縛られて
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直ぐに自分の置かれている状況をもう一度確認した。

私の口には猿轡が嵌められている。胴体すら自由に動かせないよう、胸から腹にかけて何か革のような拘束が施されていた。足はきっちりと一本に纏められ、針金か何かで座っている椅子に縛り付けられている。両腕はさらにきつく後ろ手に縛り上げられ、固定されているようだった。

すぐに拘束から脱せねばならない。使命感が私を突き動かした。

只管に、狂ったように暴れてみた。私の両腕を縛る紐も、足を括る針金も、忌々しくも固くその位置に留まったままであった。しかし、諦めずに何度も繰り返して動かしているうちに、わずかながら、腕の拘束に余りが生じてきたようだった。だからと言って、そこから腕を引き抜くには、手首を縛る拘束が邪魔をする。あぁ、ストレスが脳を侵食していくのを感じた。悪いたぐいの緊張と苛つきがじんわりと脳から上半身に広がって行った。無意識のうちに足はビクビクと震え、喉の奥には酸っぱい唾が溢れていた。

私はとにかくこの拘束から抜け出そうと腕を激しく揺さぶった。希望があるとしたらここしかない。少しづつ、少しづつ余りを広げてゆき、指を1本2本は通せるほどの余裕を作った。しかし、どうやらこれ以上、この拘束は緩むことはないようだった。私はとりあえず諦めて、後ろに回され、力が入らないながらに出せる渾身の力を発揮して、緩んだ手首の拘束からなんとか左腕を引き抜こうと試みた。激痛が走る。普通の人間ならばここで諦めるであろう痛みが、手首に、肩に広がった。痛すぎる。とてもこの拘束をほどくことなどできないだろう。

私はためらいなく腕をさらに引いた。骨が、関節が、軟骨が、ぼくり、ぼくりっ、と嫌な音を立てた。豪傑な男が、殴り合いの前に拳骨を鳴らすような音である。あれは関節の間に空気が入って爆裂する音だっただろうか。顔に血が上り赤くなるのが分かる。首筋の動脈のだくだくという脈動が脳に直接伝わってきた。私はさらに腕を引いた。

ぽか、と関節が外れる音がした。くるりとロール状に丸まった手が、針金のいましめから解き放たれる。激痛を感じながらも、それ以上に私の脳には拘束というストレスから解放された多幸感が溢れていた。少しでも自由になれたのだ。

急いで私は背もたれに手を叩きつけた。一か八かではあったが、衝撃でうまく手首の関節は元の位置に戻ってくれたようだった。じんじんと関節、皮膚の痛みを感じながら、私は次なる拘束を解こうと試みた。

もう片方の腕を引き抜いても良かったが、まず私は苦しいばかりの猿轡を剥がそうと試みた。表面を撫ぜると、柔らかく、そして硬い感触が指先に触れた。革だと思っていたがこれは硬質のゴムか何かのようだった。爪を立ててみても、当然ながら外れる気配はない。猿轡は後頭部でバンドか何かで結束されていたが、これもまた鍵がついているようで外せたものではなかった。

私はそれしかないことを思い知ると、少しだけ深呼吸をした。耐えねばならない。耐えねばならない。私は、自分のすべきことをするほかないのである。不思議と力が溢れてきた。この仕事が終わったら酒でも飲めるだろうか。

私は自分の下唇に思い切り噛みつき固定すると、がっちりと目をつぶった。左手で上唇をつまみ、思い切り上へと引く。口の中に血の味が広がった。想像を絶する苦痛であったが、もはや使命感のみが私を突き動かしていた。もはや後には引けないのだ。痛い。痛い。痛い。

左手を反対側に移し、一瞬だけ呼吸を入れてもう一回、反対側の頬を引き裂く。痛覚が諦めてくれたのだろうか、あるいはこれ以上痛みを受容することを脳が拒否しているのだろうか。今度はそこまで痛みを感じることはなかった。びりり、びり、び。ぶちり、ぶち、ぶち、びち、ぶちり。

母の顔が脳裏に浮かんだ。これは後に残る傷だな、と思った。母はこんな顔になった私をみて泣くだろうか。いや、母は14年前に鬼籍に入っているはずだ。痛みで脳がうまく働いていないのかもしれない。余計なことを考えて気を紛らわせている間に、私の口はこれまでより随分と大きくなったようだった。

上を向き、猿轡をスライドさせる。傷口をこする猿轡の感触がともすれば失いそうな私の意識を少しだけ覚醒させた。猿轡をじりじりと滑らせていく。前歯が少し引っかかったので無理やり通した。どうやら前歯は抜けてくれたようだった。猿轡に挟まれた私の鼻は、つぶれたような音を立てて抵抗するのをやめてくれた。そこさえ通してしまうと、あとはそこまで苦しい事はなかった。まぶた、額と滑らせて、私はついに猿轡を外した。

とりあえずはこれで良い。私は、激痛の中に沈んでしまいそうな意識を呼び起こすべく、頬を思い切り叩いた。犬歯が少し虫歯ぎみだったのだろうか。中指が触れ、痛みが走った。私は、口の中に血の味を感じながら、手を前に伸ばし、そして…

空白
空白

思い切り、手づかみでラーメンを啜った。

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