I am a cat
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私は猫である。名前は覚えていない。
どこで異常性を受けたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でイヌハッカと戯れていた事だけは記憶している。私はここで始めて財団というものを見た。しかもあとで聞くとそれはブライト博士という人間中で一番獰悪な男であったそうだ。


日だまりの先、サイト-77の廊下を疾走する銀色があった。
その影はあわただしく書類を運ぶ研究員の足元を、頭の上を、そして胴の横をすり抜ける。一人の研究員が、書類を廊下へとばらまいた。
そうしてある扉の前で立ち止まると、その銀色は濁声を一つ、二つとあげた。
すると宝箱が開いた時のようにー――軽快なファンファーレは鳴らないがーーーロジェ博士のオフィスは開かれた。

「お帰り、ブレア。もうそんな時間かい?」

そう言ってその扉を開いた部屋の主は、愛おしげに銀色を抱き上げた。その行為に対し、ブレア・ロス博士は不機嫌そうな呻き声をあげる。
その声を聞いてもなお、彼は穏やかな笑みを浮かべている。ブレアは嘆息した、が。

「実は今日は君が好きなツナ缶を用意したんだ、それでね……」

ロジェのそんな一言と、彼女の鼻がモンマルシェの芳醇な香りを捉えた瞬間、ブレアは再び銀色の弾丸となりて、段ボール箱で出来た問題児の砦へと突撃した。砦が一際大きく揺れた。
匂いを頼りに砦の中をくまなく探せば、クリアケースによって遮られた空間の奥、彼女の大好物であるツナがそこに盛られていた。しかし、そのクリアケースを開こうとブレアが前足を伸ばした時、無機質な機械音声が鳴り響いた。

「このクリアケースの開閉にはセキュリティクリアランス1が必要です」

即座に反転、彼女は再びロジェの足元へと突っ込んだ。
今度は喉を鳴らし、彼の足にすり寄り、脛に頬をこすりつけて、あらん限りの愛嬌を振り撒いた。すると、「開けてあげたい所なんだけど」と、ロジェ博士はロス博士を抱き上げ、自身のデスクの上へと座らせた。
怪訝そうな表情でこちらを見つめてくるシルバータビーの猫に、彼は自身の足元を見るように指差した。そこには「バーンズ博士へ」との簡素な宛先が書かれた茶封筒が敷かれていた。

「これをバーンズ博士に届けて欲しいんだ。君はとても足が速い」

しかし茶封筒には目もくれず、相変わらず眉間にしわを寄せてロジェ博士を見つめ続けるブレアに、彼は困ったように笑って言った。

「いや、なに。申し訳ない。彼の事が苦手なんだ。治療要員と、死体管理人は相性が悪い」


茶封筒を咥えた銀色が、再びサイト-77の廊下を疾走していた。サイト-19に続くゲートはもう目と鼻の先にある。今、通過した。
サイト-19はサイト-77と同じく、慌ただしく研究員が歩き回っていた。再びロス博士は、研究員の足元を、頭の上を、そして胴の横をすり抜けていく。そうして暫くが経った頃、あれだけあった人の気配が、ぽつりぽつりとしか感じられなくなった。
それもそのはず。
曰く、「ここに用件のある職員など、よほどの物好きか死人か」。サイト-19死体安置場、リビングデッドのゲートの前にどちらでもない職員は四足をついて辿り着いた。
そこでロス博士はこの任務の中で最も困難なインシデントに遭遇した。彼女はその身体構造上、ゲートを自力で開ける事ができない。
このインシデントをクリアするためには他の人手が必要だ。しかし、死体安置場の周辺にあるのは人ひとり見えない孤独だけである。
ただ、そのインシデントは「第二者」によってすぐにクリアされる事となる。

「やぁ、ロス博士だね。入ってくれ」

扉が内側に開き、優しげな笑みが顔をのぞかせた。やせ形の、少し頬のこけた童顔の男性だ。
そのバーンズ博士のいかにも胡散臭い表情に、ロス博士はため息をつくような仕草を見せ、茶封筒をその顔へと放った。ただし、それが彼の顔に貼りつく事はなかった。

「おや、これはロジェからか。また医療部門で死体が必要になったのかな」

そんな彼女の態度に嫌な顔一つせず、そのままバーンズ博士は手前に落下した茶封筒を拾い、差出人を確認した。彼のそんな質問にも、ロス博士はそっぽを向いたままであったが。

「ありがとう、ミスブレア・ロス。せっかくだから私の研究室でお茶でもしていかないかい? ああ、もちろん君用のお菓子も準備してあるんだ」

茶封筒を白衣の内側にしまい、リビングデットから出てくると、バーンズは手を差し出して一人の男性として彼女をお茶に誘った。実のところを言えば、彼はブレアを一目見た時から非常に惹かれていた。実際の所、この手紙も自分から要請したくだらない物品共の資料に過ぎない。最も重要な要件は目の前にいる。

Meow

それは明確な拒絶であった。

シルバーの尻尾で彼の手を払うような動作を見せ、ロス博士はサイト-77への道を戻って行く。バーンズ博士は払われた右手を暫く見つめていたが、はっとした表情で廊下の先を見やった。既に彼女の姿はそこにはなかった。代わりに、背後から人間中で一番獰悪な種族の笑い声が響いた。

「フラれたな、バーンズ?」
「君が見ていたからじゃないのかい、ブライト」

嘆息、凝視。不機嫌を隠す事ないバーンズの目線に、どこから現れたのか、ブライト博士はおどけるように肩をすくめた。首元のネックレスがゆるやかに揺れる。

「そうでもないさ。俺がここにいようといまいと結果は変わらない。不健康そうな死体いじりが趣味のヲタクはお呼びじゃねぇってさ」
「それはどうだろうね。君より顔がいい自信はあったんだけど」

軽口を叩きながら、ブライトは死体安置場の扉を背もたれにして寄りかかった。バーンズも同じようにして、自身の研究室の扉に寄りかかる。そこに明確な境界線は存在しないが、彼らの距離感は常にこの程度の位置関係を保っていた。

「実はな。あれを見つけたのは俺なんだよ」

暫くの静寂の後、あくどい笑みを浮かべて話し始めたのはブライトであった。

「見つけたのも俺、拾って財団に持ち帰ったのも俺、偽名をつけて詐称した経歴をでっちあげたのも俺だ。管理はロジェに一任したけどな。猫が職員である事自体が愉快だ。それに、ロスなんて名前は彼女にピッタリだっただろう?」

壮大な悪戯のネタばらしをする子どものように、楽しそうに話すブライトをバーンズはただ無表情で見つめていた。恐らく、彼が死体安置場の扉に寄りかかってさえいなければ、すぐにでもその中へと戻って職務を続けていたであろう。

「では、元々人間であったという経歴も詐称か?」
「いいや、それだけは本当だ。それは保証する。俺の保証でお前が満足するかどうかはまた別の話だけどな」
「それが事実であるのなら構わない」

バーンズ博士は真に彼女に惹かれていた。
それは、「全てを失ってもなお、生きる人間は死体とどう違うのか」という点においてだが。

そうして、質問への回答を聞き届けたバーンズ博士は仕方なく研究室に戻るために扉を開いた。が、次のブライトの一言に再び彼は背後を向く事となる。

「教えてやろうか。ブレアは多分、こう言った。『そちら側じゃない』。もちろん俺もな、バーンズ?」

ブライトは肩越しに親指で、自らの真後ろを指している。勝ち誇ったようなその表情に、バーンズはささくれだって、勢いよく研究室の扉を閉めた。「こわい、こわい」とブライトはおどけてまたどこかへ消えていった。


問題児の砦の中で、モンマルシェのツナ缶を頬張りながらブレア・ロスは考える。

最初に失ったのは人間性であった。
自らの体が思うように動く事はなくなってしまった。体は中毒のようにイヌハッカを求め、ツナ缶に釣られて踊りだすようになってしまった。

次に失ったのは両親指であった。
これに関しては気が付いたら激痛と共になくなっていた。その痛みにのたうちまわっていた事だけは覚えている。

更に失ったのは思考であった。
かつての職場のようにクリアな思考はノイズがかかったように、ぼんやりとした記憶へと変換された。かつて存在していた恋人の顔と名前はもう思い出すことはできなかった。

しかしこれだけを失って、ただそれでも、彼女は「死体」のようにある事だけは望まない。それは最低限彼女に残された―――明確な失った者と亡くなった者の違いである―――意思であった。


私は猫である。何もかもはもう、ない。それでも、迷う事はない。I am a cat,And I am Roth.But I am not lost.


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