虚ろの檻
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皇紀弐千六百弐年 拾弐月五日 大阪市 特別高等警察事件記録より抜粋

被疑者ハ大衆酒場に於ヒテ
以下ノ如キ発言ヲセリ
天皇陛下ヤテ俺ラト同ジ人間ヤ
血液ヤ細胞ニ於いテモ同ジデアル
ナドト不敬ノ言辞ヲ弄ス


1944年3月10日 正午 上野恩賜動物公園 大日本帝国元首 迪宮 裕仁みちのみや ひろひと

寒風が、私のコートを煽った。未だ肌寒く、春の兆しは未だ訪れないように思えた。
この寒々しさは、どこから来るものであろうか
おそらく、私の眼前にある空虚もまた、その一因に大きく資するものであろうと思われた、

それは、地面を大きく四辺形に掘り抜いた上にコンクリートを貼った、巨大な檻だった。
かつてここには3頭の、どの生物よりも大きな体躯をもつ、世にも美しい生物達が暮らしていた。

名はジョン、ワンリー、トンキー。否、ワンリーと呼ぶよりも、花子と呼ぶべきか。

3頭のアジア象Elephas maximus

今は全員、この世にはいない。この空っぽの檻が、私の心に寂寥感と無念を呼び込んだ。

今、このゾウの檻は陸軍の資材置き場となっている。
だがゾウの檻の広さに比べ、この膨大な空隙は何だ。

檻の中の空隙はあまりに大きい。そもこれはゾウの檻だ。
ゾウを中に入れる以外、どうして空漠を埋められようか。

あまりにも巨大な空っぽの檻。私にはこれが、我が国の空虚と欠乏の絵姿のように思われてならなかった。

否、空虚を抱えた檻は、この巨大なゾウの檻に止まらぬ。

かつて、ここには様々な生命が蠢いていた。

私の婚礼の記念にと、東京の市民達に与えられた憩いの場は、もう見る影もない。
否、この上野に止まらぬ。この国における全ての動物園の動物達は、戦時の非常判断の名の下に殺された。

この動物園に於いて、生きている動物はもう一匹たりとて存在しない。人間を除いては。
全ての動物は飢えて死んだ。檻は空虚のみを抱き、園は墓場のように静まり返っていた。

戦時猛獣処分。

これは、空襲対策が講じられた際に生み出された副産物である。
ともなれば、かの巨獣が檻を破って逃げ出さないとも限らない。
ならば先手を打って殺処分すべし。官僚達はそのように考えた。

そして戦時体制に於ける殺処分が計画され、ついに実行された。

アメリカ水牛、ニシキヘビ、ガラガラヘビ、支那より渡って来た幼き豹のハチ、クロヒョウ、ホクマンヒグマとツキノワグマ。これら種々多様な獣たちは、愛されて死ぬはずだった。

ヘビ達は刃物で頭部を切断された、クマは投薬の上、体を槍で貫かれた、クロヒョウはワイヤーで絞め殺された。
それ以外の者達は餌を与えられず、最終的に餓死に至った。総勢14種・27頭、皆死に絶えた。

この動物園は、私の婚礼と共に、東京市へと下賜したものだ。
かつては少年少女に止まらず、多くの人がここに訪れていた。

誰もが、檻の向こうにいる異国の獣を眺めては、恐れ、あるいは感嘆の声を上げた。

私もその一人だ。否、一人だった。

今はもう、誰も、誰もいない。もう、廃園に過ぎないのだ。

今私は、ほんのわずかな近衛と共に、園内にたどり着いた。

上野恩賜公園は現在陸軍の管轄内であるため、警備状況に問題はなかった。
しかし、私はそれを嫌い、人払いをさせておいた。ほんの僅かの間だけだ。

私はこの空虚な檻の前で、“ある人物”を待っていた。
この知らせを受けたのは数日ほど前だった。
私の侍従長を務める鈴木貫太郎が、私に一通の書簡を差し出した。

書簡にはこう記されていた。

突然ノ私信、サゾ驚キ遊バサレタコトト存ジマス。

主上おかみニオカレマシテハ大変ナ御無礼、御許シクダサリマスヨウ。

御用ト申シ上グルノハ、我ラ生物学徒ノ今後ニ関ワルコトニ御座イマス。
主上モ御存知ノトオリ、我ガ国ニ於イテ、生物、ヒイテハ鳥獣類ノ保護環境ハ絶望的デアリマス。
先年殺害サレタ恩賜公園ノ動物タチニツイテ、主上ガ御心ヲオ痛メニナラレテイル事ハ存ジ上ゲテオリマス。
ソレハ、ワレラトテ同ジ事。アレホドノ残虐無道ハ、地獄界ニ於イテモ行ワレヌ程ノ事デアリマス。

シカシ、此度ノ惨事ハワレラノ予期シテイタ事態デモアリマシタ。
故ニ、我々ハ今日ノ事態ニ備エ、周到ナ準備ヲシテ参リマシタ。
是非ソノ成果ヲ、主上に御上覧賜リタク、今事ノ抜キ差シナラヌ情勢、誠ニ御忙シキトコロ、一筆奉リマシタ。

3月10日 正午 上野恩賜公園 ゾウノ檻ノ前ニテ御待チクダサリマスヨウ。
サスレバ、オ迎エニ参上申シ上ゲマス。

凍霧家・第十代目家長及び男爵 凍霧天
帝国大学教授 服部広太郎


差出人は連名だった。その一人は、服部広太郎教授。
彼は帝大の教授であり、また東宮御学問所時代恩師でもあった。

そしていま一人は、 凍霧 天いてぎりてん男爵。
彼は名医であり、日露戦争で多くの人々の命を救った。その勲功を讃えられ、男爵の地位を得た名士でもある。

この二人の共通点は、どちらも生物学に於いて広範な知見を有するという点だ。
私はこの二人から、多くの事を学んだ。

しかし、彼らもまた動物たちに同情を寄せていたのかと思うと、寒々しい心もほんの少し暖かくなった。
だが、私は形の上と言えども帝国の元首だ。前線では今も、多くの将兵が傷つき、死んでいる。

このような情勢下で、人以外のものに心を向けるのは、それこそお門違いではないのか。
私の心の中は若干の混乱をきたしていた。これも、戦局が不明瞭なせいだ。

3年前に始まった英米との全面戦争。だが私には、これが勝っているのか、負けているのかすら分からなかった。
否、むしろ敗勢そのものなのではないか。何も分からない。誰も本当の事を言わない。
私の名の下に始められた大戦は軍人たちの手で進められ、今や英米との講話の時期すら見えない。

この虚ろの檻は、まるで我が国の表象だ。
形だけは大きく立派だが、その実態はどうだ。
その檻によっての保護を必要とするものは、既に皆死んでいるではないか────

「陛下」

一人黙思に耽っていた私を、近衛が呼びかけた。

「はい」

私は振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
長い黒髪に、スーツの上に白衣を纏った女性がいた。

その黒髪は両肩に届くほどの長さで、髪を前まで降ろしているため、表情が見えなかった。
国芳の描いた亡霊のような女性だった。彼女からは、何か奇妙な香気が漂っている。
それは、ラベンダーともバラともつかぬ、奇妙に甘やかな、夢心地めいた香りだった。

さようなら。 お初にお目にかかります、兎歌八千代うかやちよと申します」
女は小さく頭を下げた、私は被っていたハットを取り、頭を下げた。

もう会うことはないでしょう、お内裏様。でも私は、あなたの事を忘れることはないでしょう。 車をご用意しておりますので──────

それから後の事は、茫として思い出せない。気がつくと、私は車に乗っていた。
このエンジンの振動とシートの感触から、察するにこれは御料車ではない。
サイドガラスからは木々の列が、私の視界を通り過ぎてゆくのが見えた。

どうやらここは、どこかの山奥らしい。

しかし、道路はしっかりとアスファルトで舗装されているようであった。
本当の山道ならば、車のサスペンションが振動を吸収し、それが少しでもシートに伝播するはずだ。

私は傍に近衛のものが居ないことに気付いた。いや、私は、この車は、そもそもどこをどう通ってここに来たと言うのか。だが、何も思い出せぬ。もしや私はどことも知れぬ山奥に拉致されたのだろうか。

ふと木々が開けて、アスファルトで舗装された10坪ほどの広場に出た。

背の高い木々や竹が並ぶ中、ここだけがぽっかりと円状に開けている。
樹木は異様なまでに成長しており、建物の背丈を悠々と追い越している。

そしてこれらの木々は奇妙に湾曲して育ち建物を半円に覆い、一種の丸屋根のような役割を果たしている。

私は本能的に、これが爆撃を避けるために設えられた防空設備であると悟った。

そこで、車が止まった。運転手は奇妙なことに、一切微動だにしなくなった。

駐車場には、あちらこちらに幌付きの荷台をつけたトラックが駐車している。
ならばここは、陸軍の研究所か。私の脳裏に嫌なものが浮かんだ。

満州及び北支・南支に於いて、彼らが“何か”をしている事は、私も知っていた。
事実、守衛は陸軍の軍服を着ている。

フロントガラスから、鉄筋コンクリート製の、全高5メートルほどの大きな建物が見える。
その建物の前には、白衣を来た研究者と思しき人々─が10人程並んでいた。
彼らのような服装は、東宮生物学研究所で研究を行なっている私としては、非常に親しみのあるものだった。

その中のうち二人が、車に駆け寄って来た。

一人は、スーツの上に白衣を着た男、服部教授だ。
そして今一人は、灰色の着物に紺の鳶外套を纏い、好々爺のごとき笑みを浮かべた凍霧男爵。
男爵は、車のドアを開けてくれた。私は車から出る。周囲には木々と土の匂い。

男爵は私に深々とお辞儀をした。服部教授もそれに続き、また研究員らしき人々もそれに続いた。

「陛下、お足元の悪い中おいでいただき感謝に耐えませぬ」

男爵は顔を上げると、いつもにも増して和かな表情で私を出迎えてくれた。
服部教授も、どこか晴れがましいような顔をしている。

「どうぞ、こちらへ」

教授と男爵は、コンクリートの建物へと私を誘った。

入口の前には4段ほどの階段に、ギリシヤ風の柱と屋根がある。

柱には「定礎1944/03/01」の文字が刻まれている。
奇妙なのはその下に、生、奉、幣の三つの文字が刻まれているところだった。

鋼鉄製の頑丈な扉の上には、真鍮の看板があった。そこにはこう刻まれていた。

日本生類研究所


男爵と服部教授は私を伴い、先頭を歩いている。
背後には、白衣の研究者が大名行列のような……いや、御幸の際の共働きのように追従してくる。

高い天井には、ところどころ明かりが灯っている。

電球ではなく、細長い管が天井に直接設置されていた。
あれはおそらく、松田式蛍光ランプの明かりであろう。

冷たさを感じる明かりの中をしずしずと進む、廊下の突き当たりに大きな昇降機があった。
それは非常に大きく、ゾウの一頭すら運べるほど巨大なものであった。

教授がボタンを押すと、何かの空気が漏れる音と共に扉が左右に開いた。
私が中に入ると、教授達もそのあとに続いた。

内部は非常に広く、ゆうに私たち全員を乗せて未だ余りあるほどであった。
ドアが閉じる。そうすると、昇降機は自動的に降り始めた。
おそらくこの昇降機は、電子的な仕組みで動く自動型の昇降機のようだ。

壁には階数を表す電子盤が取り付けられている。
火鉢の炭のように赤々と燃える字が、降下を告げていた。

「これほどの大規模な施設、どのように用意されたのですか?」

私は思い切って、男爵に訪ねることにした。確かに男爵は名医であり、豊かな資産を持っている。
だが、これほど大掛かりなものを用意できるほどのものではない筈だった。

「生物学の今後を憂える同士は数多くおります、私とて、合資したのみですよ」
「あなた以外にも、お金を出した人々がいると」
「はい、まあちょっとした事情で名前を出すことはできませんが」
「それにしても驚くべき事だ。この昇降機にしても、これほど大型のものは見たことがない」
「驚くべきものは、これから幾らでもご覧になれるでしょう」

昇降機が止まった。電子盤の文字は「壱」を表示していた。


広いエレベーターホール、壁は白亜の城壁のような白塗りの漆喰。
床はリノリウム張りで、やや病院を連想させるところがあつた。
天井には、松田式蛍光ランプが明かりを放っている。

「ここからは私が案内します」

服部教授が、一団の先頭に立った。

エレベーターホールから長く、広い廊下に出る。
長い廊下の左手に、いくつかの大きなガラスが見えた。
まるで水族館のようだった、事実、ガラスの向こうは高さ4mほど水で満たされているようだった。

服部教授は一番近いガラスに、早歩きで駆け寄り、それをまじまじと眺めた。

「さあ、ご覧ください」

私はガラスに近づいた、そこには───巨獣がいた。

その巨獣は、体長は5mほど、鉛のような灰色の肌を持ち、長細い尻尾を持っている。
やや短い首、顔の両端には翼のごとき大きな耳と3mほどの長い鼻、口の両端に長く鋭い牙。

間違いない、これはアジア象Elephas maximusだ。

しかも、それが三頭。

彼らは、往時の上野恩賜動物公園の花形。ジョン、トンキー、花子の生き写しだった。
かの巨獣は鼻を揺らし、ただ静かに静止しているように思えた。
1頭はガラスの向こうのコンクリートの高台で微動だにせず、残りの二頭は水中にいるのが見えた。

私はガラス戸に駆け寄り、両の掌をペッタリとガラス戸に貼り付けて、それを凝視した。
あたかも、幼き頃に戻ったかのようだった。確かにあれは、間違いなく花子だ。

「い、いっ、生きているのかね。剥製などでは、ない、だろうね?」

私は上擦った声を上げた。

「はい、さようでございます。もしよろしければ、お触りになっても構いませんよ」
「なに、触って良いの、ですか?」
「もちろん。今日は陛下にこれをお見せするためにお呼びしたのですから!こちらへどうぞ」

教授は、ガラス戸の真横にある鉄製の階段に登り、ドアを開いた。
私は教授に続いて、ドアを潜る。

むせ返るような獣の匂い。しかし、どこか懐かしい匂い。

ゾウの“檻”は恐ろしく広かった、三匹のゾウが暮らすのであるから当然であろう。
コンクリート張りの室内に入る。
部屋の中央にコンクリートの台の上のゾウに、私たちはゆっくりと近づいた。

「オス・メス・オスの状態で暮らしておりますので、個体にストレスはありません。さあ」

服部教授は、もう既にゾウの耳のあたりまで近づいていた。
私は恐る恐る、ゾウの腹に触れた。

皮膚はざらざらとして、若干ひび割れたようなシワがある。
暖かい。ああ、生きている。このゾウは確かにここに居て、生きているのだ。

「なんという、奇跡」

私はガラス戸の向こうの人々に、深々と頭を下げた。

「教授!男爵!そしてみなさん!よく、よくやってくれました!よくぞ彼らを、助けてくれました」

彼らは生きていた、ここにいる全ての人が、彼らをここに逃してくれていたのだ。
死んだと言うのは全て、陸軍を欺くための方策であったろう。

これならば、戦が終わればまた、彼らは園に戻るであろう。
だが、こんな事が起こり得るものだろうか。しかし私の疑念は、嬉しさによってかき消されてしまった。


私は“動物園”の視察を続行した。
アメリカ水牛、ニシキヘビ、ガラガラヘビ、豹のハチ、クロヒョウ、ホクマンヒグマとツキノワグマ。

第1層はそこで終わる。

第2層は植物類、第3層は魚類(ここは正真の水族館であった)、第4層は昆虫類、第5層は海洋生物一般でヒトデが印象的であった。第6層は鳥類であった。
特に、トキNipponia nipponが見事であった。

そこで私は、奇妙なものを目にした。

ガラス戸の向こうに、一幅のキャンバスがイーゼルにかけられていた。
キャンバスには、劇場シアトレのように、幕がかけられている。

「あれは何ですか?」

私は教授に尋ねた。するとそこに、笑みを浮かべた凍霧男爵が進み出でた。

「恐れながら申し上げます、あれはまさに、我らの傑作です。どうかご覧ください」

白衣を着た研究員が2人ほど、ガラス窓の傍の扉を開け、左右から幕を開いた。

そこには、スズメのようでいて、かつ赤い羽毛の小鳥の絵があった。

私がその絵を見た瞬間、小鳥は絵から飛び出し、私の方に飛んで来るではないか!
私は思わず人差し指を立て、チーチチチと言う音を出して、その鳥が私の指の周りを飛ぶのを観察した。
しかしその鳥は、凝視すればするほど力を失うように見え、ついには消えてしまった。

「見事なものでしょう?この鳥は、ヒトの認識の中に住む鳥なのですよ」
「認識の、鳥」
「左様。ですがまだ、この種は生き抜く力が弱い。こうしてヒトの認識に晒さなければ弱ってしまうのです」

「これは、男爵、あなたが捕らえたものですか?」
「いえ、この鳥はここで産まれたのです。私は単なるスポンサアドを行なったまでですが」
「常ならぬものの力を使って、ですか?」
「左様。もともとこう言った力は、このように使うべきだと思っております」

私も無知ではない。この国に於いて、隠秘オカルティズム反自然アンチナチュラルの力を振るう者達がいる。無論それは、我が国に止まらぬ。支那朝鮮は言うに及ばず、アジア・ロシヤ・欧州。あるいは南方の呪術者たち。彼らは自らの生存をかけ、七度目の戦を戦っているのだ。

「そうですか。その業が世のためになるのであれば、私は止めない」
「心得ております」
「ところで、地衣類や菌類などの標本はあるのですか」
「無論ですとも、ここには南方教授もおいでになっておりますので」
「熊楠教授が?男爵の交際範囲はとんでもない広さのようですね……」
「では、こちらです」

私は男爵と教授に誘われ、第7層に向かった。


現第7層の視察が終わり、私たちは12層へと向かった。
第8層から第11層までは現状空室であり、今後もここに新たな生物が加えられるらしい。

12層には研究者達のためのスペエスであった。
簡易的な研究室、そして食堂とカッフェを備えている。

だが私はそろそろ、大勢の人間に付き従われる状況に疲れ始めていた。
そも、彼らもそろそろ疲れて着た頃だろう。私は研究員たちを解放してやることにした。

教授が指示を出すと、彼らは三々五々にカッフェや食堂を目指して散って行った。
私は小用を催したため、教授に手水場ちょうずばの場所を聞いた。

教授がついて来ると言うも、私は断った。廊下の突き当たりを左に曲がってすぐ、と言う話だった。
こう言う時くらい、私は1人で居たかったのだ。

廊下を歩く、どこまでも続くリノリウムの冷たい床が続く。
突き当たりに出た、そこで、私は不審な物音を耳にした。

風の音。それが、廊下の突き当たりから曲がって右の廊下から聞こえて来る。

私は自然と、その方向へと足を向けていた。尿意は自然と止み、足取りはそこへ惹きつけられてゆく。
気がつくと、足元の感触が変わった。見れば、そこに敷かれていたのは上等な緋毛氈だった。

廊下の奥に、大きな鉄の扉があった。
扉の奥に何かの光が見える、松田式蛍光灯の明かりではない。

「失礼いたします、陛下」

私の肩に誰からの手が置かれた。後ろを振り向くと、そこには男爵が立っていた。

「御手水でしたらあちらです」
「そうか、済まなかった」

私はそっと、そこを辞去した。


そして私は、教授と男爵との3人で、簡易研究所で休憩をすることにした。
カッフェと食堂には研究員達がいる。彼らに気を使ってのことだった。

私たちは椅子に腰掛け、今では貴重となった珈琲を啜った。

「ご感想はいかがですか、主上おかみ
「素晴らしかった、その一言に尽きます。特に、花子を助けていただきありがとうございます」

その一言を聞いた教授の表情が、若干曇ったように思えた。
私は不審に思い、言葉を続けた。

「どうしたのです?あなたがたは彼らを密かに、ここに逃したのでしょう?」
「いいえ、陛下。そうではありません、彼らはここで産まれました」
「ここで?ジョンや花子に子供が居たというのですか?」
「いいえ。彼らはジョン・花子・トンキーの屍、そのひとかけらから作られました」

一瞬、教授の言っている事がわからなかった。私は確かのほんの数瞬まで、彼らが生きていると思っていた。
しかし、これは……つまり、彼らは、蒐集院などを始めとしたこの世ならぬ業で彼らを作ったという事になる。

彼らは反自然の存在だったのだ。

「なぜ、なぜそれを言わなかったのですか!」

私の心に、激しい怒りが燃え上がった。
わかっている、彼らが悪い訳ではない。

しかし、それでも尚、私には男爵や教授がこれを伏せていたことについて納得が行かなかった。

「申し訳ありませんでした主上、私が先にそれを言うべきでありました」
「いや教授、これは私の責任だ。お誘いしたのは私であるのだから」

男爵も教授も、顔色を変えて謝った。
私はこの国の元首であるのだから、それは彼らにとって当然だろう。
その事実が、さらに私の怒りに油を注ぐ結果となってしまった。

「どうして、どうしてあなた方は……もういい、しばらく1人にしてください」
「ですが」

男爵はこの場に止まろうとする、だがもうたくさんだ、と言う気分が私の中に生まれた。

「下がってください!一人にしてください!」

気づけば、私は机に拳を叩きつけていた。不調法な振る舞いだ、立憲君主としてふさわしくない。
だが、今はどうしても感情に身を任せてしまいたかった。

教授も男爵も、黙って部屋から退出した。

ようやく一人になれた私は、ここで産まれた彼らの事を想った。

どうやって産まれたかは皆目わからぬ。だが、そう言った技術があることは事実なのだ。
しかし、私は思う。どうしてこのような形で、彼らは生きねばならぬのだろうかと。

彼らはここで産まれた、花子たちの代わりとして。だがそれは、我ら人類のエゴそのものではないのか。
それはあまりにも身勝手な振る舞いではないのか。今ここで、小児の如く怒りを抱いた私と同じように。

そういった都合で産み出された彼らがどうにも不憫で、どうにも悲しくてならない。
何故ならばあのゾウ達、彼らの存在そのものが、花子達の不在を告げていたからだ。

やはり彼らは死んだのだ、人間達の勝手気儘な考えで。

故郷より連れて来られ、見世物にされ、人間の勝手な都合で殺され、そして今ここで────

「す、すまない、すまない─────」

私の両目から、滂沱の涙が溢れ出た。彼らの不在はまた、私の威信の不在の象徴でもあった。
もし、私が威信ある君主ならば、軍人達の専横を抑え、国際社会への憤りをなだめる事ができただろう。

そうすれば、今次の大戦はなく、戦時猛獣処分の決定が下される事もなかったはずだ。

しかし、それはならなかった。檻は不在のまま、玉座には空洞化された機関が座るのみ。
なんの役にも立たぬ、国民を守護する事も儘ならぬ、空虚そのものだ。

獣達は死に、園は廃園と化した。

「すまない、すまない、すまない────」

私はただ、静かに涙を流し続けた。


一刻ほどして、私は落ち着きを取り戻した。
そして、改めて、男爵と教授に礼を言うことにした。

「今日は誠にありがとう、様々なものを見た。有意義でした」

男爵と教授は黙って頭を下げた。

そして、男爵は私に視線をやると、おずおずと口を開いた。

「陛下、実は今日、我々は主上に二つお願いがございます」
「お願いですか。構いません、私にできることならば、何なりと」

「ではまず私から申し上げます。我らのこれから為す事を、全て黙認していただきたい」

単刀直入な物言いは、いかにも男爵らしかった。

「ええ、構いません。あなた方の試みは私にとってとても興味深いものです。しかし、黙認とは?」
「では率直に申し上げます。おそらくこのまま戦が進めば……英米は我が国に上陸するでしょう」
「私にはもう、陸軍も海軍も何を言っているのか、真か偽か判断できない。本当なのですか?」
「少なくとも、私の情報筋は確かです。軍人達は既に、本土決戦の計画を始めています」

本土決戦。

考えたくなかった、だがそれはもう、十二分に考えられる事だ。
彼らが、あの英米が爆撃のみで済ませるものだろうか?否、そんな筈はない。

彼らの強大な戦力が我が国に上陸すればどうなるか。
この国のありとあらゆるものは、死に絶えるだろう。

「つまり、この施設は本土決戦に備えたものであると」
「左様。鳥獣類、魚類、木々や花々や虫、地衣類、菌類────これら全てを保護せねばなりません」
「我が国が滅びても、ですか」

男爵は、尋常でない覚悟でこの事業の完成を目指していたのだ。

「左様。なればこそ、我らのやることを、黙って見ていて頂きたい」
「承知いたしました、この施設については陸軍・海軍と言えど手出しはさせません」
「それを聞いて安心いたしました。ありがとうございます、陛下」

男爵は、深々と頭を下げた。

「お話は済んだようですね、では私からも。陛下、一枚写真を撮らせて頂きたい」
「写真、それをどうするのです?」
「陛下の御真影があれば、職員達の励みになりますので」
「御真影、ですか。しかし教授、私はあなたにこう教わったのですよ?私の祖は猿であると」
「もちろん。私は陛下にそうお教えいたしました、あなたの血も肉も人のものだと、ですが」
「わかりました、私でよければ」
「ありがとうございます」

そして、技師が呼ばれた。
私は顕微鏡の横でポオズを取りつつ、写真技師がマグネシウムを焚くのを待った。
そこでふと、奇妙な想像が頭の中に浮かんだ。

「ここで保護される鳥獣類には、日本人も含まれるのですか?もしそうなら、私は?」

そこで、ラベンダーともバラともつかぬ香りが漂った。
私の視界の片隅に、黒髪の女が。

そして私は、御料車の中で目を覚ました。
手元には、男爵と教授からの書簡があった。


本日ハオイデイタダキ、誠ニ有難キ幸セデシタ。

我ラハ鳥獣類保護二邁進シテマイリマス。

イツカマタ、オ会イイタシマショウ。

日本生類研究所 所員一同ヨリ


1944年3月10日 午後18時 日本生類研究所研究室内 帝国大学教授 服部広太郎

主上おかみはお帰りになられたようだな」

男爵はそう言うと、年代物のウイスキイを私と、そして自身のグラスに注いだ。

「ひとまず、ご苦労でした。では我らの前途に、乾杯!」

私と男爵は、琥珀色の液体を飲み干した。

「男爵、ところであの兎歌とかいう方についてなのですが……」
「あの人のことなら心配ない。一時休戦と言う事で承知してもらってる」
「男爵、本当によろしいのですか?これは売国行為にあたるのでは?」

あの人とは、他ならぬ兎歌八千代のことに他ならない。
彼女は、英米と直接の繫がりを持っている。言うまでもなく、財団だ。

兎歌八千代は伝え聞くところによれば、内務省の対抗諜報網カウンターインテリジェンスの捜査線上にある日突然現れた人物だという。そして一度捜査線上に浮かんで以降、それ以来消えてしまった人物でもある。そして彼女は再び現れ、私と男爵に交渉を持ちかけてきた。自分を保護するように、と。男爵はそれを快諾した。

今次大戦より以前から、財団は我が国の超常コミュニティ内に存在していた。
もっともやることと言えば、海外から日本に諜報員を送ったり、学者を雇用するなどして臨時研究員として英米に報告書を送らせる程度のことだ。明治・大正にかけては蒐集院の力が圧倒的に強く、今は陸軍の超常コミュニティが強大な影響力を発揮しているため、我が国に対する影響力は小さかった。少なくとも、日米開戦前までは。

しかし、今は状況が違う。彼らは日本国に敵対していた。

彼らは今、南方及び大陸で大日本帝国異常事例調査局IJAMEAに連なる陸海軍の諸機関を、追い回し、追い詰め、叩き潰していた。いずれ彼らの手も本土に及ぶことを考えれば、彼女の身柄を内務省や陸軍の手から保護するにくはない。凍霧男爵はそのように考えていた。

「売国?もうこの国は滅びるんだよ。本土決戦と言うのはね、国民みんなで死ぬ事を言うんだ」
「やはり、避けられませんか」
「だからこそここを作った、君も承知のはずだろ。ところで服部くん、君は彼女をどう思う?」

歩きながら唐突に話を振られた私は、頭の中で考えをまとめつつ答えた。

「彼女の情報隠蔽技術には、正直舌を巻くものがあります。彼女が使うあの記憶を消す技術、人目に絶対につかない技術。あれは、認識阻害とも呼べぬ、何か別のものです」

「そうかね、しかし獨逸ドイツにも彼女ほどの巧者は数多いるのでは?」
ドクトル・ビスマルクですか、彼女はもしかすると、彼以上かもしれません」
「そうかね……ならば、気をつけるとしよう、ところで、最終収容室の様子を見に行かないかね?」
「ええ、私も最終的な仕上がりを観たかったところです」
「では行こうか」

私たちは、研究室を出て、鉄扉の前にたどり着いた。

男爵が扉を開けると、そこには抜けるような青空が広がっていた。
私は大きく深呼吸をした。草と木々の香りが、口腔いっぱいに広がった。

ここは、アズマとキサラギなる二者によって作られた場所だ。どのようにしたのか、私にはわからない。
広さはどれくらいかと、キサラギの棟梁に聞いたことがある。
棟梁は「40万坪」と、事もなく答えた。視界の向こうには、御所が見える。

今上陛下がいいかけたことを私は脳裏に反芻していた。
ここで保護される鳥獣類には、日本人も含まれるのですか?もしそうなら、私は──────

そう、その通りですよ陛下。

ここが、最後の保護すべき鳥獣類。「日本人」の檻なのです。

あなたとあなたのご家族が「最後の日本人」にあらせられるのです。
あなたがここに来る頃には、私も、男爵も死に果てているでしょう。

科学の進歩は飛躍的だ、いずれは太陽を相手に投げつける事もできるようになるでしょう。

ですが私は、虚ろを抱えたこの檻が、その用を為すことがないよう、望んでもいるのです。

hirohito.jpg

収容予定個体 Homo nipponia japonica

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