第〇〇九一番
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西班牙行末箱蒐集物覚書帳目録第〇〇九一番

一六二〇年十月補足。按察司"金地院崇伝"が発見。西班牙行末箱は伊達家家臣"支倉常長"によってイスパニア(スペイン)から持ち込まれた蒐集物である。横約二寸、縦約三寸、奥行約一寸程度の大きさの箱であり、鮮やかな紺青色で着色されている。外面には"和平"を意味する英語と、日本語による長文が記されている。一九四〇年現在、西班牙行末箱は蒐集院本院にて安置されているが、保存状態は悪い。

西班牙行末箱は未来から伝来した蒐集物とされており、それ以外の特筆点は存在しない。その来歴に関する資料は、支倉常長が伊達政宗への報告のために書きしるした手記や、金地院崇伝による密書などから複数発見されている。以下の文書群は、それら手記群に脚注を加えたものであり、可読性のために一部現代語訳されている。原文及びすべての資料は添付文書群を参照のこと。

崇伝から覚範寺住職に送られた密書-1


伊達政宗がイスパニアへ船を出すそうだな。幕府へは"仙台藩とイスパニアの通商交渉"が目的と報告しているようだが、隠密の報告では"イスパニアと軍事同盟を結び、幕府を転覆させること"が真の目的らしい。前々から面白い男だと思ってはいたが、ここまで見所満載の男だとは思わなかった。これはまだ秀忠殿の耳には入れてはいないが注視が必要だろう。手間を掛けるが宜しく頼む。

と、言ってもイスパニア本国は果てしなく遠いと聞く。とても船が帰ってくるとは思えんがね。

(慶長十八年)

慶長十四年、上総国にイスパニアのガレオン船が漂着したことでイスパニアと江戸幕府の関係は始まったが、江戸幕府は全面的な外交を行わなかった。幕府はイスパニアの植民地政策を知っており、イスパニアと深い関係を拒んだとされている。

この背景の中、慶長十八年の十月に伊達政宗は幕府の許可を得て、イスパニアへ向かって使節団を派遣している。この動作は明らかに不審であったが、幕府の重鎮として地位を確立していた伊達政宗が幕府から信頼されていたことや、イスパニアの侵略を恐れた幕府が、イスパニアと一定の距離を保ちつつ友好な関係を維持するための外交策として許可を出したと考えられる。

按察司"南光坊天海"の提案によって慶長十七年から始まった禁教令により、処刑寸前であったところを伊達政宗の助命嘆願により救われたイスパニア人の壊神教1宣教師"ルイス・ソテロ"を正使とし、副使には伊達家家臣"支倉常長"を据えた使節団は、約百八十人を派遣する大使節団となった。航海は順調に進み、三か月後にはメキシコに到着し、その年の十二月には首都マドリードに到着した。その際、支倉常長は当時のイスパニア国王フェリペ三世と謁見し、西班牙行末箱を受け取っている。

支倉常長手記-1


フェリペ王は私たちをあまり歓迎していないようだった。しかし我々の献上品を見ると態度を一変させ、友好的に接してきた。

フェリペ王の態度を変えさせたのは献上品の上紙に書かれた"献上品"という漢字だった。フェリペ王が側近に指示を出すと、側近は紺青色の面妖な箱を見せてきた。

その箱には書体こそ違うが、恐らく漢字と平仮名が記されているのが見て取れた。フェリペ王はこの箱に記された文字と漢字が似ていると言い、眼を輝かせていた。この箱の来歴をフェリペ王に問うと、王はこう答えた。

ある日、二十一世紀から来たと自称する男が王宮を訪ねてきた。男は自身の保護を要求してきたが、如何にも怪しかったのでその日の内に牢に捕らえたらしい。男の持ち物を調べると、面妖な道具が次々と発見された。特にフェリペ王の心を掴んだのは、一分判程度の大きさしかないにも関わらず、意図も簡単に火を起こせる道具だった。フェリペ王は男にこの道具について聞こうと思ったが、男はこの箱だけを残して跡形も無く消えていたという。

イスパニアはエゲレスとの戦争で痛手を負い、国力増強に躍起になっているようだった。フェリペ王はその男の持っていた道具の技術力を欲している様であり、そのために男の残した箱について是が非でも知りたいらしい。フェリペ王より通商並びに軍事同盟の条件として、日の本でのキリスト教布教と、箱に記された文字の解読を協力することを提示してきた。

箱の文字は日の本語ではあると思うが書体が違い過ぎてその場で解読できなかったため、学者を交えて解読する故待ってほしいという旨を伝えると了解を得ることができた。

(慶長十八年)

支倉常長はこの謁見でフェリペ三世と急接近している。支倉常長とフェリペ三世の友好関係が気付かれたことで使節団はイスパニア領内での長期滞在を許可された。翌年八月に支倉常長はフェリペ三世同席のもと、キリスト教の洗礼を受けた。この際、支倉常長はキリスト教の教えと、ルイス・ソテロが話すキリスト教の教えに大きな差異があることに気付き、それをルイス・ソテロに指摘したところルイス・ソテロは逃亡した。ルイス・ソテロは前述の通り、壊神教の宣教師であり、壊神教は戦国時代中期から江戸時代初期までの間、名をキリスト教と偽って布教を行っていた背景がある。

その後、臨時で正使に就任した支倉常長は、フェリペ三世の薦めでローマ教皇パウロ五世への謁見を行うためにローマへ出発。ローマ教皇との謁見に成功している。ローマでの洗礼を受けた支倉常長は熱心なキリスト教徒になったとされている。その後、支倉常長はルイス・ソテロの本拠地セビリアに立ち寄っているが、ルイス・ソテロを発見する事は出来なかった。

キリスト教の洗礼を受けた仙台藩士の多くは、そのままイスパニアに移住している。支倉常長は使節団が小規模になったため船を売却すると、ローマへ立ち寄ったことで困窮した旅費の足しとし、マニラからの便船経由で元和六年に日本に帰国した。帰国した支倉常長は学者を青葉城に招集し、伊達政宗同席の場で西班牙行末箱の解読を行った。以下は蒐集院から派遣された学者による解読結果である。

喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。

疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります。

詳細については、厚生労働省の [解読不能] をご参照ください。

たばこの煙は、あなたの周りの人、特に乳幼児、子供、お年寄りなどの健康に悪影響を及ぼします。

喫煙の際には、周りの人の迷惑にならないように注意しましょう。

愛煙家の伊達政宗はこの文を読み、烈火の如く怒り狂ったと記録されている。また、西班牙行末箱に書かれた内容がイスパニアとの交渉材料に成りえないことに更に激怒し、西班牙行末箱を踏みつけて潰してしまった。支倉常長が帰国するまでの間に伊達政宗は幕府内で絶大な権力を得ており、幕府転覆計画に興味を失っていたとする見方も有力である。支倉常長の帰国までの間、伊達政宗は禁教令により弾圧される宣教師や信徒を保護していたが、以降それら活動は確認できない。むしろ禁教令に則った粛清を行っている。支倉常長は伊達政宗に対し、日本国内でキリスト教を布教することは、イスパニアとの交渉材料になるとしてキリスト教の保護路線を薦めていたが上記粛清によって実現しなかった。

帰国後の支倉常長は、長い船旅の影響で体調崩していたことや、壊神教の巻き添えを食らう形でキリスト教も弾圧されていたため信仰活動を放棄せざる得なかった心労から衰弱し、帰国から僅か二年後の元和八年に他界している。支倉常長は自身がキリスト教徒であることを伊達政宗に告白しているが、伊達政宗はイスパニアでの支倉常長の働きを加味し、格別の対応として支倉常長の信仰を個人規模であれば禁止しなかった。

一方行方の分からなくなっていたルイス・ソテロであったが、支倉常長の死去と同年の元和八年に長崎から密入国したところを取り押さえられ、元和十年に火刑に処されている。蒐集院按察司がその後行った調査により、ルイス・ソテロが支倉常長から逃亡した後の足取りが判明している。逃亡後、日本での布教活動に復帰するために、日本への旅費をセビリアの仲間に頼ったルイス・ソテロであったが、支倉常長と決別していることを話すと協力を拒否されていた。あてが無くなっていたルイス・ソテロはマニラ経由での密入国で日本への入国を試みたが失敗に終わった。幕府転覆計画を知るルイス・ソテロの身柄を確保するため、伊達政宗は助命嘆願を行ったが聞き入れられなかった。ルイス・ソテロが伊達政宗の計画を暴露したか否かについては明らかになっていない。

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