宇喜田博士の死と変容、そしてその首から下に中国人女性の肉体が使われることになった経緯
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序.jpg

私はうんざりとした気分のまま、医者に聞いた。
触手を二本、腕のように組んで見せてはいたが、私が期待しているような効果があるかは疑問だった。

「安定剤はダメなのですか」

「リスクを考えれば、あなたもこれが正しい判断だと考えるはずですよ」

医者は言葉の上ではそのように言いつつも、慰めるような口調だった。あるいは私にこれ以上文句を言われたくないということだったのかもしれない。

「ええ、分量の問題ですよね。ですが胃薬ならテストなしでも成人の半量の半量で出してもらいましたよ?」

「胃薬と精神安定剤では全くの別問題ですよ、博士。胃の方は完全に人間のものと機能が同じというのがはっきり分かっていますから」

医者は早口でついさっきも聞いた話を繰り返す。だが先程より抑揚に欠いている。

「その他の部分が安定剤にどういう反応を返してくるかというのが問題なんですよ。いままであなたの肝臓だと思われていた部分が、サプリメントに入っていた亜鉛に反応して体表を食い破って出てきたのはいつでしたか」

「あれは去年の暮れ頃だと……いや、リスクは分かりますが、それならパッチテストだけでも」

「ダメです、宇喜田さん」

そう言う医者は、もう時計を気にする素振りを隠す様子もなかった。いつのまにか午前の診療時間をかなり過ぎていた。このサイトのカフェテリアはかなり混む。たしか独身だったこの医者には、愛妻弁当など夢また夢だろう。時計から私に戻した彼の目は「さっさと解放してくれ」と私に強く訴えかけていた。

「分かりました。じゃあ、いいです」

「すみませんね……お役に立てず。いつも出してる睡眠導入剤はひとまず二週間分はお渡しできますので」

「ええ、ありがとうございます。お世話様でした」

私は触手を-1に伸ばし、おざなりに-1の首に挿入した。接続が確保されると、全身に鳥肌が立ち-1の感覚が私に流れ込んでくる。丸く巨大な本体と、この若い女の体が今の私の住処である。女の体は、しばらく放置していたためか腰のあたりがこわばっていた。腹も減っている。頭痛がするのは……これは私のオリジナルの感覚だ。そんな私を見る医者は口の端に苦いものを浮かべて「お大事に」とだけ言って私から顔を背けた。気持ちはわかる。こいつもきっと生え抜きのエリートだろうに、やらされるのが獣医の真似事とはなんともやるせないことだろうよ。

軽く伸びをしながらサイトの医局から出て、廊下へと出る。そこにある小さな窓からは、森のなかに作られたこのサイトの中庭が見えた。庭の様子だけは、ここ何十年も変わることがない。その情景が愛されているからではない。中庭には脱出口の出口があり、芝と小さな東屋くらいしか置くことができないのだ。
さて、と気持ちを切り替えて触手で伸びをすると背後でうっ、と呻く声がした。そしてその呻き声は、かつての私の声によく似ていた。

「おい、なにやってんだよこんな通りっぱたで」

「お前か」

いたのは喜田博士だった……私のところの長男だ。いやはや笑えない、家族でコードネームがちょっとずつ違うなんてややこしすぎる。
いやこいつだけ本名だからコードネームではないか、と思い直す。私にとってはそれも笑えない。
このような形で捨てた名前に追われ続けるとは。

「医者からの帰りだよ。ジジイらしくな」

「そうかい、でも頼むからその触手?みたいなのを人様の前でビラーっと広げんなよ。頭を下げるのは俺だぞ」

「……悪かった。だけどな、手足をずっと動かさないとムズムズするだろ?それといっしょでさ」

「分かってるがねえ……」

そう言ってから、喜田博士は周りに人がいないのを確認してから俺の傍にやってきて耳打ちする。

「親父、もうE分類になって29年だろ」

「ああ」

「来年は区切りの年だ、何があるかわかんないだろ。気を抜かないで行儀よくしててくれ」

「そうか、そうだよな」

E分類。私にもナンバーが割り当てられている。E-U-0823-JPだったか。
この暫定的な異常存在向けの分類に自分自身が指定されてからもう、30年になろうとしている。
その間財団は、私がくらった異常な変異を逆転させようと検査や実験を繰り返してきたが、その大半は徒労に終わった。

もちろんこの骨折りは、私の財団に対する貢献に報いるためではない。
世界には、アノマリーによって身体や心に消しがたい傷を負わされる人々がいる。
一般市民はもちろんのこと、財団の構成員にしてもそうだ。

そういう人々の傷を癒す、言い換えれば異常性を消去する方法があれば、この世界はもっと清らかになる。
だが、私にとって異常性を消すのに一番簡単なのは、いますぐ首をくくって死体を焼いてもらうことだ。
まあ無い首はくくれないが。くくったら水ヨーヨーの出来損ないができるだけだろう。

だから、私は皆の愛すべきモルモットになってやるしかないのだ。
実験の終わりに、使い終わったモルモットの首がへし折られることを知っていてもなお。
ああ、私もよく心理学の連中の手伝いで軍手をはめ、彼らの首を折りバケツの中に放り込んだものだ。

「……分かった。まあ、気をつけるよ」

「頼むぞ。来年を乗り切ったら、そしたらなんか孝行するからさ」

「俺の心配はしなくていい。お前は、自分と他の家族のことを考えろ」

「そういうわけにもいかねえよ、親父は親父だからな」

「そう言ってくれるのは嬉しいがな」

そう言った後に、ぴぃーっと間抜けなため息が出て重苦しい沈黙がその場に流れる。
息子は気まずくなったのかしばらくすると無言でその場をあとにした。

その後、しばらくぼんやりと庭を眺めていたが、私はややあってとぼとぼと自室兼研究室へ歩きはじめた。監督したSCP-502-JPの無力化試験に関する報告書を提出するよう理事会に求められていて、その準備作業をしなければならない。

報告書というより、試験結果を考えれば始末書のようなものだ。理事のうち数人が結果に「重大な懸念」を示しているというのもあり、とにかく急ぎで片付けなくてはならない。せっかくアイディアを出してくれた魚棚さんに累が及ばないように、慎重にかからなくては……。最近はこんなことが続いているせいで、私はよく眠れていなかった。この報告書の件の他にもSCP-151-JP用の機材の誤発注についての始末書の提出、倫理委員会からSCP-203-JPの収容過程で発生した人的被害についての問い合わせが来たりと、とにかく忙しい。

私は、部屋へと続く重たいドアをもたせかかるようにして押し開ける。こうなってからは前に与えられていたマンション風の居室から、ワンルームの小さな部屋に移されてしまった。一人でこの小さな部屋にいると、孤独感で押しつぶされそうになることがある。今の私の生活は、仕事がなければ独居老人といってしまってもいいものだ。子どもたちの勤め先こそここだが、向こうも予定が詰まっているのか会う約束は常に向こうからだ。

ドクターコートを椅子に投げつけると、私は宇喜田-1に接続していた触手を引き抜き、枕の上をよこぎって窓際に置いた小さなクッションの上にどさっと着地した。カバーを脱ぐ気力は残っていなかった。忌々しいこのカバーは脱ぎ着にたっぷり5分はかかる。そのままぐったりと触手を弛緩させていると、海岸に打ち上げられたワカメのように無力な感じになった。実際に実に無力だ。

失敗した日はどうも嫌なことばかりが頭をよぎってしまう。私は椅子までかたつむりのように這って行くと上着のポケットからスマートフォンを取り出し業務メールが来ていないのを確認すると、アルバムを開いた。このあいだ中庭で撮った家族写真、カナヘビさんや虎屋さんと並んで撮った、というより撮らされた飲み会でのスリーショット。……そして昔、長女が生まれた時に写真館で撮った写真。あの頃の私はこしゃくな髭を生やし、まるまると太っていた。当時、幸せ太りやねとカナヘビさんに茶化されたのを覚えている。実際は、単なる不摂生であったのだが。

「疲れたな」

これから財団印の冷凍食品で昼飯と洒落こむつもりであったが、どうにも雑念が振り払えない。少し休憩してもいいかもしれない。そう思った私はベッドの上に飛び乗った。別に窓際のクッションでお昼寝でも良いのかもしれないのだが、ベッドで寝るというのが私にとっては重要なのだ。触手を引っ込めて感覚をシャットダウンする。ああ、夜寝るときはあんなに寝苦しいのに、どうして昼寝のときは眠りとこんなにも親しくなれるのか。

どうせすぐ目が覚めてしまうだろうが、せっかくだからいい夢が見たいものだ。眠りにおちる前に、俺はぼんやりとそう思った。


 

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聞くでもなく聞いていたラジオからは、女性のデュオの歌う熱帯魚がどうのという曲が流れていた。MCによると今週のヒットチャートを駆け上がっているらしい。そして番組は、金持ちのお宅訪問のコーナーに移った。こんな空前の好景気をよそに、俺は今日の天気のようにどんよりとした気分だった。フロントガラスをしとしとと霧雨が濡らし、ハンノキ並木の下に差し掛かると、木の葉が集めた大きな雨粒がときおり車の天井を強く打った。

俺の勤務するサイト-8198はこの森と、そこに建つ大学の管理棟ということになっている上部構造、そして広大な地下のサイト本体からなっている。俺は「用務員用」とサインされたスペースに停車し、大学生などに混じって管理棟に向かって歩く。そして管理棟の人目のつかないところにあるエレベーターに乗り込むと、緊急通報用のボタンを三三七拍子のリズムで押す。間抜けだがこれが秘密のコードであり、地下のサイト本体に降りていける。こうした寮からサイト本部への通勤も今日が最後だと思うとやはり感傷的な気分になってしまう。まあ、「用務員用」に停めていく馬鹿な大学生をセキュリティに頼んで排除してもらう手間からも開放されるのだから、総合的に考えて悪くないのかもしれない。

しかしよもや、自分が無事に財団から退職できるとは夢にも思わなかった。俺の同期は、皆一様に死んだか、心身の失調でもうほとんど財団には残っていない。そして俺はといえば昨年に重度の糖尿病となり、離職することとなった。透析のために長時間サイトを離れる必要がある今はこの仕事は務まらない。結局、研究者として芽は出なかった。こうしたことを考え合わせればこの辺りが潮時というものである。しかしまあ、化物に食われて死ぬとか、狂い死にするよりは、糖尿病はある程度マシなキャリアの終わりに思える。

そんなことを考えながらエレベーターを出ると、波戸崎博士がカバンを片手にエレベーターホールに立っていた。高そうなネクタイの上に、首から下げた職員証がかかっている。そういうふうに彼が職員証を身に着けていると、安っぽいプラスチックの板も何かのアクセサリーのように小洒落て見える。

「おはようございます」

「あ、宇喜田君。いよいよ今日ですねぇ」

「ははは……ありがとうございます」

「すまんね、この前の送別会は都合がつかず……しかし今日会えて良かった」

「とんでもない!向こうは暑いでしょうから、体調にはお気をつけてくださいね」

「いやまあ、ネバダは野外調査で慣れているから、ご心配には及ばないよ」

「おっ流石ですね、波戸崎先生」

「おいおい、私を褒めてたってしょうがないだろう」

財団の中でも波戸崎博士は動物行動学の権威であり、動物絡みのオブジェクトに関しては多くの研究者の信頼を得ている。俺も昔一緒に仕事をしたが、行動学以外の分野についても鋭い意見を発し、その研究グループでも一目置かれる存在であった。そして珍しいことに財団と家庭の両方でうまくやっているらしい。その証拠に、息子がエージェントとして雇用される運びとなったそうである。妻と別居し、子供に会わせてももらえない俺とは大違いだ……そして、彼はこれから行動学の専門家が集まる学会での講演のために渡米する予定である。まさに花型研究者。おまけによく日焼けしてダンディーだ。

「ではこのあたりで。次会うときは記憶処理の後かもしれんが、知人のふりをして無理にでも手土産を渡すとするかな」

「おやおや規定違反もいいところですよ?」

「もちろん冗談だよ、しかし寂しくなるな……じゃあな」

「ええ、お気をつけてどうぞ」

エレベーターの扉が閉まる。
一人その場に取り残された俺は、波戸崎博士を見習って背筋を伸ばすとオフィスへと向かった。今日はあるオブジェクトについて行われる実験の監督業務がある。それが午後いっぱいまでで終わり、俺の財団でのキャリアもついでに終わりというわけである。部屋ではすでに、学者秘書と助手が作業に入っており、やってきた俺に気が付くと、軽く頭を下げる。

「おはようございます」

「おっ、おはようございます。もうおそろいですか」

「ええ!引継ぎ作業も今日で完了です」

「いやあ、今日で君達とも最後と思うと俺もなんだか辛くなってきたな」

「私たちは厄介払いが出来て清々しますよ」

助手が憎まれ口を叩いてみせる。人懐こい性格の男で、同じくここに配置されている秘書に惚れている。そして秘書の方もなんとなく察していて、まんざらでもない感じである。遅れてきた青春というやつだろうか、今の俺には目の毒でしかない。ここを離れる俺こそ清々するというものだ。俺は助手を睨みながら、デスクに通勤カバンを叩きつけた。

「けっ、まったく最後までふざけたこと抜かしやがって!異動先で失礼なことすんじゃねえぞ!」

「まあまあ……嘘に決まってるじゃないですか。圷さん、昨日の飲みじゃ本当に寂しそうにしてて」

「飲み?ちょっと聞いてないよ高宮さん。俺誘ってもらったっけ?」

「えっあっ、すみませんそんなつもりじゃ」

「昨日、俺が一人寂しく冷凍食品かっこんでる時にいちゃついて……はあ」

「すみません!ホントすみません!」

「うそうそ、先に圷に誘われてて断ってたよ……おっさんが若いのの邪魔しちゃ駄目でしょう」

「え?」

秘書は唖然とした様子を見せたあと、得意顔の助手を見て「何で早く言わないの」と、小声でつぶやくとむっつりと黙りこんだまま作業に戻った。彼らとのささやかな楽しい会話もこれで最後だ。そして、俺のやることはない。この3日ほどで大体の作業は終わらせてあるし、俺に割り当てられた事務はすでに全て後任に引き継がれている。だから今日の実験への参加も、俺は形ばかりのお飾りみたいなものである。昨日秘書と助手がまとめておいてくれた実験対象オブジェクトの概要書と、実験計画書に改めて目を通すと、それを一つのフォルダに突っ込んでカバンにしまい込んだ。

「ふう」

「どちらに?」

「朝食にしてくる」

「ええ、いってらっしゃい先生」

「うん」

俺は、手持ち無沙汰に耐えかねてオフィスを出た。この調子ではカフェテリアにでも行って時間を潰している他なかった。道行く職員連中に、お疲れ様、とか残念です、と声をかけられる。こういうことがあると、多少、慰められた感じになる。何もかもやりきって満足という退職ではないが、なんとかこの20年あまりを凌ぎ切ったのだと思えばいいのかもしれない。それだけ長く闇に身を浸していて無事に済むというのがそもそも幸運なのである。

カフェテリアでコーヒーを頼む、悲しいことにクリームも砂糖も乗せられない。俺はこの大学食堂風のカフェテリアで、変な色をしたプラスチックの椅子に腰掛けて、ぼやっとテレビを見るのが好きだった。初めて妻に会ったのもここだ。あの時、俺はなにか中華っぽいものを食っていた。赤くて、辛かったのを覚えている。それ以外はさっぱりだ。中華なんてみんな赤くて辛い。これでは何も覚えていないのと同じだ。妻と何を話していたのかもよく覚えていない。思えば濃い20年だった気もするが、細部のことはぼやけて感じられる。特に家庭のことはだめだ。担当したオブジェクトのナンバーなら全部思い出せるが、今息子がいくつになったのかも俺は思い出せない。先日そのことを助手に指摘されて慄然としたものだ。

妻と別居して2年、無駄に良い給与でマイホームを建てたはいいものの、結局そこに俺が住んでいたのは5年に満たなかった。財団内で職場結婚して、子供が出来て、そこまでは良かった。だが夫婦の二人とも、勤続年数が増えるにつれて責任も重くなり、それに比例して仕事も増え、すれ違うことが増えていった。月並みだが、このようにして俺達の家庭はもろくも崩壊してしまった。俺は今、妻と子供二人が住む家から離れ、このサイトに付属している職員寮に一人住まいだ。……どうしてこんなことになったのか。俺はカップに残った冷たいコーヒーをぐっと飲み干す。冷えきっているというに、さすがは財団だ……ムカつくくらいにうまい。そしてふと顔を上げると、そこで一人の女性と目があった。その女性は手にラーメンの乗った盆を持ったまま俺に軽く会釈をする。

「あら、お久しぶりです」

「あっ、どうも……結城先生」

「前にその、先生というのはやめなさいと言わなかったですか?」

「すみません、しかしついつい」

「いえ、こちらこそ急にごめんなさいね。私もつい昔のつもりでね」

結城 久磨博士。俺が新米だった頃に、研修のような形で彼女の下に配置され随分としごかれたものだ。ここの仕事のノウハウはほとんど彼女から教えてもらったと言っても過言ではない。その時、彼女は俺と同世代だと俺は思い込んでいたが、後で聞いた所によると俺よりも40は年上であったらしい。あの頃はすさまじい若作りと思って自分を納得させたが、当時からまったく変わっていない事を考えると、まあ「そういうこと」なのだろう。あれから度々顔を合わせることがあったが、最近はほとんど会うこともなかった。

「今日、たまたまこちらに資料をいただきに来てまして、ちょうど宇喜田さんも退職されるそうだから顔だけでも見れたらいいなと思っていたんですよ。こうしてお会いできてよかったです」

「いやいや!本当ならこちらからご挨拶すべきところを、つい片付けなどに気を取られてしまいまして……恩師に対してこれでは、全く情けないばかりです」

「私、恩師というほどのことをしましたかしら?」

「私にとっては、あの一年は大きなものですよ。おかげさまで無事に退職できるまで生き残ることが出来ましたからね」

「一年ね、本当に少ししか教えてあげられたことはなかったように思うのですけれど、そうですか。それなら良かった」

「これから11時からの実験が終われば、それで一巻の終わりです」

「じゃあ、頑張らないとね」

結城博士は淡い笑みを浮かべると、俺の前の席に腰掛ける。昔通りに、機械のように正確で優美な所作だった。俺はあの頃、密かに彼女に憧れを抱いていた事を今更ながらに思い出す。

「奥様とは、それからどうなのですか」

「えっ?いや、それがどうも駄目みたいで、別れることになるかと」

「そうですか……でもそのほうがいいかもしれませんね」

「えっ?」

「財団の外に出るあなたは一緒にいないほうがいいですよ。家庭と財団との間で板挟みになって壊れていく人を見てきましたから」

「そう、でしょうね」

「ここでのことはもう忘れて生きていける……財団の関連企業でポストも与えられるから、食うに困ることもない。こんなに幸せなことはありませんよ」

俺は返す言葉がなかった。たしかに、そのとおりなのかもしれない。だけどもしかすると記憶処理が部分的にでも解けて、その後の人生で違和感を感じることや、癒えない喪失感を抱き続けるかもしれない。それに何よりも自分が「この世界は道理が通る」と信じてやまない羊達の群れに戻っていくことが怖い。それが幸せなことであるとは、俺は断言できなかった。せめて記憶処理をしてくれるのが妻であったなら、一分の隙もない完全な処置をしてくれるだろう。彼女は日本支部における記憶処理技術のプロフェッショナルの一人だ……だが頼むのはあまりにも気まずい。そんな事を考えていると結城博士が俺の顔を覗き込むようにして、言った。

「納得していないというような顔ですね」

「やはり、恐れのようなものは拭えません。保護していた人々の中に戻って、普通の生活に戻る。今更にね」

「安心しろとは言いませんよ。でもね宇喜田さん」

結城博士は一旦口を切って、ゆっくりと言葉を選びながら俺に語りかける。

「私達が守ってきた正常な人間社会には一定の『確かさ』があるはず。その『確かさ』のために働いてきたんでしょう?」

「そういう部分もあると思いますが……」

「財団はある種、人間が人間らしくあるために存在しています。それが財団の用意した箱庭の中だけのものだとしてもです。財団という組織を信じるのなら、財団が築いてきた『確かさ』をも信じるべきではないですか?」

俺はどう答えたものか、一瞬の逡巡の後に言った。

「信じていますよ、もちろん」

「それは良いことです」

結城博士はもう一度笑みを浮かべ、一言だけそう言った。そして、俺の手首のあたりを見たかと思うと、はっとした様子で俺を見る。

「宇喜田さん、もうそろそろ11時ですけど?」

「えっ?ああ」

俺は時計を見る、いつのまにか実験の開始予定時間まで30 分というところだ。そろそろいかねばならない。

「ああ……すみません、ではこれで失礼します」

「じゃあまた……いや、これで最後ね。ごきげんよう、宇喜田さん」

「……ええ、ありがとうございました。結城先生」

慌ただしく盆を持ち上げ、立ち上がった俺を見て、結城博士はなにか言いたげにしていたが、結局何も言わなかった。代わりに、手を小さく振っていたのを俺は視界の端で見ていた。俺は背中越しに頭を下げると、食器を洗い桶に押し込んで小走りに収容室へと向かった。周囲にいた連中が、俺を見て苦笑している。努めてなんでもないように装いながら、俺は手近なエレベーターに乗り込み、鏡に写った自分を見てネクタイを直した。実験が行われる収容室は、サイトの下層部にある。最後なのだ、少しでもぴしりとしておかなければならない……そうしていると白衣の袖にコーヒーのシミが出来ているのに気がついた。まったくしまらないものだ。

エレベーターから降りると上層階とは違って、換気装置の唸るのと蛍光灯が低くハミングする音ばかりがやけに響く。そして俺のような研究者や警備の姿が廊下の曲がり角にチラチラと見える程度で、人影も少ない。いつになってもここに来るのは慣れない。通路は収容違反に備えて細く入り組んでいて、閉塞感で息が詰まりそうになる。ここに初めてきた時は壁面のパネルが吹き飛んでよくわからないものが飛び出してくる妄想がふくらんだものだ。

だがこれも最後だ。部屋の前に設置されたリーダーに職員証を通し、俺はインターコムに話しかける。

「あー、宇喜田です」

数秒後、ガチャガチャとロック機構が動く気配がし、地方銀行の金庫くらいの分厚さのある収容室の扉が開いた。これがレベル3 クラスの危険物品収容室だ。ここには、このサイトで最高クラスの保安体制が敷かれている。8198には比較的安全なオブジェクトが多いが、ここはその数少ない例外の一つである。収容室を覆うように鋼鉄製の分厚い隔壁が配置され、さらにこの収容室自体を外部から完全に隔離する機構が存在する。ここよりもっと物騒なものを扱うサイトでは、まあまあザラにあるタイプのやつである。

扉をくぐった先にある前室には、すでにスタッフが集まっていた。壁に設置されたモニターには、ガラスケースに入ったオブジェクトが映っている。象牙色の王冠のような形をしたそれを見ていると、ひどく胸騒ぎがする。部屋に入ってきた俺に声をかけてきた若い研究員も、少々ナーバスになっているようだった。

「宇喜田博士、お疲れ様です。本日はよろしくお願いします」

「ええ、よろしくお願いします。機材の準備はよろしいですか?」

「ついさっき録音機材、カメラのチェックが完了したところです」

「結構。ではDクラス職員の方の準備をお願いします。到着次第実験開始です」

「はい」

研究員が内線をかけたり、実験環境を整えている間に、俺はフォルダに挟んでおいた報告書を改めて確認した。発見されたのはMC&Dの放棄された倉庫と思われる場所だ。連中には珍しく商品タグや、お買い得のシールとかははなかったようである。意匠の様式は紀元前2世紀頃の東ヨーロッパに見られるものだが、そう断定することはできない。そして表面はサンゴに似た白い多孔質で、内側にはアルコーンと思しき多頭の神の姿が細密に、もうとにかくびっしりと彫り込まれている。グノーシス神話に語られるアルコーン達、それらは多相であり同時に男女であった。彼らの抱える混沌が、姿にも現れているというわけだ。古い時代の神秘にありがちな照応性。ついでにこれはわずかにでも破壊することができない。実に悪趣味だ。これのせいで出来もしないサンプル採取のために1週間を無駄にしたことは、今思い出すだけでもにがにがしい。

そしてこの冠を頭にかぶると、被ったものの視界の中にある人間由来の物体を粘土を捏ねるように、構造の変更及び操作ができるようになる。しかも手も触れずにである。最初に実験の対象になったDクラスの男性職員は全身を紐状に引き伸ばされ、それでもなお死ねずにいた。彼にとって不幸中の幸いだったのは、彼をそんな姿にしたもう一人のDクラスがオブジェクトを頭から取り除くことを拒否し、二人もろとも即時終了されたことだった。あの貴族気取りの意地汚い商人どもの、金持ち向け娯楽商品の一つというわけだろう。まったくこんなものをどこから調達してくるのやら。

報告書をひとしきり読み終えると、室内のインターコムからザッという一瞬の空電が聞こえ、次いで警備担当者のキリッとした感じの声がした。

「Dクラス職員が到着しました」

「はい、今開けますので気をつけてくださいね」

俺は、扉の脇にある大きな赤いボタンをぐいと押し込んだ。最近いろいろと電子化されてきてはいるが、やはりこれが一番確かなドアコントロールシステムだと思う。そしてドアの向こうから目隠しをされ、体にデータ測定用の機材を身につけた二名のDクラス職員が、数人の警備スタッフに抱えられるようにして現れた。警備担当者は手にしていたファイルから紙を取り出し、内容を読み上げてから俺に手渡した。

紙にはその他に二人とも中国人で、麻薬の密輸入を働いた際に逮捕された後、Dクラス職員として雇用された旨が書かれていた。

「D-1781-7、アジア系女性、20代後半。精神的にも安定し、従順で、日本語で命令できます。D-1781-8、アジア系男性、40代前半。こちらは意識レベルを低下させてあります。二人とも各々に指定された鎮静剤を15分前に投与済みです。以上で間違いありませんね?」

「……ええ、確認しました。では、実験室内に入れてください。男性の方は椅子に固定してくださいね」

「はい……ほれゆっくり歩けよ、足元に気をつけて」

警備スタッフが実験室のドアを開け、Dクラスの二人を室内に押し込んだ。やれやれだ。俺達のような研究者にとってオブジェクトの効果等による精神的・肉体的負傷の危険もあるが、Dクラスが暴れて怪我をするものも少なくない。額にかいた汗をおざなりに拭うと、俺ともう一人の若い研究者はモニタールームに移動した。この男が今回の実験の計画立案を行ったらしい。ハンサムで、いかにも知的そうな感じのメガネをかけている。まったく、最近周囲にいる研究者はみんなこんな感じだ……まさかみんな波戸崎先生の弟子なんじゃなかろうな。

「さて、では後はお任せしますよ」

「ええ……1781収容室、実験開始します」

男は手際よく機器類を操作し、少しするとスピーカーから実験室内の音声が聞こえてくる。なにやら中国語でごちゃごちゃと文句を言っているようだった。あんたがしくじらなきゃ良かったのよ、と女のほうが男を一方的に詰っている。いやはやまあまあ、俺としては自分の置かれた状況的に男の方に同情してしまう。それを知ってか知らずか、ハンサムな研究員は二人に向かって最初の指示を出した。

「では女性の方、目隠しを取ってください」

『はい……なにあれ』

女は台の上に置かれたオブジェクトと、小さな公園の砂場ほどある水槽に溜まったピンク色のスライム……培養した人間の皮膚組織と血漿の混合物を見て動揺しているようだった。男の方は、椅子の方で朦朧としているのみである。

「では続けて女性の方、台の上のものを被ってみてください。頭に載せるだけでも結構です」

『わかりました』

Dクラスが映像の中で冠を頭に載せる。それと同時に、計測機器の操作にあたっていたスタッフが珍しく驚いたような声を上げ、俺に向き直った。

「第一被験者……女の周囲の現実性にゆらぎが生じています。今までの実験でははっきり分からない程度のゆらぎでしたが、計数機から明確に観測できます」

「お、そうですか。女性のほうがあれと相性がいいというのは本当らしいですね。データは後でわた……彼に送ってやってください」

「了解しました」

スタッフが機器の方に戻ると、俺は肩を落としながら目の下にかいた汗を人差し指ですくってズボンに擦った。そうだ、このオブジェクトの担当は、もはや実質的には俺ではないのだ。そう思いながら、彼の背中越しにモニターを眺める。

「では、水槽の方を見てください。ゆっくりと、丸い……ボールのようなものが浮かんでくるのをイメージして」

『はい……えっ!』

女の目線の先で、バレーボール大の物体が水槽の中から急速に浮き上がってきた。しかし随分大きなものをイメージしたものだ。中国人ならピンポン球でも思い浮かべると思ったものだが。

「結構、落とさないように集中してください」

『ちょと待て!何なんですかこれ!』

「落ち着いてください。これであなたが傷つくようなことはありませんから。ちょっとしたマジックのようなものです」

『は、はい』

女の方は落ち着いているようにはまったく見えなかったが、指示には従った。ちゃんと薬は効いているようだった。ただその顔は、あまりいい顔色とはいえなかった。発する日本語のイントネーションもかなり怪しくなってきている。スピーカーから、ぶつぶつと何事か中国語でつぶやいているのが聞こえたが、今度はうまく聞き取れなかった。

「では次に、それが四角く……固くなると想像してみてください」

女が答える前に、目の前のピンク色のボールは色彩をやや白っぽくしていき、箱型に変形していく。女の表情が更にこわばる、正常な世界に生きる人間の正常な反応だ。さて、あの「鎮静剤」込でも、そろそろ喚き出すころだろう。そう思った俺は、ハンサムに声をかけた。

「失礼、そろそろアレみたいだから、一旦彼女をクールダウンしましょう」

「えっ?」

「その、かなり混乱しているでしょう?リラックスさせれば、スムーズに進みそうではないですか?」

「なるほど……ありがとうございます」

俺の一言を受けて、ハンサムはマイクに向かって言う。

『D-1781-7、一旦休憩を挟みます。目の前のものを床に置いても構いません。指示があるまで目を閉じ、深呼吸を繰り返してください』

女はハンサムの指示に返答こそしなかったものの、浮いている箱型の物体を床に下ろし、ゴトッという重量感のある音が実験室内に響いた。これまでの実験から、あのオブジェクトは素材の蛋白質を用いて一瞬で硬質ケラチンを合成し、サイの角や鳥のクチバシのように硬化させることが可能であることが分かっている。生物学が専門の連中は、このケラチン質が自然界ではありえない超高密度であるとかなんとかと皆興奮していたが、担当の俺は専門外なのでたまたま絡まれた時に大いに困ったものだった。

数分後、女の呼吸が落ち着いたのを確認したハンサムが、俺に確認してから実験を再開する。しかしまあ、ハンサム君のこの若さを見て侮っていたがなかなかどうして、堂々たる態度である。さっきから見ているがスタッフに指示を出す様子もテキパキとして無駄がなく、物腰も柔らかく嫌味な感じがしない。こうした研究者が、今後の財団で中心を担っていくのだろう。俺はある種の羨望と頼もしさのようなものを、彼の背中に感じていた。おそらく感傷に浸っている俺の妄想に過ぎないのだろうが、最後の一日くらい素直に輝かしい財団像を信じてもバチは当たるまい。

「目を開けてください。これより実験を再開します」

『……はい』

「ご協力ありがとうございます。では先程の四角い物体を見てください。それを男性の方に近づけてください」

『……?はい』

女は困惑したような顔のまま頷くと、不可視の力でもう一度箱を持ち上げ、男の方にそれを近づけた。

「では、その物体を男性の……右腕と一体化するようなイメージを思い浮かべてください」

『はい』

箱がふわっと、男の方に近づいていく。そしてモニタールームの職員が全員息を呑んだ。箱から、無数の触手のようなものが男の腕に伸びる。それらは音もなく男の腕に突き刺さり、箱のなかに男の腕を引き込んでいった。やがて、箱と男の肘から先が完全に一体化した。この間、痛痒のためか男の顔がひくひくと痙攣しているのが観察できた。こういう例えが正しいとは思えないが、今の彼は、右腕だけ出来損ないの超合金ロボのようだ。

「これは……なんとも。これじゃあもう箸は持てないですな」

「興味深いですね……すみません!カメラの方、男の腕を拡大してください!」

「了解」

ハンサムがスタッフに指示を出し、モニターの映像が右腕にフォーカスした。箱と腕の接合部は火傷の痕のように赤く腫れている。これは恐らくかなり痛かっただろう。ともかく、これまでは人間そのものを変形させたり、新しい器官を作らせたりする試みが実験中で行われてきたが、外部から「材料」を追加し、それが成功したのは初めてである。これを見ると、恐らくヒトとヒト同士を混ぜることも可能だろう……実際にやる前に分かってよかった。

これで予定されていた今日の実験は終了である。あとは対象者の心拍、脳波などのデータを解析し……というような裏方仕事を残すのみである。それもこれからは俺に代わってハンサム君がやってくれる。そのハンサム君が、実験室内に向かって淡々とした様子で実験終了を告げた。

「お疲れ様でした。男性の腕が元に戻るのをイメージし、実際にその通りになったらオブジェクトを元に戻し、室内で待機してください。指示のあるまで、部屋の中の物に手を触れないでください」

『……はい』

女は、何が起こっていたのかさっぱり理解できていない様子であったが、もう諦めたのか男の腕を元に戻し始める。箱と腕が結合したのを逆回しにしたように、箱が緩慢に腕から離れていく。最近流行りの臓器移植手術のとき、これをかぶった医者がいたらさぞかし便利だろうなと、俺は改めて思った。と、そんなところでハンサムが俺に振り返り口を開いた。顔には心底ホッとしたような表情が浮かんでいる。

「宇喜田博士、監督ありがとうございました。おかげさまで無事に終わりました」

「いえいえ、それにしても興味深いオブジェクトですよね。いろいろと用途が考えられそうです。今後の研究に期待ですね」

「ははは……頑張りますよ」

俺は、彼の肩を叩きつつモニターを覗き込んだ。箱は腕から離れつつあった……その時、俺の中で何かが警告を発した。いくらなんでも遅すぎる。あわてて女の方を映しているモニターを見ると、女は注意して見なければ分からないくらいに、小刻みに震えていた。俺は、ハンサムの前にあったマイクを掴むと、実験室内に声をかけた。

「D-1781-7、応答してください」

女は返事を返さなかった。ハンサムが訝しむような目を俺に向ける。

「宇喜田博士?」

「D-1781-7、オブジェクトを体から離しなさい。この指示に従わない場合、あなたは終了されます」

「何が……」

ハンサムが異常に気がついたようで、女の映っているモニターを凝視する。俺の指示を、女は完全に無視し続けていた。そんな中、モニターの向こうで、男の腕から離れつつあった皮膚組織の塊が、中の液体をぶちまけるバシャッという音とともに開く。男の足元に広がる液体の中で、ネズミくらいで四足の何かが無数にうごめいているのが分かった。俺はそれを確認するとなかば叫ぶようにして、引きつった顔のスタッフに向かって指示を出した。

「実験中止!直ちに実験室内へ神経ガス注入願います。それと即応部隊へ連絡してください。あなたはサイト管理官に今の事態を通報を」

「了解しました!」

「これは……なんだ……?」

「カメラをあの水たまりに向けてください……ふざけたマネしやがって」

ガスが室内に立ち込める中、スタッフが奇妙な何かにカメラを向ける。大きさこそネズミほどであったが、眼の無い人間のような奇妙に歪んだ顔がカメラ越しに確認できる。あの女、一体何を想像しているというのか。精神疾患の報告はないし、そもそもこの実験のために心身共に健康な被験体をDクラスの中から選出したのだ。俺は、自分でも理不尽だと思うが、コストをケチるために日本人の使用を見送ったハンサムを本気で恨みはじめていた。

ガスの投入から数秒を待たずして男の首がガクリと垂れた。すまん、と俺は内心で手を合わせる。次は女の番だ。ちょうど彼女はふらふらと数歩歩き、ピンク色の溶液で満たされたでっかい培養シャーレにうつ伏せに突っ込むところだった。これで一巻の終わりだ。

「新たに出現した実体を拡大してください」

「了解、対象は動いてますね」

「本当ですね……ガスが効かないような原始的な構造なのか?」

「最悪の場合、熱処理で終了しましょう。サンプルは回収したいが、背に腹は変えられんよ……サイト管理官はなんと?」

「収容違反の恐れのある場合、包括的終了措置を許可するとのことです」

「よし、今のうちに念のため下級スタッフの退去を……」

俺がそこまで言ったところで、スピーカーから強烈な破裂音が轟いた。全員が計器から目を離してモニターを見る。女が、立ち上がっていた。全身を培養液で濡らし、てらてらとそれが光っていた。それだけならどれほど良かったか。いつの間にか女の体の前面はばっくりと裂けたようになっており、肋骨を突き破って内蔵……恐らく肺だっただろうものが垂れた乳のように彼女の足元まで垂れ下がっている。それが、女が呼吸するたびになにかの冗談のようにパンパンに膨らみ、そしてしぼむのを繰り返していた。新たに出来たその器官に押しのけられ、血まみれの乳房が片方、腐り落ちるようにして床にこぼれたのを俺は見た。

「熱処理準備開始!」

今度こそ、俺は絶叫した。

「了解しました!燃焼促進剤充填用意!ガス管切り替え急げ!」

「う、宇喜田博士!?まだ対象はあまり……脅威だとは思えないのですが」

ハンサムが青い顔で俺を見る。だが、今はもう四の五の言っている場合ではない。オブジェクトが未知の動きを見せているというだけでリスクである上、これは……あまりにも気色が悪すぎる。

「実験監督として正式に実験中止を宣言します」

「でも」

「すまないけど、俺にはもうどうしようもない。分かってくれ」

熱処理のための準備を待っている間、女はカメラの向こうで、意味のわからないことを叫びながら培養液を手で掬っては床にぶちまけていた。あのオブジェクトにそうした精神影響があったのかどうかは知らないが、現状を見ればそれも十分に考えられることだ。そして、すでに致死性のガスの中で2分ほど平気でいるのを見るに、胸の器官がガスの成分の吸収を遅延させるか無効にしているように見えた。ケチな麻薬の売人に器用な事ができるとは思えない。……オブジェクト本体、もしくは外部からの干渉か?

「熱処理いけます!」

「熱処理開始!対象の終了まで実行し続けてください!」

「了解!」

次の瞬間モニターが轟音と共に白飛びし、しばらくして炎が勢い良くガスの注入口から噴き出しているのが見えた。計器を盗み見ると、室内の温度がみるみるうちに三桁に到達し、その後も上昇し続けていた。熱で壁面の金属が軋み、獣の断末魔のような音がスピーカー越しに俺たちに向かって浴びせかけられる。

「掃除が大変ですが、致し方ありません。では……」

「あっ」

「なんです……?」

唐突に炎が消えたのがモニターを見ていた誰にも分かった。女は培養液の中でうずくまっている。まだ、生きているようだった。同時に、床にぶちまけられた培養液が生き物のように蠕動しているのがはっきりと映っていた。それどころか、培養液の小さな水たまりが小動物のような俊敏さで部屋の床や天井を這いずりまわっていた。その一部は、ドアの下に潜り込もうとしたり男の死骸にたかっているように見えた。

「なっ……どうして……」

「わ、分かりません。圧力が……注入口が塞がれている?」

ふとガスの注入口に目を向けると、動く培養液の水たまり……薄桃色をしたエイやヒラメか何かのようなそいつが、シャワーヘッドのように一列に並んだ注入口の一つ一つを覆うようにして塞いでいた。俺は強烈な目眩をおぼえる。これは、一体何の冗談だ。収容室内にここから干渉する他の方法を考えてみたが、他にはスプリンクラーくらいしか室内にはない。水をかけてみたところで、大した意味はなかろう。ハンサムはあんぐりと口を開けたまま硬直している。

「ありえない……」

「即応部隊は?」

「到着まであと数分はかかるかと」

「参ったなあ……はは」

俺は、軽く笑って周囲にいた人員の顔を見やった。全員が真っ青な顔をしている。特に、さっきから機器の操作をしていた女性の収容エンジニアなどは、今にも泣き出しそうになっている。……ここで俺が動揺した様子を見せてはいけない。ちらりと横目で見たモニターには、カメラの保護具の上を例のピンク色の薄べったいなにかが横切るのが映っていた。そのの裏側には絨毛のようなものがびっしりと生えているようだった。

「まあ、まあ。少なくともこの録画データとかはこのオブジェクトに関する素晴らしい資料になるでしょう。しかし、えらいことになりましたねぇ!」

「ええ、まあ……」

ハンサムが微妙な表情を浮かべて俺を見る。「面白い冗談ですね」と、「こいつとうとうおかしくなったか」が入り混じった絶妙な引きつりかただ。俺はそんなハンサムの顔を見て笑みを深くしてみせる。

「こんなことは案外ザラなんですよ。あなたは最近レベル2になったばかりでしたね」

「ええ」

「じゃあ、今まで非開示だったでしょうが、ちょっと調べてみたら全国で年間何回かはこんなことがあるのが分かるはずです」

「そうなんですか」

「ええ、ええ。そして大抵死者が出ることはない。安心なさいな。それに実験担当なんだから、どっしり構えておきなさい」

「どっしり……分かりました」

嘘だった。こうした事態が起きると大抵死人が出る。残念なことに。

「博士、対象の様子が妙です」

「どうしました?」

そう言ってモニターに再び目を向けると、部屋中を蠢いていた物体が崩壊しかけた水槽の中へズルズルと戻っていくのが確認できた。

「なんだ……?」

俺が対応を考えている間に、水槽の内部から中の液体と同じ薄桃色をした触腕が勢い良く飛び出した。そして、椅子に固定されている男の死体の胴に数本が絡みつくと、男の死体をぶちぶちと粗雑に引き裂き、鋼鉄製の固定具をこともなげにむしり取ったかと思うと、触腕はすぐさま男の死体を水槽の中へと引き込んだ。次の瞬間には男の全身がドロドロと溶け出して、培養液と混じり合った。おそらく男の糞やらが混じったせいだろう、培養液の色が得もいわれぬ具合に濁った。今度はそこから、腕のようなものが無数に伸びてきている。まるでプールから上がるような動きで、水槽の中身全体が水槽の外へと脱出しようとしていた。

ハンサムは嘔吐しかけて、ぎりぎり踏みとどまった。代わりに出た低く長いゲップは、トマト的なにかを連想させるもったりとした臭気を室内に漂わせる。代わりに、女性エンジニアが部屋の隅まで走り、そこでげえげえとやり始め、結局それを見たハンサムも吐いた。俺は瞑目する。気分を落ち着かせるために深呼吸し、酸っぱい空気を胸いっぱいにしたせいで、それで俺まで吐いた。しばらくの間、室内には咳き込む音ばかりが続いた。

それを破ったのは、やはりモニターから聞こえてくる重たく、ごつい音であった。

いつの間にか女と、男と、培養液だったものが一つに溶け合い、実験室の天井に届こうかという大きさのバケモノになっている。まるで、サイのようなウシのような形をとったそれは、実験室の壁にメチャメチャに体当たりを繰り返し、断続的にいなないていた。どこか、人間を思わせる不気味な鳴き声だった。そいつが俺が見ている間に壁面に頭から突っ込み、分厚い鋼板をぐんにゃりとへこませた。

「嘘だろ!」

吐瀉物をざっと白衣の裾で拭い、俺は内線の受話器をひっつかんだ。即応部隊ではもはや手に負えない事態だ。近くに駐屯している機動部隊でも呼ばなければこの収容室にいる全員は皆殺し、行き掛けの駄賃にこのフロアの職員の大体がおやつにされるだろう。少なくとも、ここにいる人間は間違いなく殺される。このモニタールームは実験室と通路一つ隔てているのみだし、実験室の壁ほどここの壁は分厚くはないのだ。

「……」

俺は再び目を閉じて集中する。

即応部隊が来たところで、あのオブジェクトの異常性が健在なら隊員たちはほとんど一瞬でやられるだろう。やるのならオブジェクトの視界に入らず、一瞬で終了しなくてはならない。それは機動部隊なら慎重な計画立案のもとに実行できることだ。そしてまず間違いなく、それを待っている間に俺たちは時間切れを迎える。ならば、取るべき手は一つである。俺は、管理官部局に震える手でダイヤルする。電話は即時につながった。管理官本人が電話口にいたことに、俺は若干感動した。

「宇喜田博士、映像はモニターしています。即応部隊は当該フロアに到着したところですが、そちらはどういう状況ですか?」

「全員まだ生きています。それでですが、即応部隊を下がらせてください。呼んでおいてすみません」

「どういうことです」

があんという衝撃音が、モニターからではなく隣の空間から大きく響いた。管理官の喉がくっと小さく鳴ったのが受話器から聞こえる。

「今までの経験から言って、即応部隊の装備でこいつを止められるとは思いません。機動部隊到着までの時間を稼げるとも思えません」

俺は一瞬、言いよどみかけたが、二の句をなんとかひねり出した。

「通路の隔壁を下ろし……『舞台落ち』をそちらで起動してください」

「それが、あなたの判断ですか」

「最後の仕事を大惨事で終わらせたくないんだよ。こいつは……参ったよなぁ……うん、よろしくお願いします」

彼とは何度か飲んだだけだが、有能だし、いいやつだ。後のことはなんとかしてくれるだろう。

「……了解しました。私も同意見です。隔離プロトコル『舞台落ち』を実行します」

「ありがとう。じゃあ、お疲れ様でした」

「……お疲れ様でした」

俺は、受話器を内線電話に戻した。やりきれないが、仕方ない。
室内にいるスタッフの方を向くと、全員が俺を注視していた。皆、縋るような目だった。

「すみません、ここまでです」

俺がそれだけ絞りだすように言うと、室内の空気が凍りつくのを感じた。だが、それも一瞬だった。警備スタッフ、エンジニア2名、研究者が2人。財団でこれまでやってきた人間なら、どのような形であれ覚悟は決めてきている。全員の諦めたような顔が、蛍光灯の無情な光の中に白々と浮かび上がっていた。女性エンジニアが、その場に崩れ落ちるようにしてへたり込んだ。ハンサムは、ぽかんとしたような顔をして、周囲を何をするでもなく見渡していた。そしてけたたましい警報と、避難勧告のアナウンスが全員の耳を聾した。

「まじかよ……」

もう片方の男のエンジニアは近くの壁にもたれかかると、タバコを取り出し、無表情のままくゆらせ始める。ここは禁煙だが、誰も止めなかったし、止める必要もなかった。ハンサムがその様子をじっと無言で見ていたが、それに気がついたエンジニアがすっとタバコを差し出し、ハンサムのタバコに火をつけてやっていた。この中では年嵩の警備スタッフもそれに続いた。ちょっとうらやましくなって、俺も一本もらおうとそちらに歩み寄った。

「ん、先生もですか?」

「うん、俺も一本……」

手を伸ばしかけたその時、部屋の照明が落ちた。ハンサムがわっと叫ぶ。慌てて膝の上に熱い灰を落としたのだろう。パンパンとそれを払うらしい音が聞こえた。すぐさま予備電源が入ったため、避難経路を示す緑色のランプが点灯し、それが唯一の明かりとなった。対してエンジニアの二人は落ち着いたものだ。これから何が起こるか、わかっているのだろう。それにしても、尻込みしていたせいで最後の一本にありつけなかった。まったく。

「ついてないな」

俺のその言葉を合図にしたように、ここにいた全員を浮遊感が襲った。6 m下の岩盤に掘られた落とし穴へ収容室を落下させ、分厚い鉄のフタをする。なんて安直なプロトコルだろう、室内に小さく驚きの声があがったがそれも全員が床にたたきつけられたことですぐに止んだ。

立っていた俺は、尻餅をつくような形で腰から床に落ちた。体重と落下による衝撃で、俺の腰椎がひしゃげる嫌な音を聞いたと思ったその時には、凄絶な痛みが全身に走っていた。映画の主人公みたいにくそっと叫ぶ余裕どころか、悲鳴さえ上げられなかった。周りを見ると女性エンジニアの投げ出された足の向こうに、ハンサムが仰向けに倒れているのが見えた。衝撃でメガネが吹き飛んだうえ、この暗さでは何もわからない。

俺は、腕を使ってずるずると壁際に這っていった。そして、壁に手が触れるとそこで体を丸めた。それで、もう動けなくなってしまった。これで終わりだ。そう思うと、泣けてきて仕方なかった。俺は、他のスタッフのうめき声の中に混じって、しゃくりあげて泣いた。しゃくりあげるたびに、激痛が背中を這い登ってこれが夢ではなく現実であると嫌でも理解しなくてはならなかった。思うことはただ、嫁に許してもらいたかったし、子どもたちに会いたかった……ということだった。情けなくて仕方がなかった。最後の最後で俺は、駄目だったのだ。

「……ちくしょう……くそっ」

実験室の壁に、例のバケモノが体当たりを繰り返しているのが聞こえた。あの勢いだ。すぐに壁が破られ、奴がこの部屋までやってくる。そしてあのバケモノの一部になって、機動部隊に処分されるのだ。それまで、暴れ狂ってみるのもいいかもしれない。

俺の意識がその段階でも残っているとは思えなかったが、そんな想像に縋るほか俺には他にすることがなかった。ややあって、ひときわ大きな音とともに、モニターから聞こえてきたあのいななきが部屋のすぐ外から聞こえてくる。まだ辛うじて息のあった警備スタッフが、腰につけていた警棒を抜き、杖代わりにして立ち上がろうとした。そして申し訳ないことに、場所的に俺の吐いたもののせいでその場ですっ転んだのだと思う。俺は、なお立ち上がろうとする彼に向かって手を伸ばしてそれを制した。

「もういい……もう……」

俺の声を聞いたせいかは分からないが、彼は立ち上がるのを諦めると、ほうと息を吐いてうつ伏せに倒れ、そのまま動かなくなった。

「すまんなあ……」

そろそろだろうか、俺は音のする方に背を向けて時を待った。だが、怪物はいくら待ってもやってこなかった。体当たりをする音も、もう聞こえなかった。自分のとびとびの鼓動を目安に計っていたが、たっぷり5分は何も起こらなかった。ある、恐ろしい考えが脳裏をよぎった。もしかすると、「舞台落ち」は必要なかったのではないかという疑念である。あのオブジェクトが大暴れした結果、オブジェクトに満たされていた魔力だかなんだかが枯渇して、壁の向こうでは動かなくなったあのバケモノが転がっているのだ。

「……うぇ」

再度、吐き気が俺を襲った。再び、寝転んだままその場で吐いた。喉と言わず鼻と言わず、胃液で焼けてまともに呼吸が出来ない。俺が、この部屋の全員を殺してしまったのではないか?……ここに乗り込んできた機動部隊が、この部屋に侵入した時、無力化されたオブジェクトと死んだスタッフ、そしてゲロを喉につまらせて死んだ俺を発見するのを想像する。あまりにも間抜け過ぎる。隊員の誰かは俺の姿を見て笑いさえするかもしれない。

「く……ぐ……」

俺は肘を床について、口の中に溜まっていたものを吐き出した。このまま死んでたまるか。馬鹿にしやがって。俺は憤激しながらグニャリとしたままうまく動かない足を引きずり、一番近くの椅子までたどり着く。キャスター付きの事務椅子だ。どのくらいかかっただろうか、俺はどうにかしてその上に這い登ることが出来た。そして、壁に腕押しして出口の方へ移動を始める。その途上、転がっている男性エンジニアに目が向く、気絶しているのか死んでいるかはわからなかったが、ピクリとも動かない。その近くの床に、銀色のライターが転がっている。俺は、椅子から身を乗り出しそれを拾う。体をねじったことでまたも痛みが走り、口からひっと声が漏れた。

火をつけると、周囲の様子がボンヤリと浮かび上がる。ハンサムは打ちどころが悪かったのか、その頭部を中心として血溜まりが広がっている。俺は、意図せず顔がゆがむのを感じた。彼の死は財団の輝かしい未来の反証のように思えた。

「くそ」

出口に向かってキャスターを転がす。近づくとドアの横のキーパッドに付いているパイロットランプが小さく赤く光っているのが確認できた。ドアを開ける程度の電力は、収容室備付けの予備電源に残っているようだった。朦朧とした頭でパネルに0823……俺の誕生日を入力する。ピッという音とともにランプが緑に点灯した。その下についているボタンを押せば、この外に出られる。俺は、そのボタンを体全体でぐっと押し込んだ。

ドアが開くと、そこにはまた壁があった。

俺の唇から次に吐息が漏れたその時には、俺は硬い何かに背中から叩きつけられていた。それがさっきまで寄りかかっていたモニタールームの壁だと気がつくのに、少し時間がかかった。

息ができない。まるで溺れているかのようだ。
目を閉じることさえ出来ないでいる俺の視界に、大きすぎるその図体のせいでドアからトコロテンのように入ってくる化け物の姿が映る。そして、強烈なガスの匂いに混じって、明白な腐臭、あるいは糞の臭いが俺の鼻を突いた。

また強い吐き気がして、俺は何かを吐き出した。今度は血の味が口いっぱいに広がる。強烈な絶望感が再び俺を包み込んだ。

そんなことはお構いなしに肉の壁が迫ってくる。部屋の中を少し進んだあと、壁は胎動するかのように震え、丸く、大きく膨らみ始める。俺は、昔の事を強く思い出した。これは、見たことがある。それどころかこれに頬を寄せたことだってある。臨月の、孕んだ女の腹だ。

それは俺が見ている目の前で、何かが潰れるような醜い音を立てながら破裂した。
中から出てきたのは、女だった。俺は、信じられないくらい口が大きく開いていくのを感じた。女は、屍衣としか形容しようがない青ざめた色の長衣を纏い、その身長ほどもある長杖を手にしていた。その衣の前は大きく開いており、抜き出されたばかりの内蔵のようにつややかな肢体が露わになっている。

そして、女には首がなかった。しかし、首の上にある虚空にオブジェクト……白い王冠を戴いているのが、暗闇の中でもはっきりと見て取れた。女が肉の中から一歩部屋に踏み出す。長杖が部屋の床を打つ音が、やけに甲高く俺の耳朶を打った。

「……吐きそう」

ため息のようにしておれはえづいた。同時に現れた女に美しさのようなものを覚えている己に驚愕する。一体何が起こっているのか……いや、明らかだ。情報災害が俺の身に降りかかっている。俺は歯噛みした。これまでは割に情報災害についてはクリーンだったのに、これで汚されてしまった。

女はそんな俺を意にも介さぬ様子で、杖を高くその場で掲げる。ぐらぐらと部屋全体が振動するのを感じた。女の背後にある肉から、あの触腕が再び姿を見せた。前とは違い、その先端には鎌のような形をした白い物が付属していた。そして、ぶんとそれが振るわれたかと思うと、近くにいた女性エンジニアの体がバラバラに吹き飛ばされ、さらに尋常ならざる太く長い触手が見境なく暴れ狂い、砕け散った肉を見せつけるように擦り潰していた。薄暗がりの中、壁の端にいる俺に、びちゃびちゃと液体が振りかかるのを感じた。その間も、触腕は部屋の中のものを粉々に破壊し続けていた。きっと食べやすい大きさに切り刻んでいるのだ。

笑いがこみ上げてきて仕方がなかった。こんなものを、あのハンサム君は解き放ってしまったのだ。とてもではないが、人の手に負えるものではない。どうにも参った。そして相変わらず息苦しいし、ガスの臭いでどうにかなりそうだった。プロパンのように臭いで危険性が分かるように調整されたガス、臭いを嗅いでいると頭痛でどうにかなりそうだった。ガスか。

「……」

火がつかないかな、と俺は思った。ほとんど頭は回っていなかったが、それだけがふんわりと思い浮かんだ。俺は、右手に握りしめていたライターに、もう一度火をつけた。指の中で、ちいさな温もりが灯る……ことはなかった。すさまじい勢いで触腕が俺の右手に伸び、ぬくもりを感じる前に手首ごとライターをちぎり取ったからだ。それと同時に触腕の一本が足に絡みつき、俺を宙吊りにした。そしてどういうつもりか、触腕は俺を女の眼前に持ち上げ、女の顔と俺の顔がくっつかんばかりにする。

俺はそこに目がないのもかかわらず、女と目が合ったことを強く認識した。そして強烈な「興味」が向けられていることも同時に感じる。その時、女の背後がぼんやりと明るくなったような気がした。ぼやけた視界の中で最後に見たのは、それと、横の方から俺の首を一閃しようとする鎌くらいのものだった。ざまあみろ、と最後に吐き捨てようと思ったが、うまく言えたかはわからない。


 

急.jpg

 
「宇喜田博士」はそこで目を覚ました。とうにベッドから転げ落ちており、何度かバウンドしたせいか少し離れたクローゼットの前に転がっていた。それは宇喜田-1に向かって転がっていくと、彼女と接続して頭を抱える。部屋に戻ってから二時間ほどが経っていた。その様子が映し出されているディスプレイから目を離し、対象の脳波形を計器で確認すると著しく乱れている。それまで見ていた夢の影響であることは明白だ。どんな夢をアレは見ていたのだろうか。

「宇喜田博士、対象に極度の混乱が見られます……鎮静しますか?」

「はい」

私付きの若い技術職員が、慣れた手付きで機器を操作して対象の部屋に鎮静剤入りのミストを噴霧する。「職員のリラックス」のためのサービス。職員に対する行き過ぎた財団のホスピタリティは、時にこうした処置の隠れ蓑として活用される。数分も立たぬうちに、対象はミストを十分に吸ったらしくベッドに横たわると今度は夢の入り込む余地のない深い眠りについた。

「鎮静処置終了、対象の覚醒は一時間後です」

「ご苦労さま。その頃に浮田博士を向かわせて話をさせて頂戴。それと対象に課しているタスクについて、理由をでっちあげて提出期限を伸ばしておいて」

「そのように。あと今のうちに対象から送られてきた分の文書類をお送ります」

「お願いします」

技術職員が、対象から送られてきたレポート・報告書の類を手早くスクリーニングに掛けてから私のアカウントに送信する。オフィスに帰ってから、対象に代わって私がそれを各関係先に提出する。対象を「宇喜田博士」として働かせるのは植え込んだ人格を安定させるのに必要なことではあったが、やはり面倒なものは面倒だ。アレに発生している人格のベースになった人物同様、ヌケたところがあるから手直しをしなければならないところが多くてたまらない。

私は疲れてぼんやりした脳をこめかみ越しにグリグリと刺激する。最近いくつかのスマートドラッグを試し始めたが、能率は現状維持が良いところだ。私もいよいよ耄碌ババアというわけだ。あと数年で70代、もう少し若い頃に考えていた老後の計画では庭やら畑をいじりながら余生を過ごそうと思っていたのだが、この有り様ではそうもいかない。ともかく今は、オフィスの椅子の上に戻りたかった。

「では、また何かあったらすぐに連絡して」

「承知しました。それはそうと宇喜田博士、顔色がすぐれないようですが?」

「……あまり気を使わないでくださいな。それともそんなにおばあちゃんの肩をもみたい?」

片方の眉だけ上げてそう言ってみせると、技術職員は怪訝そうな表情を浮かべる。

「いえ、私も慣れてきましたが、『アレ』は見ていて気分の良いものではないです。博士にとってはなおさらでしょう?」

「そうね」

同情しているのか、単に私の精神的負荷を懸念しているのか分からないその問いに私は短くそう答える。

「我が愚夫であったところの宇喜田 啓臣の部分も一割くらい残っているし、そこに発生しているのはその人格です。でも彼と『アレ』は別よ、まだね」

私は、男の背中を軽く叩いてそう言うと部屋を去ろうとした。その前に振り返って、私はディスプレイ越しにアレを見る。ボールをその頭とし、ベッドに横たわる姿は狂人の見る夢の中から抜け出てきた怪物のようだった。実際、こうして実験的にアレに夫の人格を再現することに成功する前までは、アレはありふれた汚らわしい化物そのものだった。接触したDクラスの鼻腔から触手を突っ込み、ほじくり出した脳を啜っていたのは今も夢に見る。

私の長年の研究テーマだった記憶操作と人格の上書き技術に一縷の望みをかけ、アレに試した結果偶然それらしき成果が得られたのが今の「宇喜田博士」だ。アレに行った手順を用いれば、現状でも白痴と化した者にさえ元の人格を完璧に戻す自信がある。だが、「宇喜田博士」は別だ。データやカウンセリングで確認すると、まだまだ植え込んだ人格が定着しきっていないことが分かっている。原因はやはりアノマリーに侵されたことで著しく変容したことであろう。いまだに出生地が聞くたびに違うし、なにより妻であった私、現在の宇喜田 直子のことを覚えていることができない。

若い頃の私を写真で見せるとそれを自分の妻であると認識するが、今の私をそれと結びつけることができないのだ。なぜなのかは分からないが、この人格の上書き技術を本当の意味で完成させる上でいずれ解決すべき課題だ。この技術をほぼ人間でなくなった対象にも完全に作用するようにできれば、多くの人が救われる。その他の用途を考えてみても財団の、人類の利益のために大いに資する研究だ。そしてなによりこの研究プロジェクトが完遂したときこそ、「アレ」を殺して今度こそ夫を救う事ができる。そうだ、必ずやり遂げてみせる。

私は、「定常監視:AO-U-0823-JP」という札のかかった薄暗い部屋を後にする。
せめてその時が来るまで、おぞましい過去を忘れ、甘ったるい家族との夢でも見ているがいい。
……私のこの思いは、やはり祈りなのだろうか。私は戸の閉まるガチャンという音を背に聞きながら、そんな意味のない問いを脳裏に浮かべていた。


AO-U-0823-JP.jpg

オブジェクト体表の接写、故宇喜田博士顔面の筋肉組織が浮き上がっている


管理番号: AO-U-0823-JP

AO収容プロトコル:AO-U-0823-JPはサイト-8198のEクラス職員として登録されます。AO-U-0823-JPをE-クラス職員として登録するに当たり、セキュリティクリアランス3相当の文書へのアクセス権の付与、故宇喜田 啓臣博士担当オブジェクトの管理業務を行わせています。これについて現場作業・監督が必要な場合はその業務は選任された職員が担当します。業務内容はサイト-8198管理官が決定し、AO-U-0823-JPから提出された内容は、すべてが一旦認災スクリーニングおよび標準的検閲を行ってから財団データベースに登録されます。

AO-U-0823-JPに実行されている偽記憶の埋め込みと人格の再現技術の長期実験のためにAO-U-0823-JPはサイト-8198の標準人型収容室へ収容されており、実験のために他サイトへの移送が必要な場合はサイト-8198管理官の許可が必要です。

説明:現在、このオブジェクトはAO-U-0823-JPとAO-U-0823-JP-1の二つの構成要素からなっています。

AO-U-0823-JPは、故宇喜田 啓臣博士の切断された頭部が著しい変容を被った結果生じたアノーマラスオブジェクトです。いわゆる「肉の工芸」類似の変容が当該オブジェクトには認められますが、いずれの調査結果も断定的ではありません。故宇喜田博士は研究機関から財団へ雇用され29年間平穏に勤務してきましたが、Dクラス職員を使ってのSCP-███-JPの実験中に制御を失ったオブジェクトを再収容する際に殉職しました。その際に頭部を体から切り離され、加えてSCP-███-JPの効果に暴露したことにより、遺体はAO-U-0823-JPとAO-U-0823-JP-1の二つの構成要素をもつアノーマラスオブジェクトに分類されています。「全身をミキサーに掛けられた上、圧力釜で八時間コトコト煮こまれた気分でした」という証言がAO-U-0823-JPから得られていますが、変容を被った際宇喜田 啓臣博士は死後三時間が経過していたと見られ、この証言の信憑性は疑問視されています。

現在のAO-U-0823-JPは人間の肌を持つ、バレーボールよりやや大きいつるりとした球形です。対象はバスケットボールと同等の弾性を持っていますが、その理由は不明です。AO-U-0823-JPは体表の発達した筋肉に原始的な臓器を持ち、また身体下部には故宇喜田 啓臣博士の物と同一の口唇がついています。AO-U-0823-JPの発声器官は未熟なものであるようで、赤ん坊のような声で喋ることで知られています。口唇のさらに下には放射状に6つの穴が並んでおり、そこからそれぞれ2 mの長さがある半透明な触手を出すことが出来ます。これは視覚、聴覚を司る器官であると同時に、足や手のように使われるものです。また宇喜田 直子博士によって、偽記憶の埋め込みと人格の再現技術が使用されたことによって、AO-U-0823-JPは体内に保持していた宇喜田 啓臣博士の脳の欠片とそこに残存していた僅かな海馬領域に全身のコントロールを奪われ、「宇喜田博士」の人格が発生しています。その宇喜田 啓臣博士としての自認を保つために行われている取組みの一環としてEクラス職員として事務作業などを割り当てています。本報告書にAO-U-0823-JP資格でアクセスを試みた場合、偽装された「人事ファイル」文書が提示されます。

AO-U-0823-JP-1はかつてDクラス職員だった中国人女性の█████で、頚部から上を完全に失っており自発的に動きません。しかし、背中にある他次元由来のコブ状の器官によって生存が確保されています。栄養はAO-U-0823-JPから触手状機関を通じて送られる他、AO-U-0823-JPの口部分から吐き戻した未消化物を頸部の穴から摂取しています。AO-U-0823-JPとAO-U-0823-JP-1は感覚を共有しているものと見られ、AO-U-0823-JPへの痛覚刺激にAO-U-0823-JP-1が反応し、AO-U-0823-JP-1への痛覚刺激にAO-U-0823-JPが幻肢痛に似た感覚を報告しています。

AO-U-0823-JP-1の頚部には穴が一つ空いているのみで、CT検査の結果脊髄が存在しませんでした。AO-U-0823-JPはこの穴を介してAO-U-0823-JP-1と三本の触手を使って結合することができ、この時に触手はAO-U-0823-JP-1から失われた脊髄の代替品として働きます。AO-U-0823-JPはこれによってAO-U-0823-JP-1の完全なコントロールを得ます。AO-U-0823-JPが首から下を必要とする用事があるときは、AO-U-0823-JPとAO-U-0823-JP-1は結合した状態で活動します。

現在の担当職員は宇喜田 直子博士であり、元人間の非人型存在に対する偽記憶の埋め込みと人格の再現技術の検証のために長期実験が実施されています。AO-U-0823-JPは定期的な健康診断によって残りの活動期間が十年以内であることがほぼ確実であることが判明しており、本オブジェクトが自己終了するのと同時にこの長期実験も完了する予定となっています。

その間現在の収容状態を保つために、宇喜田博士人格の核である「宇喜田博士の家族の記憶」及び「財団職員としての自認」が持続的に喚起されている必要があることから以下のような措置を取ることが許可されています。

  • 喜田 啓伸氏の雇用とコミュニケーションの継続(宇喜田博士実子。人材的価値の不存在から、オブジェクトの終了後に解雇予定)
  • 浮田 環博士とオブジェクトのコミュニケーションの継続(宇喜田博士実子。本人にはオブジェクトの監視と状況の報告を義務付けている)
  • AO-U-0823-JPのEクラス職員登録

AO-U-0823-JPに宇喜田博士人格が再現されてから、██年になりますが、上記措置のために現在もこの人格は安定した状態を保っており、本オブジェクトに対する長期実験の現在の課題は外部からの刺激無しで、生成された記憶とそれに基づく人格が長期間継続する方法の模索です。そしてこのプロジェクトがAO-U-0823-JPの自己終了をもって完了した際には宇喜田 直子博士は退職し、プロジェクト関係人は直ちにその任を解かれる予定です。

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