カーテンコール
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高級そうな車の中、フカフカで揺れをほとんど感じないシートに、二人の男が向かい合って座っていた。

「なぜこの車の窓は、全面スモーク張りなんだね。外がまるで見えん」

老齢の男が、ぽつりと口を開いた。

「申し訳ありません、機密保持のためでございます」

セールスマン風の若い男が、柔らかな口調でそれに答えた。

「つまり君たちは、事務所の場所を特定されると困ったことになる、あまりおおっぴらにできない仕事をしているわけか」

「できないわけではございませんが、少々厄介な商売敵がおりまして」

「まあいいさ。私も芸能界に長いこといたから、君らみたいのは初めてじゃない。しばらく、付き合おう」

「おそれいります」

老人はシートに深く座りなおし、目を閉じた。


老人の職業は元役者だった。彼の人生は、常に演劇とともにあった。しかしそれは、観客やカメラの前だけで、という意味ではない。彼は、真の意味で、常に演じ続けていた。

小学生時代、彼は親のいいつけを守り、レッスンを受け、誰にもニコニコと挨拶をする、「いい子」の役を演じた。それが、両親に叩かれない唯一の方法だと学んだから。中学生時代、彼は誰よりも勉強し、誰よりも真剣に運動し、誰よりも演劇を愛する「優等生」の役を演じた。無論、形だけではない。期末テスト、運動会、そして役者の仕事、彼は完璧に「役」を演じきり、誰もがそれを彼の真実の姿だと思っていた。彼自身以外は。隠れて非行をすることもなかったが、彼だけはそれが真実の自分ではないことを知っていた。高校生時代、彼は少し冒険して「恋人がいる男子高校生」の役をやってみた。相手は隣の市の高校の下級生。しかし誰にもばれずにこの役を続けることが思った以上に難しかったので、夏休み中をずっと遠地で過ごす仕事をわざと受け、役を「仕事で疎遠になり恋人関係が自然消滅した高校生」に変更した。演目の途中で役を変更することには少なくない苦悩が伴ったが、その苦悩の中に「有名子役に惚れた女生徒」の気持ちは含まれていなかった。やがて大人になった彼は、舞台で共演した女優と「大物カップル」の役を演じ、「よき夫」の役を経由して、「よき父」の役を演じることとなった。 「毎日仕事が終わったらすぐに息子と妻の待つ産院に駆けつける夫」の役はなかなか大変だったが、その分周囲の目は気持ちのいいものだった。「2男1女の父」の役は、その後の事故により「1男1女の父」の役に変更された。「家族の悲劇に嘆き悲しむ父」の役はなかなか骨が折れた。これまでにやったどの仕事よりも難しかった。

そして彼は今、「老齢のため引退したかつての大スター」の役を演じている。仕事を続けたい気持ちはあるが、いつからか、体が脳についていかなくなった。そしてついに、脳が台本についていかなくなった。台本をもう覚えられないと知った時、彼は真に絶望した。それは何十年ぶりかの、演技ではない感情だった。思考は鮮明だ。熱意にも溢れている。しかし、台本だけが脳からこぼれていく。そして落胆と無力感だけが、記憶ではなく経験として蓄積されていく。「もう誰も自分に役をくれない。」そう気づいた時、彼は自分の存在意義を失ったのだった。自ら命を絶とうと考えたのも、一度や二度ではない。しかしその度に、彼はこう考えた。

これが私の最後の役でいいのか

彼は、最後のその瞬間まで、自分の人生を演じたかった。できることなら、死んでからもなお、演じ続けたかった。俳優としての自分にふさわしい「最後の役」は何か。それは少なくとも「寂しさから自殺したかつての名優」や「老いに恐怖し狂気に堕ちた哀れな男」などというものでないことだけは分かっていたが、さりとてどうしたものかもわからず、彼は「頻繁に遊びに来る孫を溺愛する祖父の役」をニコニコと演じ続けるという、春の野原のような明るい地獄を這いずり回る日々を送っていた。


ある日、ポストに一通の封書が投函されていた。俳優時代のギャラでひと財産築いた彼に投資話や寄付の依頼が来るのは日常茶飯事だが、その日の彼はなんとなく、その胡散臭いダイレクトメールめいた封書を捨てずに開封してみた。

私どもは、あなたをきっと満足させることができる商品を持っております。もし気になりましたら、ぜひ一度ご連絡ください。

MC&D

たったそれだけが書かれた便箋と、電話番号が書かれた名刺だけが入っていた。彼はすぐさまその手紙をゴミ箱に放りこんだ。しかしその夜、床についた彼はどうしても手紙の文を頭から追い出すことができず、ゴミ箱に放り込んだ手紙をもう一度拾い上げ、皺だらけの細い指で電話のキーを叩いたのだった。

「はい、マーシャル・カーター&ダーク株式会社です。」

「そちらからダイレクトメールを受け取ったのだが」

「興味がおありですか。わかりました。当方の事務所にて詳しいお話をさせていただきます。迎えのものを伺わせます。都合のよろしい日を教えていただけますか。」

「待ってくれ、この手紙の意味と、あんたたちについて、まだ何もわかってないんだが、いったいなにを」

「それも事務所でお話しいたします。ご安心ください。決してご期待を裏切ることはないと保証いたします。何日がよろしいですか?」

戸惑う彼が予定のない日を言うと、電話の相手は迎えの時間と短い礼の言葉だけを伝え、電話は切れた。彼はしばらく呆然としたのち、自分が名乗っていなかったことを思い出し、それにも関わらず相手が自分のことを把握していたことに気がついた。きっとナンバーディスプレイのせいだろうと思い、彼は再び布団へ戻った。そして数日後、彼らは約束通りの時間に黒塗りの高級車で彼を迎えに来たのであった。


「着いたようですね」

外が見えない地下の駐車場のような場所で車を降りた彼らは、そこからさらに長いエレベーターを降りた。長い廊下と重い扉の先は、清潔感と一種の高級感を備えた、応接間または高級ホテルの一角のような場所だった。

「私はもっと会議室みたいな殺風景な場所に案内されるかと思っていたよ」

「まさか。主人からはお客様をVIP待遇でお迎えせよと伝えられております。そのような場所にはお連れできません。」

「VIPね。やはり何度言われても悪い気はせんな。で、何を見せてくれるのかな」

「台本です」

彼はぎょっとした。台本。それがもたらした絶望を、この男たちは知っているのか。そんなはずはない。役者として潔い引き際を見せたあの記者会見も、完璧に演じきった。そんなはずはない。そう思いながらも、彼の心臓は早鐘のように鳴った。

「仕事をくれるというのかね」

彼は極めて平静に答える演技をした。

「仕事というよりは、新しい人生です。あなたはこれまで、人生を演じきってきました。私どもは知っています。あなたがどう生きてきたのか、そのすべてを」

「まさか」

「奥様を亡くされたこと、残念でしたね」

彼はまたしても、演技ではなく目を泳がせた。そんな、まさか。

「我々は知っています。奥様は足が不自由になりかけていましたし、それと認知症の症状も、あなたより早く進行しておられました。それを知ったあなたは」

「妻がなんだというのだね。不愉快だ。帰らせてもらうよ」

「では息子さんの件はどうです」

「息子がなんだというんだね。息子は元気にやっとるよ。いわゆる2世タレントとしてな」

「いえ、そちらの息子さんではなく、亡くなったほうの。いえ、殺されたほうの」

彼は卒倒しかけたが、すんでのところで意識をつなぎとめた。ここで舞台を降りるわけにはいかなかった。

「あれは事故だ」

「いいえ、我々は知っています。"ヴァージニア・ウルフなんてこわくない"、拝見しました。嘆き悲しむ父親の役は、それはそれは見事なものでした。しかし役作りの勉強のために実の息子に手をかけるとは、なんという崇高な役者魂なのでしょう。主人共々、あなたの演劇に対する真摯な姿勢には、敬服しております。なかなかできることではありません。近年の作品では"冬物語"も、感動しました。長年連れ添った妻を失い、絶望し、己の罪に後悔するレオンディーズ。ええ、真に迫るものがありました。奥さんを手にかけた甲斐がありましたね。我々は、そんなあなたに、次の"役"を与えて差し上げたいのです」

彼は椅子に倒れるように座り込み、両手で顔を覆った。もはや演技どころではなかった。しばらくの沈黙の後、彼はようやく声を絞り出した。

「…何をすれば、いいのかね」

「その前にひとつ、勘違いしないでいただきたいのですが、我々は何もあなたを脅しているわけではないのです。最初にお伝えした通り、私どもは、あなたを満足させる商品を持っています。それをあなたの自由意志によってお買い上げいただき、あなたの人生を充実させてさしあげたいのです」

「それで台本か…見せてくれ」

彼は、台本を受け取ると、役者の顔に戻った。それをセールスマンは、満足そうに見ていた。

「これは子供向け番組…じゃないな。これは、いわゆる」

「そうです」

「そんなものに加担はできん」

「それはあなたの本心ではないはずです」

「体がついていかん」

「新しい肉体をご用意いたします」

「台本もおぼえられん」

「新しい脳をご用意いたします」

「…なにを言っているんだあんたは」

「我々の主人には、それができる力があるのです」

「…この役が、私の望みだというのか」

「はい」

「契約期間は」

「あなたが望むなら、いつまででも」

「私が死んでもか」

「お約束いたします。マーシャル・カーター&ダーク株式会社はお客様の良き友、忠実なるしもべ、信頼出来る相棒でございますゆえ」


こうして、彼の人としての生は、終末を迎えた。遺産のほぼ全てを新興の福祉団体に寄付したことはゴシップと遺族をしばらくの間騒がせたが、それもやがて静かになった。ただ彼の孫だけは、「おじいちゃんがテレビに出てるよ!」と時折騒ぐのだった。しかし、おじいちゃんがなくなって寂しいのだろう、一人で遊んでいるときにドラマの再放送でも見たのだろうと、大人は誰も真面目に取り合わなかった。そして今日も彼の孫は、何も映っていないブラウン管を真剣に見つめている。

「やあ、みんな、ハロー! 今日もぼくと工作したり踊ったり、楽しもうね! 今日はパパとママの部屋からいいものをこっそり借りて、イカした魔法の薬を作っちゃおう!おっと、自己紹介がまだだった、ぼくの名前は…」

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