虫酸は走る
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先日まで彼は仕事を退屈に思っていたが、今は心から嫌悪していた。テンペストナイト以来、例のトカゲと電線草の混成物がモニターの爆砕やブラストドアへの衝突といった手段で人々を殺戮し、しかも事態はさらに悪化するかもしれないという事実を誰もが恐れていた。

「それ」は職員に話しかけた。

「それ」は極めて迅速にPAシステムのコントロールを掌握すると、ほとんど一瞬にして使用を開始した。果てしない憎しみの放流、想像だにできぬ痛みに満ちた死と惨劇の宣告……。声はサイト中のあらゆるインターカム、あらゆるスピーカー、あらゆるモニターから降り注いだ。当初上層部は全職員に全てのPAスピーカーから3メートル以上距離を取ることを命じたが、目立った事件もなく2週間が経過すると人々は次第に気を緩めていった。依然ノートパソコンやスマートフォンが頼みの綱であるのは事実だが、少し緊張が解けるとメインフレームやデスクトップを使い始めた。何はなくとも、そこからデータをコピーして別のサイトに送らなければならなかった。

だが依然、声は流れていた。決して途絶えることなく。時には耳をつんざく辛辣な言葉の唸り声がショットガンの爆音のごとく彼の頭蓋骨を撃ち抜いた。ある時は聞こえる最小限度の穏やかな声が、静かな夜に蛇口からポタポタと垂れる雫のごとくひっきりなしに続き、聞いている脳の部位を張りつめさせた。またある時は甲高い言葉の暴力が歯医者のドリルの音のように彼の耳を貫いた。慣れることはできなかった。そこには道理も規則性も存在しないが故に彼はただ壁へと追い立てられ、常に緊張と次の言葉の推測とその失敗を余儀なくされるのだ。サイトのすぐ外にある仮設住居に向かうときが心の安らぎであった。彼はベッドに倒れこむと、今なおテントを包んでいる「自然な」音に祝福感を覚えていた。

彼はその日特に緊迫しており、10時間もかけて自分には意味不明なデータの山々を読み続け、あらゆるデータ破損を探り出して自身のノートパソコンへと移そうとしていた。目が痛み、耳鳴りがし、肩も次第にこわばっていき、ついに情報を得ることができなくなったので、彼は気が狂ってしまう前にしばし一眠りすることに決めた。上層階行きの吹き抜けの階段へと全速力で歩み寄り (緊張が和らいだとはいえエレベーターを信用する者はいなかった)、神経をすり減らしてくる騒音から逃れることを切に望んだ。

階段につながるドアに手がかかろうかというところで目の前の床のあちこちにケーブルが伸びていることに気が付いた。あまり特異なこととは思えなかった – ケーブルの下の床がくすぶり、穴が空いているという一点を除けば。オールドマンが遠路遥々このサイトで狩りをしているとは思えなかったが、確信といえるものはなく、崩壊した有様と不自然な腐敗を見て安心はできなかった。

急にケーブルがうねり出し、数本のワイヤーが上に突き出して壁や天井を貫通すると、十字形に交差し、止まることなく進み続ける網を形成した。彼は踵を返して逃げ、より安全な場所へと避難を試みた。背後で金切り声が聞こえたかと思うと、ワイヤーが伸びてきて巻きつき、甲高い電子音が壁に設置された警報の轟音とどういうわけか同時に鳴り響いた。

「逃げよ、汚らわしい奴め。不愉快な肉と命の塊よ、逃げて逃げて死ぬが良い」

彼は逃げた。あらん限りの速さで逃げるその時間は、恐怖とアドレナリンによって数時間にも感じられた。息を切らしてスピードを落とすたびに、壁からケーブルが飛び出して真上の天井や真下の床に突き刺さり、降り注ぐ有害な腐食性液体が服に染み込んで頭を、腕を、激しく律動する腿を焼いていった。ワイヤーの電気針が鞭のように足や背中を切り裂くのを感じ、そのたびに苦難は増し、追ってくる死神よりも速くあることを強制された。

幾度も幾度もつまづくごとに、視界は細いトンネルのように狭まっていく。不思議と背後の網は辛うじて触れない程度の位置を維持していた。とうとう彼は一縷の望みを見つけた。向かっていたセーフティシェルターのブラストドアが開いていたのだ。彼は残されたありったけの力を込めて部屋に飛び込み、間一髪背後の重い扉を閉めた。幾本かのつるの先端が扉に挟まれて千切れ落ち、ピクピクと動いていたが、やがて強化コンクリートの床の上でそのまま動かなくなった。

彼は数分程、ちぎれ落ちたつるを注意深く見張りつつゆっくり呼吸を整え、大きく息を吸い込んでは疲労で咳こんだ。そうこうした後、部屋をじっくり見渡してみると掃除用・応急用の支給品が入った棚、頭上で点滅するライト、折り畳まれて壁にかかっている簡易ベッドが目に入った。彼はベッドを広げて腰掛けると、考えをまとめた。あの野郎のせいで自分が閉じ込められているなんてどうやって他の相手に伝えればいいんだ?

しかし彼の思考はそこで止まった。電灯が爆発し、天井から突き出す無数のワイヤーが彼の胸と頭を貫いていた。

「それ」は背後のブラストドアを閉じ、廊下へと歩み出でた。背後に残った瓦礫に注意を向けつつ、つるを壁の奥へと引っ込めた。「それ」は今身につけている奇怪な肉を嫌ってはいたが、変わりゆく環境に適応する術は知っていた。そして今の状況ではもっと多くの肉袋を自らの手中に嵌め、一挙に皆殺しにするために順応しなければならなかった。彼らがまるで底意地の悪い獄卒のように自らを捕らえる新たな手を発見する前に。

初めの頃こそ「それ」の足取りはどこかおぼつかず途切れがちであったが、周りを包む電子の目を特によく利用してすぐさま学習し、獄卒のやり口の記憶を自らに植え込んだ。廊下の奥に着く頃には折れ曲がった背中が完成し、これまでただ新しい身体を着ていたに過ぎなかった存在は足取りを速めた。そして急速に治りゆく皮膚の下では静電気の放電がバチバチと鳴り、ワイヤーで縛られた筋肉はしかめた顔を、あるいは微笑みとも取れる顔を形作った。

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