極楽浄土

評価: +23+x

男は携帯で海賊版のレディ・プレイヤー1を視聴していた。360pにも満たない画質で、画面はブレまくり、キャスト達はどこの国かも分からない言葉で喋っている。だが、字幕さえあればそれで十分だ。映画内のネタはあまり理解できなかったものの、分かったことが一つあった。データで作られた世界なら、なりたい人になれるかもしれない。仲間と一緒に悪役をやっつけ、セクシーなお姉さんに出会えるのは、そのような世界だけかもしれない。夢は贅沢品であり、夢を見ること自体、やはり疲れることであった。

だが、彼は現代社会が自分の想像よりもずっとサイバーパンクであることを知らなかった。そう、プレイヤー1だろうと何だろうと、マクスウェリズムはデータレイヤーにおいて、とっくのとうに築き上げていたのだ。

500元と身分証を渡せば、別世界でやりたい放題できることを教えられた時、彼は半信半疑であった。だが、スクリーンにデータレイヤーの全容が映し出されると、彼の心は若干ながら揺れ動いた。

結局、彼は怪しいルートからiPhone6を調達し、きっちり500元に換金すると、一目散に手術室へと駆け込んだ。ああ、ここでいう「手術室」とは、蘭州牛肉ラーメン店の奥にある隠し部屋を指している。主治医は人肉と牛肉を調理することに長けており、医者の仕事をする傍ら、ラーメン店の主人と料理長を兼ねていた。ドアの前に立った時、男はまだ少し躊躇していた。もしかすると、眼前のスープ鍋に自分の体が浮くことになるかもしれない。大鍋に釘付けになっていると、目の前に仲介屋が立っていた。

キツネはなんと鳴く?

えっと…ケンケンケン?

普通はコンコンだが…まあ良い、入って良いぞ。

男は仲介屋/店員と共に店内へと進む。トイレの右手にあるレンガを3回叩くと、左手の壁が沈んでいった。彼らはマクスウェリズムの連中が言う所の「ネットカフェ」ーー地下室へと進んでいく。室内は真っ暗で、通気性は語るまでもない。中は汗の匂いと(上階の客のものかもしれないが)脇の下あるいはスパイスの匂いで充満していた。十数人もの人間が、そこら中のベッドや床に転がっている。

アイツらは、その、データレイヤーにいるのか?

おうよ。腹が減ってブッ倒れねぇ限り、コイツらは毎日繋ぎに来る。今日はもう満席だから、繋ぐなら明日以降だな。

見た感じ、みんな何も食ってないようだけど……

3徹してくたばる奴もしょっちゅういるさ。でもまあ、自分で選んだことだ。奴らはWANにゾッコンだったからな。

WAN…ああWANよ、あなたを賛美いたします。

ケッ。

男と仲介屋は人混みの中から道を探し出し、苦労して部屋の反対側へと移動した。仲介屋はパスワードキーを解除すると、男を手術室に招き入れた。手術台には血痕が微かに見られる。案の定不気味なので、男は少し後悔した。半歩ほど下がった所で、彼は仲介屋がドアを閉めていることに気付いた。

いずれにせよ、500元は既に支払い済みなのだ。案ずるより産むが易し……彼はそう思った。

えっと…お医者さん?

待って、今は忙しい。先に横になっておけ。

でっかいペンチ…あのさ、これって痛いの?

いいや、麻酔を打つ。

血がドバドバ流れたりしない?

いいや。

それじゃあ…

いいや。

えっと…

なら…

いいや。心配ない。楽にしていろ。手術を始める。


目覚めた時にはもう、翌日になっていた。足をずらすと、自分が手術室の床に寝そべっていることに気付く。主治医は別の人の手術に取り掛かっているようだ。

せ、先生?

ん、起きたか。手術は成功だ。ミスター・ヘイからパスワードを受け取れ。私は忙しいんだ、さっさと出ていけ。


男は起き上がる。首の後部にズキズキとした痛みを感じる。寝違えたような感覚だが、いくらか異なる部分もあった。彼は首を揉むと、一欠片の金属が埋め込まれていることに気づいた。ドアが自動で開き、彼は「ネカフェ」へと移動した。

おっ?うまく行ったみてぇだな。

ああ。けど、頭が痛むし、首も痺れてる…

そんくれぇなら大丈夫さ。後ろ向いて、ナンバーを見せてくれ。……11239?コイツは…

なんだよ、何かあるのか?

……ねぇよ。ほら、お前のIDとパスワードだ。無くすんじゃねえぞ。

仲介屋からカードを受け取る。

絶対無くすな!

ID:LIUXIDONG1999
Password:1111111
パスは変えないこと。リンクが切れるぞ。

このID…他人の名前じゃないだろうな?

そんなの気にして何になる?コイツが無ければ、データレイヤーに入れねぇんだぞ?

くっ…


ズボンのポケットを弄る。男は今、無一文の状態だ。今晩はネカフェにすら泊まれないだろう。しかし、新たなオモチャを手にした興奮が、一切の懸念を覆い尽くした。彼は橋の下へ向かい、比較的暖かい場所に潜り込んだ。幸いにも、今日は先客が居なかった。彼はパスカードを取り出し、ぼんやりしていると、ある問題が頭に浮かんできた。……「データレイヤー」にどうやってアクセスするのか、彼はそもそも知らなかったのだ。

あたふたするうちに、偶然、首の後ろにあるスイッチを押してしまった。

思わず目を瞑る。

瞼がもたらす暗闇の中から、ログイン画面が出現する。目を開こうとした時、彼は身体の自由を失っていることに気がついた。突然、ログイン画面が光りだし、IDとパスワードを自動で入力すると、そのままどこかへと消えていった。

続いて、大きな文字列が視界に浮かび上がる。

おかえりなさい、LIUXIDONG1999

彼は呆気にとられていた。これは映画よりもずっとずっと、刺激的な演出だった。


気が付くと、男はどこかのロビーに立っていた。少し歩いてみると、自分の目線が普段よりもやや低いことに気付いた。

近くの鏡に駆け寄り、観察する。彼は自分の背が1メートル60しかないことに気づいた。頭上には15センチほどの赤いモヒカンが付いている。

ここが別世界であることに疑いはない。夢であろうと無かろうと、彼は辿り着いたのだ。

鏡を眺めていると、銀髪の男が近づいてきた。後ろには2本の尻尾……USBケーブルが垂れている。

!やあ、久しぶりじゃないか((

は…?えっと、アンタは…?

!僕だよ僕、Silver((

いや…俺、初めてここに来たんだが…

!初めてって、冗談はやめ…

あー…なんとなく分かったよ。

!君は一人みたいだね。今日は時間が空いてるし、ここを案内してあげるよ((

あ、ああ。助かるよ。サンキューな。


男はSilverが空中に何かを描き、どこからともなくメニューを呼び出すのを目にした。念入りに頬をつねる男の姿を、Silverは横目でちらりと眺めた。

!夢を見てると思った?でも違うんだ。旧式のインプラントは痛みをシミュレートしないからね((

あ、ああ、そういうことか。でもそれ、一体どうやったんだ……?ちょっと手を動かすだけで、メニューを呼び出せるなんて……

!さっきやった通りさ、操作の基本だよ。もっと知りたければ、後でガイドブックを送るよ。今はとりあえず、僕の肩に触ってて。転送を始めるからね(

彼は暫しためらいながら、その手をSilverに委ねた。Silverはフィールドに尻尾を数回滑らせ、仮想キーボードのエンターを押した。2人のアバターが散らばっていく。


2人はメインルートに再出現した。

!着いたよ。メインルートへようこそ((

メインルート…?何だそれ?

そうだな、簡単に言えば、幹線道路みたいなものかな。ここはデータ交換が一番速い場所なんだ。言い換えれば、一番人の多い場所だね。僕らはここにたくさんの施設を設置している。ほら見て、あそこに噴水があるでしょ((

ええっと……あっ、見えた!

あれは水飲み場なんだ。ぶっちゃけ、ただのプログラムだけどね。近づいてインタラクトすれば、インプラントに渇きを抑える信号を送るんだ((

あー……ちょっとややこしいな……

!確かに、初心者には抽象的で分かり辛いかもしれない((

!それじゃあ、これを君に贈ろう((


男はSilverから冊子を手渡された。冊子はとても薄く、数ページしか無いように見える。しかし、いくら捲っても巻末に辿り着かない。

これは……魔法の本か?

!あっ、薄いなんて思っちゃいけないよ。本当は何千ページも入ってるんだ。僕は紙の感触が好きだから、こんな見た目にしているだけで。電子ブックに変えてもいいよ?


モヒカンの手中から飛び上がった本は、ピクセルのように砕け散ると、空中で1台のKindleに組み直され、再び彼の手中へ収まった。

えっ、マジか……

!驚いたかな?これも基本操作の一つさ。この本を読み尽くせば、君もできるようになるよ((

いや、ただ…本を読みたくなくて。

データレイヤーとWANの恵みを享受するなら、少しくらいは読んだ方が良いよ。勉強は大切だからね(

それじゃあ、あっちも見てみようか。


モヒカンとSilverは建物の入り口まで移動する。ドアの両側には白黒チェックの旗が掲げられており、天辺にあるネオンは曲がりくねった文字でRACEと表示していた。

ここは…酒場?

!ドアだけで建物を判断しない方が良いよ((


Silverがモヒカンを連れてドアを通ると、真正面から強い風が吹いてきた。モヒカンが周囲を見回すと、そこはまるで室内のような感じではないことに気付いた。マッドマックスやトロンからやって来たような乗り物が目の前を駆け抜ける。コースの反対側では1台のデコトラが、その巨体に見合わない速さで爆走している。振り返ると、彼が通ったドアは地面の上に直立していた。周囲に壁は無く、一欠片のレンガすら存在しない。

ようこそサーキットへ((

なっ、えっ、ちょっと、はあ…???

…うん。説明するのはちょっと難しいね。つまる所、君が通ったドアはある種のポータルに過ぎない。ドアを通ることで、僕らはレーシング・シティにテレポートしたんだ。

ポータル……俺は建物に入ったんじゃなくて、別の場所に転送されたってことか……?

!付いてこれたようだね。感心感心((

!ちょっくら一走りしてみる?

いや、いい。俺、運転できない…

!大丈夫。クラッシュしても怪我しないから(

でも俺、車の修理代払えないし…

!ここはデータレイヤーだよ。あらゆるものがコードで出来てる。電気代を除けば、何もかもがタダ同然だ((
ここの飛行機はマックランチと同じくらいの値段で買えちゃうんだ((

そりゃすごいな。でも俺…マジで金が無いんだ…

!そっかあ。インプラントに全財産を充てる初心者って、結構いるからなあ((


Silverはメニューを呼び出し、ダブルタップする。モヒカンの目の前に、1台のバットモービルが出現した。

!これを使って。アシスト付きだから、ペダルを踏むだけで運転できるよ((

でもどうやって……いや、ありがとう!!


銀色の球型ロボットが1体、Silverの傍らに現れる。何故かは知らないが、メイド服らしきものを身に着けていた。

Silver、そろそろお時間です。

これは…アンドロイド?君のペットかな?すごい、お喋りもできるのか!!

!あー、違うよ。僕のフレ…

ペット?てめぇケンカ売ってんのか?さては、来たばかりの新参だな??

そ、その通りです……

データレイヤーの注意点!「人外に見えても人である可能性がある」分かったか?ひょっとすると、現実の俺は身長190センチで、腹筋が32パックあるかもしれないんだ。見かけで判断するんじゃねえ!!

!プフッ、僕は信じてるよ((

わ、悪かったよ。けど……ムキムキマッチョなら、どうしてメイドコスなんかしてるんだ?

!ハハハ。Infas、そろそろ行こうか((

やることがあるからね。お先に失礼するよ(

ああ、分かった。兄ちゃんありがとな。本当にありがとう!また会おうぜ!

…うん。また会えることを願ってるよ((

SilverとInfasのアバターが消えていく。「世の中には良い人が沢山いるもんだ、どうして今まで出会わなかったんだろう」モヒカンは感嘆しながら、Silverから貰ったバットモービルに跨った。彼は車を運転したことが一切なかったーー自転車すらもだ。しかし、少しばかりの知識から、彼はアクセルとブレーキの位置を知っていた。

ハンドルを擦る。

男はこの場所がどんなオンラインワールドよりもずっと良いだろうことに気付いた。いや、あらゆる現実と比べても、ここは最高にイカしたマイホームであると言えよう。彼は「ネカフェ」で横たわるやつれた人々を思い出し、現実逃避のメリットを少しずつ理解し始めた。

眼前の赤信号が、1列1列切り替わる。

スタート。

ペタルを一気に踏み締める。

新たな人生に向かって、加速していくーー彼はそう感じていた。

警告: C-XC34 オーバーヒート


橋の下から、焦げた肉の香りが漂ってくる。

君も知っているだろう。この街では毎日のように、名無しの死体が見つかることを。


おらっ、回収してきたぞ。11239は使うなって言っただろ?そら見ろ。数時間もしないうちに、まーた修理する羽目になっちまった。仕事を増やさないでくれよ。

我々の手元には僅かな数しかないのだ、使い回す他ないだろう。まだ新品を買おうなどと考えているのか?まさかお前、クズ共に施しを与えろというのか?奴らはWANなぞ、ハナから信じていないというのに。

うっせーよ。さっさと外すのを手伝え。早くしないと夜が明けちまうぞ。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。