執着心はキャンバスを塗り潰す
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最初は林檎だった。

昨日買ったときには赤く輝いていたはずなのに、手の中のそれは黒く変色している。
瑞々しさなんてものはなく、黒色の林檎はどこか味気なかった。
その日は結局、同じ日に買った緑色の林檎を食べることにした。

次は空だった。

天気予報では一日中快晴だと言っていたのに、ドアを開いてみれば空はどこか薄暗い。
鮮やかな青色はそこにはなく、いまにも雨が降りそうであった。
その日はなんだか拍子が抜けて、家で過ごすことにした。

そんな曖昧な異変を強く実感したのは、草原だった。

その日の空は相変わらず薄暗かったが、製作中の作品の筆がなかなか乗らなかったので、私は気分転換に外へ出た。
久しぶりの外でのデッサンは楽しかった。生き生きとした緑が風で揺れていて、漂う柔らかな草の匂いが心地良い。
私の気分はだんだんと高まっていき、スケッチブックをどんどんと鮮やかな緑で染め上げていった。
その高揚がいけなかったのかもしれないが、力が入っていた私は誤って緑色の色鉛筆の芯を折ってしまった。

一瞬にして景色は変わっていた。

私はがんがんと揺れる頭を抑えながら、何度か瞬きして周りの景色を見返した。
端的に言えば私は、灰色の草原の上にいた。
先程までの暖かな景色はどこにもなく、まるでそこにあった草がすべてが刈り取られたように緑色が消えていた。
そして私は何故かその時、色が変わったのではなく、色が無くなったのだと悟ってしまったのだ。

そして、それを一度認識してしまえば、後はもう恐怖しか残らなかった。
私は草原の上に投げられたスケッチブックを拾うことなく、駆け足で自宅に戻った。
夢であるならさっさと覚めてくれ、と願って。

しかし、次の朝が来ても、時間がどれだけ経っても、私の世界に存在した緑色はもう姿を見せることはなかった。

そしてふと、気付いた時には、世界のすべてがモノクロだった。

ああ、想像してほしい。
もし本当に白と黒だけで構成された世界を眺めることができたなら。
それはどれだけ貴重で、素晴らしいものであっただろうか。

しかし私の目の前に広がる世界は、存在するはずの色が反映されない、ただの古ぼけた白黒写真と同様であった。
空は曇り、木々はくすみ、花は褪せた。その時の私にはもう、そこに存在していた色が思い出せなかった。
林檎はどんな色をして人々を魅了した?空はどんな色で私たちの世界を覆っていた?

私の作品はどんな色をしていた?

想いを綴った紙を裏返せば、描かれた大きな瞳が私にそう問いかけてくる。
私はお前を、この作品を、どんな色で描きあげたのか。
私はこの子達を、私の作品たちを愛していた。でも、作品を彩る色たちは私を厭い、遠ざけた。
そんな今の私には部屋中の作品たちは無価値な紙の山でしかなかった。

気付いたら私は散乱した紙の中で眠っていた。

どれくらいの時間が経ったのだろう。
緑色が消えたあの日のように私の頭はぐらんぐらんと揺れていた。
深く息を吐きながら酷く重い体を持ち上げると掌から何かが、からんと音を立てて転がり落ちた。
音がした方に視線をやれば、それは2本の色鉛筆だった。

私は思わず息を呑んだ。そして同時に散乱した紙の上で止まっている色鉛筆を凝視した。
そこにあったのは、私が見ているデタラメな白黒写真なんかとは違う、純粋で穢れのない、美しい白と黒だった。

ぽたりと、汗が紙の上に落ちた。
無くても構わない。そう思って探すこともしなかった2色の色鉛筆。
私はおもむろに拾い上げて力強く握りしめた。
2色はそれに応えるように薄汚れたの手の中で光り輝いた。
ばくばくと、鼓動が頭の中に響いた。
今なら価値を理解できる。白黒写真の世界に取り残されて生きている自分だけが、その価値を理解できる。

ぎりぎりと、色鉛筆を握る力が強くなる。
私を見捨てなかった、厭わなかった2色の色。私だけが知っている、美しい、色。
色に厭われた私以外の誰が想像できるだろうか。
モノクロ世界に広がる、本当の白と黒の美しさを。

「誰にも、渡すものか」
バキッという乾いた音がして、男の視界は暗転した。

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