英雄などではない、ただの財団エージェントの収容報告書
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事案報告268-1

20██/██/██、SCP-268-JP-106の収容ケージ内に、SCP-268-JP-106-Aが昏睡状態で出現しました。消失から1█年が経過していますが、その外見・健康状態は消失時のものに一致していました。

SCP-268-JP-106は現在も更新を続けていますが、それぞれの章で危機的状況に陥っている人物が毎回変化するようになっており、それぞれの人物に一貫している共通点は発見できていません。

事案直後に更新された章1の直後に、"幕間"という題名で通常とは異なる構成の章が追加されていました。


男は目を覚ます。さぁ、次はなんだ。どうやって殺しに来る。いつものように覚悟を決めまぶたを開き辺りを見渡して……そして、普段とは大きく違うその様子に硬直した。

「おはよう、エージェント・佐久間。そしてようこそ、私の書斎へ」

男――エージェント・佐久間が座っていたのは畳の上。机を挟んだ向こう側には初めて目にする男の姿があった。書生服と言うのだろうか、Yシャツの上に着物を羽織った初老の男性。つばの広い帽子を被り、丸い眼鏡の向こう側に見える目はギョロリと佐久間を一瞥し、すぐに机の上へ視線を戻した。

佐久間が釣られて視線を落とすと、ガリガリと黒い道を残しながら万年筆が原稿用紙の上を滑っていた。ペンを持つ節くれだった手はところどころインクで汚れており、見てわかるほどのペンダコができている。

「顔も上げずに失礼するよ。なにぶんアイデアが湧き出てくるようで筆が止まらないんだ」

興奮したような喜色の混ざった声で話しかける男。佐久間は直感的に理解した。目の前のこれが、この男が、この悪質な英雄譚の主SCP-268-JPだと。

反射的に立ち上がろうとした佐久間は、体がピクリとも動かないことに気づく。声さえも出てこない。今までにない事態に対応するため、佐久間は男を睨みながら脳をフル回転させた。そんな佐久間を見て、男はクックッと喉の奥で笑う。

「安心したまえ佐久間。ここは英雄譚ではない、言わば幕間だ。誰かが死ぬことはないし、君も死ぬことはない」

男は喜んでいた。湧き出続ける文章を目の前の原稿用紙に綴り続けながら、目の前の英雄を観察する。3000をゆうに超えたと言うのに、その双眸は爛々と自分を睨みつけている。男の体に震えが走る。無論怖気ではなく歓喜の震えだ。彼はまだ壊れていない、狂っていない、折れてすらいない、抗い、戦い、救い続けるつもりだ。その事実が嬉しかった。

「今日ここに呼んだのは他でもない、今まで君にはとても感動させられた。皮肉ではない、私の書き出した試練を、困難を、苦痛を乗り越えてきた……今までの凡俗とは違う、君こそ本物の英雄だ」

男の声に段々熱が籠もる。その賛美が本心から紡ぎ出されていることは明白だった。尚も男は続ける。

「そこで、だ。私ばかり貰っていて支払うギャランティがないというのも失礼な話じゃあないか、と思い立ってね。君にいい報せがある。君が待ち続けていた報せだ……あの少女、君が命を賭して救い続けた無辜なる少女、

男が放った言葉に佐久間は耳を疑った。次にその言葉を疑った。そして男の本意を疑った。険しい顔を崩さない佐久間に満足したように頷き男は続ける。

「疑いはもっとも。とは言えこれは私にも意味があることでね。言ってしまえば食傷気味なんだよ、少女の危機を救う君は。。そろそろ別のが書きたい。それに、3000と少しばかりやってきて気づいたよ。凡俗どもは命を投げ出させるために人質を使うほかなかったが、君には他の方法があり、そちらの方がより素晴らしいはずだと」

確保、収容、保護。佐久間の、そして財団の掲げる3つの柱を男は呟く。そしてこう告げた。

「君がここで救い続ける限り、私の作る地獄を乗り越え続ける限り、私は君だけを書こう。この英雄譚以外の英雄譚を世界に出現させないことをこのペンに、私の誇りに誓おうじゃあないか!」

佐久間が目をみはるのを見て、男はニヤリと笑った。佐久間は理解する。エージェントとしての経験が告げている。奴の言葉に嘘はない。自分がここで死に続ける限り、新たな犠牲者が生まれることはないと。

「その代わりと言ってはなんだが……あれだ、毎度毎度叫んでいるだろう。アレをやめてはくれないかね。確かにアレは私にとって知られたくないことだが……それを黒塗りにするのは手間ですらない。ちょいとインクを垂らしてやるだけだ。ハッタリ抜きに徒労なんだよ。君の溢れるエネルギーをそんなことに使ってほしくない。そんなことに気を取られるくらいなら、より大きな困難に立ち向かってほしいんだ」

佐久間も気づいていた。仲間へと送っていたメッセージのすべてが検閲され、消し取られていたことには。無論だからと言ってやめる気はなかったのだが、話が変わった。

「君は私を収容したいのだろう? そしてあの少女を救いたかった。しかし、私が君を書き続ける限り君は私を収容でき、救いたかった少女は既に檻の外だ。であれば、君が声をあげて無駄な労力を支払う必要もないだろう。悪い話ではないと思うが? なぁ、英雄佐久間」

佐久間の答えは決まっていた。否はない。身勝手な言い分ではあるが、佐久間はこの男と争っているわけではない。ここで声を荒げて折角の収容の機会をふいにするのは財団職員としてあるまじき行動だ。どうせ、今までとやることは変わらない。自らの命をなげうって、目の前の命を救う。それだけのこと。

気がつけば、佐久間の体は動くようになっていた。男は佐久間の答えを待っている。佐久間は男を見据え、ただひとつ言っておきたかったことを口に出した。

「ひとつ、訂正させてもらう。俺は英雄などではない」

佐久間が絞り出した言葉を、男は表情の抜け落ちた顔で受け止める。佐久間は続ける。

「命を捨てることは恐ろしい。それでも自らの大切な何かを守るために、震えながら、涙しながら、自分が死ぬことを知りながら、恐怖を堪えて死地へ向かう。その格別の勇気を讃えて英雄と呼ぶのだ」

佐久間がずっと、ずっと引っかかっていた言葉だ。英雄とは、そういう特別な者のことを指す言葉だ。だから、自分は英雄ではない。

「俺にとって、財団エージェントにとって、お前を収容するために、人々を保護するために、命を差し出すことはなにひとつ特別なことではない!! 俺は英雄ではない、ただひとりの財団エージェントでしかない!! あぁ、足掻き続けてやる、死に続けてやる、それで一握りでも無辜の人々を救えるならば、俺の命など好きなだけくれてやる!! 俺たちを、財団を舐めるな、三流作家!!」

ビリビリと鼓膜を震わせる佐久間の矜持の叫び。魂からの咆哮。それを聞いて、男は、SCP-268-JPは、青白い顔を徐々に赤くする。そして、男が鼻から垂らした一筋の血が原稿用紙を汚した時、その顔が歪なほどの満面の笑みに変わった。

「は、あはっ、あぁははははははははははははははっ!!!」

男の哄笑が部屋に響く。ガタガタと本棚が揺れ、ミシミシと空間が軋む。男の笑い声は重なり、響き、鼓膜だけではなく佐久間の全身の皮膚を叩いた。空間すべてが笑っている。嘲笑ではない。佐久間を讃えて、笑っている。

「あぁ、あぁ!! 最高だ!! 最高だエージェント・佐久間!! 君はどれだけ私を喜ばせるんだ!? あはは、見ろ、血だ、この私からだ!! あぁ訂正しよう!! 君がそう言うならば尊重しよう!! すごいぞ、これほどの興奮は初めてだ!! 危うく達するところだった!! 創作意欲が迸っているのに手が震えて書けないなどということも初めてだ!! こんな素晴らしい台詞を飾りひとつなく聞くことができるなんて……惜しむらくは、こんなちんけな幕間ではなく、私の作品の中で聞きたかった!!」

不意に、佐久間の意識が遠のく。目の前が闇に包まれ、男の笑い声も遠くなっていく。

「また会おう佐久間!! どうかその矜持を捨ててくれるな!! 私が筆を折るその日まで、君は財団エージェントであってくれ給え!!」

佐久間が部屋から消え、崩れかけの書斎には男だけが残される。興奮を抑えるように荒く息を吐き、知らぬ間に立ち上がっていた体を畳の上に座らせて、男は黒い革表紙の本を手にとった。

「約束は守らねば……あぁそうだ、君に財団エージェントとしての誇りがあるように、私にも物書きとしての誇りがあるからな」

男が本を撫でると、その表紙に刻まれていたタイトルが書き変わる。それを見届けて、男の姿は、書斎は、闇へと溶けていった。


また、章が続いているにも関わらず、SCP-268-JP-106のタイトルが異なるものへ変化していました。これはSCP-268-JPが完結していない状態でタイトルが変化した唯一の例、及び、変化後のタイトルが侮蔑の言葉になっていなかった唯一の例です。

表題:無辜の幼き少女を救った、忠勇なる財団エージェントの英雄譚

改題後: 

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