皇帝陛下の星鳥 後編
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「菓子岡局長の狙いがわからない、やっぱり何かがおかしいですよ」
 報告書は無事まとまりつつある。あの手の文章を書くのは政治局の得意とするところであり、捜査担当たるぼくらは一時任を解かれ、たった二日ではあるが休みをもらえることになった。
「うるせえな海野お前さっきから。そればっかりじゃねえか」
 政治局が用意したセーフハウスは、主に都心に偏って存在している。ぼくに苦言を呈した西塔にしても、この頃はいつにもまして不機嫌なことが多い。セーフハウスのコーヒーマシンは一日で豆を切らしてしまったが、その犯人はぼくと西塔の二人だ。そのことで、めずらしく来栖から苦情が来た。彼女は、別の仕事があるのか未だに忙しそうにしている。
 その間に、JAGPATO防衛計画委員会で臨時会合が開かれる。第一次報告書が提出され、夜鷹への制裁が提起されるが、世界オカルト連合は拒否権を発動する。そこからまたぼくらの仕事が始まり、夜鷹の悪行の数々を列挙して第二次報告書を仕上げておく。その間に、世界オカルト連合を外交取引で抱き込み、防衛計画委員会の決議として夜鷹の制裁、解隊が決定する。
 完璧なスケジュールだ。ただぼくらが全く腑に落ちていないことを除けば。
「やっぱり色々納得いきませんよ。この事件、いったいなんだったんです」
「……まだ事件が終わったわけじゃありませんよ」
 来栖が事件に関するファイルを改めて読み直している。仕事熱心だが、いつ息抜きをしているのかが全く見えてこない。少なくともぼくらが見ている前では、常に気を張っている。一日一緒に行動することもざらだが、それでもだ。
「しかし、エージェント・海野。犬山の殺害、バラクシンの亡命、どちらも夜鷹部隊の手によるものだとは明らかになりました」
 組織的関与を示す物証が上がっていないことが懸念点だが、尋問によってある程度の成果が出ている以上この二つは事実と認定されるだろう。そして犬山がいわゆる脅威存在ではなく、夜鷹部隊とも直接的な関係を持たない一般の公務員であったことも証明されている。国益に反する行動を取ったからと言って、ただちに殺害という行動を取った夜鷹のやり方は、まあ一般社会から見れば非難されてしかるべきだ。
「とはいえ、そんなことはみんなやっているでしょう。財団うち、連合──たぶん特事警察も、みんな自前の暗殺部隊ぐらいは整えてありますよ。この程度のことでいちいち騒ぐのは大げさです。今回は偶然、事件のすぐ後に怪情報が出回って、ことが露呈しただけなんですから」
 特事警察には犬山の死を伝える電話。財団には犬山殺害の犯人に関するガセ情報。この二つの出所は、今もって不明だ。西塔とたびたび議論になるが、結局うまくまとまる推理ができていない。もしかすると同じところから発せられている情報なのかもしれないが、そうすると相手方の狙いがぼやけてしまうのだ。
 電話は完全に夜鷹にとって不利な情報となるが、ガセネタはむしろ夜鷹を助けGRUの関与を匂わせる内容になっている。
「この犬山の事件を、夜鷹とGRUによる手打ちのためのもの、という印象だけを与えたかったのでしょう」
「どういうことです」
「二つの情報の出所は同じです。一連の事件には裏で糸を引いている連中がいる」
「やっぱりそういうことか。来栖、お前──」
 いつの間にか、西塔が背後から来栖を睨み付けていた。驚くそぶりもなく振り向いたRAISAの使者は、押し黙ったまま見つめ返す。しばらく無言のまま、時が止まったように部屋は静まり返った。
「初めから狙いは菓子岡だったんだな」

 

「財団は本件事案において、犬山等助氏殺害に使用された兵器の特定に成功しました」
 菓子岡 仔鹿が文書を読み上げる声が、樺の間──JAGPATO防衛計画委員会臨時会合の議場に響いている。財団代表部が提出した第一次調査報告書は一〇〇ページに及び、夜鷹関連人員の資産凍結を含む制裁の必要性を説いている。
「これら認識災害兵器は財団、連合、そして夜鷹を除く政府各関係機関でも使用されていないものです。科学警察研究所の調査では、過去に十数の現実改変能力者殺害事件において同様の兵器が使用された事実が明らかになっています。またこれに加え、逮捕した元構成員による証言が得られており、夜鷹部隊による組織的な殺人行為が認められました。なお、これら取り調べはわが国の司法警察によるものに基づいた合法的な範囲で、元構成員の自主的な協力のもとに行われたことを強調しておきます。
 そして駐日ロシア大使館一等書記官のオレーグ・バラクシン氏について、当人の身分が実際にはロシア連邦軍参謀本部情報総局のものであったことが明らかにされています。夜鷹は当人の身柄拘束に動いたGRUと対立し、亡命を強行しようとしたという報告を受けております。この件における夜鷹部隊の行為は、このJAGPATOにおいて議論すべき性質の問題ではなく、一般的に外交ルートによる解決を図るものが妥当であると思料されます。
 よって財団は、犬山等助氏殺害について、明白に、脅威存在排除とは無関係な国民に対する殺人行為にほかならないと結論いたします。このような行為が政府機関によって行われたという事実は重く受け止められなければならず、日本超常組織平和友好条約第七章に基づく加盟組織への制裁措置の発動を提案します」
 菓子岡の調査報告が終わると、数秒ではあったが議場が沈黙に包まれた。彼は自らがこの場を支配したかのように錯覚し、あたりを見回す。四角に並べられた椅子は、東側に財団、西側に連合、北側に機構、南側に政府と席次が決められている。そして今日の臨時会合では、中央に三人の人間が座らされていた。
 政府はこの件に関して、特別な代表者の同席を要求している。質疑の時間が終わり、議長役のJAGPATO連絡事務局総裁・蔵部は視線を中央へ向けた。原稿を読んでいる一人のほかに、見つめ返してくる人間がいる。
「山川犀治 国家高脅威情報収集委員会・外部監査担当から本件事案を受けての内部調査報告があるとのことです」
「はい」
 手を挙げた代表者の額には、珍しく玉のような汗が浮かんでいた。本来の政府代表である細谷は、隣でその様子をただ伺っている。夜鷹の内部調査報告書が政府関係者に配布されたのは、実に昨日のことだった。身内を身内と思わない徹底した保秘こそが、彼らをここまで生き延びさせてきた。
「われわれ外部監査担当チームは、先般の緊急会合時に行われた財団からの要請に従い、第三者的立場から独自に内部調査を進めて参りました。よって、わたくし山川が細谷首相補佐官に代わり、本件における特別の政府代表としてここにご報告申し上げます」
 夜鷹の組織内部についての情報開示は、これがはじめてのことだった。夜鷹の主張は、一貫して犬山等助の罪状をあげつらうことに終始していた。彼は数年間にわたって、財団ロシア支部諜報機関とロシア連邦軍参謀本部情報総局の双方へ、通信システム隊の機密資料を横流ししていた。財団ロシア支部については微妙なところだが、少なくともGRUに情報を漏洩させていたのは、違法性の認識があったとみて間違いないという。一年もの間、行動確認と解明作業を進めてきた夜鷹は、やがてGRUの首狩り人スカルプハンターが入国した事実を知ると、身柄確保に動いた。
 が、事故があった、と報告書は主張する。夜鷹に先んじて、GRU"Р"部局の首狩り人が犬山を殺害してしまったのだという。犯行主体を偽装するため、米国特殊部隊が使用する認識災害兵器が使用された、としている。
 苦しい言い訳だな、と山川は報告書を読み上げながら思っていた。夜鷹は自身の弁護によってではなく、連合による拒否権の発動に生存を賭けている。菓子岡と名乗る代表者のスピーチ中、何度か連合代表者の席を盗み見たが、彼らは決して山川と目を合わせようとはしなかった。
 だが財団の〈機構は条約軍を結成して査察すべし〉という主張に対しては、連合ははっきりと反対を表明した。少なくとも、この会合での最低限の目標は達成されている。努力目標だった財団が拘束している元構成員の奪還については、日本国の主権にかかわるものなのでただちに解放してほしいという要求をした。だが、財団は証拠の隠滅を防ぐという名目のもとこれを拒否している。
 やがて山川の出番は終わった。質疑のいくつかに回答し、ようやく夜鷹の代理人は額の汗をぬぐった。定刻が近いことを議長・蔵部が告げる。質疑までは気が抜けないと考えていた山川だったが、ここにきて少しだけ、ネクタイの結び目を緩めた。
 蔵部が散会の段取りに入るかと思われた刹那、背後から官僚と思しき女が何かの資料を議長に手渡す。眼鏡をかけ直した連絡事務局総裁は、マイクの電源を確かめるとふたたび口を開いた。
「──ここで、財団より追加の動議があるとのことです」
「なに」
 背もたれから身を起こしたのは、山川だけではない。寝耳に水だったのは連合の代表者もそうだったらしく、配布され始めた資料を見て目を剥いている。山川たちのもとに資料が来るまでは少し時間がある。顔にまでは出さないが、夜鷹の代理人は恐慌をきたしかけていた。
「どういうことだ」
「さあ……」
 細谷は、いやに落ち着きを払った声で応えた。違和感を覚えた山川は、椅子ごと身体を向けた。「細谷、お前、まさか」その後に続く言葉の恐ろしさに、彼は思わず言いよどむ。部会や議会ではまずしないような動揺と恐怖を、山川犀治は味わっていた。
「この国を、売ったんだな」
「人聞きが悪いじゃありませんか、山川先生」
 要員たちが資料を配りに来る。奪い取るようにしてその内容に目を通した山川は、卒倒したい衝動を何とかこらえて、その文字列を追う。
 元国会議員十数名で構成される超常関連政策の決定に強い影響力を持った集団についての調査報告書。長ったらしいタイトルだが、何について言及しているかは明らかだ。細谷や山川といった超常関連政策に関わる議員たちの元締め。通称・重臣会議。
「財団は本件における背後関係の調査中に、興味深い情報を入手しました。夜鷹による自衛官殺害について、これを指示し承認を与えた集団が存在するというものです。──」
 隣で悠然と座っている裏切り者への怒りと失望で、山川は財団の報告を聞き落としていた。いますぐ掴みかかりたい衝動を抑え、つとめて冷静に問いを発する。
「……いつからだ」
「ばらばらな超常関係機関をまとめきれない老人たちに、いつまでもこの国を託しているわけにはいきません」
「そんなおためごかしが──」
 山川が資料をくしゃくしゃに握り潰しているのを見て、細谷はため息を一つ吐いた。おおよそ予想通りの反応であり、この首相補佐官にとってはさして恐れるべき相手でもない。財団と手を組み、官邸がふたたび超常関係機関のコントロールを取り戻す。その崇高な目的のためなら、うさんくさい財団の政治局長の男とさえも組むことを躊躇しない。手段を選ばずに目的を達成しに行く。それこそが、細谷が政治家として学んだ身の振り方である。
「──『重臣会議』と呼ばれる彼らは、保守第一党による長期にわたった議会支配体制の崩壊後、超常行政出身者や首相経験者らによって組織されたとみられています」
 どよめきはじめた議場をよそに、菓子岡はなおも調査報告を続ける。いまの彼には、そのどよめきでさえ快感に思われていた。場を支配しているという感覚は、あるいは錯覚なのかもしれないが、この場でもっとも注目を浴びる存在は間違いなく彼だった。
「超党派・超然主義を掲げる『会議』は、政府首脳部以上に、超常関連政策に対して影響力を持っていると思われ、その全容は長らく不明でした。政権交代による情報公開リスクに備えるという名目のもと、現在では議院内閣制の根幹を揺るがす構造とさえなっており、財団はこの組織について調査を進めてまいりました。
 このたびの事件において、彼らは夜鷹の組織防衛を目的として自衛隊幹部の殺害とロシア大使館一等書記官の亡命という二つの重大事案を企て、それを夜鷹自身に実行させました。この情報は元・夜鷹構成員による証言と、政府の内部告発者による通報が情報源であります。財団は夜鷹への査察を求めるとともに、日本政府に対してこの『重臣会議』なる組織についての説明と、しかるべき処置を求めるものです」

 

「いやはや、菓子岡さん。重臣会議にとうとう手を付けましたか」
「いずれはこんな日が来ると、みなさんご承知でしたでしょう。たまたま、今回はうちがそれをやる役回りだったということです」
 受話器を置いた菓子岡は上機嫌に、机の上の飴玉の袋を開けた。信頼する部下や訪問先で配るが、これには別に怪しい仕掛けはない。すぐ噛み砕いてしまう癖がある菓子岡は、まずは自分が食べて見せてから相手にも勧めている。
 世界オカルト連合極東部門のJAGPATO代表部には、そんな菓子岡の飴玉をもらったことがある旧知が数多く在籍していた。臨時会合は、結論は時期尚早とした連合が拒否権を発動し、予定通りともいえる結果で散会している。その直後から、菓子岡は連合への接触を始めようとしていた。
 次回の臨時会合が二週間後。それまでに、連合の合意を取り付ける必要がある。悠長に構えている時間はない。第二次報告書に記載する内容についても、あの海野とかいう印象の薄いエージェントたちに取ってこさせねばならないのだ。
 とはいえ、とりあえずは休息が必要だった。菓子岡はくるくると椅子で回っていると、不意に電話が鳴る。見たこともない番号からで、秘書のところでいったん預かっておくべき類のものだ。舌打ちを一つして回転を止めると、政治局長は大儀そうに受話器を取る。
「菓子岡か」
 その声に、政治局長は反射的に威儀を正さざるを得なかった。それは、完全に不意打ちというべきタイミングだった。菓子岡の記憶に間違いがなければ、このしわがれた声は日本支部理事会首班 一号理事『獅子』のものだ。当然、会合での追及が上首尾に終わったことは聞き及んでいるだろう。
「はい。まさか理事の方からご連絡をいただけるとは」
「なに、会合は大成功と聞いたものでね。そのお祝いに。邪魔だったかな」
「いえ、とんでもございません」
「そうか、ならいいんだが」形式的なやりとりはこの理事の好むところではなかった。早々に主題に入りたいらしく、咳払いをする。「お祝いもそうなんだが、実はJAGPATOの件で一つ気になることがあってね、内部保安部門が寄越したあの来栖というエージェント、どうも身元がはっきりしないんだ」
「身元が? どういうことです」
「RAISAの直属部隊から来たという話だったが、だとすると理事官房での勤務経験をすっ飛ばしていることになる」
「経歴を抹消されたのでは」
「わたしにも閲覧できない形でか?」
 たしかに妙だ、と菓子岡は思った。だが、現状彼女は忠実に職務をこなしている。報告書の完成は、彼女の助力無しでは為しえなかった。
「こちらでも調べを進めます。なにか分かり次第、ご連絡いたしますので」
「そうしよう。背中には気を付けた方がいい、この組織で上に立つならばそれを忘れるな」
 肝に銘じておきます、と言って菓子岡は受話器を置いた。首筋が薄く汗ばんでいたのは、部屋の暖房のせいではない。当然、理事は見抜いているというわけだった。菓子岡はこの件で、夜鷹を潰す以上の成果を狙っている。そのために人材をそろえ、資産を惜しみなく投下しながらこの任務を進めてきた。
 理事会幕僚部の局長級ともなれば、あと狙う椅子は一つしかない。これは、そこに駆けあがるための、最後の一ステップになるはずのものなのだ。誰にも邪魔はさせたくない。
 つかの間の休息は終わった。菓子岡仔鹿はもう一度受話器を取り、秘書を呼び付けた。
「そうだ、すぐにここへ呼べ」

 

 黄緑色のスーツが、執務机の前を回遊していた。
 紀尾井町──政治局から急な呼び出しを受けたのは、休暇二日目の午後のことだ。政治局長は、ぼくらをなじるでも怒鳴り飛ばすでもなく、その仕事ぶりを急に褒めはじめた。この手の上司が手放しでほめはじめたときは、何かしら言いづらいことが背後に隠れているのだろう。ぼくの長年の経験がそう告げたとき、「──そこで」と菓子岡は言葉を区切った。
「きみたちには予定より早くて申し訳ないが、もう一度報告書に使用する各証拠物件の収集をお願いしたい。犬山の殺害とバラクシンの亡命について、夜鷹の言い訳を完膚なきまでに叩けるようなものを」
「つまり、一からまた再スタートというわけですね」
 来栖は率直な言い方をした。政治局長は微笑んでいるが、困ったようにうなずいた。組んでいた腕を机の上に伸ばすと、書類の束を西塔に手渡す。当人は表紙を少しめくった後、しかめっ面をしてぼくに丸ごと渡してくる。
 西塔は寝違えた首をさすりながら「ひとつ提案が」と切り出した。
「あと二週間ですよね。こうなっては、ロシアのエージェント・イヴァノフを召喚するしかないのでは。まだ日本に滞在してますよね?」
「本気で言っているのか。下手をすれば日本の司法で裁かれる危険さえあるんだ。ロシア支部がそう簡単に首を縦に振るとは思えん」
「しかし、犬山を当初から追っていたのはロシア支部です。夜鷹と同等かそれ以上には情報があるはずでは」
 ぼくが側面から援護をすると、菓子岡は口元を隠すように撫ではじめた。来栖は無表情なまま、煮え切らない政治局長の姿を見守っていた。
 実のところ、この提案は彼女のものだ。来栖──RAISAは、菓子岡たち政治局のJAGPATOと関係の深い職員が、ロシア支部情報を特事警察へ横流ししたのだと見立てている。もし菓子岡がロシアに情報線を持っているなら、この提案で何か動きを見せるはずだ。なによりも、この第一次報告書をまとめるにあたってロシア支部へ情報共有の要請を出さなかったことを、来栖は疑っていた。
 そこにイヴァノフの拘束を巡る日露の軋轢があるにしても、万全を期すならば当然選択肢に入っていたはずであるし、それを取らなかった菓子岡の行動には疑問符が付く。
「……わかった、エージェント・来栖。ロシア支部と直接交渉してきてくれ。RAISAの権限があれば、イヴァノフの召喚にも応じるだろう。二人は引き続き、特事警察と連携して夜鷹をもう一度洗い直してほしい」
「了解しました」
 ただし、と政治局長は妙に芝居ががった調子で付け加えた。
「余計な真似はよせ。またロシア支部との間でごたごたを起こされてはかなわない。RAISAといえども職権を侵していいものではない」
「承知しております。ご忠告、感謝いたします」
 慇懃無礼とはこのことなのだろうな、と深々と頭を下げる来栖を見て思った。

 

 その日はアリヴィアン・ユリアーノヴィチ・ベリャコフにとって、嬉しい出来事が続く日であった。
 一年前から予約していた上物のコニャックが届くのが、まさにこの日であったのである。いい酒を開けるにはなにか口実が必要なものだが、用意していたものとは別に、予想外のところからそれが訪れた。日本支部の政治局が、彼の部下にいる問題児を引き取ってくれるというのだ。
「くれぐれもうまくやれよ、贈られた馬の歯を調べようなんて思うな
 不満そうなエージェント・イヴァノフを笑顔で送り出すと、部屋はなんだか急に明るく広くなったような気がした。ロシア支部諜報機関の出先機関フロントである通信社の日本支社には、彼のために用意された工作担当監督官オペレーションズ・ディレクターとしてのオフィスがあった。
 もうすぐ、昇進の辞令もくだることだろう。本当はそれを口実にするつもりだったが、一足早く慶事があったのだから仕方がない。東京はモスクワと比べて凄まじく耐寒性の低い都市だ。だが向こうと違って、冬でもかなり晴れ間がある。オフィスに差し込む午後の光も、心なしか澄み切っている気がする。
 すると、デスクの電話から呼び出し音が鳴る。コニャックだと断じたベリャコフが一も二もなく「通せ」と言って切ると、数分後にドアが叩かれる音がした。手をさすりながらドアを開けると、そこにいるはずの秘書はおらず、目線のだいぶ下の方から声がした。
「初めまして、わたくし日本支部幕僚部の政治局から来ました来栖と──」
「酒じゃないのか」
「はい?」
 不幸なすれ違いを解消するには数分を要した。来栖と名乗るエージェントは、菓子岡が派遣してきた直属の部下であるという。そういえば、と彼は思い出す。RAISAのエージェントが来るだろうが、あまり信用し過ぎるな、などという連絡が菓子岡から来ていた。妙な助言だが、いずれは理事を嘱望される男の言葉は無下にできない。なにより、昇進の立役者の一人は菓子岡でもあるのだ。
「イヴァノフのやつ、ちょうどさっき出て行ったところでした。タイミングが悪かったようです」
「いえ、お気遣いなく。監督官には、ほかにもお伺いしたいことがございましたので」
 前髪の短い女エージェントは、スーツではなく制服を着ていれば中学生と言っても通りそうな体躯だった。祖国にいる妹をなんとなく思い出したベリャコフは、「ええ、どうぞ」と気前よく応じた。
「犬山等助については、ロシア支部でも追っていたかと思うのですが、ぜひ捜査情報について融通していただきたく」
「あの事件ですか」
 来栖のRAISA所属を示すIDを見ても、ベリャコフは難色を示していた。なるほど、菓子岡の言うとおり警戒した方がよさそうな相手なのだろう。イヴァノフを巡る緊張状態を理由に断ることも考えたが、来栖は繰り返し『菓子岡の頼みである』と強調した。
「彼はあの件でも調整を買って出てくれましたから、恩がある。……しかしわたしも忙しくて、よく覚えていないことも多い」
「いえ、覚えている範囲で結構ですので。ぜひ」
 イヴァノフの拘束が早期に解かれたのは、菓子岡による諜報機関への説得とロシア支部との仲介があったからだった。ベリャコフからしても、部下が他支部と大立ち回りをやらかしたとなれば出世の道が閉ざされかねなかったところだ。
「ロシア支部諜報機関はGRU"Р"部局の残党をかなり受け入れていましてね。ご存じとは思いますが、イヴァノフのその一人だ」
「ええ、南オセチアでの従軍経験があるとか」
「ああ、扱いづらい男ですよ。もし使うなら覚悟しておいた方がいい」
 ベリャコフにしてみると自虐的なジョークだったが、しばらくは他人事にしておけるかと思うと、心から笑えるのだった。来栖は軽く笑顔で応えるだけで、頭の中に話を書き留めるのに忙しくしている。やはり諜報員なのだろうな、とベリャコフは改めて警戒心を抱いた。
「エージェント・イヴァノフが大使館で副官として活動している間に、犬山について何か情報を上げることはありましたか」
「定期報告で行動確認はかなりあったようですが──資料を後で送っておきます」
「ありがとうございます。殺される直前の時期であれば、何か動きがあってもよさそうなものですが……」
 ベリャコフの脳裏には、言っても問題ない事柄と、問題のある事柄のリストが構築されていた。慎重にその間を綱渡りしながら、イヴァノフの定期報告に関する情報を挙げていく。ある程度適当に情報を与えたら、折を見て帰ってもらうのが一番よい。
「なるほど。殺される当日は、何かありましたか。実は一二月の██日なのですが、殺される一時間半前の行動がよくつかめていないのです」
「ああ、その話はなんだか聞いたことがありますよ。イヴァノフも見失ったとか」
「そうでしたか」
「ただ、犬山は誰かに会うつもりだったのかもしれない、と。夜鷹におびき出されたのかもしれません」
「こちらでもそのような結論になっています。エージェント・イヴァノフが会合でそう証言してくだされば、こちらの理屈が補強できる」
「ええ、そちらでうちのがお役にたてるというなら、光栄なことです」
 そろそろ潮時だろう、とベリャコフは腕時計に目を落とした。もうすでに時刻は夕方に差し掛かっており、いい加減コニャックも来る頃合いだ。来栖はその所作で時間が来たことを悟り、「最後にひとつ」と身を乗り出した。
「エージェント・イヴァノフは、犬山の殺害について何か意見を?」
「いいえ、まったく。やつはあれで忠誠心がありますから」
 なるほど、となにか納得したような表情がうなずいていた。来栖は日本人らしく何度も会釈しながら、オフィスのドアを開ける。そういえば、と小柄なエージェントは、小さな包みを取り出した。
「近々昇進されるという話を聞きました。お近づきのしるしに」
「ああ、とんでもない。賄賂になってしまいますよ」
 冗談を飛ばすと、はじめて来栖は打ち解けたような笑顔になった。お早めに召し上がってください、と言い残すと、来訪者は元来た道を戻って行った。
 ひとりオフィスで包みを開封すると、それは赤スグリレッドカラントのプリザーブドジャムだった。コニャックのあてによく供される代物で、今日の彼にとっては幸運な偶然だった。
 ふと、ベリャコフは誰もいないはずの部屋に視線を感じた。周囲を見回したが、当然誰かが見ているはずもない。窓の中にはすっかり日の沈んだ都市があり、煌々とした明かりが真珠のように連なっている。彼は考えすぎな頭を冷やすためにも、高い酒を必要としていた。

 

 来栖は、ぼくらが菓子岡の背任容疑の捜査に参加することについて、了承を得たと言っていた。もともと政治局の人間ではないうえ、イヴァノフと揉めてロシア支部と距離のあるぼくらならば、RAISAの監視下に置きやすい──というのは建前で、単にすぐ始末できそうな下っ端だから、というのが一番大きいのだろう。
「ロシア支部が使ってたっぽいセーフハウスを調べてたんだが」
「うわっ」
 西塔はぼくが調べ物をしていた上に、そのままクリアファイルを載せてきた。いきなり視界がふさがれ、ページの一点を西塔が指差す。非常用セーフハウスの住所がリストアップされているかなりの重要機密だ。RAISAの調査権限が一時的に付与されていなければ、いまごろ頭が沸騰させられている。
 あれから、ぼくらは捜査リソースのほとんどを夜鷹から菓子岡に対するものへと切り替えた。第二次報告書がどうとか言っていたが、実際のところ追加項目がいくつか増えていれば問題はない。むしろ会合の顛末は、政治局や渉外部門がうまく連合を抱き込めるかにかかっている。
「一ヶ所だけ、政治局が使ってるセーフハウスとかぶってるっぽいんだよな」
 都心──四ツ谷にあるマンションのようだが、たしかに部屋番号が違うだけで同じ建物内に存在しているようだ。これならたしかに、接触に使われていてもおかしくはない。
「そういう場所、ほかにはないんですか」
「いや、見つからない。ほぼこれしかねえだろってところだ」
「行ってみましょうか」
 フットワークの軽さは、財団のエージェントに求められる素質のひとつである。人的資源が潤沢な財団だからこそできる人の使い方だが、実際に異常存在に出くわすとしたらサイト内ではなく外界なのだから当然ともいえる。
 高層マンションのふもとにたどり着いたところで、ぼくらは見覚えのある車を目にした。たしか、バラクシンのいたホテルの駐車場に止められていた乗用車。ということは、もしかすると彼がいるのかもしれなかった。
「しまった、やっぱり鉄則は守るものだな」
 部屋で待っていたのは、やはりコンスタンティ・イヴァノフだった。西塔は額に青筋を立てて「ひさしぶりだな……」と再会を喜んでおり、当のぼくはただただ困惑していた。どうしてここに、という言葉が喉から出かかって、先に同じ言葉が相手方から聞こえてくる。
「どうしてここに」
「犬山とバラクシンの一件を調査してる」
「ってことは、そうか。あんたらか、おれを召喚したのは」
 そういうことだ、と西塔が前に出てくる。一瞬身構えたが、イヴァノフは笑って握手を求めた。西塔も鷹揚に受け入れ、にこやかに握手をしたかと思うとそうではなく──女エージェントは両手で手首を押さえてひねり、一気に引き倒してロシア人を制圧した。
「これでおあいこだ。借りは返した」
「西塔さん、子供じゃないんですから」
「味方じゃなかったのか、あんたら」
 もちろん味方だ、とぼくは慌てて否定して、イヴァノフを助け起こす。この男が西塔に襲われて会合に出られなくなったら、大問題になる。イヴァノフからの聴取は来栖がやると言っていたが、この分だとどうやら入れ違いになってしまっていたらしい。
「それで、結局なぜここに」
「安全確認のためだ。いざとなったら使えるかは確かめるべきだろ。──まあ、一番最後に使ったセーフハウスに戻るのはよくないってこったな……」
 ロシア人は普段着らしく、チノパンツにパーカーとラフな格好に身を包んでいた。床に置きっぱなしにしていたボストンバッグを拾い上げ、出ていこうとする。「どこへ行くんだ」と呼び止めると、「あんたら車で来たんだろ」とぼくの持っていた車のキーを指差す。
「あんたらのセーフハウスに連れてってくれ。そこの方が安全そうだ」
 帰りは西塔の運転だった。つまり最悪ということだが、イヴァノフはよっぽど楽しいらしく終始大笑いしていた。最近つまらないことばっかりだったから、と本人は弁解していたが、ぼくにはわかる。あれは本質的に同じ人種なのだ。西塔と。
 ぼくらがいま使っているセーフハウスは、代々木にある雑居ビルだった。もともと暴力団がフロント企業の事務所として使っていたものを財団が奪い取って改装したもの──と聞いているが、もしかするとその暴力団自体が財団のフロント団体だったのかもしれない。
 少なくともいまは、この事務所は反社会的勢力な暴力集団のみなさんとは無縁な物件となっている。だが、セーフハウスに入ってイヴァノフの第一声は、
「お前ら外を歩いていていいのか?」
 彼の視線の先には、一足先に帰り着いてくつろいでいた来栖が映っており、ぼくらは彼女が初めて緩んでいるところを目撃した。
「身代金目的の誘拐犯だろ」
「誤解です」
 あまりに驚きすぎて、最初の『ご』の部分を少し噛んでしまった。ちょっと不審者みたいになってしまったが、憤慨している来栖のおかげでイヴァノフはジョークをすぐに取り消した。わざわざ化粧まで直してきた来栖は、改めて重要な証人に対して自己紹介をする。
「初めまして、エージェント・イヴァノフ。わたしは来栖 朔夜。いまは政治局で特務エージェントとして活動している者です」
「どうも、イヴァノフでいい。いまはほとんど同じ立場だ。行政監督部に配属になってる」
 握手を交わし終えると、来栖はさっそくイヴァノフを案内し始めた。ぼくらのそれぞれに寝るための部屋が割り当てられているのだが、西塔の部屋だけは何故か暖房が付かないので彼女は難民となっていた。ちなみに来栖には自室への立ち入りを全面的に禁止されている。
「それで、おれに会合でしゃべれってわけだな」
「ええ。一〇日後の臨時会合で、夜鷹部隊の解隊が決議される予定です」
「ダメ押しってことか」
 そんなところです、と来栖はうなずいた。聞いていた通り、イヴァノフは単なる軍人ではなく諜報員としての素質を備えている。RAISAのエージェントは幾分、スムーズに話が進むことに好感を持っていた。政治局の連中と報告書作成で折衝するときのストレスフルな表情とは大違いだ。
 だが、彼はそんなたやすくこちらになびくような人間ではあり得なかった。来栖はたびたび探りを入れていたが、菓子岡の背任を示唆するようなことは決して口にしない。時間をかけて落とすつもりらしい来栖だが、それでも多少の焦りがあった。
「彼にこちらについた方が身のためだと示した方が良いかもしれませんね」
「なにか手が」
 彼女は何も言わない代わりに、首をかしげて挑戦的な笑みを浮かべていた。なにか奥の手があると見えたが、秘密主義者はなにも教えてはくれない。同時並行でぼくと西塔はイヴァノフから証言を取り、第二次報告書を完成させた。
 コンスタンティ・アレクセイヴィッチ・イヴァノフは恐ろしいほど周到な男だった。それをぼくらは、数日後に知ることになる。

 

「賛成多数により、JAGPATO防衛計画委員会決議███████号は可決されました」
 議長席に座る総裁・蔵部が高らかに宣言する。国家高脅威情報収集委員会『夜鷹部隊』への強制査察、無期限の活動停止──関連人員の資産凍結、そして『重臣会議』への強制捜査。ありとあらゆる制裁の網が、これから彼らを絡め取ることになる。鷹は墜ちたのだ。
 政府代表部で意気消沈していないのはほんの一握りの人間だけだった。山川は公務を理由に欠席していたため、代表者は細谷が務めている。政府として決議に従った対応を確約すると言い残して、すぐに議場を後にした。
 イヴァノフの証言は、ロシア支部による犬山とバラクシンへの内偵調査について触れていた。夜鷹の欺瞞は白日の下にさらされ、連合は外交取引とこれらの証言を受け容れて制裁決議賛成に回っている。菓子岡の目論見は、九分通り成功に終わった。以降は、彼──財団を中心にJAGPATO条約軍が編成され、査察の準備に入る。
「よし、よし、よし」
 ひとりで何度も腕を上下し、握りこぶしを振り回す。勝手にこぼれてくる笑みが止められず、菓子岡は思わず頬を両手で抑え込んだ。財団に雇用されてすでに数十年が経っていたが、ついに大業を成し遂げられるのだ。この査察さえ成功すれば、自分は理事への昇任を約束されるだろう。
「ふ、ふふ、ふふ」
 機嫌よく革張りの椅子に座り、くるりと一回転する。理事の椅子の座りごこちはいかほどか──そんな皮算用を始めている自分に気が付き、政治局長は少し我に返った。夕暮れ時の外を見やると、橙色に染まっている霞ヶ関がある。
 この国を屈服させることに成功した男は、やはり満足げにうなずいた。しばらくそうして見ていたが、不意に喉の渇きを覚える。以前客からもらったワインが残っていることを思い出した菓子岡は、ゆっくりと立ち上がった。しかし、そのまま固まって窓をじっと見つめている。
 陽光の中に、ひときわ明るく輝いているものがあった。

 

 大屋柾継は短い休息を楽しむことにした。
 役所にはどこも禁煙の波が寄せていたが、警視庁公安部特事課は未だに頑強な抵抗を続けている機関のひとつであり、オフィスからほど近い休憩所には大量の煙缶が用意されている。
 JAGPATOの決議が出たという報せはすぐに理事官から伝えられた。間もなく『上の上の上』から査察のための部隊へ人員を派遣しろというお達しも来るという。今回の夜鷹関連事件の捜査で指揮を執っていた理事官がその人身御供を決めるそうだが、おそらくは自分なのだろうな、と大屋は確信していた。
 今回の合同捜査──と呼べるかもわからないが──で直接的に財団と接触していたのは、大屋と相棒の新人・絵島だけだったからだ。すでに面が割れているのだから、いまさら公の場に出したって構うまい。そういう考えであろうことは容易に想像がつく。
 そんな自らの悲哀を知ってか、組んでいた絵島は今日有給を取っていた。まだ捜査がしっかりと締められたわけではないが、親戚の不幸という言葉を出されては断れようもない。なにより、あれを休むための方便だと断じる人間はいない。
 昨日はめずらしく、絵島が休憩所に入ってきた。すでに休みを願い出たという話は大屋も聞き及んでおり、その青い顔を見て話は本当だったのかと納得する。
「大屋さん、すみません。ここで抜けてしまうのは……」
「しょうがねえよ、おじさんだっけ? ちゃんとお別れしてこい」
「はい、ありがとうございます」
 煙がもうもうと吸い込まれていく中、新人刑事はずっとその様子を見つめている。なんだか心配になってきた大屋は、とりあえず話を振ってみることにした。
「実家、どこなんだ」
「千葉です」
「そうか、近いな」
 その日一〇本目の煙草に火を付けながら、大屋はできるだけ鷹揚に答えた。だが話はそこで終わりである。これでは気の乗らないお見合いでもしているようなものだった。気まずいまま紫煙を吹いていると、不意に絵島が顔を上げた。
「あの、一本いただいても」
「え、吸うのか」
 隠れた嫌煙家である新人にしては、不思議な頼みだった。だが親しい家族を失った動揺の最中にあれば、落ち着けるものを探すという行動も理解できる。「ちょっと待ってろ」と大屋は右の懐を探り、新品同様の六ミリのラッキーストライクを箱ごと取り出した。
「タールを減らせって医者がうるさくてな」
 結局失敗した試みの産物を箱ごと渡して、ついでにライターも添えてやる。絵島はぎこちない所作で先端を近づけると、火が付いた途端に咳き込んだ。背中をさすってやると、「ありがとうございます」と絵島は絞り出すように礼を言った。
「まあ、慣れだな。実家に帰ったらおじさんと一緒に吸うといい」
「はい」
 そして今日。決議が出たことで、課の中にもちょっとした安堵感が出てきていた。防衛省と真っ向からやりあうとなれば、失敗は許されない。理事官曰く『上の上の上』は完全に味方、というそうだが、それほど信用ならない言葉もなかった。政治家というのは官僚をせいぜい子分ぐらいにしか思っていない人種なのだ。
「ふう」
 懐を探ると、ちょうど一一ミリが切れていることに気が付く。昨日に続いて今日も休憩室で一〇本ほど吸うつもりでいた大屋は、眉をしかめて廊下に出る。一直線につながっている休憩室に、ちょうど入ろうとする人影があった。
 普段ならばすぐに目を離して立ち去るところだが、その背格好は見紛うはずのない人物のそれだった。
「絵島……」
 不意に振り返った彼と目が合い、大屋はなぜか恐ろしい感覚が胸からこみあげてくるのを自覚した。新人は懐から煙草の箱大のものを取り出して、頭上で振っている。赤い丸が付いた箱──ラッキーストライクではない。ボタン。
 とっさにドアの裏に隠れ、耳をふさいで口を開ける。光と高熱、それから爆音がコンマ秒の世界で順繰りにやってくる。絵島の顔は笑っていた。一体何が起こっているのか、彼には理解できなかった。ただ肌や灰を焦がす炎と風を耐え忍びながら、彼は次こそ禁煙を誓った。

 

「警視庁で爆発騒ぎ。どこの仕業だ。犯行声明は出てるのか」
「内調、国交省、GOCでも同様の事件が発生している模様です」
「三分前より機動部隊タスクフォース『も-9』が状況隠蔽プロトコルを開始したと」
 赤いジャケットを着た菓子岡がシェルターに姿を現したのは、同時多発テロ発生から一〇分後のことだった。東京都心に張り巡らされた地下通路は、武装サイト-81MPへ通じており、緊急事態時の幹部職員の集合場所はそこと定められていた。
「JAGPATO条約軍の供出対象施設ばかりが狙われたのか」
「そのようですが、財団施設からはまだ被害報告が出ておりません。さきほど、第二種緊急配備と重要施設へ検査プロトコルが発令されました」
 モニターの並ぶ室内には、オペレーターが続々と集合しつつある。答えてくれた女性職員に礼を言うと、菓子岡はすぐに中央の事務局長席へ向かった。すでにそこには、一人の男が座っている。
「阿形、これはどういうことだ」
「菓子岡か。悪いが席は余っていない。申し訳ないが椅子は自分で取ってきてほしい」
 阿形仁人 危機管理局長は、緩慢な動作で首を横に動かす。背の低い政治局長を見るにあたって、見上げる動作は不要だった。落ち着きを払っている同僚に対して、菓子岡は不信感すら覚えた様子で応えた。
「ここは東京だぞ。政府中枢で同時多発テロだ、何が起きてるか分かってるのか」
「ああ、わかってるとも。少なくとも死者は一〇名以上、重軽傷者を合わせると四〇名を超える──なんだ、ああ。そうか」割り込んできた官僚にうなずき返すと、危機管理局長は立ち上がった。どこへ行くと問われると、阿形は少し首を振った。「お前も付いてこい。諜報機関が報告したいと言ってるそうだ」
「報告だと」
 オペレーション・ルームから数十メートル離れたところに、諜報機関が自前の指揮所を構えていた。フィールドエージェントを糾合した機動部隊を編成し、現場保全作業の真っただ中にある。そこの主であったグレアム・マクリーンは、待っていた客の姿を認めるとすぐに部屋を出てきた。
「お待ちしておりました、阿形局長。こちらは」
「菓子岡といいます。政治局長の」
「ああ」納得したふうの反応を見せて、長身──菓子岡から見れば誰でも長身だが──の白人は別の部屋へと二人を案内する。「こちらへ。すでに機動部隊が実行犯を数名ですが確保したと」
「それで、実行犯というのは」阿形はファイルを渡されると、すぐに顔を上げた。「全員、元任期制自衛官?」
「夜鷹の仕業か」菓子岡は人員のリストを一瞥しただけで、すぐに背もたれに身を預けた。「まさかこんな手段に出るとはな、恐れ入った」
「諜報機関は監視していなかったのか」
「いえ、わたしのもとで財団内部にいた連中のスリーパーはあらかた始末しております」
 病的な表情をしているマクリーンはこともなげにそう言って別のファイルを差し出してきた。十数名に及ぶ潜伏工作員は、その全員が特定され、すでに81JAで拷問を受けている。
「夜鷹は尻尾切りが上手く、これまでは組織本体への解明作業はできずじまいでした。そもそも、スリーパーの特定さえ困難だった」
 ですが、と機動部隊指揮官は身を乗り出す。菓子岡によって夜鷹の活動停止が決定されてから数時間のうちに、監視対象者たちに動きがあったという。即時に拘束して尋問を行うと、彼らが夜鷹のフロント団体に所属していた経歴があり、自覚無自覚を問わず潜伏工作員スリーパーとして運営されていた事実が明らかになった。
「その動き、というのは」
 阿形は猜疑の視線を指揮官に向けている。『ジーザス・アングルトンの再来』と呼ばれる男は、微笑んで答えた。
「ある職員は普段使わない郵便局から手紙を出していましたし、またある職員は普段使わない居酒屋で飲んで帰った。そういう何気ない行動の中に、眠る者たちを目覚めさせるコードが仕組まれているものです」
「そうですか」
 阿形は立ち上がってファイルを返す。「この件はまだオペレーション・ルームには持ち込まなくていい」と付け加えてから、ふと思い出したように尋ねた。
「都心にはきみしか、監督官クラスの人間がいなかったのか」
「ええ、たまたま別の業務でこのあたりにおりましたので」
「別の業務?」
 都心で職務に従事している職員の大半を知る菓子岡にとって、グレアム・マクリーンは新顔以外の何物でもなかった。こちらを見下ろしている背の高い男は、また固い笑みを二人に向けた。
「ええ、別の業務で。──さて、仕事に戻るといたします。まだ外務省から報告が届いていないので」
 一足先に部屋を後にしたマクリーンがドアを閉じた後、阿形はぼそりとつぶやいた。
「モグラ狩りが地面に潜ってたとはな」

 

「公安調査庁は無事なんですね、わかりました」
 受話器を置いた細谷は、騒然としている廊下へ飛び出していく。財団と連合、そして公調自身の報告によって当該省庁が難を逃れたと判断した細谷は、すぐに行動を起こすべきと判断していた。ちょうどそこに秘書官が戻ってきたが、細谷は手で制して部屋を指す。
「すまないがついてこなくても大丈夫だ。しばらく部屋でおとなしくしていてくれ」
「どちらへ」
「中央合同庁舎の六号館だ。官邸の外は危険だ、いまは電話には出るな、いいか」
 矢継ぎ早に注文を付けて、細谷は廊下を猛然と駆け出す。いつも外で待たせてばかりの秘書官だが、今日ぐらいは部屋の中で待っていてもらうこととしよう。玄関を抜けてすぐの財団による検問を抜けて、法務関係省庁が集中する中央合同庁舎へと車を走らせる。
特異案件対策室AIDの威力部隊を臨時に編制して、市ヶ谷駐屯地に向かわせます。党と官房にはF案件だとお伝えください。すぐに、最優先です。渋るようなら武力攻撃事態になってもいいのかと脅してください」
 すでに霞ヶ関全域は大混乱に陥っていた。爆発炎上は超常関係機関の入るオフィスのほとんどで発生しており、多くの官僚・民間企業の社員たちはそれを目撃していたが、政府は一向に何ら公式発表をしようとしない。代わりに警察や自衛隊を名乗る集団が現れ、瞬く間に一帯を封鎖してしまっていた。電話・インターネットは不通、東京メトロは全線で運転を見合わせており、入ることも出ることも叶わない。
 財団と組んで夜鷹を潰すまではよかったが、このような事態に発展するとは想定の埒外にあった。この緊急事態に財団と連合が不拡大方針を取っていることはもちろん歓迎だが、早急に政府も動かなければならない。ただでさえ身内を切った直後である。確実に官邸──細谷が状況を掌握している必要があった。
 特事警察は損害不明だが指揮系統は壊滅状態、内調も人的被害はないもののオフィスを吹き飛ばされている。国交省は数名の職員が行方不明であり、外務省でも大規模なガス漏れが確認されていた。防衛関係ではなく、威力部隊を持っていて、かつ無事。この条件を満たすのは、もはや公安調査庁の特異案件対策室しかない。
 細谷はまたかかってきた電話をすぐに切ると、護衛についてきていた財団のエージェントたちの方を振り返った。顔が薄い男が一人と、目つきの悪い女、それから大昔にどこかで見たことがある中年。
「細谷補佐官、公調がまだ無事なのは罠である可能性があります。機動部隊の到着を待ってからでも遅くないのでは」
 海野と名乗っていたはずの男が言う。恐ろしく覚えづらい顔をしている男は、いまさらのような文句で細谷のことを引き留めようとしていた。公用車を降りた細谷は、首を大きく横に振る。
「官邸にいれば安全でしょうが、状況が全く把握できない」
「細谷補佐官が危険を冒される必要はないはずでは」中年の男──道策どうさく 常道つねみちは左手で庁舎を差した。「このビルにはあまりしっかりとした逃げ道がありません。われわれ三人では護衛し切れるかいささか不安です」
「心配はよくわかるが、これはわが国の問題だ」
 細谷は次々とビルから出ていこうとする官僚に逆らって、なんとかエレベーターまでたどり着く。一機確保していた公安庁の調査官が、蒼白な顔で一礼した。
「細谷首相補佐官ですか」
「ええ。すぐに室長とお話がしたい。何階ですか」
 それが、と調査官は口ごもった。耳にしているヘッドセットの調子が悪いのか、何度か耳のイヤホンを叩いている。不審がった細谷に「少々お待ちください」と言って調査官はトランシーバーのチャンネルを確認し始める。
「おかしいな……」やがて、彼が呼んだエレベーターが地上まで降りてくる。「とにかく、上までお越しください。ちょっと回線が混み合っているのかもしれません」
 スライドドアが開くと、鉄の匂いが鼻についた。思わず口と鼻を覆った細谷は、そこに血で描かれた五芒星を見つける。遺体の類は落ちていないが、この量の血を流した人間は普通助からない。
「離れてください。これは魔術が行使された痕跡だ」
「この五芒星、五行結社の転移式か」
「おそらく」
 要人をすぐにエレベーターから引き離した護衛たちは、細谷にはわからない言葉で会話を始める。今まで見たこともない量の血を前に、細谷は完全に腰が抜けていた。無事かと思われた特異案件対策室は、五行結社を離脱した戦闘員の襲撃を受けた後だった。
「官邸内にもスリーパーがいるのか」
 目つきの悪い女は言葉では応えず、代わりに細谷が持っていた携帯を取り上げた。補佐官が官邸を出るまでは無事だったはずの部署が、庁舎に入った途端に襲撃を受けて壊滅。偶然というにはタイミングが良すぎる。西塔は携帯のカバーを外すと、リチウム電池を引っこ抜いた。
「なにをするんだ」
「あなたに携帯電話は過ぎたおもちゃです。代わりにこれを」
「なんだこれは、こんなものを持てと」
 西塔が手渡したのは自動拳銃だった。強化プラスチック製でバレルの短縮されたモデルで、素人の細谷にも向いている。
「護身用に持っていてください。いいですか、細谷先生。われわれはすぐに官邸へ戻ります。電話も、われわれの監視下でしていただきます。そしてわれわれが出ていいというまでは、絶対に外には出しません」
 よろしいですか、と凄む女を前にして細谷は気圧されたようにうなずいた。
「わかった」
「なら、いいんです」

 

「『獅子』、これはあなたの責任も問われうる問題です」
 ひどい落差の中に、菓子岡はいた。グレアム・マクリーン。日本支部内部保安部門統括次官。近年の日本支部における粛清の大半はこの男の『もぐらモール狩り』が原因である。
 この男が急に目の前に現れたということの意味。あるいは彼の考えすぎかもしれなかったが、最近のイヴァノフの召喚といい、ことが重なりすぎていた。
「わたしがかね。きみにどんな不都合があるのか知らないが」
「あなたはここ数年のわたしの活動をわかっていて見逃してきたはずだ。実際、夜鷹の解体まで漕ぎ着けた。でもマクリーンは理事の首すらも刈る男です。それをわかっていらっしゃらない」
「そうか。気を付けておこう」
「いいですか、すべてはあのGRUの小間使いの独断にすぎません。犬山の監視も、やつが情報をGRUに流していたことが露呈したことに気が付いたからで、バラクシンはその口封じに──」
「一度落ち着いたらどうだ。頭が冷えたらかけ直してこい」
 返事を待たずに電話は切れた。理事会直通の秘匿回線であるため、傍受される恐れはない。だが崩れ落ちた菓子岡は、自分の栄達がここにきて岐路に立たされていることを理解していた。いまことをしくじれば、すべてが水泡に帰しかねない。
 こういう事態に陥ったときのために、口裏合わせはすでにしてある。やつに連絡しなければ──すぐに私物の携帯で番号を打ち込み、発信ボタンを押す。一・五コールの間に電話が取られ、菓子岡は「いまどこにいる」と電話口で怒鳴りつけた。
「オフィスです」
 相手はいやに落ち着いた口調で答えた。菓子岡は冷や水を浴びせかけられたようにいったん調子を抑えて、息を吐いた。焦りは禁物である。対策はすでに取ってあるのだから、それを粛々と遂行すればよい。
「恐れていた事態が起きた。四ツ谷のセーフハウスに行け。そこに例のものが用意してある。できればロシア支部の内部保安部門の人間も同行させろ」
「はい。ち、ちょうどよかった、内部保安部門の人間なら近くにいます」
「なんだ、どういうことだ、ベリャコフ
「──なあ、もういいだろ、認めたんだからこんな真似」
 どうやらベリャコフは、その場にいる誰かと言い争いを演じているようだった。徐々に前頭部から血流が引いていく感覚があった。携帯を持っている手が震えていた。何度か呼びかけるが、ロシア支部の内通者は一向に言い争いを止めようとしない。
「おい、ベリャコフ。お前とわたしの運命がかかってるんだぞ」
「もうとっくに終わってますよ」
 女の声。つい最近にも聞いた、幼い少女のようなか細い声音。だが花のような可憐さはどこにもなく、鋭利な氷の刃物のような響きを帯びていた。RAISAからの特使は、後ろで騒いでいるらしいロシア人を黙らせると、言葉の出ない菓子岡へ型通りに告げた。
「菓子岡 仔鹿、財団日本支部理事会幕僚部 管理総局 政治局長の任を一時解き、身柄を内部保安部門および記録・情報保安管理局が拘束します。抗弁は後に機会が与えられます。その場を動かず、跪いて両手を挙げなさい。機動部隊が急行します。抵抗せず、その指示に従いなさい」
 背後で長靴の音が近づいてきていた。携帯を取り落した菓子岡は、ひざまずくどころか自立さえままならなくなっていた。ことは露呈していた──すでに手遅れである。やがて武装した保安部門の職員たちが押し寄せてくる。その中に、あの長身の白人がいた。
「わたしはこちらが本業でね。まあ、もうお調べいただいたようだが」
 マクリーンはだらりと垂れさがった両手に手錠をかける。そして内部保安部門発行の令状を示した。
「財団に対する重大な反逆の容疑で逮捕する。連れて行け」

 

「もう終わったようで」
「ああ、どうも」
 通信社のオフィスには、連れて行かれたロシア人と入れ替わりに、また別のロシア人が現れていた。撤退の準備を進めていた来栖は、意外な来客にも驚かず、ただ一礼した。
「ご協力ありがとうございました、エージェント・イヴァノフ。あなたが提供した資料と、証言はとても貴重なものです」
「情報は出すタイミングが重要だと習ったものでね」
 実際のところ、ベリャコフはとっくに四ツ谷のセーフハウスを訪れていた。彼と菓子岡の通謀を隠蔽し、すべての責任をイヴァノフひとりへ押し付けるための証拠が、この部屋には隠されていたのである。イヴァノフは先んじてそれらを回収し、その時に備えていた。
「あんたたちが来たのはおれがまさに回収し終わったそのタイミングだった。バレてないかとひやひやしたもんだ」
「ここが匂うとは海野さんや西塔さんも言ってました。あなたがもし回収しなければ、あるいは本当にあなたが犯人に仕立て上げられていたでしょうね」
 はは、とイヴァノフは豪快に笑っていた。二つの支部の間で転がされ続けていた男は、結局自らを売ろうとした上司を売ることで生き延びた。ところで、とイヴァノフは足元のボストンバッグから酒瓶を取り出す。
「こんなものを見つけたんだ」
 年代物のコニャックは、来栖にも見覚えのある代物だった。結局、ベリャコフは予定されていた昇任祝いもすることができずに捕まったことになる。まったく同情は覚えないが、この薄情な部下がそれをくすねていくことについては、来栖もほんの少し心が痛む。
「たぶん、探せばわたしがあげたジャムもありますよ」
「気の利いた土産だな」
「ありとあらゆることを調べ上げておくのは基本です。大変魅力的な申し出ですが、わたしはこれで」
「なにか先約が」
「まだ仕事が残っています」トレンチコートを羽織った来栖は、部下に現場を任せて出ていく。「エージェント・イヴァノフ、マクリーンがぜひ内部保安部門にあなたを、と」
「おたくのとこに入ったら、勤務中にコニャックは飲めないだろ」
「ええ、間違いなく」
「ならやめておく」

 

「状況はどうなってるんだ」
 首相官邸は、いま武装した財団職員や連合の特殊工作員で埋め尽くされていた。各超常関係機関で無事だった要員が派遣されており、地下のオペレーション・センターがJAGPATO条約軍緊急展開部隊の司令部として稼働を始めている。
「機動部隊が数個投入されて犯行勢力を捜索中です。魔術的防護や単にセキュリティが甘い政府機関ばかりが狙われたんです。少しは反省しててください」
 そう言い返した道策管理官はもともと国交官僚であるらしく、実は大臣秘書官として首相官邸に出入りしていた経験があるのだという。ずば抜けた記憶力で建造物の構造を覚えており、ゆえに今回の官邸周辺の護衛を統括せよという辞令を賜るに至った。
「最後にはまたドンパチか、なあ海野」
「そうですね……どうせなら西塔さんよりイヴァノフのほうが心強かったかもですけど」
「あ?」
 ぼくは冗談ですよと適当に弁明しておいて、左胸に当たっている金属をちょっと邪魔に思っていた。だが、状況は不可測になりつつあるのだから仕方がない。
 現状、襲撃を受けた施設は六ヶ所。警視庁、国交省、外務省、内閣官房、公安調査庁、そしてGOC極東部門の無人施設。いずれもJAGPATO条約軍の供出対象となっていた関係機関が存在しており、犯行主体は今回の決議に反対する勢力──つまり夜鷹と、その背後にいる『重臣会議』なる政治グループとみられている。
 危機管理局は機能が停止された政治局に代わって事態を掌握し、ただちに一人の人物の拘束を行った。つまり、夜鷹の利益代表者・山川犀治である。今回の事件の主犯格を疑われた彼だったが、実際には臨時会合以後に部隊との接触は断たれていた。彼らは、山川という駒をもってしても決議を止められなかったことに業を煮やし、今回のような暴走に踏み切った。
前任者マクリーンからわたしへ権限が正式に移りました。現時刻をもって『も-9』第二連隊の指揮はわたしが取ります」
 道策はオペレーション・センターのマイクでそう告げると、隣の排撃班指揮官と握手を固める。すでに事態はJAGPATOのマターになっており、財団による単独対処の範囲を超えていた。一撃離脱戦術を取った犯行主体は、大半が自爆テロや自らを犠牲にする形で攻撃を実施していた。五行結社を離脱したカオスゲリラも彼らに含まれており、事案は少々複雑な背景を持っている。
 大半の夜鷹部隊構成員はすでに条約軍に恭順しており、反乱を起こしているグループについては知らないと答えている。重臣会議派と呼称された『反乱軍』は、合計でも総勢数十名程度の小規模なグループとみられており、道策は徹底した人海戦術でこれをあぶりだそうとしていた。
 都内全域に数千名単位の動員がかかり、諜報機関のAICが夜鷹関係者と思しき人間の行動を数百人分トレースし続けている。局所的な資源の集中投下。もっとも効率的な方法で、道策は徐々に彼らを追い詰めていく。
「テロリストどもは早晩見つかるだろう。それよりも、今のうちに官邸に潜り込んだモグラを見つけ出す必要がある」
 道策はぼくらと細谷の顔を見回して言った。心当たりは、と聞かれてもぼくらにわかるはずもない。
「モグラといっても、そう多くの人数がいるわけではないでしょう。多くても数人、あるいは一人かもしれません」
 併設されている会議室に移動して、ぼくは諜報機関のラップトップを机に置いた。西塔から携帯を受け取って、細谷に適当な番号へかけろと指示をした。
「しかしここは圏外で」
「どうしてそういうことを早く言わないんです」
 結局四階の執務室へ戻ると、そこでは細谷の秘書が待ちくたびれていた。大混乱に陥っていた官邸にあって、自らの職務を全うしていた、というわけだ。細谷曰く超常行政には無関係な人員らしく、外で待っていろ、といつも通り追い払われてしまった。
「そもそも、どうやってスリーパーなんぞを政府機関内に浸透させていたんだ」
「いくつか手段は考えられます。いまはそれより、もぐらが誰だか調べ当てましょう」
 細谷の通話は傍受されている。それはもはや疑いようのない事実だ。携帯はいくつか持っているそうだが、そのうち三つ目が主に超常行政のために使用していたものらしい。これを『神州』の監視下であえて発信させ、傍受者を特定する。
「準備はできましたか」
「やってくれ」
 発信ボタンが押される。発話先は財団JAGPATO代表部のものだ。神州は数秒のうちにこの回線におけるノイズを特定し、その発生源までをトレースする。その結果がラップトップに反映される──はず、なのだが。
「どうだ、結果は」
「いえ……それが」
 〈通信は一切傍受されていない〉神州のはじき出した結果はそれだった。高度な人工知性は間違えない。間違っているとしたら、たいていは使う人間側にその原因がある。もう一度夜鷹による傍受がありそうな番号にかけ直したが、いずれも傍受されているという結果は出なかった。
「電話を傍受する以外の方法で、どうやって行き先を特定したんだ」
「細谷補佐官、誰か電話をした相手で、夜鷹とつながっていてもおかしくないという人間は」
「少なくとも総理と統幕長、東部方面総監、それから米国大使館には話を通したが、そんな連中ならきみたちも逐一監視しているだろう」
「ええ、このタイミングで絶対に見落とすはずがない」
「となると、あとは」
 会話は轟音で開け放たれたドアによって中止された。反射的に銃を構えるが、開けた当人はすぐに床へ崩れ落ちた。
「どうした」
 床に臥せってしまった女性──細谷の秘書官は何も答えることなく、動かなくなっていた。その背後からふらり、と人影が現れる。
「至急至急。CP、こちら四階補佐官室。敵性戦闘員と思しき人影を確認。応援求む」
 通信を入れる間も、その人影は近づいてくる。天井の照明がシルエットを徐々にはっきりとさせ始め、入り口から銃身が覗いていた。西塔が足音を殺して壁に貼り付き、しゃがみこんだ。だが、妙だった。影の近づき方があまりにも緩慢すぎる。クリアリングならもっと素早く入ってくるはずだ。
「西塔さん」
「わかってる」
 なおものろまに歩く警備要員を、西塔は一挙に床へはり倒した。起き上がってこないように、手錠を素早く手摺りに括り付けた。頭から血を流しており、失神している間に催眠を受けたのか、意識がはっきりとしていない。
「おい、おい!」
 背後で細谷が叫び、紅く濡れてしまった腹を押さえながら秘書を抱きかかえていた。どうやらこちらは、もうすでに手遅れとなってしまっていたようだ。西塔が遺体を回収しようと近寄ったその時、
「こいつだ」
 銃口を向けるよりも早く、秘書は細谷の首を締め上げて飛び退いていた。明らかに人間離れした身のこなしだ。小刀が細谷の首筋に突き立てられていた。少しでも力を入れれば、頸動脈に穴が開いて彼は絶命する。
 秘書改め『もぐら』は、こちらをうかがいながら壁に背中を付けた。おそらく、近くを通りがかった警備要員に簡易催眠をかけた彼女は、そのままぼくらに死んだと思いこませた。そして細谷が近づいてくるタイミングを計って人質に取り──今に至っている。
「なるほど、傍受してたわけじゃない。重臣会議はすぐ近くに監視役を置いていたのか」
 アシのつきやすい電子的な手段を取る必要もない。ただ、聞いた話を夜鷹のカットアウトへ通報すればよいだけだ。おそらく彼女自身は普段超常行政と一切関係を絶ち、任意のコードを受け取らない限り『もぐら』としての記憶は封印されている。そのため財団の監視をうまく掻い潜って来れたのだ。
 おそらくは『重臣会議』の緊急時のためのプラン。切り札だ。
「そんな……どうして……」
「わたしをもっと早く目覚めさせていれば、こんな裏切りは避けられたはずだ。先生方はとても後悔しておいでだ」
 憎々しげに言う女を見て、西塔は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。それが気に障ったのか、女は視線を横へ滑らせた。
「銃を捨てろ。こいつの首を刎ねるぞ」
「要求は」
 銃を床に置いたところで、別のフロアからの応援が到着していた。ぼくは右手を挙げて進行を止め、銃を下ろせと彼らに告げる。サブマシンガンを装備していた機動部隊員や排撃班員たちは、続々とその指示に従って床に銃を置き始めた。
「JAGPATO決議は無効にされるべきだ。日本の国家主権を侵害している」
「国家主権だと」西塔は腕組みをしたまま、またしても鼻を鳴らした。「国家主権なんてな、総体としての人類が持つ制憲権SCP1に比べればチリのようなもんだ」
「お前たちのような機関に何かを委託したつもりはない」
「ならお前は人類じゃないのか」
「わたしは日本人だ」
「そうかよ」
 今まで黙っていた細谷が、懐からピストルを取り出した。そしてそれを自分の胸に突き付ける。西塔がさっき渡した銃だ。まだちゃんと持っていたのか。
「わたしがこのまま自分を撃てば、きみの要求はもう通らないぞ」
「そんな虚仮脅しには乗らない」
「ここでわたしが死んでも、彼らは少しも困らないさ。政治家ってのは所詮神輿だ」
 大きくうなずいている西塔を見て苦笑した細谷は、スライドを身体に押し付けて引く。息が荒く、目は血走っている。彼は本気だ、とぼくは直感した。止めなければと身体が動き、一歩を踏み出す。
「待っ──」
 乾いた破裂音がする。撃鉄が弾丸を叩き、運動エネルギーの塊によって人体がいとも簡単に破壊され
るときの音。遅すぎた。決めてから実行に移すまでの素早さは、この男の美徳のひとつらしい。だが、それをこんな時に使うべきではなかった。
「──空砲か!」
 西塔が細谷の身体を素早く女から引き剥がしている。ぼくは事態を理解するよりも先に、置いていた銃を拾い上げて女の頭に打ちおろす。だがそう簡単に気を失わない女は、持っていた小刀をぼくの右腕に突き立てた。
 悲鳴を上げる暇もない。右腕に満身の力を込めて刀を抜かせず、残った左腕の全力で女の顔を殴り付ける。数発を必要としたが、やがて刀を握る手から力が抜けた。
「……気を失っただけか。しぶといな、こいつ」
「呪術かなにかで痛みを緩和していたようです。指が折れるかと思った」
 すぐに隊員たちが女を取り囲み、捕縛してどこかへと連れ去っていく。危機の去った廊下には、ぼくらだけが残された。空砲を撃ってからずっとうずくまっている細谷は、西塔に蹴られても無反応だった。
「あ、こいつも気失ってる……」
「そりゃ死ぬ気で撃ったんですから、そうですよ」
 ぼくはどっと疲れた身体を壁にもたれさせた。そしてふと、あることに気が付く。
 細谷の目から涙がぼろぼろとこぼれている。西塔は気が付いていないようなので、ぼくはそっと拭っておくことにした。

 

 菓子岡 仔鹿は最後まで、この部屋の椅子に座ることを許されなかった。
 日本支部理事会による査問会は、過去類を見ないほどの人数に対して聴取を必要とした。政治局ぐるみで行われていた他支部との不法な情報交換は、最終的に四三名もの処分者を出す結末となったのである。その中でも中心的人物は政治局長の菓子岡であり、ロシア支部の局長級官僚との人脈を使って、情報を略取していた。
 相互に情報をやり取りすることで、自らの栄達に利用する。言葉にすればなんてことはない、私欲の為せる業である。バラクシンを使って四ツ谷のセーフハウスで情報を受け渡していた菓子岡たちだったが、その事実が犬山に漏洩していたこと知ると、イヴァノフを使って犬山を消そうとする。だが、犬山自身が加担していた情報漏洩によって夜鷹が始末にかかったことで事態は絡まり始める。
 菓子岡はこれを機に夜鷹を徹底的に叩くことを考え、イヴァノフのもう一つの所属であるGRUの関与をほのめかしつつ、さらに──この部分については菓子岡は認めていないが──特事警察の介入をあえて誘発する。そうすることで財団と政府の双方に夜鷹による事件を認知させ、かつ矛先をGRUと夜鷹へと向けさせようとした。
 だが急転する状況の中、内部保安部門とRAISAの介入を受けた菓子岡の謀略は暴かれ、すべてが無に帰した。
「最後に言いたいことはあるか」
 理事会首班は終始厳しい態度で容疑者たちに対峙していた。理事会はほぼ全会一致で彼らへの厳罰を決議することが見えており、もはやこのやりとり程度で何かが変わることはない。髭を剃ることさえ忘れてしまった菓子岡は、薄気味悪い笑顔を『獅子』に向けた。
「すぐに会えますよ」
 査問会は結局、四三名全員の職責剥奪と記憶処理、そして一般の刑務所への強制収容を決定した。当面の間は、81JAで余罪を追及される。前代未聞の粛清劇は、しかしこれで終わったわけではない。
「エージェント・来栖。よくやった」
「ありがとうございます」
 接見の間へと続く廊下は薄暗く、そして長い。マクリーンを取り囲む数名の警備兵に交じって、来栖が主任監視官として彼に随行していた。マクリーンの配下で動いていた彼女は、幕僚による不正の摘発という大任を仰せつかり、そしてこれを見事に成し遂げた。
「どうも、獅子。気分はいかがですか」
「……どういうつもりだ、わたしだけここに呼び出して」来栖のとなりにいる男の姿を認めた理事は、ふたたび怪訝そうな表情いっそう深めた。「マクリーンか、ここで会うとは思わなかった」
「日本支部理事会首班・獅子。O5命令第█████████号に基づいて身柄を拘束します」
「なに、どういうことだ」
 抵抗する間もなく、警備兵たちによって老人は取り押さえられる。マクリーンに代わって、来栖が発行された令状を読み上げるが、理事は聞く耳を持たずに喚いていた。
「わ、わたしの責任を問うなど、どうかしている。O5から委託された権限を、わたしは正当に執行していただけだ」
「──あなたは前号内規違反者による違反行為を是認し、これを後援していた疑いがあります」
「誰の差し金だ」
「だから言ったでしょう」マクリーンは少し不愉快そうに眉を動かしている。「O5評議会です。内部保安部門と倫理委員会、RAISAはO5司令部に指揮権があることはご存知でしょう。わたしたちはあなたの部下ではない。O5の部下なのです」
 やりすぎたんですよ、あなたは。アングルトンの再来は、それだけ伝えると警備兵に「連れて行け」とジェスチャーした。
「エージェント・来栖」
「はい」
 来た道を戻ろうとしていた来栖を呼び止めたマクリーンは、ポケットからライム味のタブレットを取り出した。
「そういえばきみは、犬山等助が殺された日、彼に接触していたね」
「ええ、一時間半ほどですが。AICから記録のアクセスを死守するのに苦労しました」
「何か言っていたか」
 なぜそんなことを問うのだ、という面持ちで、部下の女は戸惑っていた。足音とタブレットが噛み砕かれる音だけの時間が数秒続き、そして来栖は思い出したように答えた。
「組織を裏切るつもりはなかった、と」
「同じことを言っていたな、彼らは」
 気を付けたまえよ、と言い残してマクリーンはさっさと歩いて行ってしまう。気まぐれに聞いたのか、何かを伝えたかったのか、それすらも語らない背中。彼にとって大きな意味のある問いではなかったが、しかしこの部下には何か響くものがあったらしい。立ち止まる来栖を見て不思議がった彼は、しかしまた歩き出す。
 JAGPATO調停裁判所大法廷における審理は、これから数ヶ月間継続される。結局加盟組織のほぼすべてが当事者となった今回の事件では、すでに数百名近い人間が出廷を要求されており、各機関は再建と同時に、清算を強いられることとなった。
 そしてその中には、JAGPATO連絡事務局総裁・蔵部 外火の名も連ねられている。
「──いやはや、遠いところからよくおいでなすった」
「遠くもありませんよ。ここのところ、あなたと同じで地底人でしたから」
 少しだけ笑い合ってから、マクリーンと蔵部は紅茶に手を伸ばした。獅子を拘束して81JAへ送り込んだその足で、彼は紀尾井町を訪れていた。
 蔵部 外火は元財団日本支部の職員として、史上最も裏切り者の名をほしいままにする人間である。政治局からJAGPATOへ出向していた彼は、そのたぐいまれな政治力を頼んでついに連絡事務局総裁──機構における最高の地位に就けた。そして、直接的に騒乱の責を負う立場にある政府関係者などとは違って、彼は法廷においてあくまでも重要な証言者に過ぎない。マクリーンや来栖をもってしても、そこまでしかできなかったのだ。
「超常関係機関は、官邸を中心に再編されますよ。これも、財団の狙い通りですか」
「わたしは細谷補佐官や菓子岡と違って天下国家を論じる人間ではありませんよ」
「そう、細谷補佐官は続投と聞きました。野心のある政治家だ。彼のような若い人は見ていて胸がすく」
「だから応援を?」
 カップを置いた蔵部は、わざとらしく首をかしげて見せた。普段のスーツではなく和服に身を包んでいる老人は、いまは仕事の一環ではないとでも言いたげに杖をもてあそんでいる。
「……菓子岡さんは失脚されてしまったとか」
「あなたがた三人の中で完全に外野を決め込んだのは、あなただけだ」
「そりゃあ、JAGPATOはプレーヤーではなくディーラーだからですよ。ここは審判の席なのです」
「ディーラーがプレーヤーのカードについて他のプレーヤーに告げ口したとなると、われわれは何を信用して賭ければいいんでしょうね」
「仮定の話には付き合えません」
 まあいいでしょう、と男は立ち上がった。もとより、長居するつもりもない。ツイードのボタンを留め、マクリーンはテーブルへ手を突いた。
「O5はこの一件での、あなたの責任を見逃さない」

 


 

 その日は快晴という予報だった。時刻はすでに午前一〇時を回る頃だが、細谷幸史の身体はまだ大崎の自宅のベッドに沈んでいる。昨日ようやくJAGPATO調停裁判所から解放された彼は、本日ほとんどすべての公務をキャンセルして休養を取ると決めていた。
 仕事との重婚解消も思い切ってしてしまいたいところだが、超常関係機関の再編が始まる以上、もうしばらくはできそうにはない。結局、重臣会議は構成員である老人たち全員がJAGPATOの所有する収容所に軟禁されることが決まり、山川も国防部会長を引責辞任という形で幕引きが図られた。
 白い天井に日が差している。カーテンの隙間から差し込んだ光線は、反射と散乱を繰り返しながら彼の瞳に届き、視神経の発火となって彼の脳髄に映像を結ぶ。彼には、ここが収容所の天井でないことが不思議だった。財団や連合、JAGPATOは、まだ自分に利用価値があると判断しているのか。
 快晴だが、寒い日だった。首まで羽毛布団を上げて、もう少しだけこのままでいようと決意する。
 明日からはもっと寒くなると予報があった。細谷は冷えるつま先を掌で包もうとして、胸の打撲がずきりと痛んで声を上げた。空砲とはいえ、骨折していてもおかしくはなかった。階下で自分を呼ぶ声がする。細谷はしぶしぶ、布団から出ていく。
「いま行くよ」
 途中、カレンダーに目が行く。まだ破られていないそれは一月のままだった。もう二月に入って一週間が経っている。ページを破ると、二月の真っ白な予定が現れた。そこに小さなコラムが載っていて、二月の古称を羅列していた。
 その中のひとつに、彼の興味は向けられていた。
 星鳥。二月の異称である。

 
 

 
 

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