「子」 真実と嘘が表裏を成さなくなり彼は親に殺された。
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『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。』

-フリードリヒ=ニーチェ


椅子が古くなった。
私が身動ぐたびにギシギシと騒音を立てる。眼前の子が泣いてしまわないか、私はそれが心配だった。

美しいこの結晶が、あるいは息吹の源が、生まれた時から私はよく知っている。そのつぶらな瞳が私へ向けて開かれたことはないが、常に瞼の内側の世界を隈無く見ようと必死に虹彩が這っているのが分かる。

今日でいったいどれほど経ったか、私の部屋には誰も訪れない。
今日でいったいどれほど経ったか、我が子は未だ目を開けぬ。
今日でいったいどれほど経ったか、私は此処から動かない。

我が子の動きは目覚ましい、今か今かと外の世界を熱望している。ただ、ただその瞼を開けば見える外の世界を手探りに、少しでも感じ取ろうと必死だ。

ある時は感情で訴えてきた。我が子の思いは私に向けられ、私はそれに応えない。何故ならそれが素っ頓狂な物だから、真実に程遠い物だから、私は未だ応えない。

そうして今は身動いでいる。少しでも自分の経験と、頭で考えた世界を見ようと試みている。だがそこに私は居ない。かつて我が子が求めた私というものを、我が子はもう忘れている。

本当にそれで良いのか?我が子はそこまで愚かなのか?私は我が子の美しい顔立ちを眺めている。
何故この子が本質を忘れ、他の『正しく見えるもの』にすがろうとしだしたのか。
私には分からない。


少し寝ていた。気が付くと扉が開いている。
「おはようございます」
声の方を見やると彼がいた。私は応えない。
「お子さんは未だ、目を開けないようですね」
そう、まだ目を開けない。私は応えない。

彼が向かいのチェアに腰掛け、タバコを口に運ぶ。
体躯の大きな肥えた男がどっしりと座りかかるとチェアは騒音を立てる。
他人の部屋に来ておいて、彼はあろうことか上着を脱いだ。ガシャリと重厚な上着のボタンと勲章の数々がこすれあう。男はその鉄片をたいそう大事にしているようで、年季が入って錆、今にも朽ちようとしても捨てないのだろう。

「もう、この子は目を開けません。いえ、この子はもう目の開け方を忘れ、ただこうしていることにしたのです」
火の着いたそれを片手に煙を吐く男は満足そうにそう告げた。
「そうか」私はやっと口を開く気になった。何年ぶりだろうか。

「そうです。そう、貴方の読みは外れた。これで何もかもお終いです。後は貴方にお任せします」
この部屋に灰皿が有っただろうか。不思議に思っても仕方がない。彼の手元にはそれがある。
私はゆっくり目を閉じた。


赤色ランプが止まらない。
かれこれ76時間鳴り続けた警報は止まる様子を見せない。

「財団職員の92%が死亡。米国支部、英国支部、独逸支部、仏蘭西支部、中国支部、日本支部がそれぞれ最高管理者を残していますがそれ以外の管理区域では最高管理者以下全てを含んだ職員の死亡が確認されています」
女は書類の束をめくりながら言う。今やこの理事会のメンバーも3人になってしまった。
読み上げられる被害状況を真剣に聞く者も、もう居ない。

誰も口を開かない。何も言うことはない。

「事前非常警報が功を奏し現在米国、中国、英国政府はそれぞれその機能を14%前後で維持しています。各国諸軍隊は20時間前の"アダムの再興作戦"にてその機能を喪失しています。これ以上の措置はもう」
「わかった」
遮ったのは初老の男だった。口元の動きがわからぬほどに髭を湛えているが男の声だとはすぐに解った。
誰にせよ、いや誰も、わかってはいない。ただ彼女にそれ以上ものを言うのが無意味だとわからせるため。そうでなければ彼らは彼ら自身の失態と愚かしさを糾弾されるような思いで心を押しつぶされかねない。

男は立ち上がる。
「もう、よい。O5は腹を括った。そう、連絡が来た」
男はその目に何の感情を持っているのか悟らせない。
O5が未だ現存しているのかという疑問も、誰も口にしない。今や人から放たれる言葉に真実も虚実も関係がない。否、意味が無い。真実も虚実も失ってしまった今となっては。

「私も、もう良いのだ。この席に付かなくても」
「それは…」
女が不思議に聞き返す、縫合された顔の筋肉が痙攣し、今にも自分が崩壊するのではないかという恐怖を抑えて。
「全財団職員に通達。全財団職員にだ。我々はこの時を持って全ての任を解かれる。私を含め、以下、日本支部の全ての職員は残された時間を自由に使うよう命令せよ」
「そして、機会があればまた会おう。その時は、もっと上手くやるよう、全ての職員に告げよ」
では、と言うか言わずか男は踵を返して重い扉を開け、会議室を出て行った。
幾分身勝手な話だと思うであろうが、彼もまた1人の人間であったのだ。自らの最期の直前に己が人生を悔いたりする感傷の時間は万人に与えられるべき物だと、男は考える。


「で、どうしましょう」
報告を受けた男は先程まで作成していた打開案を放り投げて言う。
「どうも、しませんよ。そりゃ」
任を解かれた所でもう、何をしようも無い。
「時間が無さ過ぎるよなぁ。あの時蹴った休暇を使うのも無理か」
この期に及んで出るのは嘆や悲観よりも、奇妙な楽観だった。
いや、楽観ではなく、それは男の強がり、虚栄心、虚勢だったのかもしれない。

「僕なんか、家族に電話しようにもみんな死んでるだろうからなぁ」
男の親族は東京に住んでいた。報告では東京はもう人間の住めるところではないらしい。
そんな悲しみには数十時間前に決別した。折り合いをつけた。そう、自分で信じるほかない。
嘆いてどうにかなればなと。そう考えている。

「私は…いえ、私も、家族は死んでしまっていると思います」
彼女の親族も同様だった。男の動じない風に押されて、彼女もまた、何も考えないことにしていた。
今此処で自分が理性を失っても、何も起きない、それどころか、眼前の男の何かに傷をつけてしまうのではないかとそう考えている。

「君には、お兄さんがいるじゃないか」

忘れていた。兄が居た。男にとって、それは他愛のない言葉だった。
しかし、彼女にとってそうではない。
安否の分からぬ唯一の家族、兄が今何処にいて何をしているのか、今まで考えなかった。
兄がもう死んでいるのかさえ、分からなかった。それは希望でもある。
黒い希望。

数十時間前に作戦行動へ同伴しに出たきり姿を見ていない。一般的職員の通常作戦としては長すぎるものだ。
無論、殉職しようと、それを家族へ知らせる義務は財団に無い。例え殉職しようと、家族には適切なカバーストーリーと少々の保証金が出される程度で、説明や最期の言葉を聞く権利は、無い。
今まで長年家族として、同僚として、あるいは尊敬する人物として、時には道標として、はたまた支えてくれる最後の砦として、親身に思う人物であっても、469ページの業務規程はその思いを知らない。

男は静かに泣き崩れる女を、いつまでも。いつまでも眺めていた。


ポケットを弄るとまだ弾薬が少々残っていた。ホローポイント45口径ACP弾丸が16発、フルメタルジャケット12.7x99mmNATO弾丸が32発。果たして今残ってるNATO加盟国は幾つだ?などと考えながら息を殺す。
民家の一室に立て篭もる殺人鬼に対して機動隊が動員されたのが2時間前。突入した機動隊は3発の銃声を残して出てくる気配もなければ通信も届かない。それから各地で荒唐無稽なニュースが相次いだ。幾千もの新興宗教が終末思想甚だしい演説をしていたのが思い出される。
様子を伺いに行った同僚の警官も皆出てこない。中で面白おかしくパーティでも開いていて、皆それに釣られて中で踊っているのではないかと友人と馬鹿を言っていた自分を呪う余裕は、あまり無い。

俺は見た。いや、何も見ていないのかもしれない。昨日あたりから流れる奇妙奇天烈なニュースに毒されて俺の思考が見せた幻覚なのかもしれない。今まで生きてきて、化物や幽霊に見覚えなど無いしそれが有るものとも信じてはいない。
ただあの…あの生き物が何だったか分からないだけだ。そう言い聞かせていた。
それも当然で普通人間は0本足の4ツ頭の人型生物を知らない。

それが扉を背にして背後で蠢くのが分かる。
音じゃない、気配とも言い難い。何か、何か懐かしい何かが、俺の背中を這って行く、そんな感覚だ。
程なく息を殺して待ってみる。あぁ、きっとそれは人で、狂った殺人鬼の形相が俺にそんな化物を想起させたに違いない。
そう信じたかった。

そう、腹をくくって音を立てぬよう弾倉を引き抜く、無意識に撃ちまくって無くなった空弾倉に、ポケットから16発取り出して込める、硬い動作に憤りを感じるも冷静に、ゆっくりとこなす。

不意に背後から音がした。重たい金属の塊が床に落ちるそんな音。俺は飛び上がり7発しか込めていない弾倉をハウジングに突っ込み遊底を引き千切るような動きで薬室に弾丸を押し込んで立ち上がる。
「もうバレた」そんな焦りで扉を蹴破り、照門を覗き込み、僕は夕日を見ていた。

先生はもう帰ってしまった。
背中越しに「鍵を事務室に返しておいて」とだけ言い残し、扉は閉められた。
僕はその時ここが、3階の図書室が好きだった。遠くに見える景色は田舎らしく、山の木々以外に遮るものがない。
何も本を読みに来たわけじゃないしそんな習慣もない。ボロボロになった古い児童書を読む気はないし埃をかぶった小説を眺める気もない。強いて言えば昆虫図鑑の図柄に1日見惚れていた時も無いではないが。
ただ今は、あの綺麗な夕日がどうしても見たくなって、居ても立ってもいられなかった。
窓越しに見るのでは飽きたらず、窓を開け、誰もいなくなった校庭の延長線上に沈もうとする冬の太陽を自分一人のものだと確信したくなった。

「開けちゃダメ」

そんな声を聞いて振り返ると女の子がいた。
気が付かなかった。この小学校も大きくはない。全ての生徒の顔は学年問わず知っているつもりだったが、彼女のような顔には見覚えがない。
「開けちゃダメなんだって。危ないから」
引用するような口調で言う彼女の手に有るのは昆虫の図鑑だった。
「そうなんだ、知らなかった」
違和感に戸惑って、適当な言葉が見つからない。
何だ?何を感じる?
奇妙な女の子だ。雰囲気というか、佇まいというか。何かがおかしい。
女の子を見て「変だ」という感想を持つのも良いことではないと子供ながらに考える。
そのうち彼女を見るのが耐えられなくなって前に向き直る。夕日はまだそこにある。

そのうち夕日までが変に見えてきた。小学生の僕が何故夕日を見て泣いているのか理由が分からなかったからだ。
そもそも俺はワシントンに生まれたはずで、こんな田舎の小学校を知るはずがない。山も森も校庭も、その延長に沈もうとする太陽にも、見覚えはない。それに彼女の持っていた図鑑に書かれていた文字は見覚えのない中国語のようだったではないか。昆虫の図鑑が好きなのも実物を見るより遥かに図鑑に並ぶ昆虫の方が多用で、息吹を感じたからだ。
ではなぜ?

「ここは私の小学校なの」

後ろから答えが飛んできた。
「え?」と振り向くとそこには四ツ頭の真っ黒な0本足が居た。
図鑑を眺めている。
不思議と恐怖を感じない。ある種夢のなかにいるかのような感覚に常に苛まれるこの図書室だからか、どこかに「コレは現実ではなく僕の、いや俺の妄想なんだ」という保証が有るかのように感じられるからか。

「貴方が、いえ。ありがとう」

女?はそう言うと前を向くように促した。
そこに太陽はなかった。
真っ赤な鳥が、巨大な赤い鳥が校庭の延長線上に飛んでいるのが見える。太陽の代替のように光り輝いている。
「鳳凰」そんなワードが思い浮かぶ。その姿は正に鳳凰だった。
山の峰に沈むよう飛んで行く鳳凰が見たくて俺は手を伸ばし、窓を開け、撃鉄は信管を叩き、火薬の燃焼によって発生するガスが鉛むき出しの弾頭を押し出し、螺旋状の溝にそって回転しつつ銃口から放たれた。

4ツ頭の頭の一つに命中してから気がついた。
その部屋には何人もの男たちが上を向いて口を開け、泣いている。
いずれも放心状態のように。
その顔はどれも、美しい日没でも眺めているかのように見えた。


気がついてまた、目を開ける。
男はまだそこに居た。何の感情もない目をこちらに向けてくる姿に少し不愉快になる。
「どうやら我々は覚悟を決めたようです。目を開けなかった代償です仕様がありません。あとはまぁ、そのようにしてください」
男はそれだけ言うと立ち上がり、上着を丁寧に着直した。まるでそれが、自分と同じものだと言わんばかりに。
「お子さんはよく出来た方ですよ。私が見てきた中で一番いい。ただ少し運が悪かっただけです、気を落とすことはありません」
そう告げて男はドアの方に歩いて行った。
「待て」
呼び止めたのは私だった。何故自分がそんなことをしたのか不可思議だったがまぁそういう気分なのだろうと納得する。
「本当に良いのか?お前はそれで」
訊いて気がついた。それが不可思議だったのだと。男はきっと我が子の内なのに、何故そうも振る舞えるのかと。

大和博士は少し思案する素振りを見せてからこう応える。
「私はそうは解釈していないのですよ。我々は簡単にはなくなりませんし今回のことも貴方が思う解釈とは違う位置に立ちます。もし、次があるとすればの話ですが。次はうまくやりますよ。貴方を、神をも打倒してみせます」
そう言ってドアを閉めた。

なるほど。
私は楽しくなる。ここ最近見ないような奴だったので少し嬉しくなる。
顔が歪むのを気にしながら私は140億年ぶりに椅子から腰を挙げ。

我が子の首を斬り落とした。

それは少し不格好なうめき声を挙げ、死んだ。

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