境界線に点る火
評価: +5+x

石造りの古い建物に傾いた夕日が影を落とし、旧イスラエルはアルメニア人地区の裏路地に夜の気配を漂わせていた。アンリ・ド・モンフォール(Henry De Montfort)には、この町が刻み込んできた年月がのしかかる鉛の塊のように思え、この町が見てきた様々な出来事は、既にしぼみかけていた気力をぺしゃんこに潰しにかかっていた。古い市場の角にある人の気配の無い建物にたどり着いた時、彼は回れ右して帰ってしまいたい気持ちでいっぱいだった。モンフォールは声に出さず呪った。こんな場所を指定したのはあのバカ老人どもだ。このような人の多い町の記憶がモンフォールにどれだけ不快な思いをさせるか、分かっていてやったに違いないと彼は確信していた。とはいえ、今日は古びたレンガに寄りかかってすくんで見せて老人を喜ばせに来たのではない。今は為すべきことがあるのだ。

建物の正面にある重い鉄製のドアをモンフォールの拳が叩くと、覗き窓から疑い深げな目が2つこちらを睨み付けてきた。

「どこから来た?」

「カルカソンヌの、強く厚い壁の中から。」

扉の内側から引きずる音がして、折れた鼻とがっしりした体格にシトー会の修道服を着た男が開いた扉から姿を現した。

「遅いぞ。」

「そう急かさないでくれ、兄弟アルベリック(Alberic)。」

「言い訳は老人たちに言ってくれ。彼らがどう受け取るかも分かっているんだろうがな。」

確かに、よく分かっている。兄弟アルベリックの案内で廊下を進んでいくと、部屋の中から何やら白熱した議論が聞こえてきた。

「……彼奴らはあの蜂蜜で大失態を演じておいて、まだ我らの援助を期待していると?莫迦が!」

「しかし、マナによる慈善財団はこれまでに有用な面も見せてきました。少し冷静になって……」

「有用?蜂蜜で何千もの命を奪ったことがか!?いや何千どころではない!彼奴らとの関わりが露見することを考えれば、東アフリカでの我らの取り組みを無かったことにしてしまったほうがマシじゃ。そうじゃ、今からでもいい、彼奴らとのコネクションは断ってしまうべきじゃ!」

「アドナン(Adnan)殿は?」

「すまんねベルナルト(Bernard)、ここはサムエル(Samuel)につかせてもらうよ。彼らに協力することに対し、イニシアチブはもう責任を持てない。件の蜂蜜は、重荷の上のわら一本だったということさ。」

モンフォールはわざと大きく咳払いした。

「まあ、議論はまたの機会にしよう。」
部屋の中から返事が聞こえた。
「入りなさい、アンリ。何か我々と話さねばならないことがあると聞いたが。」

「そうでなくては困るぞ。」
別の声が不平を漏らした。
「我らと直接話し合いたい、などと申し出るのだからな。我らは多忙なのでな、モンフォール、つまらん話ならばただでは済まんぞ?」

モンフォールは薄暗い室内に踏み込んだ。部屋の大半は木製の演壇で占められており、その上には革製の大きな椅子が3脚据えられていた。椅子の主は薄闇に覆われていたが、それぞれがどんな人間であるのかよく知っているモンフォールに対しては無意味な目くらましでしかなかった。別にそれを指摘するつもりはない。スパイごっこがしたいなら勝手に遊んでいればいい。

「ご安心ください皆様、これは重要な案件でございます。モンセギュールの忠義者(the Montsegur Loyalists1)が壊滅したことをお知らせに参りました。この情報が正しければ、彼らの最後のメンバーが死んだこと、そして我々イニシアチブはベリバステの日誌に関する責務から解放されたことになります。」

「大変よい働きですね、モンフォール。」
中央の椅子の老人が語りかける。
「カタリ派は悪しき異端の教えを広める悩みの種であり、彼らはあの日誌を最も重要な道具として使っていました。彼の処置をどのようにして行ったのか、伺ってもよろしいですか?」

「少々口に出しにくい次第ではありますが。ある遺物(relic)を用いて対象を見つけ出し、他の遺物で処置を行いました。」

この言葉はかなりの騒ぎを引き起こした。当のモンフォールはというと、老人3人が発する声の音量に驚いていた。

左の椅子の老人がモンフォールに向き直り、怒りをあらわにして叫んだ。
「遺物を殺人の道具に使っただって!?遺物は神聖なものなのだぞ、誰でも知っていることだろうモンフォール!」

「他に手はございませんでした。カタリ派最後の生き残りの所在について、何者かが財団に知らせたのです。対象が何を知っているかに関わらず、財団の手に彼を渡すことは避けねばなりませんでした。しなければならなかったのです。」

部屋の中が一瞬静まり、中央の椅子の老人が口を開いた。
「その何者かは、どうやって彼を見つけたというのです?考えられる手段といえば……ああ、そんな……。」

「内通者。境界線イニシアチブ構成員のいずれかが、財団に知らせたのかと。」

「ふん、その裏切り者がイニシアチブのどの派閥におるのかは、大体見当がつきそうじゃがの。」
右の椅子の老人がちらりと目をやる。
「ところで例の日誌は、お前さんの保管所から盗まれたんじゃったよな?」

中央の椅子の老人の返答には、怒りが込められているのが感じられた。
「言いたいことがあるならはっきりおっしゃったらどうです?盗難当時イニシアチブはまだ存在すらしていませんでしたし、それ以降ヨーロッパがどんな状況だったかくらいは分かっているはずでしょうに。私たちの教会には、遥か昔の異端者なんぞよりも優先すべきことが山ほどございましてね!」

「ああ、もちろん分かっとるとも。」
右の椅子の老人は答えたが、声にはなにやら不穏な雰囲気が混じっていた。
「あの戦争で、まったくてんてこまいじゃったのう。」

左の椅子の老人がため息をついた。
「二人とも、そういう言い合いは後でやればいいだろう。まずはモンフォールの報告を終わらせてやらんと。」

「先ほど申し上げた通り、財団によるカタリ派の生き残りの確保を妨害するために遺物を使用し、その結果対象は死亡しました。調査した限りでは、財団は我々の介入に気づいていません。」

「よろしい、それではこの話はこれでお終いに。他になければ、会合はこれにて終了ということに――」

「いいえ。」
モンフォールが遮った。
「お話したいことはもう一つございます。鉄槌計画についてです。我々イニシアチブは古い敵やさらに古い秘密との戦いに長い長い時を費やしてきました。そしてより恐るべき新たな脅威が多数現れてきました。今回のカタリ派の生き残りは、行動せずにいることがどれだけ危険であるかの教訓となりました。今こそ武器を手に立ち上がるべき時です。」

老人たちは驚きのあまり言葉を失った。
「不可能です!」
口を切ったのは中央の椅子だ。
「第五教会や壊れた神の教会との直接戦争を始めると!?狂気の沙汰です!」

左の椅子もそれに同意したようだ。
「我々はまだ数も少なく、それに未熟だ。対してそれらの集団は強大な遺物を多数所持し、知識も蓄えている。イニシアチブは未だ幼子であり、支持基盤もごく限られたものでしかない。むやみに駆け出すより先に、這い進む術を覚えるべき時期だろう。」

モンフォールは驚いていた。彼の口から出た言葉に、知らず知らずに憤りが混じっていたことに。
「這い這いを?我々は人の導き手であり、羊飼いであり、聖なる光の担い手でしょう。その我々に、異教徒や偶像崇拝者の足元にひれ伏せと仰るので!?イニシアチブが十分な力を蓄えるのはいつのことです?十字架が第五教会の儀式の薪にくべられた時?燭台が鋳つぶされて歯車にされた時?カアバ2が異教徒に打ち砕かれた時!?このような魂を脅かすモノに対し、俗界の者たちに頼ってばかりいるのはもう止めましょう。彼らは理解しないし、できません。彼らは正常を守ろうと、人間の肉体を守ろうと戦うのみです。我々は人間が持つ永遠の魂のため、ただそれだけのために戦うはずでしょう。」

室内がしんと静まり返った。

そして、右の椅子が口を開いた。
「認めたくはないが、お前さんの言う通りじゃな。シャマイの息子たち(the Sons of Shamai)がお前さんの助けになろう。邪悪の前に屈したなどと言われるでないぞ。」

左の椅子がそれに続いた。
「なら、アチバ・アル=キタブ(Atibba al-Kitab)もあんたのサポートにつくかね。わしらは弱みにばかり目を向けて、目を曇らせて決意を鈍らせていたようだ。分が悪かろうとも、戦わねばならない時だってある。それが我々の権利であり、義務なのだからな。」

最後に中央の椅子が答えた。
「もはや逆らっても仕方がありませんね。神秘の光教会(The Ordinis Occulti Luminis)もあなたと共にありましょう。鉄槌計画の第一段階を開始しなさい。さらなる承認が必要ならばそのつど報告を。では、行きなさい。」

すっかり暗くなった通りをホテルに向かって歩きながら、モンフォールは笑みが浮かんでくるのを感じていた。カタリ派の生き残りについて財団に知らせたことは間違っていなかった。ぬるま湯に浸かった老人どもは冷や水を浴び、世界は神の怒りがどんなものかを知ることとなるだろう。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。