意地との戦い、またはDクラスとの友情
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――彼は緊張した面持ちでそこに立っていた。これほどの緊張は敵対組織との銃撃戦以来だった。

 彼、赤俣歩の人生に敗北はなかった。いや、敗北は許されず、認めなかったという方が正しい。

 彼は優秀な人間であった。文武両道を地で行き、大学で生物学を学ぶ傍ら、幼少期から様々な武術の手ほどきを受けて多くの大会で成績を残した。更に趣味の生物飼育のためだけに建築学や電子工学にも精通している。
 その他、考古学やプログラミング、時に釣りやレジン細工のようなものまで、必要である、興味がある、と感じた全ての知識・技術を、彼は高い水準で習得していた。
 この財団という優秀な人材の宝庫たる組織にいても、彼の多岐にわたる分野の習熟度合はその範囲に限って異常と言える域に達している。

――赤俣博士は激しい型を終え、構えた姿勢のまま動きを止めている。

 この器用貧乏さは偏えに極度の負けず嫌いと、依存を嫌う精神からくる産物と言えた。
 なんでも自分でやらねば気が済まず、他人に任すにしても詳しくない範囲を丸投げすることを良しとしない。なによりやる以上は極めるつもりで挑む。
 別に人間不信や一匹狼気質ではない。むしろその逆。自身に知識がなければ他人を頼る時に無茶な頼みをしてしまう、という配慮に近い。
 しかし、当然ながら一つの知識、技術に特化した者――その者の才能が突出していれば特に――彼はその分野で敗北する。
 彼は多くの分野で一番とは言えない。
 優秀であるため、最も得意とする生物学では財団に必要とされるほどに精通した。だが、他の分野は高い水準ながら一番ではない。
 いつしか彼は「ある人物に一つの分野で負けても、他の分野で勝つ」という信条に行きついた。

――今一度、ゆっくり中段に構え直す。その構えは見る者が見れば、テコンドーの影響があるとすぐにわかる。

 この信条をいつ持ったのか、自分でも覚えていない。
 だが、彼の信条は究極の器用貧乏ともいえる多分野への精通といつしか表裏一体になっていた。貪欲に必要となった知識を貪り、息詰まると別の技術獲得に向けて訓練を続ける。
 休んでいては負けてしまう、頼らなくてはいけない。一つの知識が別の知識獲得時にそれを助け、一つの技術が他の分野での思考を補助する。
 彼が相当な範囲の知識・技術の塊と化すことは、この性格と才能上、必然だった。
 いつしかそれは財団で博士と部隊長を兼任するほどのものとなる。多分野への精通は、研究者と部隊員、双方の目線を持つ稀有な人材へと昇華するに至る。

――額ににじむ汗の滴が顎へと流れ、そのままポタリと防音室の畳へと落ちた。
 

 しかし、彼は負けず嫌いである。生物学以外の、自分の得意分野の一つが財団職員のように極めた人材に負けることはまだ許せる。
 だが、それがどこの馬の骨とも知れない人物に負けることは信条を別にして許されない。誰に許されないというわけではない。自分自身の"意地"が許さない。

 彼の人生に敗北は認められない。それが元死刑囚のように、使い捨ての人材であればなおさらに! 己の人生に賭けて!

 汗がしたたり落ちたのと同時、彼の放つ上段回し蹴りが凄まじい速度で空気を鳴らす。爪先立ちのまま180度近くまで開脚した姿勢でぴたりと静止。それから上体を振る勢いと足の指先に込めた力を利用して高く飛び、空中で数度軸足切り替えながら三度の蹴りを放ち着地する。

 優れたバランス感覚としなやかな筋肉、なにより極度の柔軟性がなければこの動きはできない。

 柔軟性。彼は自在に関節を外す訓練までも行っていた。それは武術で重視される柔軟性向上から高じたものだ。一般的に回し蹴りや踏み込みの威力は股関節の柔軟性に依存するためである。

――行くか。と、彼は誰に聞こえるわけでもなく呟く。

 彼は部屋に備え付けられた監視カメラを見つめると、手を挙げて実験開始の準備が整ったことを知らせる。型を打ったのは、彼なりの準備運動だった。
 彼が何故闘志を燃やしているのか、事の発端は数週間前に遡る。あるオブジェクトとDクラス職員が関係していた。


 元々はエージェント・猫宮に対して、猫用流動食の作り方をレクチャーをしていた時の世間話だった。

「え、これで1日分ですか?」

「そう、かなり少ない量で足ります。ですから、1チューブで3か月ほど持つはずです。あとはまあ、嗜好性の高い餌と混ぜるとか、口にねじ込むとか。最悪シリンジで胃に流し込むわけですね」

「ホント少ないですね。お腹空いちゃいそう」

「お腹が空くということは食欲があるので、そうなれば流動食は不要ですよ」

「あ、そっか、なるほど」

 うなづいて、エージェント・猫宮はそれを手元の手帳に記していく。
 これくらいメモ書きしなくともいいだろうにマメなことだと、内心思いながら笑顔でそれを見届け、間を持たせるために適当な話題を見繕う。だが、すぐに見つかりはしなかった。

「他に何か聞きたいことは?」

「んー……いえ大丈夫です。でもホント、少尉ってなんでも知ってますね。本来猫は専門外でしょう?」

 "少尉"は彼のあだ名のようなものだ。博士と部隊長兼任の関係で、フィールドエージェントの中には少尉と呼ぶ者がいる。彼女のように部隊に所属していない者も、仕事仲間が少尉と呼ぶため一部に定着していたのだった。

「動物に関連していればある程度は。まあ、逆に噂などには疎いわけでして」

「へー、あ、じゃあ聞きましたか? 最近、珍しいことにEクラスに昇格したDクラス職員さんがいるそうですよ。なんでもその人でないと難しいオブジェクトがあったとか」

 エージェント・猫宮はしばらく悩んでからオブジェクトに振り分けられた管理番号を思い出す。
 赤俣博士は始めその内容を信じなかった。

 そのオブジェクトの内容は知っていた。動物に影響があるか調べるという名目で、彼の研究室で繁殖している実験用のマウスを数匹貸し出したからだ。
 その時、彼はそのオブジェクトを最終段階に持ち込むのは不可能だと断定した。とはいえ専門家としての意見ではない。単純に身体を扱う武術家の経験から不可能と予想したのだ。
 しかし、彼の予想に反して、少なくとも半分も進めた人物がいるというのである。それも烏合の衆ともいえる元Dクラス職員でありながら。

 自分自身の中で闘志に火が付く感覚がある。Dクラス職員を人間的に下に見ているわけではない。だがしかし、"それ"は自分の得意分野の一つだ。死刑囚という身分の、おそらくトップクラスまで到達していない人間が、自身の予想を裏切るほどの活躍を果たした。
 その事実は、彼の傷つきやすく飛び抜けた才能の理由でもある、小さく偉大なプライドにヒビを入れる。

 数十分後、研究室を後にするエージェント・猫宮を笑顔で送り出す頃にも、その闘志が消火されることはなかった。いや、むしろ巨大に膨れ上がっている。
 彼がそのオブジェクトに挑む理由は、ただそれだけでよかった。
 
 その日から彼の特訓が幕を開ける。


 静かな訓練室で部隊員と組手をしながら、彼の脳裏には師範代に教わった時のことが渦巻いていた。
 古式武術における、裏 ――一般的なイメージで言えば奥義に相当する秘術。多くはフェイントや実行難度の高さから成功により驚かせ隙を突くなど、他流派に知られてはならない理由がある技術だ。その中には理論上可能だが、実現は神業の域に達するほどの難易度を誇るものもある。
 純粋な強さを求めたものが表なら、勝利に拘った技術が裏であった。

 彼がそれを初めて師範代に伝授された時、向かい合って日本刀を手渡された。
 ついに神秘の一端に触れると知った彼は、喜ぶと同時に真剣を持たされたことに疑問を抱いた。

 古流柔術の師範代から何故真剣を渡されるのか? と、逡巡するがその考えは瞬時に殴り捨てた。師範代はただ自分に向けて刀を振れと言っている。ならば、悩んだところで答えは同じ、ただ振り抜くのみだ。
 しかし、殺すつもりで振るった刀は老人の直前でぴたりと止まる。

 彼が手を止めたわけではない。目の前の小さな老人が刀を握りこんで止め、奪い取ったのだ。そして奪われた刀がいつの間にか自身の腰に差した鞘へと収まっている。時代劇でみる手で挟みとるようなものではないが、真剣白刃取りだった。
 小柄な老人である師範代が得体のしれないものに見えた初めての瞬間だった。

 それもそのはずだ。彼は師範代に向けて上段に構えた真剣を、全力で袈裟に振り抜いたのだ。本当に殺すつもりで、素手で握りこめば指ごと斬り落とせる速度で、である。
 しかし、現実に起こったことは、刀を握った手のひらに血が滲むことすらなく、それを受け止め、簡単に刀を奪いとり、しかも鞘にまで戻してしまう老人の姿だった。
 どういった理屈で指が落ちないのか? どうして当時既に居合有段者であった彼から簡単に刀を奪いとれるのか? 何故他人の鞘に戻すなどという精密動作が可能なのか? 全てが理解できなかった。

「お前には、最終的にこれができるようになってもらう。裏を全て学べばできる。まずは関節外しからだ」

 その言葉にハッとしてから、今の行動が武術という確立された技術であると気が付く。思考が追いつくまではまるで魔法でも見たかのような気でいた。
 古武術には、身体を指先一つ、心臓一拍まで完全にコントロールする状態を目指す流派が多い。完全に身体をコントロール下に置いて、戦闘技術が完成するという考えからくるものだ。
 故に関節を外すなど、格闘技ではあまり使い道のないものも必要となる。関節外しは一歩目でありながらそのことを体現していた。

 後に知るが、真剣白刃取りは裏の中でも高難易度に部類される技だった。あれから幾年と経ち、刀を奪うことはできるようになったが、未だ相手の鞘に戻すことはできない。
 しかし、あの時の「これができれば人の領域を超えられるのではないか?」そんな感覚は今でも覚えていた。
 老人を本気で尊敬したのはその日からだった。

 部隊員の攻撃が激しくなり、思考が現在に戻ってくる。
 組手相手を頼んだ部隊員はすでに疲労が見え隠れしている。既に頃合いだった。
 部隊員の右ストレートを紙一重で躱し、襟元を掴んで引き寄せる。重心を動かされた部隊員がよろめくその一瞬に、軸足を軽く蹴り刈って転ばせた。追撃の手が自然と動くが、驚く部隊員の"眼"の前、数㎝のところで貫き手を止める。

 だが、部隊員の眼から闘志が消えていない。貫き手を下げると同時、彼は勢いよく立ちあがった。が、それを見越して肘を引き、立ち上がる勢いのままもう一度転がす。
 その後も2度、3度と転がされ、急所の手前で寸止めされれば、これ以上は無意味であると、部隊員も悟ったようだった。

 しばらく息を荒げていた部隊員は、息が整うのを待ってから呟く。

「ホント、強いですね」

「そうでもありません。私以上の化け物はもっといますよ」

「俺、これでもCQCの成績はよかったんですよ。それをあんな簡単にあしらわれたら自信なくしますって」

 事実、彼の格闘センスは目を見張るものがあった。赤俣博士が余裕を持って対処できているのは、単純に経験量の差だ。火器やナイフなどの武器があれば状況は一変していただろう。
 そもそも、赤俣博士は古武術を主体としながら複数の格闘技を習得しており、優秀なグラップラーだけに留まらない、打・投・極全てを得意とするトータルファイターだ。軍隊格闘技を学んだだけの部隊員には少々荷が重い。

「あなたは試合が長引くと右のガードがほんの少し下がる傾向がありますね?」

「はい、自覚してます」

「ええ、自覚しているでしょう。だからそれに気が付くとすぐに上げる。この時に隙ができるので、注意した方がいいかと思いますよ」

 その指摘が予想外だったのか、ハッと顔を上げる部隊員。彼にはまだまだ伸び白があるのだと気づかせ、それから本題を切り出す。
 それは優秀な格闘センスを持つ部隊員にしか頼めない、特訓への協力要請だった。


 翌日、赤俣博士は木場購買長の元を訪れていた。
 木場購買長は単に購買部署をまとめる人間ではない、財団内部で機械の解体・整備・改造・製作に最も長けた人間の一人だ。彼にしか頼めないものがある。
 赤俣博士は購買長の顔を見るなりUSBメモリーをちらつかせてパソコンのある機械工作室へと促した。中に入っていたデータはCAD図面のようである。
 赤俣博士がCADを使えるとは驚きだが、たしか電子工学や機械工学も少しかじっていたはずだ。

「これを作ってほしいってことか?」

「そうです。できる限り精密にこれに従って欲しいのです。1㎜の誤差も許されません」

「……できるだろうが、これはなんなんだ? トレニーニングマシーン?」

「ええ、その通り。特殊な用途のトレーニングマシーンです」

「特殊な用途、ねえ……」

 木場購買長は何事かを呟きながらCAD図面をいじりまわす。だが、彼の知る限りこのような運動補助器具は存在しない。というよりも存在できない欠陥品に見える。

「お前さんは古武術屋だから釈迦に説法だろうけどよ。こいつはどう見ても……」

 この通りに作れば関節を痛めてしまうだろう。そう続けようとした彼を遮り、赤俣博士は言葉を続ける。

「そこを含めてこの通りに作る必要があるのですよ。頼めますか?」

「なるほど、そりゃあ俺じゃねえと作れねえ代物ってわけか」

 その後、二、三質問を繰り出す。赤俣博士は正確にそれらに答えていき、アマチュアにしては良い出来、程度だったCAD図面を細かに修正する。が、ほぼ原案からかけ離れるほどの代物にはならない。
 "用途"に従うならばこれは十分に考えられた図面だった。武術を行使する上で必要なトレーニングは赤俣博士が得意とするところである。これはその動きを補助し正確な挙動を身体に叩き込むための器具である。もちろん、通常の人間であればこの動きに耐えることはできないため、このような既存品は存在しない。
 まさしく、あのオブジェクトに対抗すべく作られた特製品なのだ。このオブジェクトに対して"専門家"ではない赤俣博士は、これを持って特訓することで盤石の姿勢を築こうと考えていた。

「分かった。作ろう。……改造は、あまりできそうにねえな」

「用途が用途ですから、抑えていただけるとありがたいですね」

 改造マニアの木場購買長だったが、これは用途が特殊かつピンポイントすぎて"これ以上"ができそうになかった。それでも幾つか便利な機能を取り付ける事は忘れない。

「いつできますか?」

「明日。といいたいが、鋼材がないな。今から発注しても2週間はかかるぞ」

「なるほど、では明日までにお願いします」

 そう告げる彼の背後から、いくつかの鋼材が搬入されてくる。多少の改良を見越していたのか、材料は十分に多い。発注しなければならないことなど、指揮官たる彼はすでに見通していたわけである。

「……ははっ、上等じゃねえか。明日の今頃にこい。報酬はいらねえ」

「ええ、期待していますよ」

 濃緑の作業着の男、木場購買長は自信満々にそう告げた。


 サイト管理者、エージェント・カナヘビは小さくため息を漏らした。
 手元にあるのは実験申請とその内容を記した書類だ。申請者である赤俣博士は本来そのオブジェクトの担当ではないはずだが、念入りなことに担当研究員に承諾を得ている旨が記されている。
 内容は自分自身を実験体にした実験の申請。つまり、危険なオブジェクトに貴重な人材を晒すと書かれている。

 赤俣博士は優秀だ。単純に博士として見れば彼以上に優秀な人材は数多い。彼の専門は生物学だが、それだけなら探せば他に適した学者がいるであろう。だが、彼は同時に非常時にはエージェントとして扱われ、機動部隊の指揮官に任命されるほどの実力がある。

 通常、財団の作戦立案は担当研究者と機動部隊指揮官はもちろんのこと、その他様々な専門家が知恵を出し合って対策を練る。死者で済めばいい方、最悪世界の破滅につながるオブジェクト。そんな物品を扱う財団にとっての作戦立案はどうしても時間がかかるのだ。
 しかし非常時に毎回完璧な作戦会議が行えるとは限らない。突発的に起こる問題に対して、何らかの理由で専門家が欠けた状態、部隊指揮官が欠けた状態での作戦会議となることも多々ある。例えば担当研究者が収容違反の時に死亡した事例などである。そしてそれは思わぬ事故に繋がるリスクを背負う。

 彼の存在はそれを回避し、研究と部隊指揮の専門家の意見摺合せを単独かつ瞬時に終える点で優秀だった。入念な会議が行えない状況では、特に最適なパフォーマンスを発揮する。その代役はいないわけではないが、探すことは困難だろう。
 故に彼は緊急時専用の特殊な機動部隊を指揮する役目を担っているのだ。

(あとはこの負けず嫌いな性格が治りゃ、ええポストまで行けんねやけど)

 そんな未来はないだろうとも同時に考えてため息を吐きながら、しかし、状況を冷静に考察する。

 現状このオブジェクトは最終段階に至った場合に何が起こるか不明である。何もないかもしれないし、何かが起こるかもしれない、それを知る必要がある。
 現在、最終段階到達に有効と判断されている人材はとあるEクラス職員ただ一名。それも専門家ではなく元Dクラス職員。しかも、そのEクラスは有効と判断された実験で負傷しており、現状あと一か月は進展しないだろう。
 だが、たった一か月、優秀な職員を失う可能性と引き換えにしては少々短い期間だ。しかし、このオブジェクトはとりあえず現在まで死亡した事例がない。
 そう考えれば、優秀な職員が一か月前後の休職を取るとも言える。そのEクラス職員も次で必ず成功するわけではない。参加条件の厳しい実験体が増えることはいいことだ。

(そういや赤俣博士も有給溜まっとったな。ま、ええ機会やろ。使わせましょ)

 エージェント・カナヘビが手元のボタンを操作すると、部屋に備え付けられたアームが動いて実験申請書に承認印を押した。このような経緯で、彼は実験参加は認められた。


 そして、実験当日。報告書にも目を通し、十分な訓練を経て彼の準備はこの上なく万全である。
 彼は防音室の中で動きやすい服装をして、件のオブジェクトを収めた機械に向き合っていた。
 すでに実験開始の合図は送っている。だが、彼は激戦が始まる前の緊張感とその余韻を楽しんでいるようにさえ見えた。

 大道芸における関節外しは、通常、後天的要素と先天的要素が絡む。
 元々関節を外しやすい体質の者が、柔軟トレーニングを実施し、多くの場合、事故や怪我などで外れコツをつかんで、外れやすい癖がつくことでそれを身に付ける。
 対して、古武術の関節外しには体質は関係しない。純粋な訓練のみで関節を外す。
 関節を靭帯にダメージを与えることがないように慎重に、意図的に、脱臼させ、戻すことを繰り返す訓練だ。一歩間違えれば大怪我。靭帯損傷により一生残る後遺症だけが与えられる。

 それゆえに、彼は木場購買長に頼んだトレーニング器具と、部隊員に補助を得て、入念な準備を施したのである。

 軽く肩を慣らし、次に肘や手首など様々な関節を外し、戻す。

 関節外しは彼が一番初めに習った古武術の神髄である。滑らかに行うその動作が、彼の技術が洗練されたものであると物語っていた。それには今まで行っていた特訓の成果も十分に含む。
 故に、体のコントロールにおいて、負けることなど許されない。

 精神を統一し、前を見つめるその眼は凛々しい。
 最後に彼は頬を両手で2度張ると、機械のスイッチを押す。
 その機械――CDラジカセからSCP-630-JPの軽快な音楽が流れだした。

「腕を大きく挙げて、のびの運動ー!」

 CDラジカセが吐き出すの音声に従い、まずはただ腕を伸ばした。
 しかし、その顔は真剣そのものだ。

「腕をねじりそらせて斜め下に回す運動ー!」

 次の瞬間に彼の身体から自由が奪われる。緊張の汗が噴き出した。
 腕が自然とねじれていく、だが、体の自由が完全に奪われているわけではないと、すぐに気がついた。
 そのはずだ。多少の余地がなくては例のEクラス職員も全く手足が出なかったはずである。
 彼は半ば反射的に両肘の関節を外して事なきを得る。

 こうして彼の"意地"との戦いが幕を開けた。

 赤俣博士が医務室に送られる数分前の出来事である。


「くっそたれ!」

 彼は痛めた右膝をギプスで固定し、ベッドで横たえられていた。
 
 彼はラジオ体操第二の二番目「片あしを大きく横にそらす運動」に敗れた。
 右足の膝関節を外すことで大きく外側にそらすことは成功したが、左足へ切り替えが思った以上に早く、関節が外れたまま片足立ちを強いられ転倒したのだ。
 悔しさから歯噛みしつつも、彼はまだ動ける身体ではない。比較的軽傷であったのは幸いだが、例のEクラス職員は第二の四番目に進んでいたことが、彼のプライドを刺激する。

「ちょっと、静かにしてくれよ!」

 枕に怒りをぶつける彼に声を掛けたのは、隣のベッドの患者だった。その顔に見覚えがある。彼は仕事柄関わる人間が多いため、その中の誰かかと逡巡し直後に思い至った。
 付属資料で閲覧した元D-630-JP-12。ラジオ体操第一を初めて突破したEクラス職員の顔写真だ。

「ああ、大変申し訳な……お前! ラジオ体操の!」

「なに!? お前あのラジオ体操を知ってるのか!?」

「知ってるも何も、あれを攻略するのは俺だ!」

「なんだと!? お前どこまでいった?」

「第二の二だ、膝が外れたまま立たされてな」

「第二に行ったのか! すげえな! だが俺は四番目までいってるぜ」

「てめえ…… だが、怪我治ったら次こそクリアする。次は――」

 その日、赤俣博士に新たな友人ができる。その心の奥底に対抗心をひた隠しにしながら。

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