"Overwrite"
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初めての口づけはレモンの味、というが味を感じる余裕など微塵もなかった。
全力疾走したような心臓の高鳴りと脳の中のぐちゃぐちゃとした感情は味覚を含むあらゆる五感を完全に麻痺させた。
経験したことのない麻薬のような多幸感と、未知の人物に身を任せていることへの不快感は身体の芯から響く甘い痺れとなり全身を駆け巡っている。
頭の奥から聞こえるキーンという耳鳴りが収まった時、収容違反サイレンがけたたましく鳴り響いていることに、ようやく気付いた。


「乾杯!」
皆が一斉にグラスを鳴らし、各々が別の人間と乾杯をして回っている。私もその輪に加わる。
少し緊張が解けたかもしれない。ただ、こちらから皆に話かけるには何となく気が引けてしまった。
「乾杯!よろしくね~般若さん
何となく"お姉さん"という雰囲気がするその女性はビールのピッチャー片手に快活に話しかけてきた、えーっと名前は
「まだ、名前覚えてないよね、前原愛よ、今日は覚えて帰ってね~」
「すみません、今日からよろしくお願いします」
「そんなに固くならなくても取って食ったりしないよ?今日から同僚なんだし、分からないことがあっても何でも聞いてね」
何となく気難しい人ばかりの印象があったけれど、少しほっとした。大学の飲み会と雰囲気が変わらないことに安心する。
正直なところ、色々とレクチャーを受けたとはいえ財団がどういう組織なのかまだよく分かってはいない。"終了"や"Dクラス"やら、今まで聞いたことどころか考えたことすらない様々なことをしている、と聞かされた時は世界を守るというよりも昔テレビで見た悪の組織というような印象を受けた。
「何だか想像していたのと違いますね、何というか、思っていたよりも普通というか…」
「ま、いっつも異常なものばっかり相手にしてるからね、飲み会くらい普通にやらないと。まあ普通じゃない人ばっかりなんだけどね」
前原博士はそう言ってケラケラと笑う。
確かに周りを見回すとお面を被った男の人狐の耳のようなものを生やしている女性紙袋を被りストローでビールを吸っている男の人など、仮装パーティーに来たのかと錯覚する光景が繰り広げられている。
「皆さん好きでああいう格好をしているんですか?」
「そういう連中もいるし、そうせざるを得ない人もいるわね。そもそも財団に入った時点で普通の生活なんてできやしないからねえ、まあそのうち慣れるから頑張ってね」
「はぁ…そういうものですか」
私はビールをちびちび飲みながら、前原博士は私の十倍以上のペースでビールを開けながら、財団での生活についてあれこれ話をした。


それから、私と前原博士は度々一緒に飲むようになった。飲みながらの会話の大半は前原博士の仕事の武勇伝と愚痴だったが、破天荒な話を聞くのはとても楽しいものだった。
「そういえば、瞳ちゃんって、彼氏とかいないの?」
突然痛いところを突かれてしまった。研究一筋でそういうことを考えようとしたことはあまりなく、つい黙ってしまう。
「駄目よ駄目よ、こんな所で働いているからこそそういうのは大事にしないと。合コンとか行ったことは?ない?」
そもそも人から好意を向けられること自体あまりなかったように思う。自分では気づいていないだけかもしれないが、こんな地味で普通の人間を好き好む人間がいるのかといらぬ疑問を抱いてしまうのが悪い癖になってしまっていた。
「その眼鏡外して見せて、うーん素材は悪くないわね…化粧をちゃんとしたら化けるかも。あ、きさらちゃん、ちょうど良かった、ちょっと瞳ちゃんにメイクしてみてくれない?あれ、何で止めるの?」
二人とも乗り気だったが全力で止めさせて頂いた。


あの飲み会から思うところあり、中学生の頃からかけていた黒縁の大きな眼鏡を外し、コンタクトにしてみた。さらに化粧をきちんとし、前髪を上げて人に顔を見せるようにした。同僚には少し戸惑われたが、概ね好評でほっと胸を撫で下ろした。なるほど、これは楽しいかもしれない。人は顔ではない、とはよく言うが顔を隠そうとするのは心を隠しているのと同じなのだなと、この歳になってやっと気付かされた。人から好意の目で見られることがこんなに幸せだったなんて、これまで思いもしていなかった。仕事が終わったら前原博士にお礼を言わなくては。


「ちょっと、そこの人、聞きたいことがあるんだが…」
「はい、私ですか?」
廊下を歩いていて呼び止められたので振り返ると、そこには恐ろしいほどの美青年がいた。思わず固まってしまう。そしてあちらも固まっていた。
「えっと、どういう要件でしょうか?」
少し口籠もりながら何とか聞き返す、心臓が高鳴る音が聞こえやしないかと不安になるほど私は興奮していた。
「39番ゲートはどこかと聞きたかったんだが…そんなことは今はどうでもいい、僕は君に一目惚れしてしまった、一緒に来てくれないか?」
心臓が止まりそうになる。これまで受けたことのないような強い好意に少し眩暈を覚えた。
顔を掴まれ、数センチまで顔を近づけられた。目が泳ぐ、耳が熱くなる、熱にうかされたように頭がぼーっとして何も考えられなくなる。
「え、あの、そんな、急に、そんな私なんて、ダサいだけで普通なのに…」
口をつくのは自虐的な言葉ばかり、そうしていると私の口に人差し指を当てて彼は言った。
「そうか、誰も君の美しさを知らないんだな。何て嘆かわしい!みな君の美しさを知らなければならない!知らない奴はみな死ぬべきだ!」

突然口づけられた。

ファーストキスがこんな形で奪われるなんて…戸惑いと歓喜に入り混じった脳内は完全にパニックになってしまった。

頭の中がグラグラする中、収容違反を示すサイレンの音が聞こえていることにやっと気づいた。


彼に手を引かれて走り出した。走っていくうち冷静さを取り戻していく。

何故39番ゲートの場所を知らない?

何故走る必要がある?

何故サイレンが鳴っている?

こいつは一体誰だ?

何故周りの職員がこちらを見るなり倒れていくんだ?

興奮は完全に醒めた。手を振りほどこうとしたが恐ろしい力で握り返される。
「どうしたんだいハニー?足が疲れちゃったのかな?」
「あなた、収容対象者でしょう、直ちに収容房に戻りなさい」
銃を取り出そうとするが握られている側のスカートのポケットに入っていて取れないことに気づく。まずい。
「そんなことどうでもいいじゃないか、こんなに君は美しい、美しいのに…」
奴の顔が気持ち悪い程に緩んでいく、目は虚になり緩んだ口から涎が垂れており、整った顔は見る影もない。ふと下を見ると股間が膨らんでいることに気づき、吐きそうになる。早くこいつから離れないといけない。しかし右手を折れそうなくらいに掴んでいて外れない、今すぐ右手を切り落としたくなるがそれも出来やしない。

「今すぐ博士から…」
こちらを向いて銃を構えた職員が急に押し黙りこちらを見つめてくる、その目はさっきの奴のように虚ろになり、例によって股間がみるみるうちに膨らんできた。私か?私に何かあるのか?
「お前一体何をした!私に何かしたな!」
詳細は分からないが私が何らかの視覚認識災害になっていると直感した。顔か?顔に何かしたのか?
握られていない手で咄嗟に顔を覆い隠した。

衝撃

「お前何やってんだよ!その美しい顔を俺に、みんなに見せろよ!」
必死になって顔を隠そうと抵抗するが恐ろしい力で殴りつけられる、俯こうとしても髪を掴まれ引き上げられる。
髪がぶちぶちと数十本くらい引きちぎられ、激痛で頭が真っ白になる。痛みと悔しさで目から涙が溢れてきた、どうして、何でこんなことに…
しかし、これで確信した。私の顔が認識災害の元凶だ。

バタバタと足音がする。武力収容部隊がやってきたのだ。
「私の顔が認識災害です!私の顔を見るな!」
状況を大声で伝える。早くこいつを何とかしてくれ!

男はふと殴るのを止めた。

「そうだ、いいこと考えたぞ、そうしよう。顔のない君なんて何の価値もないんだ」
何かぶつぶつ言っているが今のうちだ。
視覚認識災害対策装備を装着した収容部隊がテイザー銃を構える、私ごと撃つようだ。襲うだろう痛みに身構える。

瞬間、これまで経験したことのない激痛に足の力が抜け、倒れこむ。しかし、手放すはずだった意識は浮遊したまま残ってしまった。
気絶した方がよっぽどマシなのに。クソ!痛い!
体が麻痺して指一本動かせない。痛みに怨嗟の声が漏れそうになるが喉も麻痺して何も言えなかった。
顔に布の感触が伝わってくる。

「収容違反対象者及び認識災害罹災者である般若博士を無力化しました。対象者顔面に遮蔽布を被せました。状況を確認します」
「映像を送付します…認識災害の兆候がないことを確認。目視にて確認します」
「…収容違反者と不審者です。白衣を着ていますが般若博士ではないようですね。般若博士の捜索を継続してください」
「不審者の顔を確認します」

意識が朦朧とする中、部隊員たちが何を言っているのか理解できなかった。

布に手がかかる

やめろ

私の顔を

見るな


何人もの部隊員に不可逆的な認識異常を与えた末に、"よくある"異常性オブジェクトとして一時的に収容された私はかつて私自身が行ってきたような調査、実験を繰り返された。収容違反した現実改変者の気まぐれは不幸中の幸いであり、「視認された顔の面積に応じて好意の度合いが変化する」という制御可能なアノマリーとして私は生きていくことになった。顔を隠すことで好意ではなく嫌悪感が助長され、完全に遮蔽した場合強制的に"不審者"として認識されるらしい。部隊の不可解な行動はこの異常性の結果であり、今後晒す顔の面積が厳密に定められることになる。
私の顔に異常性を与えた男に異常性を戻すように交渉をしたが不可能だったとのことだ。もっとも、本当に交渉されたかどうかすら私のセキュリティクリアランスでは知ることはできないのだが。その男も非協力的な現実改変者として適切な末路を辿ったらしい。これは多分本当だろう、いい気味だ。

こうして私は「異常保持職員」となった。

異常保持職員のオリエンテーションを終え、一応は職員として復帰したがもう前と同じような仕事ができるかどうかは分からないらしい。人間扱いしてくれるだけマシと考えた方がいいだろうが、まだ私の中に残る"人間"としての尊厳が私を苦しめる。


『出所』してすぐ、前原博士から連絡があった。

from:前原愛
件名:飲みましょう
瞳ちゃん、災難な目にあって気の毒に思います。
でもちゃんと財団職員として戻ってきて嬉しい。
帰ってきて早速だけどまた飲みましょう。お姉さんが愚痴でも何でも聞いてあげるわ。
追伸:あの質問やっぱり意地悪よねえ。

かれこれ数ヶ月も知人に会っておらず、色々と溜まった鬱憤を飲んで晴らすにはちょうど良いタイミングだった。当然二つ返事で快諾した。

財団外に勝手に出ることは許可されていないので食堂での飲み会となった。久々に見覚えのある後ろ姿が見られてほっとする。
「ご無沙汰しています、前原さん、こんな姿になってしまいまして…」
話しかけながら、恥ずかしがる必要などどこにもないのに何故か気恥ずかしい気分になってしまった。未だに私の顔半分を隠している般若面は自分にはあまり似合っていないように感じている。
「ええと…誰でしたっけ」
「ああすみません、般若です。般若瞳です」
やはり顔を知っている程度ではすぐには分からないか。少し悲しくなった。
「ああ、般若さんね。そうか、こうなったのか、なるほど」
前原博士は一瞬真面目な面持ちとなったが、すぐに顔を緩めた。

久々の挨拶もそこそこに、私はビールの小ジョッキ、前原博士はビールのピッチャーで乾杯する。ああ、戻ってこれた。
「まさか自分が異常保持職員になるなんて、覚悟していなかったわけではないんですが、それでも辛いものですね」
「異常性のせいで顔を隠さないといけない人は何人かいるわね、虎屋博士とか海野くんとか。海野くんは結構辛い思いをしたみたい。般若さんもかなり辛かったでしょうに」
「未だに腹が立ちますよ、認識災害のせいで超絶イケメンに思えたのが余計に」
「へーイケメンに見えたの、あの不細工がねえ。一応報告書は見させて貰ったけど、酷いもんねえ」
あいつは顔に関して視覚的な認識異常を起こさせることができたらしい。自分の顔もそうやって美形に見えるようにしていたが、実際は並み以下の顔だったとのことだ。ファーストキスを奪われたのが腹立たしくて仕方がない。
当初奴は"写真と実際とで顔が違う"という異常性からAnomalousアイテムとして分類される予定だった。現実改変能力が判明する前に収容違反が発生してしまったのだ、不運としか言いようがない。

「実はあの日、ちょうど眼鏡を取ってお洒落してたんですよ。仕事が終わったら前原さんにも見てもらいたかったのに…」
「結局見れずじまいか、そしてもう見られないと」
正直なところそれが最も悲しく思うことではあった。これから先私の顔を見るのは終了予定の人間だけだ。
「うーんそうか、般若さんも異常保持職員になっちゃったか、差別する気はないんだけど、どうしても"向こう側に"行ってしまったという気がしちゃうわね。
「仕方ないですよ、あれこれ言っても仕方ないわけですし」
「まあ今まで通りお願いするわ、改めてよろしく、般若さん」

違和感がある。

「こちらこそありがとうございます。また飲みましょう」


前原博士と別れて部屋に戻る。戻る道すがら違和感の正体について考えていると、しばらくして理由を理解した。
「あ、呼び方が違うのか」
と、ついひとりごちた。
瞳ちゃんから般若さんへ、ああそんなことかと思った瞬間これまで経験したことがないほどの悪寒が胸を駆け巡った。

前原博士の私への好意を操作してしまった。

ああああ、と力ないため息が一挙に漏れ出す。
私が"人間"だったころからの好意を異常性で上書きしてしまった。新人の頃から育んできた自然な好意はもはや二度と戻ってこない。
分かっていたことなのに、それでも途方も無い喪失感に愕然として立ち尽くしてしまった。

頭の整理に数分を要した。
済んでしまったことはもうどうしようもない。何もかも戻ることはない。
これから先会う人間の私への感情は全て上書きされていくことだろう。
私に好感を持っていた人、疎んでいた人の全てが私の顔を見た時点で均質な思いを抱くことになる。
両親や古くからの友人に会えないことはある意味幸せなのかもしれない。心のどこかで抱いていた『仮面さえ被れば問題ないだろう』という希望は打ち砕かれた。
これから先、恐らく死ぬまでこの異常性と付き合っていかなければならない。

順応しなければならない。私はもう人間ではない、怪物なのだから。


「前原です、B-████、般若博士に関する調査報告を行います」
「先ほど実際に会ってきました。顔も確認しています」
「以前は『よく飲みに行く仲のいい後輩』でしたが、今は『たまに話をする知人』のような印象ですね」
「やはり精神的に少し不安定かもしれません、投与する精神安定剤を増やした方がよいでしょう」
「隔離措置は今のところ不要でしょうね、予定通り現状に慣れさせて職員として勤務させる方が合理的でしょう」
「対人業務に加えて以前のように低脅威オブジェクトの研究をさせるのが良いと考えます、彼女は研究者としては優秀な部類に入りますし、精神的にも安定するでしょう」
「友人としてではなく、財団職員としての意見です。友人としてはむしろ収容した方が彼女のためだと考えています」
「報告を終わります」

報告を終えて一息つく、スパイじみた仕事はどうも好きになれない。

「…お酒をおいしく飲める人が減っちゃったわね」

異常保持職員に対してどう処置するかは未だに厳格には決められていない。収容するか勤務させるかの判断基準は一応存在しているが、それ以降どうするかは各ケースによって異なっている。
そもそも異常性に罹災した職員を雇用し続けるのは異常性のない職員の士気低下を防ぐ目的もある。四角四面に全て収容するという措置を取っていた時期もあったが、異常性が伝染するタイプのオブジェクトに対する研究の進捗が鈍くなったという結果が得られている。誰しも自分が人間扱いされなくなるという危険性にはたじろいでしまうものだ。

檻の中に最も近い者は檻を管理する看守なのだ。

「明日は我が身、か」

白は黒に容易に変わり、黒はもはや白くなることはない。
ならば、長期的には黒が盤面を埋め尽くすことだろう。
異常性のない職員が少数派になったとき、財団の姿はどうなるのだろうか。
異常性に上書きされた財団は世界の正常性を保つことができるのだろうか、答えは出ていない。

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