裏返った世界の中で 後編
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そして終わりがやってきた


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気が付くと、私は湖畔のベンチに座っていた。ちょろちょろと走るカワウソが私を心配げに見つめている。

「おはようイヴァノフ君、いやまあ、まだ夢の中なのだがね」

後ろから声を掛けられる。懐かしの冷戦時代の残滓、古めかしいビジネススーツを身にまとった男性が紙コップを片手にこちらへと歩いてくる。男性はゆったりとベンチに腰掛けるとコーヒーをゆっくり啜り深いため息をつく。

「随分と古いものを拾ってきたみたいだね、だがまあ、それの細部を暴くのは推奨しない。それは君だけでなく世界に影響を与えてしまう。」

私はカワウソを無造作につかみ上げて弄びながら男に言葉を返す。

「さあ、ミーム災害だとでも?だとしても最低限は把握しなければ私個人に社会的な被害が及びかねないのでね。」

「ふむ、どうしても知りたいというのかね?お勧めしないが……ふむ」

スーツの男性は肩をすくめコーヒーをすすりながら私の問いに言葉を返す。やれやれといった風情でコーヒーカップをゴミ箱に放り投げると丁寧に新聞を畳み立ち上がる。

「だがもしも、もしもまだ続きが知りたいなら今夜のチョイスはスティルトン1とヴィユー・ポンタリエ2にするといい、裏側を見せてくれる。」

男性はわざわざ畳んだ新聞をゴミ箱に向かって放り投げ、ぼやけた光の中にゆっくりと去っていく。

「そろそろ目を覚ます時間だ。ひどい頭痛にさいなまれるだろうが我慢したまえ、酒はほどほどに。」

ゆっくりと世界が光に包まれる……そして


2018年 1月5日  遺物サイト-221 エージェント・イヴァノフ

そして私は目を覚ました。

耳鳴りがする。ガンガンといやな頭痛が体が水分を求めていることを訴える。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し一気に飲み干すと引き渡すはずのケースをもう一度開けてみる。

寝る前と同じ形で手帳が収まっている、踏み込むべきか、踏み込まぬべきか……

あの夢がSCP-990であったというのであれば諦めるべきが賢明なのだろう、代替案で酷い目に合うのは目に見えているが、アブサンの甘すぎる酒精で先が見えるなら譲ってもいい。

私はただ無造作にケースを閉じると所定の手続きを踏んで全てを引き渡した。報告書を上げなくてはいけないがそれよりも先に私は酒の用意をした。さっさと早退してまた部屋に閉じこもる。

机の上にリボルバーを転がし、スティルトンとフランスの甘ったるいアブサンヴィユー・ポンタリエを気が遠くなるほどの時間をかけて消費する。

そして気が付いた時には私は夢に堕ちていた。


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気が付くとオフィスの一室でデスクについていた。微かな煙草のにおいと、何処からともなく響くタイプライターを叩く音が印象的なパルプフィクションのような部屋だ。

きしむ革製の椅子を揺らしながら目の前のデスクに目を落とす。お膳立てをしてやったといわんばかりに湯気を上げるコーヒーと葉巻が置かれ、例の手帳がそこにあった。私は躊躇いがちにコーヒーを一口飲むと手帳を開くと思ったよりも薄いアメリカびいきの味付けに顔をしかめながら続きを続きを読み始める。この際だ、奇妙な夢の中でなら誰も止めやしないだろう。


20██年██月██日 生物サイト-8102 34日目

数日ぶりに記録をつける。酒と医療用のモルヒネで現実逃避をし続けているわけにもいられなくなったからだ。世界を元に戻すか、もしくは何らかの手段で移動できるかもしれない。

一時的な水力発電機のショートによって一部の収容房のロックがオーバーライドされ幾つかのオブジェクトが収容違反を起こした。幸いなことに危険なオブジェクトはおらず殆どは射殺、もしくは収容することが出来たが、その時に奇妙な現象を目撃した。

SCP-655-JPというオブジェクトが通風孔を通って施設の外へ逃げ出すのをカワウソに取り付けられた小型カメラ越しに見た。日本固有種の鯉という魚らしいが、やつらは水の中を泳ぐように空を泳ぐ。当然この逆さの世界でも例外でなく、奴らは施設から逃げるように空へと泳いでいき……そして落下した。

そう、飛べるはずの彼らが落ちたのだ。15mほどの所だろうか?つかの間の自由を謳歌するように泳ぎ回っていたSCP-655-JPが漁船に吊り上げられて船倉に放り込まれるようにバタつきながら堕ちて行ったのだ。

そしてその時に監視デバイスに常駐表示されていたセキュリティーステータスの色が一瞬変わったのだ、メトカーフ非実体反射力場発生装置のステータスが落ちて行ったその瞬間、グリーンからイエローに変化した。ステータスはすぐに戻ったが、そのときに思ったのだ。世界が逆さなだけではないのかもしれない……と


SCP-655-JP、空飛ぶ肴についてはよく覚えている。一定数以上に増えたときに振舞われたものを食べたことがあるからだ。少し許可をもらって部屋に持ち帰ってきりりと冷えた日本酒美少年のお供にした。

軽く茹でたうえで冷水にさらして身を引き締めた切り身に酢とソイソースをブレンドしたソースをかけた洗いという料理だったな、また機会があれば食べたいと思う。

それはともかく、元来飛べるはずのものですら落ちる、そして落ちた瞬間実体のないものをとどめるエネルギーフィールドに異常が見えた。そこに気が付いたものがあったという事らしい。

いつの間にか中身が継ぎ足されているコーヒーを口に含みながら続きをめくる。


20██年██月██日 生物サイト-8102 36日目

サイトに残っていたSCP-655-JPを使って現状を把握するために実験を行った。

何処まで飛べば落ちるのか?その時力場はどのように作用するのか?自分の知っている限定的な知識を引っ張り出し、2匹の川獺をこき使いながら1日かけて出来る事をやった。どうやら私が生き残れているのはメトカーフ非実体反射力場発生装置によって限定的ながらも世界の法則が保たれているからという事らしい。この力場の外には酸素がなければ重力の方向さえも一定でない、ただ強制的に落下していくのみだ。

これはある種の救いでもあった。航空機に力場の発生装置を取り付ける事が出来ればこの世界の他の場所に行けるという事である。航空機はあった、力場の発生装置も現状のものを取り外して利用する事が出来る。増槽を取り付けて遠隔地への移動もできるだろう。だが問題があった……その飛行機はSCP-1129-JP、あのカワウソがオブジェクトとして扱われていた頃に共に回収されたものを補修した機体であった事だ。

つまりこういう事だ、その飛行機の操縦が可能な生物は人間ではなく……カワウソ専用の単座複葉機であったのだ。


20██年██月██日 生物サイト-8102 38日目

2匹のカワウソと私は1日かけて今後の方針を話しあい、そして一匹のカワウソが旅立つことになった。十分な水と食料を積み込み、追加増槽にまでたっぷり燃料を載せた複葉機を仕立て上げ、ドローンを使った予備実験の上でアメリカへ、少なくとも日付変更線の先へ送り出した。

この施設に残された長距離移動手段はこれですべて消えたが、やれるべきことはやった。
次は残された我々の行く末についてだ。


この後にはしばらくの間、とりとめのない記録が続いている。
様々な方法で他との接触を試みて、その度に失敗をしていったらしい、1日、1日と物資を食いつぶしていくさまが記録されており、日に日にできる事が少なくなっていくのがわかる。

結論から言おう、この世界のイヴァノフはこのサイトで息絶えた。世界を変えることなく、何も変わることなくだ。ただ人間としての尊厳だけは保ったまま人として死んだらしい。


20██年██月██日 生物サイト-8102 497日目

今日、残ったほうのカワウソが死んだ……老衰だった。私は駄目にならないうちに皮を剥ぎ、鞣し、メモを残した。

ただメモを保管しても誰にもわたらないだろう、せっかくだったら誰かに伝わるようにしたい。どのみち食料備蓄の底が見え始め、発電機の予備部品も尽きた。この施設はもう長くはないだろう、裏返った世界に残された誰かがいた記録を残しておくのも悪くない。

これから、私は発電機の動力となっている地下水脈に今に至るまでの記録を流そうと考えている。封印措置をしたケースを水中観察用の無人機に括り付けて行けるところまで、その先は流れに任せてみるつもりだ。運が良ければ世界が戻ったそののちに誰かが見つけてくれるだろう。

一仕事終えたらまだ残っている僅かな高い酒を飲みほした後、自分に片をつけるつもりだ。もしも誰かこの記録を読むやつがいたら一杯献杯してくれ。

コンスタンティ・アレクセイヴィッチ・イヴァーノフ


私は手帳を閉じる。気がつけばタイプライターの音は消え、オフィスのようなこの夢の世界は静寂に満たされていた。私はゆっくりと立ち上がると窓から外を眺める。

外は古き良きモスクワの風景が続いていた。薄暗い空、歴史の入り混じった街並み、警戒するように歩く民衆、かつての栄光を失いかけたいつも通りのモスクワだ。私は窓を開放しゆっくりと息を吸う、視界がゆっくりと薄れていく。世界は薄まっていき、夢と現実はまた曖昧なままに溶け合っていった。


2018年 1月6日  遺物サイト-221 エージェント・イヴァノフ

鳴り響くスマートフォンのアラームで目をさます。いつも通りのガンガンとする頭痛に顔をしかめる。

メールが何通も届いている、送った記録について、細かい報告書の催促、後処理についての確認、面倒な仕事についてだ。時計を見れば朝の十時を回っており見方を変えれば心配した誰かのお節介と見てもよいだろう。

私は瓶にかすかに残ったアルコールを飲み干すと服を着たままシャワー室へと歩いていく。冷水をひっかぶったらまた新しい一日に戻るとしよう、世界は今日も回っている。そして明日も回り続けるだろう。

だから、私は今日も保身に労力をかけるのだ。

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