酩酊より奇っ怪な夢を
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SCP-1922-JPの実験許可が下りた。


「博士……本当に行ってしまうんですね……」

████博士のもとで長らく苦楽を共にした小泉助手は名残惜しそうにつぶやく。

「まだ博士は現役で活躍なさっているではありませんか。どうして」
「言ったろう。私はもう年で先も長くないだろうし、できる仕事も少なくなっている。このまま老い恥を晒すよりは何か財団に貢献したいと思ってね」
「あなたの記憶操作に対する知識と経験は財団にとって非常に価値があるものです。まだまだやれることが――」

████博士はかぶりを振って小泉助手の言葉を止める。

「小泉君、いいんだ。私が知っていることは君たちにもう十分教えたさ。君たちならこれからもうまくやってくれるだろう」

SCP-1922-JPはSCP-1922-JP-1に指定される、酩酊街へと中継を行う空間に侵入を可能にするオブジェクトである。帰還したものは何かしら物品を持ち帰るが、帰還率は極めて低い。すなわちSCP-1922-JPの被験者になるということは、ほとんど人身御供になることに等しい。

「じゃあ、そろそろかな」

████博士は時計を確認して別れの時が来たことをつげる。記憶補強剤を渡しながら小泉助手は████博士の正面に立ってキッパリと言った。

「博士、私はあなたのことを絶対に忘れません。決して。だから博士も私のことを忘れないでください」

████博士は少し驚いた表情をした後、悲し気にかぶりを振った。

「私のことなど別に忘れてくれて構わないよ」


「う……」

博士は気づくと雪降りしきる夜道へと降り立っていた。老体に寒さは堪えるが、不思議とどこかほかほかとした馴染みのある温かさを感じていた。博士は何かを探すようにふらふらと彷徨い始めた。そこへスーツ姿の人影は親しげに挨拶を行った。

「やぁ、素敵な夜ですね」
「あぁ……初めまして。山田さん、ですか」
「おや、私のことをご存知ですかな。どなたかからお聞きに?」
「ええ、ちょいとね」
「ということは最近たまにここを調査にいらっしゃる方のお仲間になりますか」

山田はSCP-1922-JP-1に存在する眼鏡をかけたフレンドリーな男性でありSCP-1922-JP-2に指定されている。SCP-1922-JP-1および酩酊街に関する知識を有していると見られ、博士に与えられた任務の一つは山田との接触である。

「話が早い。じゃあさっそく質問いいですかな?」
「ああかまいませんよ。でも……必要ありますかね?」
「どういうことです?」
「だって貴方、もうあちらへと戻る気はないでしょう」

老人の眉がピクンと動いた。しばらく静寂な時間が流れたが、やっとの思いで声を捻りだした。

「……私は」
「ああ、いいですよ。私にはわかります。ここの案内人を務めて長いですからね」
「……」
「此処は忘れられるモノが通るリンボ。貴方のような全てから解放されたい方もよくいらっしゃるんですよ」
「……」
「わたしの思い違いなら謝罪いたしましょう」
「確かに私は全てから忘れられたくて……ここに来た。私は――」

老人の口からぽろぽろと彼の人生を振り返る言葉がこぼれ始めた。


組織に所属して50年ぐらいになる。所属した当時は見るもの見るものが新鮮で、休むことも忘れて仕事に没頭した。そして様々なモノやヒトと関わった。思い返してみると大きな失敗はなかったものの、大きな活躍もなかった。

最初に関わったオブジェクトは苦い結果になった。オブジェクトに巻き込まれた子供は異常性によって両親に忘れ去られ天涯孤独の身となってしまった。異常物品にだけ気を取られず、それには付随する人間が存在することも忘れてはならないと痛感した。

次に関わったオブジェクトの研究ではいくつかの意思を持つ実体との出会いと別れを経験しなければならなかった。生きる者はいつか死ぬ運命とはいえ捨てられた彼らが痛みを伴いながら消えていく姿を見るのは胸が痛んだ。

担当したオブジェクトの保護が果たせず、手を尽くしたが力及ばず無力化の認定をせざるを得なかったときは無念でいっぱいだった。今でもあの時の行動が正しかったのか思い悩むときがある。

日本を離れ、フランスやイギリスのサイトへ働いたこともあった。フランスでは生物型オブジェクトを用いた記憶処理の研究など当時の日本にはなかった経験ができた。イギリスでは……何の研究をしていただろうか。もうあまり覚えていない。

組織で働いて十数年たったある日、旧知の仲である同期の友人が亡くなった。オブジェクトの異常性に巻き込まれ静かに消えていったと聞かされたが、意外にも悲しいという感情は沸いてこなかった。ここはそういう場所であると知っていたし、それにすっかり馴染んでいたからだ。それからもかわいがっていた後輩、よく飲みに連れて行ってくれた上司、何人もの死を見てきたが只の日常のワンシーンでしかなかった。しかし老いるにつれ彼らの死がだんだんと恐ろしく感じるようになった。あなたのせいで私の人生は滅茶苦茶だ……。どうして私を見つけてくれないの……。なんでお前はのうのうと生きているんだ……。そんな悪夢が苛み頭痛が止まなくなった。いや、そんな苦しみを強いるこの生きている世界こそ恐ろしい悪夢なのだ……。


「私は怖い。悪夢のようなこの世界の苦しみを忘れて何もかも投げ出したい。恐怖を抱いて生きていくのにもう疲れたんだ……。忘れられ消えていったあの子に会いたい。事故で何処かへと消えてしまった同期に会いたい。忘れられたものが行く酩酊街にいってまたみなに会いたい……」

語り終えた男はもう何も話す気力がなくなりどっかりと道端に腰を落とした。まるで魂が抜けたかのように。山田はそんな独りよがりな理論で忘却を望む男を冷ややかな目で見ている。

「貴方はただ悪夢だけを忘れて酔いに浸ろうとしているようですが……とんでもない。辿り着く場所は地獄です。貴方がおっしゃった再開などという希望なんざありませんよ」

山田の声は男に聞こえているのだろうか。生気を失った目は虚空を見つめ、体は微動だにしない。

「かの街に貴方のご友人たちはいらっしゃいません。貴方がまだその子たちを大事に覚えているからです。そんな思われている方々は酩酊になど沈みません」

山田は言葉を続ける。経験から詮無いことであるとわかっていても、男を街へと送らないために言葉を紡ぐ。それが山田を山田たらしめた人への恩返しであるからだ。

「悪いことは言いません。早く何かここにあるものを思い出しなさい。廃忘へ進むにはまだ早い――」

男は変わらず動きを見せない。肩に雪が降り積もる。男はこのまま雪へと埋もれて退廃し、あの停滞した街へと向かうのだろう。何度このような人間を見てきたことだろうか。山田は一つ溜息をついて呟く。

「しかし‥‥わかりませんな。なぜ忘れられようと願っているのです?貴方は忘れられる辛さを知っているはずじゃありませんか」

グッという音がした。それは男ののどが鳴る音で、初めて山田の説得に反応した音であった。機を逃すまいと山田は続ける。

「あなたのお話に出てきた方々。忘れられたくないのに忘れられた方々がいっぱいいたじゃないですか。貴方なら忘れられる苦しみ、無念さを知っている。彼らの力になってあげることもできる」
「私に……そんな資格はないよ。ただここで忘れられるのを待つのがお似合いだ」
「貴方は優しい人だ。私にはわかる」

山田の言葉を受け、老人は回らない頭で考えだす。忘却される存在を救う。そんなことが可能なのか?無理に決まっている。今まで何度も果たせなかったし記憶処理の可逆化は困難であるのは経験としてある。けどもし救い出せるのなら……あの子たちも?思考は極めてゆっくりとした速度だったが、山田によって老人の意識に一石が投じられたのは明らかだった。そして意思が揺らぎだし始めた時、身を起こそうとしたのか、肩の雪を落とそうとしたのか、とにかく老人の腕が少し動き、何の偶然か投げだした手は積もった雪の中で何かを見つけた。それは黒い小さな鍵だった。

「おや……それを覚えている方がまだいたとは。おかしなこともあるもんです」

山田は細い目を更に細めて呟いた。博士は生気が戻りだした瞳で鍵を不思議そうに見つめている。この鍵が何か心の奥底に封じ込めていたモノを解き放ってしまう。そんな予感を抱いていた。

「……私はこの鍵に覚えはないが。何かご存じで……?」
「いいえ知りません。知っている方はまだ誰もいないでしょう。似たものを知っている方ならいらっしゃいますが」

「しかし……その鍵を掬い拾うことができたのなら。貴方は本当に忘れ物を取り戻せるかもしれませんね」

博士は先ほど感じていた温もりが消え、寒気を感じ始めていた。まるで酔いから醒めるような、避けられない恐怖に面したような、そんな寒気だった。けれど何かを果たすにあたって背筋を正させるようなキリっとした寒さでもあった。

「それでは。いつか貴方がまたここに来るときは悪夢の続きが聞けると良いですな」

にっかりと微笑んだ山田の声が遠ざかっていく。


「う……」

杉村博士はどこか暗がりの中で目を覚ました。ズキズキする頭に共鳴するように震える携帯端末には小泉助手からの着信があった。

「杉村博士!ご無事でしたか!」
「ああ小泉君。無事だ。……どうやら帰還してしまったようだな」
「よかった……本当に。忘れないでいてくれたんですね……」

小泉助手は最初こそすすり声であったが、意識を切り替え研究者としての職務をこなすべく博士との通話を行う。

「博士、現状報告をお願いします」
「承知した。GPSによるとここはイギリスの……ロンドン。一人きりで周囲は薄暗くてよく見えない」
「ではいったん通話を終了しましょう。周囲が危険ではないか確認する必要がありそうです」
「うむ。またかけなおす」
「……博士、向こうで何かありました?雰囲気が変わったような、なんというか腹をくくった声に聞こえるような」
「……向こうでのことは追って話す。切るよ」
「ええ、失礼しました」

通話をしているうちに暗闇に目が慣れ周囲の把握ができるようになっていた。あまり広くないじめっとした黴臭い空間。そして眼前には背の低い黒い扉。杉並博士は思い出したかのようにポケットの中に手を入れるとあの黒い鍵が見つかった。覚えているはずもないのに、博士はこれが目の前の扉の鍵だと信じていた。震える手を押さえて穴に差し込まれた鍵は……回った。”怪奇部門”と書かれたプレートが飾られた扉は重苦しい音を立てながら開いていく。記録も記憶も残っていない、発見されたとて忘却されゆく部門。そこへ繋がる鍵を博士は救い上げた。扉の先に何があったか、そしてそれはこの世界に何を起こすか。杉村博士はその問いに一切の答えを持てなかったが、誰かが見る新たな悪夢へと立ち向かう覚悟はいつの間にか手にしていた。頭痛はまだ止まない。

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