について以下のように示す。

 
 

 
 

書類の窃取

 

西暦 201█年 1月██日付

 

育良 啓一郎 レベル-2 エージェント

 

上記一名は、事を財団エージェント憲章及に基づいて下記の指示に従う。

1:上記一名(以下“甲”)は道策常道(以下“乙”)の指示により、合同庁舎6号館の国土交通省記録保管庫より指定文書を窃取、確保する事。

2:甲は指定文書を確保したのち、官邸周辺で待機中の国土交通省EXTRA TECのスタッフに指定文書を提示し、JAGPATの定めるところに於いて、協力を要請する事。

3:甲の財団内部に於ける道義的かつ法的責任は全て乙の負うところによるものであり、甲にはないものとする。

4:甲が機構及び財団及び日本政府より、なんらかの道義的責任の追求を受けた場合、その責任は放棄され、道義的かつ法的責任は全て乙が負うものとする。また、甲の行動に対して発生した説明責任を果たす義務・罰の受容について、乙はそれを一切拒否しないものとする。

 
 

以上

 

 


早い話が「書類を盗んで来い、責任は自分が取る」という事だ。

しかしこの手の表現は概ね、書類を「取得」だとか「受領」だとか言う表現に落ち着く場合が多い。誰から『受領』したかについては当然報告の義務はないのが普通だ。発令者の責任を微妙に回避する表現となるのが通例と言っていい。だが道策は「窃取」という表現を使った。

────直截ちょくせつに過ぎる。あの人、昔霞ヶ関で働いてたって聞いたけど、こんな表現をする人いないよな、普通。

しかし、道策の立場を思えば、こう言った表現になるのもなんとなく頷けるような気がした。

この書類は、今回の指示が道策の独断である事を強調するものだった。少なくともこうしておけば、何か問題になったとしても、育良はこの書類を提示する事で自分の身は守れるようになっている。育良はこれを、道策からの非常時ゆえの心遣いと受け取った。

────でも、正直知るべきではなかったな。

育良はそのように考え、恐怖すら覚えた。

育良は財団の中でも、高い危険察知能力を持つエージェントだ。育良はその感覚を、恐怖の形で認識している。彼は財団に於いて誰よりも慎重であり、また、誰よりも臆病な男でもある。その育良が感じた恐怖の種類は「不可知」に近かった。もしもこれに関われば、自分の足元は崩れる。そして陥穽に落ち込めば、もう元に戻ることはできない。そんな気がした。そして、運よく陥穽に落ち込む事を免れたのである。

官邸の周囲には、数十人もの人間が集まり始めていた。電源車両から伸びたケーブルが、パネルに接続されていく。育良が説得したEXTRA TECの人員だ。彼らはこれから、あのパネルを起動させるのだろう。だが、何の為に?だが、ここから先は育良にとって知らなくてもいい領域だ。しかし、育良は道策から書類を受け取った時、また別の恐怖を受け取った。それは「死」の気配だ。誰かがここで死ぬ事が決まっていて、それから逃れることは絶対にできないという予感。育良はこれが絶対に嘘をつかないという事を、経験上知っていた。

────誰が死ぬんだ、道策管理官か、それとも。

育良は頭を振り、この事についてはもう考えない事にした。道策の仕事を手伝ったおかげで朝食を食べ損ねてしまった。どこか、適当な定食屋にでも入って朝食にしよう。できればこの服装でも入れる、カジュアルなところを。


20██年 01月 首相官邸オペレーションルーム 機動部隊も-9第二連隊臨時指揮官 道策常道

私は右手に拳銃、左手に書類を持ち、野辺に歩み寄った。

「この書面が、君がもぐらであるという証拠だ。一応だが、確認するといい」

野辺は無言で、書類を受け取った。私はその書類の内容について、充分に理解していた。なぜなら、これはかつて、野辺と私が計画していた施策、そのさらなる拡張版だったからだ。

「武力攻撃事態発生に於ける、全国型ナビゲーションシステムの開発及び普及についての計画」

これが、書類のタイトルだった。
野辺は読み始める。一枚、二枚、そして最後まで読み終える頃には、書類を床に落とした。

「この書類には、君の名前、それから協賛者の中に道路族議員の名前がある。彼は元国交省官僚であり、そして『重臣会議』に関わりのある“可能性”のある人間だった。証拠は何も掴めていなかったが、五行結社からの情報提供で嫌疑は濃厚になった。そして彼は、現在収容所で尋問を受けている」

野辺は無言で床に散らばった書類を見つめている。

「それから、五行結社の情報には、国交省政策研究所の人員の名前も明記されていた。私はこの二つの線を調べたところ、結論はすぐに出た。この二人には共通点がある。野辺、君は武力事態攻撃に対処可能なインフラ構築についての勉強会を主催していたな。この二人はその参加者だ────君は、この会を通じて五行結社との連絡役カットアウトの役割を果たしていた、今も離脱者に対して連絡を取り、情報提供を行なっている。もちろんそれには裏付けが必要だった、もっとも、それを見つけるのも容易い事だ。私は長い間年あの役所で働いていた、だから、特事関係の禁帯資料がどこにあるかも概ね検討がつく。予想どおり、すぐに見つかったよ」

私は続けるが、野辺は依然として無言。

そもそも今回の件について、不審な点があった。それは、五行結社本体と離脱者間のに連携に遅延が発生していない、という点である。五行結社と離脱者側で、情報のやりとりをしていた事は大前提としても、離脱者が出現したのは御蔵が五経結社の用意した異空間から帰還した後の事だ。これは何を意味するか?おそらく、五行結社は道路に走っている魔術経路レイラインを通じ、交通状況及び敵の位置情報を把握する事が可能な超常技術パラテクを持っている、という可能性が考えられる。

「五行結社からの、君への見返りは何か?それは、言うまでもなくこのインフラ構築を成功させるための手段。魔術経路レイラインを用いるための超常技術パラテクの提供だ。計画書を読んだが、君の計画はそれがあって初めて成功する────何か言いたいことはあるか?」

私は野辺を見た、彼は私の視線をあくまでまっすぐに受け止めた。顔には、いつも変わらぬ笑みが浮かんでいる。

「その通りだ、短時間でよくたどり着いたね」
「五行結社からの情報提供がなければ、気づくこともできなかった」
「だろうな、恐らく五行結社かれらは僕を切り捨てたのだろう」

野辺は、床に落ちた書類を見つめていた。彼が推進していた計画、攻撃自体に対処するためのインフラ構築のプランも、水泡と消えた。彼は書類を悲しげに見つめていたが、再び私に視線を返した。

「野辺、君は組む相手を間違えた。だが、我々に協力すれば罪も軽くなる。まだ、官僚でいられる」
「それより自分の心配をした方がいい。今すぐにでも、離脱者がここに転移して来る」
「残念だが野辺、ここには誰もこない」

地上では、EXTRA TECの職員が「1号パネル」を起動している筈だった。これにより、首相官邸は魔術経路レイラインから遮断された状態となっていた。これならば、いかに五行結社の構成員と言えども転移して来ることは不可能だ。別の何か、魔術経路に対する“供物”を捧げでもしない限りは。

野辺は、本来ならばこれを罠として使用する心算があったのだろう。まず離脱者を官邸に転移させ、1号パネルを起動し、官邸を魔術経路から遮断した上でその場にいる全員の退路を塞ぐつもりだった。だが、来るとわかっている攻撃ならば回避することは難しくない。

「君が狙っていた3階も無人だ、総理は身を隠している。君には知らせていないがね」
「既に、EXTRA TECに手を回していたか。君は政治家としての素養があるのかもな」
「買い被りだよ。結局私はただの天下り者に過ぎない。野辺、どうしてだ」
「さて、どうしてかな」
「離脱者は私たちを始末した後に総理と閣僚を殺害し、この国の政治機関を麻痺させるつもりだったのだろうが、余りにもやり口が杜撰だ。突発的で無計画な行動だと言わざるを得ない、君はどうしてそんな奴らに手を貸した」

「道策。やっぱり君は、何も分かっていないみたいだ」

野辺は胸ポケットから、古風な短刀を取り出した。鞘から抜き、それを私に向ける。

「僕に近寄るな」

「野辺、頼む。考え直せ、まだ時間はある」
「道策、君はまだ覚えているか?僕らがあの計画を思いついた時、僕と君の頭の中には、同じ幻像ビジョンがあった筈だ」
「無論だ、今でも覚えている」
「そうだ。この国は今でもなお、攻めるに易く、守るに難しい」

野辺と私がインフラを構築について考えた際にすぐさま思い至ったのは、交通渋滞の最中に移動中の市民の車列と機械化師団がぶつかる事だった。現場は混乱を極めるだろう、無秩序に道路が車両で占拠され、自衛隊は是が非でも作戦領域へ到達せねばならない。そして、その時司令部は、市民の車列を踏み潰しながら進撃を継続するかもしれないという事だった。攻撃事態発生時、交通整理を行える有力なインフラが存在しなければ、こういった事態は容易に起こりうる。私と野辺の頭の中には、自動小銃や車載機銃で追い散らされる市民と、装甲車両によって押し潰される乗用車の群れがあった。

野辺と私はこの幻象ビジョンを、象と蟻、または市民と戦車の寓話と呼んでいた。

「僕の考えは今でも正しいと思う。だから僕は、この幻像ビジョンを実現させない為にはどんな手段を取る事も厭わなかった。全ては国民の為だ。だが現実は甘くはなかったよ。僕は特事案件の世界に入り込み、君たちの事を知った。そこで僕は悟ったんだ、武力攻撃事態よりも恐ろしい事は既に起きていた。君たちの掲げる種としての人類が持つ制憲権Species' Constituent Power、かの思想はこの国を深く侵食している、まるでがん細胞のようにね。人類が持つ制憲権の前に、僕らの、日本人の主権はどうなる?蟻同然じゃないか」

「それは誤解だ。あれは、人類全体の利益の為に守らねばならない事がある、という財団の理念の反映に過ぎない。財団が守るべき人類には、日本人だって含まれる」

「だが、それを守る主体は財団だ。財団がこの国で影響力を発揮し続ける限り、僕らは何を犠牲にし、何を守るか、自分自身で選べない。その一方でこの国の政治家は財団に唯々諾々と与し、自国を守る方策すら立てられていない。僕らがこうしている間にも、市民の車列に向けて装甲車が進んでいく。君たちに従う限り、僕はそれを止める事はできない。財団?人類が持つ制憲権?冗談じゃない!僕は菓子岡子鹿と言う男を知っている、権力欲に取り憑かれた獣だ。あの獣じみた連中が、僕らの時代のよかった部分を台無しにしている。道策、君はどうしてそんな奴らに手を貸すんだ、どうして」

「だから、君はあの無謀なテロに関与したのか」

「その通りだ────僕は官僚で、国民全体の奉仕者だ。国民のために既存のシステムを排し、新しいものに置き換える。財団きみたちをこの国から排除する為に戦う。僕が最初の犠牲になろう、そしていずれは、軍・官、悉くが国民の盾となる。全ては僕らが守るべき国民のためにだ」

「君の考えは間違っている、君がそれをして一体なんになる?よく考えろ、君は国民のために必要な人間だ」
「残念だが、僕はここで終わりだ。でも僕の後ろには“星鳥”が控えている。僕はその先鞭だ、結果は変わらない」
「野辺、短刀を捨てろ!」

「残念だが、それはできない」

野辺は、短刀を自身の喉元にあてがうと、横一文字に引き切った。

噴水のように血が吹き出す。血液は、野辺の体を伝って噴水階段カスケードのように流れ落ち、オペレーション・ルームの床に血だまりを作った。だが、野辺は倒れなかった。道策の顔を眺めつつ、息も絶え絶えに呟く。


大東亜戦争 殉難遺詠集

鳥が鳴く東の国のますらおは
ただ大君のためにぞ死なむ


コップの中の水が振動するかのように血溜まりは回転を始め、一つの血の球体と化す。
球体は高速回転しつつ床を滑り、線を、角を、そして周囲を囲む円を描いた。

五芒星。五行結社の象徴、晴明桔梗紋。省庁に対するテロに使用された転移術式。

最後に一滴の血の雫が五芒星に落ち、それと同時に野辺の体は生命を失って床に倒れ伏した。
そして狩衣と烏帽子を被った妖術者と思しき男と、それを中心に小銃を持った兵士が10名出現する。

「ご苦労、“式”にしてはなかなかに使えた」

妖術者は野辺の死体を蹴転がしながら言う。

「────被疑者マル被を確認、総員射撃用意」

その刹那、デスクに座っていたオペレーターが全員銃を抜き、カオス・ゲリラに向けた。数十丁もの銃列の間から、男が2人歩み出る。警視庁公安部特事課の敷島巧しきしま たくみ 理事官、そしてもう一人は公安調査庁特異案件対策室AID宮部武揚みやべたけあき上席調査官だ。

「撃て」

敷島と宮部は一息も置かず命じる。オペレーションルーム内にオペレータとして潜伏していたAPSAT、そして特異案件対策室AID威力業務部隊の隊員たちは一斉に引き金を引いた。乾いた音がオペレーションルームに鳴り響く。離脱者とカオス・ゲリラの兵士の頭部は破裂し、下顎は銃弾で砕かれ、身体の中心部には穴が穿たれた。数秒で、彼らは血に塗れた死体と化していた。

敷島は苦々しげな表情で、烏帽子を被った男の死体を蹴り転がした。手袋に覆われた手で、あちこちが欠損した死体を探る。まるで物体でも扱うかのような、なんら感情の籠もらぬ指先。だが敷島の顔には、深い怒りが刻み込まれていた。

被疑者マル秘死亡ヒットを確認」
「作戦終了、総員現場の確保に努めよ」

敷島と宮部、二人の指揮官はそう呟くと、無言の握手を交わした。
私は彼らに歩み寄り、小さく頭を下げた。

「ご協力、ありがとうございました。あなた方のお陰で、事案を終結させる事ができました」
「構いませんよ。道策さん、あなたもリスクを取って頂いた。国交省の記録保管庫に踏み込むとはね」

敷島は小さく頭を下げつつ、言った。

特事課うちの若いのに絵島って奴がいましてね、こいつらにスリーパーにされてたんですよ。だから、そこで死んでる奴にに借りを返せただけでも充分です」

「私からも礼を、奴らに煮え湯を飲まされたのは我々AIDも同じです。ありがとうございました」

宮部もまた、私に頭を下げた。

連合の指揮官が舞台を退場し、私に残されたのは結局、官僚たちだけだった。
私は敷島と宮部に協力を持ちかけ、今回の事案が共同作戦ジョイント オペレーションである事を強調した。結果は見ての通り、ギリギリのところで私たちが勝った。

「ここから先、全ての情報は関与して頂いた省庁の方々には情報を共有させていただきます。死体は財団で引き取る事となりますが、ご了承頂けるでしょうか?」

「わかりました、ですが情報の共有は早めにして頂きたい」
「了承しました、意見としては敷島さんと同じです」
「重ねて、ありがとうございます」

私はそう言うと、野辺の亡骸に視線を向けた。敷島も宮部も、同じように。

「しかし、大君の為にぞ死なむ────か。随分とアナクロな事を言ってましたね」

敷島は口を開いた、公安警察は極右・極左両方の組織を監視する役割を帯びていた為、こう言ったワードには日常的に接しているのだろう。

「あれはあくまで、呪式を起動させるための文言でしかなかったのでしょう。彼はあくまでも国民────全体の奉仕者のまま死んだ。私はそう思います」

私は敷島にそう言いつつ、これは私の願望なのだろうか?とその反対側では考えていた。死者は何も語らない、私にとってこれは、そうあれかし、と言う願望ではないのか。私の顔を見て、宮部が妙な表情をしているのに気づいた。

「全体の奉仕者、か。道策さん、あなたは────あなたの立場が、なんだかちぐはぐに見えてきました。気づいていませんか?それは日本政府われわれの側に立った言葉です、財団側じゃない」

宮部は私の言葉を引き継ぐように言い、再び私の目の前の鏡が砕け散った。
二面性、全てのスリーパーに必要な資質。野辺はそれを十二分に兼ね備えた理想的な工作員だった。
私はそのように判断した。だがこの二面性は誰の物だった?

現場の静寂を破るかのように、エレベーターからEXTRA TECのスタッフがオペレーションルームに侵入してきた。その数は十数名。その中の一人が、野辺の死体に駆け寄った。私はその一人に声をかけようとしたが、気づけば胸ぐらを掴まれていた。大柄の男で、その表情には極大の怒りが刻み込まれていた。

意識が飛ぶ、顔面を殴られた。次いで腹に膝蹴り、意識が遠くなると同時に拳と蹴りの乱打が私に降り注いだ。彼は私に、罵声を飛ばしていたようにも思え、あるいは、どうしてだ?と訊ねていたようにも思えた。それを止めようと、公安部特事課、特異案件対策室AID、EXTARA TECの隊員たちが私を取り囲んでもみ合いになる。その間も、拳と足が私の顔面や腹に降り注ぐ。その最中で、私は巨大な力の奔流に巻き込まれた自分自身を意識せざるを得なかった。象と蟻、市民と戦車の寓話。

私は遠くなる意識の中で呟く。

────見ているか、野辺。結局のところ私もまた、大きな流れの中では一匹の蟻に過ぎない。


 

エピローグ


 

20██年 1月██ 横浜市 けいゆう病院

私は意識を失った後、警察病院に運び込まれた。これは敷島の「厚意」であるらしい。私が目を覚ました時、サイドテーブルにはフレームだけを残して割れ砕けた眼鏡。胸ポケットには、一枚の懐紙が入ったままになっていた。
起きてすぐ、看護師から鏡を手渡された。しばらく鏡は見たくない気分だった。どうしてかはわからないが。2時間ほど横になり、ようやく私は鏡で自分の顔を見た。顔面は傷だらけ、頭には包帯。幸い骨折などはなく全治1週間ほどで退院できるそうだ。

それから、私の元に御蔵が現れた。彼は一命をとりとめ、GOCのベースで救急医療を受けたのち、すぐさま現場に復帰したそうだ。GOCの超常医療パラメディカルが財団の医療技術を凌いでいるのか、あるいはこの男がゴリラ並みのタフネスを備えているのだろう。私は御蔵から、私が昏倒した後の話を聞いた。

あの後、現場を沈静化させる為に官邸外縁を警備していた機動部隊が現場に乱入し、事なきを得たと聞いた。問題は、“夜鷹”の件の後始末は終えたものの、官邸を警備する責任者がいなくなった事だが、知らせは既に官邸を通じてマクリーンに伝わったらしい。結局、彼が指揮権を引き継ぎ、あの現場はクローズとなったらしい。

私を殴り倒したTECの隊員は謹慎を命じられたそうだが、これが彼のキャリアに悪影響を与えなければいいと私は思った。彼の立場からすれば、私を殴り倒して当然だろう────

肝心の条約軍だが、阿形危機管理局長・マクリーン・曲水ごくすいの三者共同で非常事態の終結宣言がなされ、解散となった。五行結社は改めて極東支部の議場に姿を現し、今回の件について機構への協力を行なったことを表明し、自身の正当性を強調した。おそらく何らかの制裁が行われる事は事実だろうが、それが果たして効力を発揮するのかどうかは全くわからない。

いいニュースもあった。臨時分隊“つぶら”の多くがその命を落としたが、幾人かは生存者が居た。

ロロに救助された笠置と“二口”は、ベースで手術と輸血を受け一命をとりとめた。“大蚊ガガンボ”は兵員輸送車ごと引き上げられたが、身体に埋め込んだ生命維持インプラントで無事だったらしい。後日、機械化サイボーグ手術を受けて生まれ変わる、とは御蔵の弁だ。

それから、“蛍雪”と横田は────少々事情が複雑だった。“蛍雪”、彼女は横田を救うべく心臓に傷を負い、横田は右足を切断する重傷を負った。横田は“蛍雪”を救うべく、彼女を抱えて大黒ふ頭まで泳ぎ、そこで機動部隊も-9に回収された。その後、二人は財団のサイトに運ばれたが、そこで横田は、自身の心臓を“蛍雪”に移植する提案をした。どう言う経緯でその提案が容れられたのかはわからないが、手術は成功。

“蛍雪”は横田の心臓を、横田は機械の義足と、最新型の人口心臓を得て、生存した。

────横田の野郎、ありゃ惚れた弱みだな。

と、御蔵は笑いながら言っていた。

今回の件で、御蔵はその働きにより暫くはJAGPATO専従要員となるらしい。また、“円”については今後何かが起きた時の為の戦力として、新たに再編成される見込みだそうだ。指揮官は御蔵だ。今回の件で御蔵と私が何か残せたのなら、“円”がそれに当たるのかもしれない。

────どうせあんたにもお鉢が回ってくる、覚悟しとけ。また会おうぜ。

御蔵はそう言い残すと、病室を去った。

「色々とあったが、済んだ。これで後始末は終わりだ」

私は淡々と、気づけば見舞いに来ていた面々に語った。

「お疲れ様でした、なんと言うかその────大変でしたね」

海野が如才なく私に言った、その傍で西塔が退屈そうに話を聞いていた。

「タコ殴りにされて殴り返さなかったって聞いたぞ、情けねえとは思わねえのかよ?」

西塔は如何にも呆れた、と言う口調で私を詰る。こちらは一応傷を負っているのだが、彼女は本当に遠慮がない。

イヴァノフは────菓子岡の席を臨時で守っており、現在職務に追われている為不在だった。
なお、今回の後始末に加わったロロ・速水・育良は、今後しばらくの間、幕僚部政治局の特務エージェントとして転属する事が決定した。今後何かが起きた際、重要な戦力として動いてくれる筈だ。

彼らにとっては、迷惑な話だろうが。

「それで、“星鳥”とは何なんですか?あなたの所見が聞きたいのですが」

野辺は言っていた。“星鳥”が後に控えていると。御蔵もまた、“オモダル”から同じワードを聞いたそうだ。

────サンコウチョウに気をつけろ、そいつが鳴いてるらしい。
────どこで鳴いているんだ?
────さあな。どうせ霞ヶ関か、さもなきゃ紀尾井町だろうぜ。

「私には分からない。だが、表の世界で活躍していた野辺がカオス・ゲリラのもぐらだった以上、今後も何かが起きる可能性はある。“夜鷹”は単なる先触れだったのかもしれない」

「そうですか、注意しておきます。ところで、あなたの今後の処遇についてですが」

目下の問題として明らかになっていないのは、その一点のみだった。不在とはいえ首相補佐官の頭越しに行なった日本政府超常機関との連携、これは越権行為と見なされてもおかしくはない。そして国土交通省の記録保管庫に対する無断侵入。これは、元国交省官僚である私の“業務上知り得た情報”の利用に当たる。何らかの処罰を受ける事は免れ得ないだろう。

「ああ、その役目は多分君の役割だろうと思った」
「実は、マクリーンから直接連絡するそうです」
「マクリーンから?」

奇妙だった。本来ならば、来栖を通じて私に言えばいい事だろうに。

「あなたに話しておきたい事がある、と」
「了解した」

海野、西塔、来栖の3人は、それぞれ任務に戻るとの事で病室を辞去した。再び独りになった私は、ベッドから起き上がり、廊下へと歩き出る。エレベーターで、私は一階のロビーに降りた。病室内で堂々と携帯電話を使うわけにはいかなかった。ここが財団フロント施設であれば、もっと気の利いた通信機器を利用できるだろうが、ここではそうはいかない。そもそも、病院の電話にマクリーンがダイヤルするとも思えない。だから私は待った。数分経過し、スマートフォンが振動。着信元は秘匿回線、私は通話ボタンを押した。

「私だ。まず、君の処遇について話そう。君はいくつかの逸脱行為を行なった。それは確かだが、今回の件については事案解決の為に行なった事だ、採決を行うのは“保留”とさせて貰う」

「保留、ですか」

「そうだ、今回の事案については瑣末な事だとは思う。しかし、規則は規則だからな。今後君は暫くの間、サイト管理業務からは離れろ。財団日本支部理事会幕僚部総合企画局のJAGPATO専従として動いて貰う。異論は?」

「いえ、ありません」

他に回答のしようもなかった。

「それは結構。今回の君の働きだが、私は概ね満足している。だが、少々気になる事がある。君は────野辺が自害するその直前まで、彼を説得しようとしていたそうだな。その事について、君はどう考えている?」

「私は────今思えば、あれは必要な事でした。彼を生きたまま連行できれば、今後起きるであろう事案の解決にも役だったはずです。私はそのように考え、それを実行に移し、失敗しました」

「ああ、そうだ。君は失敗した。何故なら、エージェントの転向というものは一種の宗教に近いものだからだ。必要なのは相手の弱みを常に握り、監視下に起き、相手が“あちら”と“こちら”との線を跨ごうと決意するその瞬間を狙う。必要なのは供物と儀式、そして天恵が訪れるのを待つ事。祈りにも似ている。これはそういうものなのだ」

「なるほど、不勉強でした────次に機会があるのなら、参考にさせて頂きます」

「それと、君の今回の任務に対する姿勢についても話がある────こちらの方がより重要だろう。今回の件の原因は野辺が持つ二面性によるものだと思っているかもしれないが、それは大きな誤解だ」

誤解?彼は何を言おうとしている?

「野辺が奉仕者たらんとしていたのは、あくまでも日本国民に対してだ。彼はあくまで自身の取りうる最善の方法を取ったに過ぎない、全体の奉仕者としてね。二面性を持っていたのは君自身だ────自覚はなかっただろうが」

二面性、あれは野辺のものではなく、私自身の。

「君は財団に奉仕しながらも、機構という場を利用し、日本国民にも同様に奉仕しようと考えていた。君は財団職員にありながら、結局官僚しての立場を捨て切れていない部分があった。君が“機構”に関わるようになり、その隠れていた傾向が顕著なものとして現れたのだ。君の目論見については、私と曲水が台無しにしてしまったがね」

私は、何も答える事ができなかった。

「野辺を追い詰めた時、君はこう思わなかったか?何かが割れ砕けたようだ、と。その時砕けたのは、君自身の二面性だ。君にとって、野辺こそが自分自身の鏡だった。君が機構を通じて二面性を発揮する事ができない、そう悟ったが故に、鏡は砕けた。君はきっと、今ままで自分の立場を鏡屋敷ミラーハウスの管理人のように思っていたかもしれないが、それは間違いだ。真の世界とは、幾千幾万の割れ砕けた鏡の立ち並ぶ荒野だ」

口の中がカラカラに乾いていた、マクリーンの言ったことは、全て事実だったからだ。

「君は今、鏡の荒野にいる。ようやく、私と同じ世界に足を踏み入れたという事だ。ようこそ、ここが本当の世界だ。そして、君はまたこの世界に立ち戻って来る事になるだろう。その時、君の二面性は再び必要となる。だがそれは、財団の為にだけ使うがいい。ではそろそろ失礼するよ。また会おう、鏡の荒野で」

通話が切れた。

私は、1階の受付から病院の外に出た。
そして、どこか適当な死角を探し始めた。監視カメラの死角、人間の視線を切れる場所。
どこかに、どこでもいい、喫煙所がある筈だ。

この世界は鏡の荒野かもしれない。

だが私にはひとまず、タバコが吸える場所が必要だった。

 

 
 

 
 

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