グッド・リスニング
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 尾崎藤香おざきとうかはここ二ヶ月ほどずっと、病室のような部屋で過ごしていた。ここは病院ではないし、自分が病気に苦しんでいるわけでもない。だが、それならばここはどこで、自分は一体どうなってしまったのか。今の尾崎はそれに対する答えを持ち合わせていない。
 あの日以来逆立ったまま戻らなくなった髪の毛を弄りながら、ベッドに坐って壁に背中を預ける。部屋の居心地は悪くない。美味しいご飯も三食貰える。けれど自由に部屋から出られないのは退屈だし、白衣の人達がやってきて行う何かの検査もよくわからなくて不気味だ。
「AO-20120-JP」
 扉の外から呼ぶ声がする。ここの人達は尾崎のことを番号で呼ぶ。
「面接の時間です。出てきてください」
 最近はなぜか面接に呼び出されることが多い。なんのための面接かは例によって教えてはもらえないのだが。大きく伸びをひとつして、尾崎はよいしょと立ち上がった。

 サイト-8133人事課のオフィス。この部屋を初めて訪れた者は、部屋の奥のほうに置かれた上等な事務机へ真っ先に目が向くだろう。机の上には沢山の書類、ラップトップパソコン、そして周囲のお堅い雰囲気に似つかわしくない大きな水槽が置かれている。それは明らかに人事課長の机なのだが、しかし席に着いているべき人事課長の姿はどこにも見当たらない。
 そして輪をかけて奇妙なものは、水槽の側面から伸びるロボットアームだ。まるで子供の玩具のようにも見えるアームは、肘や手首、指の関節を滑らかに動かし、パソコンのキーボードを器用にタイプしている。
 そんな奇妙な光景がすぐ傍にありながら、部屋の中の職員達は誰一人としてそれを気に留める様子はない。やがて、どこからともなく机に近付いてきたビジネススーツ姿の女性が、水槽の中を覗き込んで声をかけた。
「課長、お時間です」
「ん、なんの?」
 水槽の底から返事があった。正確には、返事をしたのは水槽の底で小さな操縦桿を操作している一匹のカナヘビだ。生物学的には紛うことなきカナヘビであり、個体名もカナヘビ。彼こそが現サイト-8133人事課長、エージェント・カナヘビの名で知られる張本人である。小さな爬虫類は、首を上にもたげて女性と目を合わせる。
「先日お伝えしていた、AO-20120-JPの雇用面接です」
「ああ、あれな。ほな早速行こか」
 ボーイソプラノの音域でそう言いながら、カナヘビは手許の操縦桿を操作する。瞬く間にアームが折りたたまれ、水槽はごく普通の見た目へと変化する。その水槽を女性が慣れた手つきで持ち上げ、壁際に置かれた台車の上に載せる。
「わざわざ連れてってくれへんでも、自力で行けるよ。北上クンも面倒やろ」
 北上と呼ばれた女性は、その申し出に頑として首を振る。
「そういう訳にはいきません。収容区画内は原則飛行禁止です」
「なんや、まだ飛行機能使うなんて一言も言っとらんやろ」
「そう言って、廊下を最高速度で飛んで内部保安部長に衝突しかけたのは誰ですか」
「いけずやなあ。解った。じゃあよろしゅう」
 カナヘビがそう言った時にはもう、水槽の載った台車は北上に押されて、オフィスの外へ出たところであった。


 財団は巨大な秘密結社だ。世界中で収容されている多数の異常物品の収容や研究には、夥しい数の人員が必要になる。その一方で、職員の雇用はあくまで秘密裏に、人知れず行わねばならない。ふたつの事実を突き合わせた帰結として、財団は今も昔も慢性的な人員不足に悩まされている。猫の手だって借りたいところなのだ。
 さて、財団が日々確保する異常物品の中には、一見して普通の人間と変わらない外見や知性を持つものも多い。異常人型実体と分類されるそれらの中から、危険性の低い軽微な異常性しか持たないものが職員として雇用されるようになったのは、もうずっとずっと昔のことだ。この制度が存在せねば、カナヘビだって今頃は収容室の中だっただろう。苦肉の策ともいえるこの方法で、財団は辛うじて人員不足を補ってきた。勿論、雇用に際しては実体の持つ異常性について徹底して検討を重ねる必要がある。各サイトの人事課には人事第三係という名称の係が置かれ、異常人型実体の雇用に関するそういった煩雑な業務を一手に統括することとなっている。
 サイト-8133人事第三係長の六道公彦は、他の誰よりも早く面談室に到着していた。大柄で引き締まった体躯をパイプ椅子に預け、何をするでもなくただ坐っている。小さな両目の下には、黒い隈がくっきりと浮かんでいるのが判る。彼はここ一ヶ月ほどの間、頭にまとわりつくような悩ましさを常に感じながら過ごしていた。そしてその悩みの種を、今日こそ払拭できるはずなのだ。
 室内は強化ガラスの透明な壁を挟んでふたつに分かれている。その両方に長机があり、六道のいる側には三脚のパイプ椅子が用意されている。三脚のうち最も右に六道が坐り、そのすぐ隣に一脚、そこから少し間を開けてもう一脚だ。一方、反対の側の椅子は一脚のみ。天井付近に設置された音響機器は、部屋の両側で会話を行うためだろう。
 六道の到着から五分程度遅れて、六道側の部屋の扉にノックがあった。入室してきたのは百八十センチはあろうかという長身の女性。スレンダーな体型に白衣をまとい、眼鏡をかけ、長い髪は後ろで三つ編みに結っている。六道に軽く会釈をして、左端の椅子に腰かけた。六道は坐ったまま女性のほうを向き、話しかける。
「再三呼び立てることになってしまい、実に申し訳ありません」
「いえ、構いませんよ。今回で最後だという話ですし」
「そう言っていただけると有り難い」
 それ以上の会話は続かず、室内には沈黙が戻った。そのまま更に五分ほどして、部屋の扉が再び開いた。
「お待たせしました」
「おまっとさん」
 アルトとボーイソプラノ、ふたつの声が同時に聞こえる。水槽の載った台車と共に入室した北上は、右端と真ん中の椅子の間のスペースに台車を停めた。隣にやって来た水槽の中を、長身の女性が見下ろす。
「遅いですよ、重役出勤のつもりですか」
「長夜クン、久しぶりやね。こんなとこでどうしたん?」
「どうもこうも、貴方と同じ目的ですよ。AO-20120-JPの初期評価は私が担当しましたので、オブザーバーとして立ち会わせていただきます。で、そちらは」
 長夜は顔を上げ、北上の顔を見る。
「初めまして、人事課主査の北上美波です」
「初対面やったっけ? ボクの優秀な部下やで。北上クン、この人が長夜空博士な。恐い顔しとるけど、実際恐い人や」
 長夜博士がカナヘビをぎろりと睨みつけたところで、六道が話に割って入った。
「全員揃ったところで、そろそろ面接を開始してよろしいですか」
「ああ、御免御免。そうやね、始めよか」
「あらかじめ伝えていた通りではありますが、一応確認です。面接の対象はAO-20120-JP。二ヶ月前に埼玉県内で確保。確認されている異常性は毛髪の変色、および頭頂部の毛髪の一部が未知の原理によって常に逆立つことです。本日の面接の目的は、AO-20120-JPの主張する更なる異常特性について、人事課長立会いの下で検討すること。すなわち」六道は少し間を置いて、言葉を続けた。「物体の声を聴くことができる、という主張の真偽について」


 二人の職員に伴われて、入院患者のような青い服を着た若い女が、強化ガラスの向こう側に現れた。無造作に長く垂らした髪は報告通り日本人らしからぬ銀髪で、頭頂付近の二ヶ所がピンと逆立っている。その形状は、どことなく狐の耳を思わせるものだった。
 女はひとつだけ置かれた椅子に坐る。緊張した面持ちで、強化ガラスの向こうをきょろきょろと見渡す。やがて三人の人物に混ざって置かれた大きな水槽が目に入ると、怪訝そうな目でそちらを見つめた。
「あーあー、聴こえとる? ほな、面談を開始します」
 甲高い男の声は、明らかに三人の人物のいずれが発したものでもない。どこから聴こえたのか判らない声に、女は狼狽の色を見せた。
「ボクはここやで。驚かして御免な」
 カナヘビは長い尻尾と後ろ脚で立ち上がり、五秒間ほど前脚を大きく振った。それでようやく、女は自身に話しかけた生き物の正体を知ることができた。
「と、トカゲ」
「やなくてカナヘビな。なんや、事前に伝えてなかったん?」
「伝えていましたよ」カナヘビの呟きに答えたのは、横で話を聞いていた六道である。「ですが、聞くのと実際に見るのとでは、やはり衝撃の大きさも違うでしょう」
「そ。まあええわ。ほんじゃあ、AO-20120-JP……呼びにくいなあ。自分、本名はなんて言うん?」
 その質問は予想外だったのか、女は少し言い淀みながら答える。
「あ、お、尾崎……です」
「尾崎クンね。尾崎クン、今日はボクが色々と訊いていくさかい、素直に答えてな。あ、ボクのことはカナヘビって呼んで」
「はい」
「で、早速やけど、キミが色んな物体の声を聴くことができる、って話。まずはこれについて聞かして」
 早くも本題に入ったカナヘビの質問に、尾崎は尚更神妙な表情になり、俯きがちに話し出す。
「前にも話した通りですが……私の髪の毛がこういうふうになった後、周囲にある物の声が聴こえるようになったんです。この髪の飛び出たところを物に当てて、耳を澄まして静かに聴く……“静聴”すると、どこからともなく。でも」
「でも?」
 それ以上の言葉を続けず、尾崎は沈黙した。代わりに尾崎の言葉を接いだのは、カナヘビの隣の長夜だった。
「本人の申告では、確保以降はほとんど声が聴こえなくなったそうです。心理学者に診てもらったところ、突然自身の身体に異常が生じたことのショックによる幻聴であった可能性が高い、と」
「ふうん」尾崎のほうを見たまま、カナヘビは相槌を打つ。「でも、尾崎クン本人は幻聴やないと思っとるわけやな」
 返事をする代わりに、尾崎は小さくこくりと肯いた。
「何か言いたげやね」老獪な爬虫類は、尾崎の顔に浮かんだ微妙な表情を見逃さなかった。「何か考えがあるなら、なんでも言うてみて」
「いえ、冷静になってみたら、物の声が聴こえるなんて馬鹿げたこと、あるわけが」
「まだ判らんよ。判らんからこうしてボクが直接話しに来たんやし。それに、この世の中には妙ちきりんな物事なんてぎょうさんある。キミが知らんかっただけでな」
 カナヘビの長い尻尾が、メトロノームのように所在なさげに揺れた。しばらく逡巡した挙げ句、尾崎はおもむろに口を開いた。
「根拠があるわけでは、ないんですけど」恐る恐る、言葉を選びながら、続けていく。「“静聴”したときに、声を聴かせてくれるのは、なんていうか、想いのこもった物だけなんだと思うんです。それも、相当強い想いが」
 それだけ言って、尾崎は再び黙った。
「おおきに。よう話してくれたな」カナヘビの口調はどこか満足げだった。「長夜クン、頼みたいことがあるんやけど」
「なんですか」
「なんか適当なアノマラスオブジェクト持ってきてくれん? 長夜クンの権限で動かせるやつ」
「はあ? なんのために」
「こうなったら実験して白黒付けるしかないやろ。お願い、ボクから後で話は通しとくさかい」
 カナヘビは両の前足を器用に擦り合わせる。今月に入ってから一番深い溜め息をついて、長夜は椅子から立ち上がった。
「全く、やっていられませんよ。これだけこき使われて、もしも夏のボーナスが微妙な額だったりしたら、一体自分が何をしでかすか」
 水槽へ微笑みかけながら、長夜は部屋を出ていった。両目はいささかも笑っていなかった。
「おお恐。あれ本気かいな」
「無理もないですよ。いきなりあんな無茶な命令されたら」
「命令やなくてお願いやって。うわあ、ボクどうされてまうん?」
「知りません」
「ちょっと、北上クン、見捨てんといてよ」
「あの……」
 おずおずと会話に割り込んだ声は、ガラスの向こうの尾崎だった。
「ん、どしたん?」
「今から“静聴”をここで実演するんですよね。それだったら」今までで最も決意に満ちた目で、尾崎は言った。「服、着替えてきてもいいですか」


 長夜と尾崎が退出して、室内にはカナヘビ、北上、六道の三人が残された。
「六道は、どう思っとる?」
 カナヘビがふと口にした質問はひどく漠然としていたが、言わんとしていることは明らかだった。
「第三係の中でも、幻聴という見方のほうが優勢です」断った上で、六道は続ける。「ですが、個人的にはそれだけではないような気がしています。直感に近いですが」
「ボクもや。気が合うね」
「でも、もし幻聴じゃなかったとして」今度は北上が話し始める。「物体の声、っていうのは一体なんなんでしょう。テレパシーか何かでしょうか」
「北上クン、共感覚って知っとる?」
「ええ、聞いたことはありますが」
 特定の音を聴いたときに、対応して特定の“色”を感じる人々が存在するらしい。そういった、ある感覚に伴って異なる種類の感覚をも感じ取る現象を共感覚という。
「もしかしたら、AO-20120-JPは共感覚に似た能力を持っているのかもしれん。物体にこもった“想い”と言い表すべき何かを、聴覚という形で感じ取れる、とかな。まずは試してみいひんと判らんけど」


 面接は一時間後に再開されることとなった。ガラスの向こう側の長机に、長夜が持ってきた三個の物品が並べて置かれた。置かれたのは三着の黄色いTシャツ。プリントの柄がそれぞれ異なるものの、それ以上の大きな違いは見当たらない。
 戻ってきた長夜が先程と同じ席に着いてから、尾崎は再び部屋に入った。青一色だった服装はがらりと変わって、今は紅白の巫女服を身にまとっている。
「何事ですか、これは」
 訝しげな呟きを漏らしたのは、話を聴かされていなかった長夜だ。
「何って、巫女はんの恰好やね」
「そうではなく」
「なんか、あの恰好のほうがやりやすいんやって。魔術師のローブみたいなもんなんやない? 知らんけど」
 尾崎はゆっくりと椅子に腰を下ろす。相変わらず全身が緊張しているが、その緊張は先程とは少し質が違う。敢えて言うなら、武者震いのような。
「ほな、やってもらおうか。あ、くれぐれも手は触れんでね」
 カナヘビの呼びかけに肯いて、立ち上がって机に近寄る。誰も何も喋らない。室内は静寂に包まれている。
 まず右端のTシャツの前で屈んで、耳のような髪を近付ける。一着目のシャツは、前面に青い筆記体で、よく解らない英文がプリントされている。そのまま耳を澄ます。神経を研ぎ澄ます。たっぷり二分間ほど、そのままで。十分に静聴を試みてから、隣のシャツへと移っていく。
 二着目は背面に大きな白い丸があしらわれていた。一着目と同じように、静かに耳を澄ませる。
 三着目は黄色一色の無地だった。三着全ての静聴を終えた尾崎は、屈めていた身を持ち上げ、しばらくぶりに声を発する。
「終わりました」
「お疲れさん。じゃ、結果を聞かせてもらおうか」
 それぞれのシャツに目を配りながら、尾崎は答えていく。
「一着目は何も聴こえませんでした。しばらく待ってみましたが何も。二着目は微かでしたが、一言、頑張ろう、と。三着目は……これが一番強烈で、はっきりと聴こえました。さようなら、きっといつか、また会おう、その時まで、さようなら、そんな風に訴え続けていました。どういう意味なのかまでは、判りませんけど」
「なるほどね」カナヘビは前脚を組んでうんうんと肯く。「そんで、答え合わせは?」
 カナヘビの言葉を受けて、長夜が滔々と説明していく。
「まず一着目。これは私が去年しまむらで買った量産品です。次に二着目は、先月サイト内で行われた研究室対抗球技大会のユニフォームとして作成したものです。最後に三着目。これが正真正銘のアノマラスアイテム。とあるフェリーの船上で見つかった、洗うたびに赤、橙、黄、緑、青、紫と色が変わるTシャツです」
「期待通りの結果、ってことやね」
 答え合わせを終えて、尾崎は胸を撫で下ろす。安堵、というのとは少し違う気がするが、とにかく、無事に終わったという開放感。
「御協力おおきに。これから追加の調査が色々始まると思うけど、それについては追い追い。今日は取り敢えずここまでや。ええかな」
「ええ、終わりましょう」
 六道が言うと、尾崎はぺこりと一礼した。スタッフに促されて、尾崎は部屋を後にした。


「あー、しんど」
「お疲れ様です」
 北上の押す台車は、人事課のオフィスへ向かって廊下を進んでいた。
「人事課長も楽やないなあ。結局は中間管理職やし。早よ出世したいわあ。ゆくゆくはサイト管理者がええな」
「お言葉ですが、どんな仕事でも、大なり小なり苦労は絶えないと思いますよ」
「そりゃそうやけどね。でもどうせなら一国一城の主がええなあ」
 どこまで本気か判らない戯言を聞き流しながら、台車はころころと等速で前進していく。
「どんな仕事に就くんでしょうね」
「ん、なんの話?」
「AO-20120-JPです」
「ああ。あの能力で異常実体の情報を見抜けるとしたら、研究に活かせるかもしれんな。特異性を研究に使わすのは厭がる連中も多いけど、使えるもんはなんでも使わんとね」
「彼女も、これから苦労することになるでしょうね」
「せやなあ、色々な苦労はあるやろうね。大人しくオブジェクトとして収容されとったほうが、ずっと楽なんかも知れん」その口調は、溜息のようでもあった。「でも、それが、人間である、ってことなんやない?」
 北上は何も答えなかった。カナヘビの発現の意図を、一瞬呑み込めなかったからだ。
「あれ、伝わらんかった?」
「言いたいことは解りましたけど」冷静な表情のままで、北上が言う。「上手いこと言ってまとめてやったぞ、どやあ、というような邪念も、一緒に感じ取れてしまいました」
「そこまで言わんでええやん。ホンマいけずやわあ」カナヘビは細長い舌を口許から覗かせて、長い尻尾を小さく丸めてみせた。「でも実際、色々思うことはあるんやで。自分がこんなナリやとね」


 巫女服から元の服に着替え直して、尾崎はすっかり見慣れてしまった個室に帰り着いた。糸が切れたようにベッドに倒れこんで、タオルケットに顔をうずめる。なんとなしに頭の上の“耳”を触ってみる。この“耳”で聞いた声は、ただの幻聴などではなかった。他ならぬ私自身がそれを証明した。
 どうして私はそれを証明したかったのだろう。自分が人知を外れた能力を得たことを、どうして私は自ら示してしまったのだろう。奇妙なトカゲの口車に乗せられたから? いや、それだけではないはずだ。ただひとつはっきりしているのは、もう目を逸らすことはできないということ。
 “耳”から指を離して、長く伸びた髪をつむじから頬のほうへと梳いてみる。ここに来てからは手入れも億劫になっていたけれど、明日からはもう少しちゃんと整えよう。どうせ当分は、この場所で暮らすことになるのだろうし。


 一人と一匹が話し込んでいる間に、台車は見慣れた人事課のオフィスまで戻っていた。壁掛け時計を見遣れば、時間は夕方の五時に差しかかっている。パソコンを確認すると、六道から連絡のメールが届いていた。AO-20120-JPについては“静聴”の能力について分析を進めつつ、アノマラスオブジェクトの管理員としての雇用を検討していくという。
「ふう。これで一件落着やね」
「落着していませんよ」
「へ?」
「アノマラスオブジェクトを持ち出させて実験をした件、どうするつもりですか。後で話を通しておくんでしたよね?」
「いけず!」
「自業自得です」
 夕暮れ時のオフィスにボーイソプラノの悲鳴が上がる。尾崎藤香が御先稲荷おさきとうがと名を変えて財団に雇用される、半月ほど前のことであった。

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