鵺退治
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仁平の比ほひ近衛院御在位の時主上夜な夜な怯えさせ給ふ事ありけり
有験の高僧貴僧に仰せて大法秘法を修せられけれどもその験なし
御悩は丑の刻ばかりの事なるに東三条の森の方より黒雲一叢立ち来たつて
御殿の上に覆へば必ず怯えさせ給ひけり

源頼政は一人、仄暗い部屋で杯を傾けていた。部屋の隅には双六の盤が所在なさげに転がっている。
すでに数本の徳利が空になっているが頼政は渋面を隠そうともせず、只管仄暗い闇を見つめていた。

「鵺、か」

ぽつりと漏らした自分の一言に頼政は酒を呷る。
鵺とは鶫の異称である。か細い声で夜道に泣き、その悲しげな声は歌の題材としても深く親しまれていた。

しかし、この京の都において鵺の名が指すのは既に鶫ではなくなった。"鵺の如き声で哭くもの"、清涼殿の殿上に夜な夜な現れ、帝を苦しめる怪。それをこそ今京人の間では鵺と呼んだ。だが、その鵺はもう京の都を脅かすことはない。誰あろう頼政自身がそれを射抜き、違うことなく仕留めたからである。頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎の特徴を持ったその姿はまさしく怪であり、退治に喜んだ帝は頼政へ刀を与えられた。
────流石は清和源氏の名門、頼政殿じゃ。人々の称賛を受け、帝からも覚え目出度き英雄。誇りこそすれ恥ではない、むしろ胸を張ってもよい。だが、頼政は鵺退治以来、こうして人と会うこともなく物思いに耽っていた。

灯火のあかりが揺らめき双六へとかかる頼政の影がふるりと姿を変える。頼政はまんじりともしない半ば瞑想に近いその中で退治の日を思い出していた。

頼政は生まれながら怪を許せぬ男であった。この世は帝の統べる平安の世である、人の世である、人には人の理がある。怪我すれば痛む、褒めれば喜ぶ、刺せば死ぬ、善行を成せば報われる。頼政はその理を正しく務めようと生きた、源頼光に連なる身分であるならば強くなければならぬ、滝口の武士であるならば守らねばならぬ、公卿であるならば歌を覚えねばならぬ、報われたければ善きことをせねばならぬ、生まれたならば生きねばならぬ。ならぬ、ならぬ、ならぬ────。その結果が歌人にして武人、文武両道の頼政である。傍から見れば不自由な生き方であっただろう。頼政はそれを誇っていた。

だからこそ不条理を嫌っていたし、時折漆黒の中に紛れ、その理を崩さんと跋扈する不条理の最たる怪などというものが、鬼などというものがこの宇宙にあってはならないと考えていた。

だからこそ頼政は鵺退治の勅令を受けたとき、困惑しながらも怪を討つ腹で、いや、怪を暴く腹で先祖たる頼光、八幡太郎義家にも負けぬ活躍を見せようと意気込んでいた。だからこそ頼政は黒雲の中に揺らめく影へ見当を付けたとき、誰よりも驚き、また納得したのだった。

「────あれは、鵺であった」

頼政の目にはその怪は大きさこそ確かに異常ではあったが、"虎鶫"にしか見えなかったのだ。大きかろうとも只の虎鶫、きりりと引き絞られ放たれた頼政の矢は誤ることなくその胸を貫き射ち落した。頼政は真っ先に駆け寄った。絶命した相手の姿は、何度見ても虎鶫のそれにすぎぬ。頼政はなるほど、結局はただの間違いじゃと頷いた、あるいはもしや誰か殿上人の戯れかと訝しんだ、虎鶫ごときを怪物などと。呵々と笑おうとさえした。やはり怪などはあってはならぬものである、あるはずのないものである、と。

────だが、落ちたそれを見た人々は目を見開き、まごうことなき恐怖の表情で口々に叫んだのだ。"あな、恐ろしや、頭は猿で、尾は蛇じゃ"、"なんと手足は虎にござる"…………。

悪い夢を見ているようだった、ただの虎鶫を囲み、"鵺の如き声で哭く怪"などと。それはもちろん鵺の声で鳴くであろう、それは虎鶫にすぎぬのだ。この世に多く存在する"当然のもの"であるのだ。そう叫びそうになった。叫ばなければ耐えられる気がしなかった。

────だがきっと、今、俺が何かを叫んでも仕方のないことなのだろう。頼政は何故かそう思ってしまった。皆がそれを怪と呼ぶのであればきっとそれは怪なのだ、……"怪でなくてはならぬ"。無理やり己を納得させた。喧騒と称賛は既に頼政の耳朶をなぞるだけのものになっていた、今まですっくと立っていた地面が、まるで味噌ででもできているかのようにぐにゃりと歪み、頼政はこの宇宙にたった一人放り出された赤子のような悍ましさを感じていた。

頼政の焦点が現代へと向けられる。影はゆらゆらと揺れその境目たる線分は薄ぼんやりとしている。さて、俺は何をせねばならぬのか、いや違う、せねばならぬこととは何だ、俺の宇宙はこうも簡単にひっくり返るのか。あれは虎鶫であった、間違いなく俺はそれを見た。しかし人々はあれを怪と呼んだ、頭は猿である、足は虎であり、尾は蛇である。そんなものがいれば確かに怪であろう、怪でなくてはならぬ。……だが、俺には虎鶫にしか見えなかった。頼政は立ち上がり、叫ぼうとしてそれを止めた。叫んだとて意味はないのだ。

「何だ、叫ばんのか」

突如、絹で撫でるような声がした。淀んだとして源頼政。身構え、太刀の柄に手を伸ばす。夜は更け既に人の声はしない、そのような時間にまさか誰とも知らぬ声が、こともあろうに俺の部屋から聞こえるだろうか、これはまさか俺の夢か、いや、このような夜に現れるは。

「待て、俺は鬼ではないぞ、頼政」

頼政の言葉にせぬ問いに声は答えた。頼政は声の方へ目をやる。部屋の隅、ゆらりと揺れる灯火に照らされた双六盤に男が座っていた。頼政は太刀を収めることなく男をねめつけた。背丈こそ並の男だが、ほっそりとした頸に浅蘇芳の水干が稚児のような印象を抱かせる。しかし特筆すべきはその顔に角が生えた異形の面を被っていることだろう。明らかな曲者である。

「その顔でか」
「応とも、訳あって顔は見せることができんが、是非とも鵺退治の頼政殿の顔を見てみたいと思ってな」

自分の顔を見せず俺の顔だけ見たいと言うか。男はころころと笑うと双六版から跳び降りた。まるで空から舞う鵲の羽根がごとく、音もしない。
頼政におそらくは笑いかけ、男は袂から白石と賽を取り出し、転がすと双六のマスを一つ進める。頼政は双六は好きではない、男が遊んでいるそれも誰ぞが忘れたものだ。双六にはどうしても運が絡む。運というのも怪に近い、理を外れときに有り得ぬ事を有るとする。むしろそれを良しとする言い訳が運であるとすら頼政は考えている。

「見惚れたか、五十路男が。そんな落ち窪んだ面で、眼だけは炯々と光っておるわ」
「馬鹿を言え」
「あの虎鶫にも同じ目を向けたか?」

眉根を寄せた頼政に面を向けず、男は黒石を取り出すとまた賽を振る。黒石が二つ進み、白石を切った。

「お前はどうせあれを見ていないだろうからな、あの虎鶫は虎鶫にしか見えなかっただろう」
「あれとは何だ」
「流石希代の英雄、なかなか頭が回るじゃないか。あれとはな、怪だよ」
「怪とはあの鵺の声で哭くものだろう」
「違う違う、あれは虎鶫だ。お前がそれを言うのか? ……ああ、なるほど、お前、そんなことで悩んでいたな?」

そんなこととはなんだ、荒げようとした声は胸の中に沈んだ。既に頼政は男を斬る気は失せていた。それよりもこの男の言葉に耳を傾けようと思い始めていた。

「お前の無礼は問わん。改めて聞く、怪とは何だ」
「一つずつ説明することはできる。特にお前が襲われた鵺についてな。だが、お前には単刀直入に俺の意見を述べたほうがよさそうだ」

男は双六を一人で進めている。ぱちり、ぱちりと進み黒が僅かに優勢であると見て取れた。だが、男が袂からもう一つ賽を取り出し、白の手番にのみそれを用い始めた。その結果は火を見るより明らかだろう。白は徐々に勢を増し結果として黒に打ち勝ったのだ。そこまで石を進めるとようやく男は頼政に向き直った。

「これが怪だ」
「何だと」
「怪とは布のようなものだと俺は考える。黒石を白い布で包んだとき、それをお前は何色と呼ぶ」
「…白だな」
「そうだ。黒いものを白とすることは斯様にも簡単だ。怪はそれを宇宙の理にも押し付ける。今の双六のように賽を一つ増やすことを当たり前とする、虎鶫を怪とすることも良しとする、朝を夜のもとへと引きずり込むことも可能とする」

男が滔々と語る怪の解釈へ頼政は怒りを覚えていた。いや、それが怒りであると今思い至った。ならぬことをなるとする、あらぬことをあるとする。それに対し俺は怒るべきだったのだ、虎鶫を討ったとき、声をあげて叫ぶべきだったのだ。
ならぬことをなるとしてしまうのであれば、それは正しさを捻じ曲げ、唯々諾々と生きるだけではないか。それは俺の最も忌むべきことではないか。正しいのは己ではない、正しくあろうとするのが己なのだ。源頼政なのだ。
面の下の男が笑っていない事に頼政は気が付いた。薄闇にゆらりと立つその姿は改めて稚児のようであり、またあるいは老爺のように見えた。

「どう思う」
「それは嫌だ。俺は理を良しとする、因と果は繋がるべきであり、それは理の中で動くべきだ」
「では、お前は怪をどう捉える」

頼政はその問いの答えの代わりとして叫んだ。虎鶫を倒したときに挙げられなかった叫びを、この夜に挙げられなかった叫びを割れんばかりに解き放った。頼政の叫びは夜に響き、鵺のか細い声をすら消し飛ばす。男は耳を塞ぎ、頼政が叫び終えるのを聞き終えると負けじと笑う。

「頼政、人はな、あそびをせんと生まれるのだ、たわむれせんと生まれるのだ。気に入らぬ盤面ならばこうすればいい」

男は双六盤を蹴り飛ばした。白石と黒石を撒き散らしひっくり返った双六盤は灯の届く境界を越え、暗がりの中へ消えていく。

「お前の遊びを、お前の理を否定するものは壊せ。正しき理を、正しき道を、自らの盤面に引きずり込めばいい」

頼政は足元に転がった白石を拾い上げる。その駒を握り、息つく間もなく男の面を切り捨てた。面の下には柳眉の男、表情は僅かに笑んでおり汗の一つも浮かんではいない。その顔を認め、頼政は平伏した。

「これまで失礼をば致しました。この源頼政、咎められるならばその罪を償いましょう。……ですが、俺は貴方の駒ではない。ここは俺の盤面でありますがゆえに」
「はは、バレたか。そうともさ、俺はお前を駒に欲しい。これからの世はまた変わる。何故か、もちろん怪があるからだ。これまで闇に隠れていた怪は俺たちが照らすことで暗闇から溢れ出る。それが塗り替えた盤面を、人はそれしかないと思い込む、自らを誰かに預けようとする。目まぐるしく理は移り変わり、昨日までの陽が今日の陰ともなるだろう。だが、それはちょっとばかり腹が立つのだ、俺にはな。今まで盛大に遊んでいた盤面に、これまでずっと遊んできたから俺のものだと茶々を入れられたようなものだからな」

男は灯を一つ取り、暗闇を動かしていく。暗闇は場所を変え、割れた異形の面をも暗闇へと追いやられていく。その灯は最終的に男と頼政のみを照らし出した。

「だから俺たちは、いや、俺は盤面に賽を叩きつけると、気に入らぬ盤面は蹴り飛ばすと決めた。だが俺には力がまだない。そんなとき、お前のような駒が必要なのだ。自らの軸を突き立て、丸い穴に四角を捻じ込むような駒が。きっと、それは怪に対する切札となる」
「私は私の盤面へ貴方をすら取り込むやもしれませぬ、この宇宙を正しき見方で捉えるために」
「やはりお前はいい駒だ。ああ、それはきっと宇宙を変える。より良き角度かどうかはお前が決めろ。その結果は俺の知るところではない」

灯が男の顔を照らし出した。頼政は改めて男に、いや、その男が持つ灯へ頷いた。

「では頼政。手始めに」

男がにやりと笑い賽を投げ捨てた。暗がりに消える出目を男も、頼政も見ることはない。

「鵺退治などはどうだ?」


闇の中静まり返った清涼殿を頼政は進む。五行の紋を背負い、殿上の間を駆け抜け鵺を"一つ"斬った。男は言った、"鵺を見てはならない"、"鵺を見たものが怪に囚われたのだ、怪によって包まれる理を変えられたのだ"、と。頼政は見ずとも斬れる。
頼政の前に既に怪はない。誰にも気づかれてはいない、俺の盤面は俺だけのものだ。頼政は笑い最後の鵺に見当を付けた。南無八幡大菩薩────! 裂帛の気合と共に、北東の隅にあったそれを断つ。複数の獣を繋ぎ合わせたそれは既に頼政の怪ではない。怒りはここにて失せた。

こんなものが鵺か」

────流石は清和源氏の名門、頼政殿じゃ。鵺退治、あっぱれ、実にあっぱれ。
"頼政に斬り捨てられたそれ"は既に怪ではない。頼政は鵺退治を成し遂げた。

御剣を賜はつて罷り出づ
"この頼政卿は弓矢取つても並びなき上歌道も勝れたり"

平家物語 巻第四 鵺

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