無我霧中、これ即ち追憶
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 私がここに勤め始めたのは██年前からの事だ。長らくこの仕事を務めていられる程に不満な要素は無い。 何しろ、やりたい研究の為には整った環境が必要不可欠だったからという理由である。 更に金銭面の話をすれば正直、戦時下であるにも関わらず、そこそこ実入りが良いという点は魅力的だ。 思えば私にはこの環境に自然な文句を吐き出すきっかけすらなかった。勤続██年の記憶を反芻しながら納得して頷いた。
 いや、ただ一点、そうだな。勤務初日を思い出す。その記憶から、たった一つ見つけた不満を掬い上げた。それは此処にいる誰しもが最初に行う軍服式の様な、通過儀礼の記憶だ。 つまり命の保証を捨てる諸々の同意書に記入しなくてはならなかった初日の記憶だ。
 此処では当たり前の事なので文句として捉えるのは間違いなのだろう。しかし、あの紙切れを理由に幾人かを切り捨て、平静を保つための盾にした経験がある身としては、的外れな文句の一つや二つを言わないとやっていられない。

「どうでしょう博士? 何かご要望があれば遠慮なく」
「いえいえ、今のままで十分ですよ」

 いつもの『職場に対する要望書類』の回収担当が変わっていることに気づいた私は、目の前の紙面に筆先を下すことはしなかった。この紙は人間的な不満を求めていない。私も合理性に欠く意見や要望を上に報告する時期は新人研修の時期で卒業している。思う事が有っても口にはしないのは何処であっても重要な教訓だ。
 暫くして書き終えた用紙を担当員は受け取るのだが、その彼女の襟が曲がっている事に気づき、私は「細かい事で申し訳ないが……」と付け加えながら指摘した。
 すると彼女は襟を整えながら溜息を吐きつつ、最近 受け持った仕事で大変だと言った。そして今日、私の研究室にやって来る為に臨時で回収担当を変わったのは、その仕事について研究室の協力を仰ぐ為であったと彼女は明かした。 そして目的地に着くまで詳細は話せないという。不信感はあるが上からの要請状を見せられては断る選択肢は皆無だ。

 彼女の案内で私と数名の助手は件の仕事場である██████に訪れていた。 ここは現在、蒐集院が各種実験に利用する為に保有している僻地だ。航空機に乗って移動する私は上空からその僻地を眺め、驚いた。 以前は何度か此処で管理していた対象物の耐久実験を行っていた事もあり、上から眺めた時の姿は見慣れていたのだが、端々に散見できた雑木林どころか草の根一つ見当たらない荒地と化していて、見覚えがある等とは口が裂けても言えない程に記憶と食い違う様子だった。何があったのかと次々に浮かぶ疑問を拾い上げているうちに、私の乗る航空機は着陸を済ませていた。降り立った大地から足を伝う感触で海岸の様に水分を多く含んでいる事が分かる。水はけが良いのだろう、水たまり等は発見できない。

「博士、こちらです。 行きましょう」

 担当である彼女の誘導に従い歩く。 霧が出てきた。

「あの、詳細はいつ話してもらえますか?」
「目的地はここではありません」

 先行していた彼女はそう言って立ち止まり、振り向いて

「この先はより霧が深くなるでしょう。 しっかりと付いて来てください」

 彼女の言葉通り、深い霧に覆われ始めたが一切の休みは無く進行していく。湿った白衣の襟はへしゃげ、使い古した革靴の底には土がへばりついて離れない。 かれこれ一時間が経った。 我々が目指している目的地とはまだなのか?

「待ってくれ!」

 私は気付いた事実に堪らなくなり、先行する彼女を呼び止めた。 30分前後程前までは付いて来ていた数名の助手が居ない。今ここに居るのは私と担当員の彼女だけだ。 この濃い霧で満たされた僻地で逸れたのならば危険だ。我々が保有する土地だ。無人島で遭難するよりも悪い結果が待っている。

「彼らなら大丈夫ですよ。 そろそろ到着しますので急ぎましょう」

 彼女は最初から気にも留めていなかった様子で自然体に見えた。

「何故、彼らの安全が分かる? 此処での無線機は限られた人間のみにしか与えられていないし、それに此処は強い磁場の発生した地点が多いと聞く。 どのような手段で安否を確認したんだ?」

 彼女は振り向いて、私を見つめた。 瞬きはしなかった。

「最初からここに居ないのですから、当然です」

 そんな訳は無いと声を荒げて反論したが、思えばこの道中に護衛機の操縦者や助手たちとは会話が無かった。 それどころか、私が乗った航空機の操縦者ですら身分確認の為の最低限必要な会話でさえ交わした記憶が私には一切無い事に気づく。
 今、自身に起きている状況を整理するたびに不可解な気分になった。 私は何かに暴露しているのか? であれば目前の彼女、いや、人型実体は何者だ?

「博士、着きましたよ」

 人型実体の言葉に、はっとした私は抱え込んでいた頭を上げて辺りを見回した。 いつの間にか得体のしれない人型実体の姿は無く、代わりに濃い霧の向こうから影が迫って来るのが分かった。 逃げるべき状況下であるにも関わらず、蛇に睨まれた蛙の如く身体が微動だにしない。 迫って来る影は複数に分かれ、私を取り囲んだ。 命の保証を捨てる意思を明確にさせた、あの同意書が脳裏を過る。
 複数の影は膝をついた私を見下ろしたまま、にじり寄り、幾つかの影は高さの異なる不可解な音を出していた。

「やめてくれ、私をどうするつもりだ!」

 酷く動揺する私の言葉を聞いて影は動きを止め、奇妙な音を出さなくなった。 それどころか私の声を真似て音を出し始め、やがて話しかけてきた。 最初の内は戦々恐々としていたが時間が経つにつれて、私は落ち着きを取り戻した。 落ち着きを取り戻すまで律義に待っていた相手は、私の様子を把握したのか姿形が釈然としないまま語りかけてきた。 聞けば、彼らは私との意思疎通において出来る限りの齟齬を排斥する為に、適度な音程と言語を探っていた様だ。 取り囲んだ理由を理解した私は、彼らが何者なのかを問い質した。 すると私と同じ声色で

「海王星から来た。 目的は試験体の観察」

 と答える。 続いて私は彼らの言う試験体と、先程まで共に道中を歩いていた担当員の彼女についても質問した。

「██████は我々が送った存在。 目的は試験体の観察。 試験体は今、管理されている」
「彼女は謂わば偵察機だったのか。 それで試験体とは恐らく我々が管理している存在だろう? 特徴は?」

 この質問に彼らは答えず、左右にゆらゆらと揺れるだけだった。 答えを急いだ私は明確な返事を再び求める。 その瞬間、影は一切の動きを止めた。 前方に直立する一体が腕の様な影を伸ばして私に触れ、その途端に全身がむず痒くなり始める。 息が苦しくなり蹲る。 顔を覆った掌を見て、皮膚の下を走る血管が異常なまでに浮き上がり続けるのを見た。 全身の骨が軋み、大木がなぎ倒される様な音が身体の中で暴れ回る。 悲鳴に似た嗚咽を出している事に気付いた頃、私の頭部は五つに割れ始め、やがて剥離する。
 駆け巡る激痛の中、私は勤務初日、あの同意書に名前を入れるよりも前の記憶に浸かっていた。 時代に流されながら徐々に失われていった、ずっとずっと昔の私を思い出したのだ。 彼らの言う試験体が私で、そしてその私の意味は彼ら異星人、いや同胞達の為にこの星が我々にとって適した環境なのか、肉体に手を加えれば適応可能かを身をもって判断する為に。 こうして若い私は選ばれた。 此処まで連れてきた彼女と共に。
 私は遥か昔の記憶を想起する。 同胞達から託された可能性を多くの仲間達と共に背負い、広大な星の海に旅立ったあの日。 理想の星々は見つからず、やがて舟が寿命を迎えた時、命を捨てる覚悟で不時着陸したこの大地こそ追い求めた新天地となる可能性を蓄えていた。
 とうとう辿り着いたという喜びが胸元で弾けた。 この星が持つ環境に適応する手術を自らの身体に施し、姿を変え、文化を学び、人という種族として生きた。 この███年という時間は、私の手元から重要な記憶を奪っていたが、今はもう全てを取り戻すことが出来た。
 こうして湿った大地の上で異星人わたしが力なく座り込んでいる様子を、一通り見届けた同胞達は深い霧の中に身を溶け込ませて、消えた。


 私がここに勤め始めたのは███年前の事だ。 それはもう長い事。
 再び溶け込むため姿形を人に変化しているうちに、試行錯誤の結果で白熊やウスバカゲロウ、果ては仏像や裸族にも化けた事があったが今の財団ここでは本来の姿のままでも多少は問題ないのでとても助かっている。

「濃霧院博士、収容プロトコルの最終確認をお願いします」

 その呼びかけに答え、職務に臨む。 やはり皆無ではないが不満な要素はおおよそ無いに等しい。
 何故ならば、私の身をもって実験は続いているのだから。

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