百問百答
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「ハァッ!」
「ぬぅーッ!」
小林博士の放った飛び蹴りを霧甲水博士は奇妙なほど大きな身ぶりで避ける。小林博士が蹴りの勢いのまま着地した瞬間、見た目からは考えられないほど大きな音と振動が道場に響いたことを見れば、それがただの飛び蹴りではなかったことが分かる。着地した姿勢で座り込んでいる小林博士の背を目掛けて霧甲水博士の剛腕が陽炎のように揺らめきながら繰り出されたかと思えば、小林博士の姿が同じように揺らめいて消え、空を切った拳を霧甲水博士が咄嗟に頭上に掲げた次の瞬間には、今まさにその首を落とさんとばかりに手刀を放った小林博士の鳩尾に……否、落下する猫のように体をねじ曲げた小林博士はそのまま拳を肩で受け、転がるように衝撃を殺しながら着地。バックステップで距離を離した。

瞬きをするほどの僅かな間に交錯した奥義、その数8。周囲を取り囲む財団職員は二人の攻防を文字通り息つく間もなく目に焼き付けている。

「共振パンチ……いや、共振飛び蹴りと言うべきか。ただでさえ困難な技をここまで昇華するとは恐れ入った」
「そちらこそ。初見必殺の超音割空掌をあのように破られるとは思いもよらなかったぞ」

乱れた胴着を直す間にも互いの技の論評を交わす姿を見れば、この二人が繰り広げているのがただの死闘ではなく、何らかの演武であったことは一目瞭然であろう。
小林博士と霧甲水博士、国内でも有数のSCP-710-JP-J継承者がこのような場で何をしているのか?
それを語るためには今しばらく時を遡らねばなるまい。

ことの始まりは数日前の早朝である。
起床後、身を清めてすぐに私設の小さな道場に座した小林博士が、瞑目しながら静かに息を蓄えている。
吸う。止める。吐く。止める。吸う。吸う。止める。吐く。そして吸う。
奇妙な周期で呼吸をする度に彼の肌は赤く、あるいは青白く変わり、それに合わせるかのように屋内だというのに陽炎のようなもやが浮かんでは消えていく。
彼が最近編み出したこの「熱血健康法」と「冷血健康法」は、その名の通り特殊な呼吸法によって血液の循環を操作し、体温を「血が沸き上がるほど」に高く、あるいは「血が凍りつくほど」に低く変化させるというSCP-710-JP-Jの奥義である。
この二つの技を組み合わせる事で身体の代謝を活性化させるだけではなく、除去困難とされていたSCP-444-JPの残留物を除染可能であるという発見が財団にもたらされたのは記憶に新しい。

小林博士が頭を軽く振って鼓膜の奥にこびりついた鳥の断末魔の幻聴を払い落とそうとしたのと、道場の扉が派手に吹き飛ぶのは同時だった。
「邪魔をするぞ!」
扉の残骸を撒き散らして現れたのは筋骨隆々の半裸の男、霧甲水博士である。彼は財団の修繕費の主な発生源として知られており、小林博士の道場の扉を破壊するのは今月に入って4回目になる。
「たわけ、本当に邪魔をしに来る奴がいるか!」
最小限の動きで飛散する残骸を交わしながら立ち上がった小林博士が凄む。
「ふむ。ちょっとぶつかったようだ。すまんな」
まるで反省の様子が見られない霧甲水博士に呆れながら、小林博士は傍らに立てかけてあった箒を投げてよこし、顎で床を指して促して言葉を続けた。
「で、今朝は何用だ。この前のオブジェクトについては現実改変案件ではない、ということで片が付いたはずだが」
「応。その節は世話になった。だがそれとは別件だ……いや、関係が無いわけではないのだが」
床を掃き清めながら霧甲水博士が続けて言う。
「あの件を担当した研究員は5人居たが、そのうち3人は段位クリアランス2/710-JP-Jを所持していた。にもかかわらずあの体たらくとは情けない、たるんどると言わざるを得ないのではないか?」
「ああ。それは儂も少し気にはしていた」
「だろう?最近の若い奴は、とは言いたくはないが、鍛錬が足りていないのは事実ではないか」
「うむ……しかし、見たところ修練の時間が不足しているようには思えん。であれば何か別の要素があるのだろう。桶は一番短い板から水が漏るものだ」
「そうか?」
「そうだ」
若手の育成に比較的熱心な小林博士にそう言われてしまえば、霧甲水博士も沈黙せざるを得ない。無言のままでかき集めていた残骸を塵取りでゴミ袋に入れ終わると、じっと小林博士の方を見つめている。
「……実践……か」
「儂もそれを疑っている。以前に比べて段位クリアランスを所持する職員は増えた。代わりに、一人ひとりが現場でそれを用いる機会は減少しているのではないか?」
「まずい……まずいぞ、小林博士。それは良くない。それではまさに"机上の空論"ではないか」
"机上の空論"とはSCP-710-JP-Jの秘伝書(禁帯出・コピー可)の中でも特に堅く戒められている非道のひとつである。
「無論、直ちに問題が起こるということは無いだろう。だが時間の問題でもある。何かしらの手を打つ必要はあるな」
「だがいたずらに外で使わせる訳にもいかんぞ。組手も力量のつり合った相手でなければ酷い事になる」
「ならば……」
「あれか……」

『百問百答』

奇しくも同じ答えに辿りついた二人は頷き合うと、それぞれが最善を尽くすための道を切り拓きはじめたのだった。

二人の博士の決断から数日が経ち、サイト管理者をはじめとする諸々の職責者が渋々ながら承認した結果、サイト-81██の特別道場には多くの大勢の財団職員がひしめき合っていた。
一つ屋根の下にこれほどの人数が集まっているにも関わらず、まるで誰も存在しないかのような静謐は、さながら重要な試験を前にして緊張感に包まれた学生のようでもある。しかしその眼前にあるのは教壇などではなく、正方形状に線が引かれている板張りの道場であった。
彼らの視線の先に立つのは、胴着を着た痩躯の男である。黄金の糸で名を刺繍された帯を身に付けた彼こそ、SCP-710-JP-J―財団神拳伝承者の一人、その名を小林博士。古希を迎えた体であるはずだが、その姿から彼の正確な年齢を推し量る事は難しい。

時計の短針が数字の位置に動くと同時に、場内に一瞬"風"のようなものが吹き、財団職員が一瞬、ざわめいた。扉の残骸と共に道場に入ってきたのはやはり胴着を身に付けた一人の巨漢であり、その帯には「霧甲水」との刺繍が施されている。

「少し遅れたかな?」
「いや、時間通りだ」
僅かなやり取りをして、二人の博士は位置についた。
多くの財団職員達が固唾を飲んで見守る中、数拍を置いた後に二人が同時に身構え、示し合わせたかのように己の拳と手のひらを胸の前で合わせ、上半身を45度きっかりに傾けた。

財団神拳奥義「解放礼儀」。段位クリアランスを所持する職員が最初に習得する奥義であり、実力を測る上で最も重要視される技の一つでもある。
即ち、手と拳を合わせる場所、肘の位置・肩の高さから礼の角度に至るまでの全てを正確に再現できなければ不十分な効果しか得ることができず、実戦であればその先に待つのは明確な死である。故に、財団神拳を志す者は解放礼儀の習得を通じて全ての基礎を築くと同時に、その完成度を見ることで段位クリアランスを推し量ることが出来るのだ。

「相変わらず見事な礼だ。流石は"最初の7人"といったところか」
「ご謙遜を。見たところ貴殿の礼も完璧ではないか」
二人は礼の型を解くと、拳を構えながら相対する。小林博士をはじめとする"最初の7人"とはSCP-710-JP-Jの初期検証チームであり、現在では伝説として語られる職員達の事を指す。何名かは既に財団には在籍しないものの、今なお生き残る者は多くの職員から尊敬を集める立場にあるのだ。
他方、霧甲水博士は検証チームへの選出経験は無いものの、持ち前の肉体と向上心によって名入りの帯を授けられるに至った有数の実力者である。

「さて。初手は譲ろう。どこからでも来たまえ」
「ではこの霧甲水が挑もう。征ッ!」
ダンッ、と霧甲水博士が床を蹴って飛んだ瞬間、その姿は既に小林博士の眼前にあった。
(……速い!)
一瞬で小林博士の懐に入った霧甲水博士は、そのままの勢いで左第十二肋骨めがけて拳を繰り出す。その打撃の周波数は███Hzである。狙いに気づいた小林博士は咄嗟に「頭上に」跳び、打撃を「腹部」で受け止める。
財団神拳において技を繰り出した直後、そして破った直後こそが致命的な隙であり、それを突かれることを嫌った両者は共に後方に跳んで間合いを広げた。
「流石は小林博士。この程度の共振パンチであれば受けきる事など造作も無い、か」
「いやいや。以前より腕を上げられたな」
共振パンチは共振現象によって硬い物体を破壊する事に長けた技であるが、固有破壊振動数の計算が困難である複雑な構造を持つ物体―例えば人体のような―に対してはあまり有効でないとされる。また、高い威力にばかり目が行くものの実際には「当たり所」が変わるだけで振動の伝わり方が変化し、期待した効果が全く得られない事もある。極めて繊細な技であり、小林博士があえて腹で打撃を受け止めたのもそのためだ。
「さて、一問目はお見事。では二問目を戴こう」
「応。では霧甲水博士よ、我が技を見事解いて見せよ。呼応ォォォ!」

円熟した使い手達によって次々に繰り出されていく技の数々を、周囲の財団職員達が食い入るように見つめているが、時が経つに従ってその数は徐々に減少している。二人の師範が続けざまに放つ奥義を「検算」しようとして知恵熱を出して倒れているのだ。このような未熟者は直ちに道場の外に運び出され、それぞれ適切な処置を施されている。

SCP-710-JP-Jの秘伝書には「使えて三流」という言葉が書かれている。単に財団神拳の技を使えるようになった"だけ"では三流に過ぎない、という意味だ。
そして、「破って二流」。相手の繰り出す技を適切に破ることが出来るほどの知識と経験、そして技の腕前を積んでようやく二流に辿り着くことが出来るという。
では一流とは?
その問いに応えるかのように、秘伝書の短い節の最後にはこう記されている。

「解かせて一流」。

受けた相手が「正しい知識と正しい方法を用いることで」「正しく解くことが出来るほどに正確な技を」「何度でも繰り返し放つ事が出来る」ようになって初めて一流として認められるのだ。これは即ち、後進に正しい技術を身に付けさせるために必要な能力であるとも言える。
そして、一流同士が互いに50の技を打ち合ってその応酬を見せ、覚えさせることで門下を育成する儀式。それが財団神拳究極至難奥義・後継伝承儀典「百問百答」である。
財団神拳の歴史を紐解いても、この百問百答が最後まで成立した回数はあまりに少ない。たとえ師範級の使い手であったとしても、百の技の応酬の間に溜まる疲労によって手元が狂った結果不完全な技で自滅したり、相手の技を受け損ねて致命傷を負う、という事故が常に付きまとう。単に相手を打倒するのではなく、相手を生かし、自分を生かすことが求められるが故に、秘伝書の中でも究極至難の技として記録されているのだ。

70問を越え、80、90問と過ぎると、流石に二人の使い手たちにも疲労の色が濃くなってくる。だが繰り出す技の正確さは衰える事なく、今まさに小林博士が放とうとした「生体電位式ローレンツ力発射指弾」は霧甲水博士によって始動直前に未然に防がれて終わった。99問目が終わり、次の霧甲水の技が最後の"問題"である。
「いよいよ……遂に……いや、やっと最後の問題か」
「流石に疲れたのではないか小林博士?」
「ぬかしよる。それよりも次の問いをよこせ。最後だからと手を抜くなよ」
「良かろう。これを喰らってくたばるなよ小林博士!」

ダンッ、と霧甲水博士が床を蹴って飛んだ瞬間、その姿は既に小林博士の眼前にあった。
(……速い!)
一瞬で小林博士の懐に入った霧甲水博士は、そのままの勢いで左第十二肋骨めがけて拳を繰り出す。狙いに気づいた小林博士は咄嗟に「頭上に」跳び、

違和感!

確かに、百問百答において同じ"問い"を放つ事はあまり褒められた事ではないものの禁じ手ではない。しかし霧甲水博士ほどの使い手が、初手に使ったものと同じ技を最後の問いに使うだろうか?

打撃を「腹部」で受け止めようとした小林博士の跳躍高度は低い。もはやここからの回避は不可能に見えた。

否!

「二重反作用空歩術!」

霧甲水博士の拳が小林博士の鍛え上げられた腹部に突き刺さろうとした瞬間、その姿が消える。何処からか得た推進力で更なる跳躍を果たし、恐るべき死の一撃を見事回避したのである。

「お見事!」
「お見事!」
「お見事!」
周囲で最後まで残っていた財団職員達が感涙を流しながら立ち上がる。
歓声を聞きながらも静かに着地した小林博士は、ばつの悪そうな笑みを浮かべる霧甲水博士を促して位置に付き、最後の礼を交わした。

かくして、サイト-81██にて執り行われた財団神拳究極至難奥義・後継伝承儀典「百問百答」は成功裏に完遂されたのである。

「で、小林博士よ。最後のは完全に入ったと思ったのだが、どうやって回避したんだ?」
あれから数日後。
今月で5回目となる霧甲水博士の来訪を受け、小林博士はため息を付きながら床を掃き清めていた。
最後の霧甲水博士の一撃は、初手に見せた共振パンチの様相をなぞりながらも、その実態はいかなる振動も加えられていない「何の変哲も無いただの拳」であった。
何の気も無しに分厚い扉を蹴破る男の、全力のパンチである。もし仮に初撃と同じように腹部で受けていたとしたらどうなっていただろうか。
「まこと、恐ろしい"ひっかけ問題"だったぞ」
「で、それをどうやって避けたのだと聞いているのだが?」
しつこく問い続ける答える霧甲水博士を睨みながら、小林博士は答える代わりに何かを投げた。
霧甲水博士が咄嗟に受け取ると、果たしてそれは彼が粉砕した扉の破片であった。
「開始直前にどこかの誰かが扉を蹴破ったようでな。その破片が飛んできたので、拾ったまま握っていたのだよ」
「あの二重反作用空歩術は……!」
自分の悪癖が決定的な一撃を破られる原因となったことに気が付き、霧甲水博士が大きな体を小さく折り曲げて崩れ落ちた。
ただ、霧甲水博士がこれを教訓に財団の支出する修繕費を削減しようとすることは、残念ながら恐らく無いだろう。

今後も扉を壊される未来を察しながら、小林博士は静かにため息を付いた。

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