萩の花が愛するは
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「サイト-81██付属歴史博物館学芸員 萩埜 沙織」と記されたドアを開いて研究室に入ると、思わずふわぁ、と大きな欠伸が零れた。

ここ最近、閉館時間を過ぎてからの掃除や片付けを一通り終えた後もずっと研究室に残って夜遅くまで研究を続けているせいだろう。歴史について調べるのは大好きなのだが、こうも夜更かしを続けていると20台も後半に差し掛かってきた私の体には少々響く。

椅子に座りノートパソコンを開く。刺さりっぱなしになっている紫色のUSBメモリに今日新たに書いた分のレポートを保存しようとすると、甲高いエラー音とともに小さなウィンドウが画面に現れた。少し心臓が跳ねた感じがして、私はため息を付いた。

「容量、もう限界でしたか…」

長いこと使っていたこのUSBメモリはどうやら容量の限界に達したらしく、現れたウィンドウはこれ以上の保存が出来ないことを示していた。

つい昨日、私が特に好きな近代の軍事史についての調査を依頼されたばかりであり、これからどんどん保存しなければならないものは増えていく。かといって、このUSBメモリの中に入っているもので削れるものを削ったとしても、添付した画像も含めてこれだけ容量が膨れたレポートを保存することは不可能だろう。

「…新しいの、買いますか」

幸い明日は博物館も休館日。奈良県にある橿原神宮に行く予定だったが、先にやることができた。頭の中で予定を組み直し、私は立ち上がった。


午前7時。寮の3階にある自室で私は少し悩んでいた。ノートパソコンの液晶画面を前に、難しい顔で暖かいお茶を飲み溜め息をつく。言うまでもなく、新しいUSBメモリをどれにするかという話だ。

これからも財団での仕事は続けていくつもりだ。そうなれば当然、今回のように財団から歴史やその他諸々の調査を依頼されることはあるだろう。よって私が新しく買うUSBメモリに要求する容量は必然的に大きくなる。少なくとも32GBは欲しいところだ。

昨日容量がいっぱいになったUSBメモリは、私が財団に雇用されるよりもずっと前から使っていたものだ。それこそ私が現在SCP-████-JPとして収容されているオブジェクトの異常性に暴露し、左手の甲にUSBコネクタが生成される以前から。

このUSBコネクタは、色んな情報機器を接続することで中の情報を見たり、私の記憶や過去に参照した情報を書き込んだりすることができるという点では便利ではあるのだけれど、今日みたいに外出する日には結構面倒な手続きを踏まねばならず、そういう点では疎ましい存在だ。

それはさておき。少し考え込んでから支給品申請フォーラムをくまなく漁ってみるものの、なかなかいいものが見つからない。ふぅむ、と少し考え込む。

私は紫が好きだ。身の回りにあるものにもそこはかとなく紫を取り入れたい人だ。メガネのフレームであったり、スニーカーであったり。昨日まで使っていたUSBメモリも紫を基調にしたカラーリングで、私は相当気に入っていた。故に、今回も紫色のUSBメモリも探していたのだけれど。

「32GBの紫色、ないんですよね…」

私が探す条件に合うものが見つからないのである。

「…仕方ない。これにしましょう」

こだわり続けていてはいつまでたっても決まらないので、仕方なく私は黒色のUSBメモリの支給を申請することにした。財団が保持する物流ルートは、ある種の裏社会と言っていい組織だけあって凄まじい範囲の広さと伝達の素早さを誇る。おそらく私が橿原神宮から返ってくる頃には受け取れるだろう。

「…それじゃ、行きますか」

昨日のうちに必要なものを全て入れておいたバッグを背負い、寝癖の付いた髪を整えて紫のスニーカーを履いた。少しボロボロになってきたそれを見て、今度靴も買わなきゃなと考えつつドアを開けて部屋を出た。


無事に寮に帰り着いて数時間。これで今日エンターキーを押すのは最後になるだろう。レポートの執筆はほぼほぼ終わった。残された作業といえば、じっくりと推敲をしておくだけである。数時間前にコンビニで受け取ったUSBメモリはノートパソコンの横に置いたままで、完成させたレポートはここに保存しておかなければならない。

キーボードを叩く手を止め、椅子に座ったままぐーっと伸びをする。今日は1日中、車を運転している時以外はほぼ歩き通しで、その疲れが来ているのかここ最近ずっと考えている嫌なことが何度も頭をもたげる。

USBメモリを接続することで、内部のデータを視界にウィンドウが現れるという形で見ることができる私の脳は、一体どうなっているのだろう、と。

情報が見られる、というだけならまだわかる。だが、自らの記憶を-私以外が開くことは出来ないとは言え-ファイルとして出力し保存できたり、軽快な効果音とともに近未来的なウィンドウが視界に現れたり、さらに任意でその大きさを調整できるとなってくるといよいよおかしな話になってくる。

増してや過去にこうやって参照したファイルなんかもそっくりそのまま出力できるとなると、つまるところ参照したファイルが完璧に記憶されているということになる。かなり気持ちが悪いが、保存されているなんて言い方もできるかもしれない。

そうなってくると、私は…

ぶんぶんと頭を振って、余計な思考を放り出す。好きなシミュレーションゲームのBGMメドレーを流しっぱなしにしているヘッドフォンを外し、私は液晶画面に視線を戻した。新しく受け取ったUSBメモリをノートパソコンに挿し込み、作成したレポートを作成して保存しておく。

疲れを越えて激しい眠気にすら襲われた私は、メガネを外してからUSBメモリを抜いてパソコンをシャットダウンした。画面が暗転する直前に何か黄色い枠のウィンドウが出ていたような気がするが、もうこの際気にしない。

部屋の電気を消してふかふかのベッドに倒れ込み、枕に頭を預けてそのまま目をつぶ…ろうとした段階で、私は今日新しく調べたことについてまだ書いていない部分があることに気がついた。やろうやろうと思っていた推敲も全くやっていない。

「はぁ…」

せめて、ここまでに書いておいた文章の確認だけはしておこう。ノートパソコンはもうシャットダウンしてしまったから、左手の甲にあるコネクタを使うしかない。重たい瞼を無理やり開き、手袋を取ってUSBメモリを左手の甲に挿し込んだ。


軽い掃除が一段落ついたところで、私は少し伸びてきた髪を耳にかけつつ博物館の外にある小さな倉庫に向かった。裏口の扉を開け、すっかり冷たくなった風が吹く屋外へと出る。

かつて廃品置き場として使用されていたこの倉庫は、現在おそらく私以外に出入りしている人間はいないだろう。カギをガチャリと開け、昼でもなお暗い中に入る。私自身が2ヶ月ほど前に整理した倉庫の中の、小さめな机の上に置かれているのは四角形の水槽だ。しかし、中に水は入っていない。そんなものを入れてしまえば、この子が生活できなくなる。

水槽の中にいるのは、私が以前買ったUSBメモリ。しかし以前と決定的に違うのは、私の髪で編まれているアームが6本生えておりカサカサと動き回っていることだ。細いそれをもぞもぞと動かし、水槽の中で私の帰りを待ちわびていたかのように跳ねている。手に入れた時は、本当に何の変哲もないUSBメモリだったというのに。

私がこの子を初めて左手に挿し込んだ時だ。シャットダウンされる直前、どういう経路を辿ってかこの子に保存されてしまったプログラム―おそらくウイルスだろう―が、私の記憶野のかなり奥の部分にも記憶されてしまったのは。…もう書き込まれたと言ったほうがいいのかもしれない。

挿し込んだ直後、私の視界に現れたのはいつものようなウィンドウではなくメモ帳と全く同じようなテキストエディタだった。そこに、この子の言葉が書き込まれ始めたのである。今思えば、このウイルスは本当に狡猾だ。自らの思考や性癖を全て、私の頭に書き込んだ上でコミュニケーションを試みてきたのだから。

この子との会話は、私の本心に反して弾んでしまった。その結果、私とこの子の間には奇妙な協定が結ばれてしまっていた。異常なことをしているのは嫌というほどわかっている。良識や常識だってちゃんと残っている。でも書き込まれてしまったプログラムをコピーこそ出来ても削除する手段を、私は持ち合わせていなかった。

あの時から少し伸ばし始めた髪を数本抜いて、少しばかり頭皮もめくって、この子の前に差し出す。以前よりもいいシャンプーやリンスなんかを買い、常に髪が綺麗な状態を維持し続けているのは、全てこの子のためだ。この子は少食で、一気にがつがつと食べるなんてことはしない。おかげで私の髪や頭皮が酷いことになるということはなく、あの時とほとんど変わらないままだ。

髪が綺麗になったね、と言われるのは嬉しく思う。ただ、この子が私の髪を食べているのを見ている間もそう思えてしまうのは自分でも嫌になってくる。しかしそれでも、私の顔には笑顔が浮かんできてしまう。この子を気遣うような言葉が口から出てしまう。本当に気持ち悪いことをしているという自覚はあるのに。

「ふふ。おいしいですか?」

本当は今すぐにでも、財団に通報してこのオブジェクトを収容状態に移行させたい。この子は間違いなく異常存在なのだ。いつだかに似たような性質を持つオブジェクトの報告書を読んだ記憶すらある。いつの間にかこの子に忍び込んでいたウイルスの侵入経路なんかも辿っていく必要があるはずだ。なのに、私の奥深くに刻み込まれてしまった思考がそれを許さない。

かりかりと私の髪を食べ続けるこの子を見つめる。それと同時に、私の頭にまだ残っている常識が警報を鳴らしていた。それも当然だろう。先程朝食を摂ったばかりだと言うのに、この子が私の髪を食べているのを見ていたら強烈な空腹感が私を襲ったからだ。

初めて感じるその衝動は、私を飲み込もうと心の奥底から間欠泉のように湧き上がってくる。それは、レストランで隣に座っている友人が食べているものを自分も頼みたくなるという不思議な欲求に似たもので。

「…そう、ですね」

私はゆっくりと立ち上がり、あの子にじゃあね、と声をかけてから倉庫を出る。鍵を閉めて裏口から博物館に入り直す頃には、頭の中で鳴り響いていた警報はすっかり止んでいた。

…あれ?

警報って、なんで鳴ってたんだろう?

まあいっか。今はとりあえず、空腹を満たそう。

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