碎啄同時
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午前五時。まだ外は暗く、僅かな曙光が夜を染めようとする中、雛倉結愛は目を覚ます。
傍らの時計を確認し、錠剤の瓶を倒さないように起き上がった。
ベッドと最低限の家具しかないシンプルな室内。娯楽の類は一切存在しない。
隈に縁どられおおよそ健康的とは言えないその憂鬱気な目をこすり、トレーニングウェアへと着替える。

所定の手続きを終え、職員寮を抜け出すと軽く体を慣らし、走り始める。
朝の街は静かで、冷たい。濁った思考にその何処か張り詰めた空気が混ざり、思考が急速に動き出す。
全身に薄く汗が滲む。引き締まったその身体は日々の生活を想像させる。
もちろん、体を鍛えるのが好きだという意味でも雛倉は運動が好きだ。
だが、一番の理由としては運動をしていれば思い出さずに済むから。

今夜は悪夢を見なかった、そろそろ薬の量を減らしてもいい頃かもしれない。
あの日から常備薬となった睡眠誘発剤の瓶を思い出しながら雛倉はジョギングを終え、自室に戻る。

ストイックなまでに鍛えられた彼女の肉体は一種ギリシアの彫刻を思わせた。

午前七時。自室でのトレーニングを終え、雛倉は食堂に向かう。
適当に注文し、麦茶を啜りながら食堂を見回した。朝早いからか人影はまばら。だが雛倉に近づく人間はいない。
もちろん、雛倉の出自もある。だがそれは一般的な職員に公開されるものではない。
彼女の境遇の原因は雛倉自身が人と関わるのを好まない性質であり、人を寄せ付けない雰囲気を纏っているが故。
雛倉は人間が全般的に嫌いだった。

午前九時。いつも通り出勤した雛倉は今日が非番であることを思い出した。
財団という異常な組織だからこそか、こういうとこは妙にしっかりしている。
彼女にとって休日というものは退屈なもの、いや、忌むべきものだ。仕事に邁進していれば少なくとも考えずに済む。
どうしようかとしばし考え込み、結局雛倉は武道場へ足を運んだ。

平日の武道場は人がいない。雛倉が入ったときもそれは同じで、気配のしない武道場に雛倉は僅かに安堵する。
防具を付けるほどでもないだろうと竹刀を借り、打ち込みを無心になるまで繰り返す。
一時間ほどそれだけを繰り返し、雛倉は汗を拭く。

まだ甘い。並大抵の人間であれば容易に一本は取れるだろうが、有段者相手にはまだまだ厳しいだろう。
そう考える雛倉の脳裏に過ったのは数少ない知人の中でも最も接点が多いと言える先輩、立花の姿。
その苛烈な性格に似合い、彼女は剣道の有段者、噂では免許皆伝クラスの腕前だと聞く。
事実、一度手合わせしたときは手も足も出なかった。肉弾戦ならばともかく剣道ではまだ遠く及ばないだろう。
空腹を覚え、一礼すると武道場を後にした。


正午。昼食を取るために食堂に向かった雛倉は珍しく見知った顔を見つけた。
屋敷信正。財団においてもその性格と異常性アレルギーとでも言える気質の為か、鼻つまみ者として扱われている。
事実、二回りほど年の離れた屋敷の周囲には誰もいない。そこで目が合った。

いつもならばフンと鼻を鳴らし屋敷はそのまま食事に戻る。はずだったが珍しく屋敷は手招きをし、雛倉を呼び寄せる。

「…何ですか」
「そんな嫌そうな顔しなくてもいいだろうがよ」

嫌味な笑いを浮かべる屋敷。雛倉は仕返しとばかりに気だるげな眼を向ける。
屋敷は誰に対しても尊大で傲慢、なおかつナルシシズムの権化のような男。
だが、雛倉は自分に対しての態度が微妙に柔らかいと感じている。もちろん、誤差の範囲内ではあるが。
雛倉自身も悪性を隠そうともしない屋敷は他の人間よりも話しやすい。もちろん、誤差の範囲内ではあるが。

はぐれ者の二人が顔を突き合わせているこの状態は食堂にとってもいい営業妨害だろう。
とっとと話を切り上げた方がいいな、と雛倉は屋敷を促した。

「用があるなら早くしてください」
「周りの客のこと気にかけているのか? …まあ、俺としても早く片付けたいからな」

屋敷はコーヒーをひどくマズそうに啜り、一瞬そのにやけ笑いを消した。

「雛倉、今日は暇か」
「非番です」
「なら話は早い。粟倉を連れて来る」
「待ってください」

立ち上がった屋敷の袖を掴む。振り払おうとするがそう柔に鍛えてはいない。
逃げ出そうとした屋敷も、取りすがった雛倉も互いに嫌な汗を流している。
粟倉花。雛倉と屋敷、どちらも知人友人が少ない二人の共通の知人。それだけで汗の理由が分かるだろう。

愛と平和の伝道師を名乗る彼女は、神経伝達物質の異常分泌に伴う常軌を逸したポジティブさを持つ。
そんな彼女と行動するということは雛倉にとっては劇物を摂取するに等しい。ハッキリ言って苦手だ。
同時に屋敷にとっても粟倉は不如意な相手であり、そのくせ屋敷の研究室付きの一人でもあり。

「冗談じゃないですよ」
「それはこっちの台詞だ、間の悪い事に俺とアレの非番が重なった」
「喜べばいいじゃないですか」
「喜べるか、既に朝から振り回されてるんだ、お前も巻き込まれろ」

やいのやいのと押し問答を繰り広げる二人。徐々に食堂の眼が二人に集まり。
それに気づいた雛倉は一瞬でパニックに陥った。

雛倉は人の目が苦手だ。
自分が見られることに異常なまでに不安を覚える。呼吸が荒くなり手先が震え始める。

屋敷はようやくそれに気づいたのか、周囲の群衆を睨み退けた。
人の目線が外れ、震えが落ち着くまで屋敷は黙って座っている。雛倉の眼にはただその義足だけが映っていた。

「…すいません」
「面倒な奴め」
「…すいません」
「フン、許してやる。上手く時間が稼げたしな」
「…え」

屋敷の声に顔をあげた雛倉は、そこにふわりとした金髪を見た。

「あらあらー、どうしたの、結愛ちゃん」
「あ、…粟倉、さん」
「花ちゃんでいいって、そーれ、御挨拶」

極めてナチュラルに、雛倉の近づくなという全力の抵抗にも躊躇うことなく、粟倉は雛倉をハグしその頬にキスを。
雛倉は全身に鳥肌を立てながら、その場を逃走する屋敷の姿だけを目で追っていた。


午後四時。結局雛倉はその後粟倉に振り回されるように街へ出かけ、買い物を終えた今、喫茶店で落ち着いていた。
雛倉は主に不足していた生活必需品を、粟倉は大量の服やアクセサリーを。
外見に関心を払わない雛倉は財団の給与が破格とはいえ、と口元をひきつらせたのは言うまでもない。

「結愛ちゃん、これ美味しいよ」
「…ありがとうございます」

雛倉は甘いものが好きではない。正確には食事全般に関心が無い。
むしろ、食事をすることは割と苦痛で、栄養食品とサプリメントだけで済ませておきたいのが本音だった。
カウンセラーにそれを止められてから普通に食事を摂るようにしたものの、作業であるという実感は拭えない。

粟倉に突き出されたケーキをもそもそと頬張り、味も分からないままに飲み干す。

「結愛ちゃんは元気ですか?」
「…ええ」
「駄目ですよ、元気にならなくっちゃ。嫌なことがあったって、きっといつか幸せになれるのですから!」
「…ええ」
「愛と平和は全てを救うのです、ラブ&ピース!」

粟倉は人の感情が分からない。正確には人の感ずるであろう精神的な負荷や衝撃が理解できない。
それは非常に幸せなことだ。しかし、雛倉のように大きな傷を持った人間にとってその無理解は酷く響く。

陰鬱にストローを弄び、そろそろ帰るべきかと夕闇が迫りつつある外に目線を送る。
穏やかな夕暮。歩く家族連れ。雛倉にとってあまり楽しいものではないそれら。
雛倉は子供が、正確には家族というシステムが嫌いだ。大嫌いだ。
憎しみとも悲しさともつかない説明しがたい感情に襲われてしまい、ついつい睨むようにしてしまう。

その目が、それを捉えた。

「引ったくりですね」

自転車の男が子連れの女性からハンドバックを引ったくり逃げようとしていた。
女性は倒れ、子供が取りすがって泣いている。胸の奥から苦い何かが溢れてくる。

そして雛倉は自分でも気づかないうちに立ち上がり。
喫茶店を飛び出すとまだスピードの出しきっていない自転車を捉え、渾身の一撃を加えた。
激しい衝突音と共に自転車ごと男は吹き飛び、慣れた手つきで雛倉は男を締め上げた。

午後五時。押っ取り刀で駆けつけた警官に犯人を引き渡し、雛倉は息を吐く。
周囲には視線。好ましいものであれど、動悸が始まりかけていた。とっととこの場を去らなくては。

粟倉を探すと引ったくりの被害者に付き添っているようで。面倒だと思いつつもそれに近づいていく。

「粟倉さん」

雛倉の言葉に粟倉は顔を上げ。それにつられるように女性とその娘も顔をあげ、礼を、言った。

「助かりました、ありがとうございます」

同年代程のその顔には一見分からないほどの引き攣れが無数に走っていた。
雛倉の動悸が突如早まる。全身から嫌な汗が噴き出す。何故、どうして、いや違う。思考が必死に否定する。
だが、相手はまじまじと雛倉を見つめ。

「…どこかで、お会いしましたか?」

SCP-014-JP-EX-1。かつて自分が指定されていたその番号が頭の中を渦巻いていく。
目の前の女性は、そうだ、ああ、そうだ。記録を確認した、顔に走る無数の入れ墨。
誰とも会ったことはない。でも。整形後の顔は乗っていなかったが。それでも。本能が察する。

SCP-014-JP-EX-3。雛倉は勝手に眼前の女性をそれと決めつけた。

ああ、何故だ、何故だ、何故だ。彼女はなぜこんなにも幸せそうなのだ、彼女はこんなにも平穏なのだ。

憎しみとも怒りとも羨望ともつかないどす黒い感情が雛倉の心を占める。
哀しみが恨みが憧れが毒のように雛倉の体を渦巻く。

何故、私は、ああ、Mein Leben war sinnlos.

雛倉は吐き気を必死に堪える。今にも叫び出しそうになる躰の震えを全力で押し留める。
記憶が逆流する、思い出す、思い出してしまう。意識のヒューズを切ろうとするがあの日の笑い声がそれを許さない。

倒れるハリボテ、笑い声、ああ、ああ、ああ―――。

足元は揺れる。いくら鍛えたって、それは覆せない。ああ、私の一生は。

思わず、女の頸に手が伸びそうになる。今彼女を絞め殺せば、私は。
意味のない事だ、私の人生に意味など。
震える手を差し出した、そこに。

「ありがとう、お姉ちゃん」

盾になるように飛び出した少女へ声にならない悲鳴を雛倉は漏らす。―――赤子のように。

そして、緩やかに手を引いた。

意識は徐々に平静へと戻ってくる。
地面の揺れは消え、嫌な汗は噴き出ているが少なくとも見れる姿ではあるだろう。
記憶の中の笑い声は未だ聞こえるが、耐えられないほどではない。

「…お怪我が無くて良かったです」

それだけを告げ、踵を返し足早に。いつも以上に陰鬱な声とその視線。粟倉が心配そうに額に手を当ててきた。
全身は気怠く、熱があるようで。きっとまたしばらく薬の量を増やす必要があるだろう。
でも、それでも―――。


午後八時。コップに水を注ぎ、ジャラジャラと錠剤を飲む。

そしてそのまま目を閉じる。夢の中では笑い声が響いた。
恐らく今夜も悪夢を見る。過去という名の悪夢を見る。自分の存在が消えてしまえばいいと思う。

雛倉は自分の首を緩く締める。自分の手で締め付ける。
徐々に力が篭っていく、彼女に、SCP-014-JP-EX-3に行おうとしたように。

徐々に息が荒くなっていく、脳が酸素を求める。
ああ、ああ、ああ、あのとき、死んでしまえればよかった。
燃えろ、燃えろ、燃えろ、死んでしまえ、お前なんか死んでしまえ。
お前はそもそも生きてすらいない、死ね、死ね、死んでしまえ。
私の人生に、意味など。

それでも、私はこの場所で生きている。

雛倉は自分を絞め殺そうとした指を緩める。陰鬱な顔で天井を睨む。
これ以上こんな過去を生み出させてはいけないと。そう、願う。

その為には生きるしかない、生きるしか、ない。
お休みなさいと呟き、雛倉は悪夢の中に沈んでいった。

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