インメモリアル
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「ホイーラー主任!ホイーラー主任!」

マリオン・ホイーラーは予定されていたSCP-8473の観察をつい先ほど終え、煙草を一服しに行こうとしていた。彼女が立っていたSCP-8473の収容ユニットの出口に向かって、一人の職員が駆け寄る。彼女はエリ・モレノ博士、半年前に部門に加わったばかりの、訓練中のフィールド研究員だ。

「モレノ博士。どうかしましたか?」

「ええと。」モレノ博士は不安そうに指を絡ませる。彼女はホイーラーより頭一つ分背が高く、年齢は半分程で、モジャモジャの頭髪とやたらと分厚い眼鏡が目につく。経験不足ではあったが、頭の回転は速く、素晴らしいペースで学習していた。もう一年も経てば、彼女は現状で最高の、あるいは部門史上で最高の戦力となるだろう。ホイーラーはそれを期待していた。彼女は能力のある人間をこの上なく愛していた。

しかし彼女が話し始めるのを待つ時間が長引くにつれ、大成の日は遠ざかるように思われた。「モレノ博士。私の下で働くのであれば、もう少し早く要点に移ってもらいたいものですが。」

「あの ― サイトの裏の森に、岩があるんです。」モレノは言葉を吐き出す。「巨大なものです。摩天楼のように、太陽を遮っています。私の言っている物を分かっていただけますか?」

「ええ。」

「しかしあんなものは見たことがありません。どうして今まで見たことが無かったのか理解できません。サイト全体を影が覆っているんです。つまり ― あれはずっとそこにあったと?」

「ええ。」

「こうなったのは ―」

「― そうです。貴方が実戦級の記憶補強剤の定期服用を今朝から始めたのが原因でしょう。」

モレノ博士は不安を露わにする。「そんな仕組みなんですか?あんなに大きなものがドンと建っていて、誰にも見えないと?」

「ええ。」ホイーラーは時計を一瞥し、予定していたスケジュールを脳内で前後させた。今の"煙草休憩"は午後一杯に延長。SCP-3125の定期検査はそのまま。昇任案件の確認はジムの前でなく後に。夕食の時間は…この調子ではやってこないだろう…

モレノ博士は尽きぬ疑問に押しつぶされそうになりながら、ようやく、「あれは何なのですか?」と尋ねる。

ホイーラーは左手の廊下の先を指し示し、散歩に出るつもりであること、そしてモレノ博士にも同行してもらうことを言外に彼女に伝えた。「実物を案内します。」

*

データベース上の名前はSCP-9429。アクセス権限を持たないモレノは、報告書を読んでいない。

それは単一の岩からなる、無傷の、91m×91m×147mの直方体だ。太古の時代から風雨に晒されてきた、黒の玄武岩だ。ほんのわずかに北の方角に傾いている。頂点の角度は一定で、掘削によって造られた人工物であることが見て取れる。それはサイト-41の東に広がる森林からせり上がっていて、東側の窓からの眺めを妨げるどころか、完全に遮っていた。その体積はサイトよりも遥かに大きく、地下構造を含めたとしても比肩することはない。迫りくるような高さだ。見逃しようも無い。そんな存在を少しの間でも気付かなかったとなれば、少なからず心を乱されるものだと、ホイーラーも認めざるを得ない。

ホイーラーはモレノを連れて、石柱の境界部に至る短い獣道を歩く。そして彼女は右に曲がり、境界部に沿って影の中の道を歩く。その日は雨模様で、辺りに生える針葉樹からだけでなく、直方体の頂上の辺々からも雨粒が滴り落ちていた。雨はシャラシャラと音を響かせ、他の全ての音を掻き消していた。

「石柱は軽度の反ミーム隠蔽効果に覆われています。」先頭で道を選びながら、ホイーラーはモレノに説明する。「殆どの人にとっては実質的に透明な存在です。貴方も既にこの辺りの丘を登ったことがあるでしょう。高台からなら確かに石柱が見えたはずですが、視線はそこに何も無いかのようにすり抜けます。そういった性質です。石柱に近付いた人間に対しても類似した効果が発生します。そちらはより強い反ミーム効果です。私や貴方が処方されている記憶補強剤すら貫通する強度です。」

「では、この会話も忘れてしまうのですか?」モレノは訊く。

ホイーラーは使い古された小さなノートと安物の青いボールペンをかざす。モレノは理解した。彼女もノートとペンを持っていた。情報抑制の機構は複雑かつ多様だ。記憶や電子データやラジオ波だけでなく、可聴音まで抑制する異常領域から、手書きの文字だけが生き残ることもある。義務的に持たされる財団支給の"ブリック"携帯だけでなく、反ミーム部門職員は日頃からインスタントカメラやテープ式の録音機、ノート、通信機等を持ち歩いていた。

モレノは、それが今日必要になるとは思っていなかった。

「でも」ホイーラーは続ける。「隠蔽効果の副影響で、正確な道順は分からないわ。道標を置いておくことも可能でしょうが、どういう訳か誰もやる人がいない……反ミーム効果ではなく、単なる怠慢なのは明らかね……ふむ、ここから登れそうね。」

二人は石柱の側面に開かれた通路に辿り着く。正確に言えば、通路というよりも途方もなく深い溝で、底面から頂上まで続いていた。頭上を見上げれば曇り空が一筋だけ見え、前方には頂上へ続く階段がある。ホイーラーは階段を登り始め、モレノもそれに続いた。二人は数分間、黙して階段を登る。モレノは途中で何度か立ち止まり、ノートを降りかかる小雨から守るようにしゃがみ込んだ。メモを取り終わる度に彼女は、無遠慮に一定のペースで歩いていたホイーラーに追いつくために足を速めた。

モレノが段数を数えることを諦めてから暫く経った頃、二人は溝が90度左に折れ曲がった角に辿り着く。階段は更に続いている。ホイーラーはそこで立ち止まり、モレノを見下ろしながら、試問を投げかけた。

「これまでに分かったことは?」

「この場所は一体?」モレノは訊く。

「貴方が考えるのよ。」

「ええと。」会話の流れを掴めていないモレノは、暫く躊躇う。彼女はメモを確認した。「そうですね。地質学的に、この岩は外来のものです。最初は、この地点にあった山を人の手でこの形に切り出したのかと思っていました。しかし岩の種類が不自然です。一帯の山々のものとは違います。この種の玄武岩を見つけるには、ここから最低でも500キロは移動しないといけないでしょう。つまり別の場所で切り出され、ここに運ばれてきた。」

ホイーラーは黙っていたが、その佇まいから、モレノが正しい方向に進んでいることは読み取れた。

「ありえません。」モレノは続ける。「一塊の岩なんです。寸法と密度から推算するに、質量は300万トンを超えるでしょう。それも切り出した後の状態でです。実行不可能です。人類文明はこの大きさの物体を動かすことが出来ません。少なくとも分割しないことには。技術が存在しないのです。」

「正解。」

「それではどうやってここに?」

「良い質問ね。」

モレノは続きを待つ。問いへの答えを持ち合わせていなかった彼女は、ホイーラーがそれを提供してくれることを期待した。

しかしホイーラーは答えない。「他には?」

「……彫り込みがされています。」モレノはそう言って、階段通路の壁を指した。「道具を用いて。外側の面も同様でした。相当に摩耗していますが、そこらの動植物の残渣の間を見てみますと、明らかに、一定のパターンがあります。ここに、見えますよね?小さな縦長の長方形が。例えるなら……古いパソコン端末のブロックカーソルのような。」

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「あるいは印刷用語で言う"墓石(tombstone)"ね」ホイーラーはそれとなく言い足した。

モレノは瞬きをする。「……はい。一定の並びです。丁寧に形作られたもので、現代の水準から見ても良質なツールが必要になるでしょう。おそらく、この模様は石柱の表面全体を覆っていたのだと思います。もしそうであれば、この小ささの四角がこの巨大な岩を完全に覆っていたとすれば、元々の数は億を超えるでしょう。」

「正解」ホイーラーは再び言う。「他には?」

モレノは一分程黙り込んだ。彼女は雨模様の空を見上げ、石柱、それよりも彫刻と呼ぶべきか、その場所がもたらす雰囲気を思い返した。孤独感、静寂、隔絶、畏敬……威圧。そしていくらかの恐怖。しかし、その威圧的な、恐ろし気な雰囲気にも関わらず、危機感が呼び起こされることは無かった。脅威ではない。

「我々はかつて、強大な文明を築いていた。」彼女は声に出して言った。

ホイーラーはその言葉を聞き取りながらも、質問を返すことはしなかった。満足したように、彼女は振り返って再び階段を登り始め、モレノはそれに続いた。

通路はその先で更に何度か折れ曲がり、直角で構成される不規則な折れ線を描いた。モレノはそれ以上メモを取らなかった。頂上に着いた頃になると、彼女の膝は限界を迎えていた。

通路を抜けた二人は眩しさのあまりに目をしばたたかせ、わずかに傾いた、雨に濡れている吹きさらしの足場に立った。足元に目を向けると、そこにも小さな墓石形の彫り込みが並んでいた。直方体の縁辺は少し離れたところにあったが、明確な印はない。濃灰色の平面は遠からぬ位置で直線状に途切れていて、下方の水平線を覆い隠している。平面が角の一つに向かって傾いていることや足元の彫られた玄武岩が滑らかで今なお濡れ性を増していることも手伝って、モレノは若干の目眩を覚える。

財団の科学機器は小ぢんまりと寄せ集められ、大型の耐候設備はパイプテントの下に積み上げられていた。テーブルがあり、その上にボコボコに痛んだコンピュータ端末が電源を切った状態で乗っていた。少し離れたところにはディーゼル式の発電機があった。

ホイーラーは機械類を無視し、別の方向に足を進める。彼女はモレノから顔をそむけ、空を眺めながら、ライターで何かに火を点けるわけでもなく、手元でいじくり回していた。正確にはライターというより、ストーブ用のプロパンガスバーナーと呼ぶべきそれは、生前の母親から渡されたものだ。しかしホイーラーはその事実を覚えていない。

モレノは寒さに耐えるために腕を体に回し、雨に濡れながらホイーラーを待った。彼女が天幕の下に避難する様子はないので、モレノもそれに従った。何かが起ころうとする予感があった。ホイーラーはどちらかと言えば落ち着いた人間で、考えていることが読み辛い傾向があったが、どことなく不安そうにしていた。不機嫌、と言っても良いかもしれない。熱心にライターの炎を見つめる彼女は、モレノと目を合わせることを避けているようだった。この先に何が待っているにせよ、会話を進めてそれを口にするのが躊躇われるかのように。これはオリエンテーションだろうか?通過儀礼?それとも新人いびり?

要点は早く述べろと言ったのは彼女ではなかったか。

「これは記念碑です。」モレノは言う。

「ん。」ホイーラーはライターをカチリと閉じてポケットにしまう。表情からは若干の感心が見える。あくまで若干のだが。「そう。当然ね、私が墓石を話題に上げた時点で教えたようなものですし ―」

「これまでに何度の反ミーム戦争が起こったのですか?」

彼女は感服した。「あーあ。長めの演出に凝ることも無かったかしら。誰かに教えてもらった?報告書を読んだ?」

モレノは自分の足元に視線を向ける。「ええと。いいえ。この場所を見たのは初めてです。単なる推測です。」

「貴方、恥ずかしそうにしていない?」ホイーラーが言う。「私が想定していたより30分早く正解にたどり着いたのが恥ずかしいのでしょう。私の鼻を明かしたから。ねえ?エリ、こちらを見て。」

彼女は見た。

「その成果を出し続けなさい。私のためにも、誰のためにも、決して足を緩めたりしてはいけない。大切なことよ。」

「私達がどうしてここに来たのか、教えていただけますか?」それが最後の質問になることを祈って、モレノは訊いた。そして彼女の頭の片隅で、死に至る思考の連鎖が始まる。

*

「問題は」ホイーラーは語る。「高品質な記憶補強薬剤を安定的に摂取することの出来るこの世界の全ての人間が、ここで、私の下で働いていることです。そして部門は絶望的に人員が足りていない。貴方と私を含めて四十人。四十人分の目ではどうしても足りません。その人数で一度に世界を見渡すことは不可能です。この世界の莫大な割合を、人類は正しく観測することが出来ていません。この制約は、あらゆる反ミーム的研究に影響を及ぼしています。反ミーム生物学。反ミーム古生物学。反ミーム宇宙論。反ミーム考古学。これらの枠組みの全てが、辛うじて存在しているのみです。どの場所にも存在しないのです。」

「それでも、我々はこの文明が残した都市を見てきました。一つか二つは今も存在しています。見つけられたのは単なる幸運です。部門所属の研究員が休暇を取る。薬の効果が切れぬ間にネバダで車を走らせ、水平線の向こう側に何かを見つける。そんな偶然によって。都市は物理的に破壊されていて、重度の反ミーム影響が辺りを覆い尽くし、我々の目を以てしても、研究の対象とすることは不可能に近いです。巨大な、単純な構造、例えばこの石柱のような存在はより残りやすかったようですが、それでも……。我々の考えでは、この石柱は彼らが絶滅するまでの期間の中でも最後の時期に造られたものです。」

「彼らは人間でした。おそらくは我々よりも高い技術水準に達していたのでしょう。何万年前に、もしかしたら何十万年前から存在していたのかもしれませんが、確証はありません。彼らの文明のミーム複合体は一片も残らずに抹消され、実際に起きた出来事を推測することは困難です。文化の中心概念や、彼らの作り出した物、彼らが守ろうとした物、価値を見出した物、何れも知ることも伝えることも出来ません。」

「彼らの文明に入り込んだのは、防御的適応がされてこなかった一つのアイデアだったのだと我々は考えています。アイデアの複合体が入り込み、ミーム複合的/Keterクラス世界終焉シナリオを引き起こした。」

ホイーラーは黙り込み、続く時間を雨音が支配した。

「……それでそのまま忘れたのですか?」モレノが訊く。「残された人々の全員が。戦争を生き延びて、現生人類になった人々が。貴方も私も皆も。目を向けなくなった?歩き去って'前に進んだ'と?」

「ええ。」

モレノはよろめく。悪化する眩暈が彼女を翻弄していた。「何億人の人が死んで、私達はただ忘れた?それが私に見せたかった事実ですか?それを書いておけと?」

「はい。」ホイーラーは言う。「そう書いてください。本日最初の教訓です。人間はどんな事実でも忘れることができます。忘れることは必ずしも悪いことではありません。我々は定命で有限なのですから。しかしこの世界には、何があっても我々が記憶し続けなければならない事実があります。記憶という行為は重要です。覚えていられるように、自分へのメッセージを書き残してください。」

モレノは頷く。降雨があまりに激しかったので、彼女はテントの下に退避してテーブルに着いた。その状態でさえ、幾つかの雨粒がノートへ飛び散った。彼女は熱心に、迅速な筆記をしばらく続けた。急ぎで書かれた文面は洗練とは程遠く、多くの文字列に打消し線が引かれていた。この文を初めて読んだ自分が何を思うだろうか、と彼女は想像した。

少しの時間が経って、ホイーラーも天幕の下に移動した。

モレノは文章を見つめながら、ホイーラーに向かって、既に自分が答えを知っているであろう質問を投げかけた。「二つ目の教訓は?」

ホイーラーは言った:

「彼らの文明は、財団に相当する存在を保有していたと考えられます。反ミーム部門を保有していた可能性もあります。もしそうだとすれば、彼らの財団は、彼らの反ミーム部門は、失敗したのでしょう。」

「現実世界は広大です。財団は巨大な組織です。多くのKeterと多くのKeterクラスシナリオが存在します。最終的に、世界の終わりは他の部門の責任になるのかもしれません。そして、ええ、貴方がこれから行う仕事の大半は基礎研究です。これ以上の安全を望めないような実験作業です。数千年を生きてきた我々は、さらに数千年を生き延びるかもしれない。」

「そうはならないかもしれない。責任は我々の部門のものとなるかもしれない。先の質問に改めて答えるならば、我々が存在を知る反ミーム戦争が一つあります。他に、我々の知らない戦争が起きた可能性があります。そして、疑いようも無く、新たな戦争がやってきます。」

モレノは言葉を返さない。彼女は動揺し、打ちのめされたように見える。当然の反応で、ホイーラーもその反応に馴染みがあった。これこそが、反ミーム部門の全ての新人職員にとってのオリエンテーションの過程なのだ。責務の重大さは受け止め難いものかもしれない。そうでなくてはならない

「反ミーム部門へようこそ」ホイーラーは語りかける。「今日は貴方の初日です。」

*

モレノはもう暫く筆記を続けた。ホイーラーは静かに、終わりを待った。雨はまだ降り止まない。

「結局それは何だったのでしょう」モレノは尋ねる。「どんなアイデアだったのでしょうか?」

「SCP-9429-A」ホイーラーは答える。「ミーム複合体の隔離は70年代には達成されました。地下二階のベガスルームに、石板の形で保管されています。今となっては殆ど無害なものです。それは現生人類にとってあまりに異質な概念です、殆ど意味を成さない程に。ヒエログリフのようなものと思ってもらえれば。またいつの日か実物を見せましょう。」

「ヒエログリフなら読めますよ。」モレノは言う。「つまり、その概念が戻ってくることは無いと?」

「そのままの形で、ということであれば可能性は極めて低いでしょう。」

モレノは遠く、空の向こうを指さす。

ホイーラーはその方向を見遣った。そこには何もない。曇り空と降雨が視界を占めている。「何が見えているのですか?強力な記憶補強を受けた状態だと、この周辺で幽霊を見る者もいるそうです。それらしきインタビュー記録も残っています。私個人の考えとしては、その実在性は不確かなものですが……」

「いいえ。幽霊のようには見えません。見た目は……痩せ細った……怪獣のような。化け物です。蜘蛛で出来た塔です。この石柱よりも背が高い。少なくとも2倍の高さがあります。こちらに近づいてきています。これは通常あることですか?」

「いいえ。」ホイーラーは既にチェックリストに視線を巡らせていた。

「これは何ですか?」

「分からない。」

「新人いびりの一環では無く?」

「いいえ。エリ、決して貴方に嘘を付いたりはしません。誓って。」反ミームで隠蔽された実体がモレノの表現するような化け物じみた風貌であるなら、それが温厚な性質である可能性は零に等しい。救援を呼ぶ必要がある。ホイーラーは携帯が圏外になっていることを認識する。モレノの携帯を確認するのは無駄であると分かりきっている。ここから伝言を飛ばす唯一の方法は、ここから手書きのメモを送り出すことだ。ここから林に向かって紙飛行機でも飛ばすべきか?

「しゃがみ込んでいます。おそらく私を見ています。」モレノは空中に向けた視線を下げながら言う。ホイーラーの認識する限りでは、降り注ぐ雨の中から空隙一つ見つけることもできない。「巨大な頭です。幅十メートルはあります。触覚と蜘蛛の足がそこら中から生えています。目が何十個も。いくつかは潰されています。誰かが頭に乗っています。」

「乗っている?その実体について教えてください。」

「白人男性、20代、痩せ型。ジーンズ、スニーカー、茶髪は汚れて伸びきっている。銃で撃たれている。体中から出血しているけれど気にも留めていないよう。銃痕は肝臓の所と、喉に、ちょうど鎖骨の少し上。笑っている。彼は…喋っている、'いいや。それは発生しなかった。'と。」

ホイーラーは僅かな間だけ思案した。銃創が相手を気味悪がらせるための意匠なのか、男が何らかの高等な反ミーム能力を駆使して致命傷を誤魔化しているのか。もし後者であれば、男はどのようにして状態を保っているのだろうか。しかし、より逼迫した問題が目下に迫っている。「男は貴方を見ていると?」

「はい。」

「私の方は見ていますか?私の声は聞かれていますか?」

モレノは硬直し、純粋な恐怖に支配されているように見える。「男は私が誰と話しているのかを知りたがっている。」

「教えないで。我々に関する情報は渡さない。分かった?」ホイーラーはウエストに引っ掛けていた無線機を手に取り、緊急ビーコンを発信させ、振り返って、可能な限りの力でサイト41本棟に向かって投げ飛ばした。運が味方すれば、無線機は無傷のまま地面に着地し、かつSCP-9429の影響領域から脱して、機動部隊を召喚してくれるだろう。「何者なのかを尋ねてください。」

モレノは静かに立ったまま、両腕を固く胴体に張り付けていた。「お前は誰だ?……と言っています……もうすぐ終わりだと。これから私を殺すと言っています。」

「冗談も甚だしい。エリ、聞きなさい。ここから逃げるわ。階段を降りて。石柱の影響領域から抜け出せれば、記憶は洗浄されるでしょう。」

「動けません。」

ホイーラーはモレノの片腕にしがみ付いた。動かすことはできない。「足を交互に動かして!」

「捕まっています。」モレノは目を見開き、過呼吸に陥っていた。

ホイーラーは彼女から手を離し、状況を観察した。纏わりつく蜘蛛足は見ることも触れることも出来ず、モレノが目を離せないらしい巨大な頭部も、騎乗者も存在しない。しかし彼女はモレノの言葉を受け止め、一定の「現実性」を伴って存在しているのだろうと判断する。彼女は横腹に手をやったが、そこにサイドアームは無い。この石柱はSafeサイトのSafeクラスオブジェクトで、手元にあるはずがないのだ。そして武装があったとして、幻の騎乗者が銃創を無視できるというなら大した意味は無い。目の前にある選択肢は決して多くない。罵言を吐き散らす衝動に駆られ、舌をギッと噛む。

モレノは悲鳴を上げる。

「エリ!」ホイーラーは叫ぶ。「それを見るのを止めて。私を見なさい。」

「出来ません。」

「貴方はもっと強いはずよ。」

「違う」モレノは泣き叫ぶ。

「貴方は最高戦力の一人よ。」ホイーラーは言う。「出まかせじゃない。貴方は他の誰も見ることのできない存在を見ている。それは貴方が誰よりも賢く強いということ。戦えるはず。侵襲訓練よ!」

「私達をこんなにも強く嫌っている。」モレノが言う。「考え通せない。見えない。お願い。お願いだからやめてください。」

ホイーラーは彼女を昏倒させた。彼女はモレノの背後に回り、肩を片手で支えた上で耳の後ろを殴った。モレノはその場でよろめき、膝から前方に倒れ込んだ。ホイーラーは辛うじて彼女の頭が地面に打ち付けられるのを防いだ。

しかし打撃は十分ではなかった。モレノはほんの一秒だけ無意識に落ちた。彼女は体を暴れさせながら目覚める。まるで悪夢から別の悪夢の中に目覚めるかのように。モレノはホイーラーの手を掴む。彼女は叫ぶことができない。彼女の心臓が止まる。

ホイーラーは彼女を仰向けに反してCPRを行ったが、ここの設備ではモレノの心臓を蘇らせられる可能性は極めて低い。

誰も来ない。無線機を投げた距離が足りなかった。

十五分近くが経ち、彼女は蘇生を諦めた。

*

あと二段を残してSCP-9429の影響領域から脱しようとしていたホイーラーは、通路の壁に倒れ込んだ。一体全体何を自分に向けて書き残すべきか、彼女は迷っていた。

あれは何だった?モレノはそれについて考えただけで殺された。彼女は私達の誰にも負けない能力を持っていた。彼女は誰よりも能力を持っていて、それでも十分ではなかった。最高の反ミーム研究者を食らう反ミームの怪物を一体どうやって倒せば良い?

対抗ミーム……それも一つの選択肢かもしれない。しかし研究を行うには隔てられた空間が必要だ。密封され、自己完結した、アーコロジー大の研究室。バート・ヒューズがかつて作っていたような。例えば……サイト41の地下にあるような。

ああ。私達は何年の間、この存在と戦ってきた?

彼女の背後で草木がざわめくような音が響く。彼女は振り向いた。昇り階段の先には、男が、モレノが形容した通りの騎乗者がいた。小汚い若者は敵意を露わに口元を歪める。事前に伝えられた通りに、二か所の銃傷からダラダラと出血していた。彼の靴は血に浸っていた。

彼は声を投げかける。「マリオン・ホイーラー!湖の借りを返しに来た。」

ホイーラーは立ち上がる。彼女は男の言う湖の件について知らない。しかし彼女は言葉を返さない。

騎乗者は身振りを行った。青と灰と黒の、大きさの様々な蜘蛛が角の向こうから連なって、通路を男の膝元まで埋め尽くし、肩越しになだれ込み、ホイーラーの方へ転がり落ちてくる。大群は、濡れた落ち葉のような奇妙で有機的な摩擦音を発した。数にして数百万はいるだろう。もしも彼女が蜘蛛に恐怖を覚える質であったなら、より一層の効果があったはずだ。

残念だ。彼女は今この実体について相当な知識を得ることが出来た。彼らには因縁があり、それは彼女を憎悪していて、それは人型の発声機構を備えていて……ついでに想像力が欠けていた。しかし蜘蛛の大群が彼女を覆い尽くすまでには一秒の猶予しかなく、一言を書き残す暇も無い。モレノの死は、無駄死にだった。

彼女は一歩後ろに下がり、境界を越えた。

*

雨はようやく和らごうとしていた。ホイーラーは煙草に火を点け、本棟へ戻ろうとする。SCP-3125の定期検査の時刻が迫っていた。

次回: CASE HATE RED

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