波戸崎研究員の奔走と虎屋博士の定義
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「波戸崎君、ちょっといいかな」

会議室から出ようとした僕、波戸崎 壕はその声に呼び止められる。

「はい、何でしょうか?」

振り返ると、先程まで会議の進行役を務めていたスーツ姿の男性が、会議で配られた資料を僕に差し出していた。

「いやぁ、虎屋博士が資料を忘れたまま帰っちゃったみたいでね。悪いけど届けてきてくれないかな? 結構重要な資料だから、出来るだけ本人に手渡しして欲しいんだけど。多分個人オフィスにいると思うからさ」

思わず溜息が出そうになるが、ぐっと堪えてその空気の塊を飲み込んだ。サイト8181と自分の所属しているサイトはこの会議室から真逆の方向だ。今日はこの後ずっと暇だし、ゆっくり休もうと思っていたのに。誰か他に頼めるような人はいないのかと辺りを見回したが、まだ会議室に残っていた数人の職員は僕の助けを求めるかのような視線に気づいたのか、サッと目を逸らしそそくさと出て行ってしまった。
そうこうしている間に痺れを切らした男性は、半ば押し付けるように資料を僕の手に持たせて一言。

「じゃあ頼んだよ」

とだけ残してさっさと立ち去ってしまい、広い会議室には僕だけがぽつんと取り残された。

手渡ししなければいけないほど重要な書類なら、自分が直接渡せば良いのに。なんて考えても仕方がない。こういう雑用も新人である僕の仕事なんだと気持ちを切り替え、虎屋博士のオフィスへ向かうことにした。

サイト8181の廊下と個人オフィスを隔てる扉の前に僕は立っている。プレートに記された名前を確認してから短く2回ノックをしたが、返事はない。まだ帰って来ていないのかと思いながらもドアノブを捻ってみると、扉は静かに開いた。

失礼します。と声を掛けつつオフィス内に足を踏み入れ軽く見渡してみるも、白衣を着た狐面の男性(もしくは唐揚げ)の姿は無い。デスクに目をやると殆ど手をつけていない状態の弁当が放置されていたが、そこにも唐揚げ……もとい虎屋博士は見当たらなかった。恐らく食事中に何か別の用事が出来てしまい、外出しているのだろう。
先程飲み込んだ分も含めた大きな溜息を吐き、踵を返してオフィスを出る。
まだ会議室を出てからそれほど時間は経っていないし、少し探し回ればすぐに見つかるだろう。あまつさえあの特徴的な見た目なら捜すのも苦ではない。一刻も早くこのお遣いを終わらせるために、僕は足早に廊下を歩き始めた。

「……いない」

虎屋博士を捜し始めて数十分。近隣のサイトは全て回ったが、それらしい人物を見かけることも、有力な情報を得ることも出来なかった。すれ違う職員全員に虎屋博士が何処にいるか知らないかと尋ね、カフェテリアでは虎屋博士が普通の唐揚げと間違えて捕食されかけていないかと目を凝らしていたのに。あの時カフェテリアにいた人達には、他人の食事をまじまじと覗き込む不審な男だと思われたに違いない。

長い廊下を歩いていると、突き当たりに自動販売機が見えてきた。丁度歩き疲れた頃だしここで休憩でもしようかと近寄ると、自動販売機の側に作業着を着た初老の男性が屈んでいた。見たところ自動販売機の整備でもしていたのだろうか。

「どうも、こんにちは。えぇと、整備中ですか?」

「よぉ若いの。今ちょうど終わったところだ。さっきまで調子が悪かったんだがよ、これで問題無く使えるぜ」

作業着の男性は大型犬のような屈託のない笑顔でそう言った。僕は男性に軽く頭を下げ、自動販売機に小銭を入れて小さいペットボトルのお茶を買う。

「あ、そうだ。あの……」

「俺は木場。木場購買長ってんだ」

「失礼しました。木場さん、虎屋博士を見かけませんでしたか?白衣を着た、狐面を被っている職員です」

これで知らないと言われたら、ほぼ完全に手詰まりだ。

「ああ、それならさっき会ったぜ。いやぁ、俺がコイツの整備をするんで中身開いたら、偶然通りかかった所にぶつかっちまってな。狐面にヒビが入っちまったみてぇだから俺が修理してやったんだよ。ついでにちょーっと細工もしてな」

木場さんは悪戯を仕掛けた子供のような顔でそう語った。細工という言葉に少し引っかかるものがあったが、それよりやっと虎屋博士を見かけた人に出会えた。自分で自分を労いながらも、質問を続ける。

「本当ですか!?それで、虎屋博士がどちらに行かれたか分かりますか?」

「多分今はオフィスだと思うぜ。さっきまで急用があって、弁当食いかけてるからすぐ戻るとか言ってたしよ」

先程オフィスに居なかったのはやはり急用が出来たからで、捜し回っても見当たらなかったのは単に間が悪かっただけなのだろう。お茶を飲み干し、木場さんにお礼を言う。やや急ぎ気味でオフィスに向かうことにした。

虎屋博士のオフィスの扉を見るのは約1時間ぶりだろうか。それなりの距離を小走りで移動したせいで息が切れてしまい、肩が大きく上下している。僕は深呼吸をしてからノックを2回、返事が返ってこないことに不安を感じつつもドアノブに手をかけた。

「失礼しま…………」

虎屋博士の姿は無い。
まだオフィスに帰って来ていないのか、それともまた別の用事が出来てしまったのか。どちらにせよ、また捜しに行く気力など微塵も湧いてこなかった。重要だろうが何だろうが本人のデスクに置いておけば間違いないだろう。食べかけの弁当の側に書類を置き、その上に

「会議の書類を届けに来ました。不在のようなので此方に置かせて頂きます。波戸崎」

と書いたメモを乗せておいた。さっさと自室に帰って存分にゆっくりしようとデスクに背を向け歩き出したとき、背後から声がした。

「ふぁぁ…………ご飯食べてる途中で寝ちゃったよ。あれ、君……波戸崎君っていうのか。僕に何か用?」

驚いて声のした方向、もといデスクに目を遣る。あまりの馬鹿馬鹿しさに力の抜けた笑いがこみ上げてきた。

「ああ、細工ってそういう…………」

虎屋博士の声は、弁当の隣に置かれたとり天から聞こえてきていた。

「ちょっと、どうしたの突然」

僕がいきなり笑い出したことに対し、とり天と化した虎屋博士が怪訝そうに訊ねる。

「いや、だって……もしかして気付いてないんですか?」

「え?何が?」

「と、とり……とり天になってますよ……。さっき木場購買長に会ったんですけど、虎屋博士の狐面を直すついでに細工したって…………」

駄目だ。改めて口にすると面白くて堪らない。とは言えあまり笑っていたら失礼になってしまうので、何とか呼吸を整える。

「という訳で、恐らく木場さんの仕業だと思いますが、今の虎屋博士はどこからどう見てもとり天です」

「えぇ……参ったなぁ。そうだ波戸崎君、悪いけど木場購買長を捜すのを手伝ってくれないかな。多分サイト8179の購買部署にいるだろうけど、案内はするからさ。一刻も早く直してもらわないと」

「あ、はい」

またお遣いか。早く自室でのんびり過ごしたいのに。と思いながらも困り果てた様子のとり天を前にして断ることも出来ず、半ば反射的に応えてしまった。こういう時にNoと言えない自分が恨めしい。
「ありがとう。本当助かるよ」

「それでは行きましょうか。案内よろしくお願いします」

サイト8179の購買部署は思った以上に遠かった。「他人の食事をまじまじと見つめる不審な男」から「床を這いずり回るとり天の後を追う不審な男」へと変貌を遂げた僕は、この訳の分からない(元々虎屋博士は訳の分からない存在だが)状況を終わらせる為に購買部署の扉を開ける。これで用が済んだとしても、自室に帰る頃にはゆっくり休む時間なんて残っていないだろう。だが引き受けてしまったことは仕方無い。

「失礼します。木場さんに用があって来たんですけど」

「おぉ若いの。また会ったな」

「えっと申し遅れました。僕は波戸崎 壕と言います。それで、虎屋博士の狐面なんですが……」

とり天と化した虎屋博士を目線で指し、視線を木場さんに戻す。

「ははは、それでココまで来たのか。波戸崎と言ったな。いやぁご苦労さん」

愉快そうに笑う木場さんを見て思わず顔を顰める。

「そうだな、じゃあ元に戻すからちょっと待ってな」

そう言ったのは、明らかに虎屋博士の声だった。

「………え?」

虎屋博士を捉える為に動かした視界に入ったのは、少し造りの粗い狐面を片手に意地悪そうに笑う木場さんの姿だった。

「ここまで上手く行くとはなぁ」

「本当ですよ。ねぇ?波戸崎君」

先程まで木場さんのいた方向に目を遣ると、虎屋博士の狐面と唐揚げが床に落ちていた。

「え?え?なんで……」

突然の展開に頭が追いつかない。混乱する僕を見て、2人は更に大きな笑い声を上げた。

「お前さんがオフィスに入って来た時、結構重要そうな書類置いてったからよ。こりゃいけねぇと思って寝起きの芝居までして声掛けたんだよ」

「あ、そういえば会議の書類を持ち帰るの忘れてたなぁ。届けてくれてありがとう。いや、ちょっと前に自動販売機のところで木場購買長と会ってね。暫く雑談してたんだけど、購買長が面白いこと思いついたって言うもんだから……」

「失礼します!!」

全てを理解した僕は乱暴に扉を開け、廊下に飛び出した。後ろから僕を呼ぶ声が聞こえたが、無視して購買部署を後にする。

つまり僕は、いい歳した大人2人の悪ノリの所為で貴重な時間を無駄にしたって訳だ。怒りを通り越して虚しくなって来た。キリキリと痛む頭を抱えながら来た道を引き返し、辿り着くまでに相当な時間が掛かるであろう自室の方向へ歩き出した。

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