幻島同盟における日本語とその歴史について
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まえがき ~日本語(Nihon-go、Japanese)とは?~

今日、幻島同盟において日本語について詳しく知る者は多くはあるまい。何しろ、同盟内における日本語話者は1万人にも満たず、しかもその数少ない日本語話者はほぼすべてがアンソン多島海の島々にのみ居住しているのである。他の地域に住む人々からすればまったく知らないか、もしくは知っていてもせいぜいエキゾチックな文字をデザインとして装飾に利用したり、もしくはその使う文字から、主に伝地である蓬莱(Pénglái)などで使われる普通话(Pǔtōnghuà、Standard Mandarin)と混同して認識しているかといったところだろう。

かいつまんで説明させていただくと、主に実存世界の日本国(Nihon、Japan)で使用される言語であり、言語類型論上は、語順の点ではSOV型の言語に、形態の点では膠着語に分類される。ひらがな、カタカナ、漢字という3つの文字を使用しているのが特徴である。
言語学的な詳しい説明は幻島同盟における言語学の第一人者であるドワイト・F・ペイン博士(Ph.D Dwight F. Payne)の著書『南部諸島の言語(Languages of Southern Islands)』に譲るとして、本エッセイでは我らが同盟において日本語話者はどのようにしてやってきたか、いかにして同盟内で存続しているかを説明したいと思う。

最後に、このエッセイを作成するにあたって多大な協力を頂いた山田禎彦先生、村瀬幸太郎課長以下ガンヂス島庁文化振興課の皆様、そして本エッセイの日本語訳者にして最愛の妻である翔子・ブラックへ多大な感謝を。

西暦2010年 原著:サイラス・ブラック(Cyrus Black)
       日本語訳:翔子・ブラック(Shoko Black)

日本語話者の始まり

実際のところ、同盟において日本語話者がいつ頃から定住し始めたのかははっきりとしない。少なくともいわゆる『最初の14島』(サタナーゼス悪魔島含む)には日本語を公用語としていたり、もしくは日本語を主に利用している島は存在していなかった。そしてその条件を満たす島が同盟に加入するのは1850年、アンソン多島海の実存世界離脱と同盟への加入を待たなくてはならない。

ただし、それ以前にも日本語話者が同盟に定住していたという傍証となり得るものは残されている。例えばバカラオに伝わる『中村藤右衛門の日記』は1780年、海難事故に遭い同島に漂着し、最終的にそこで一生を終えた長州藩士・中村藤右衛門(Nakamura Fujiyemon)が残した日記であり、その内容には他にも(数える程度ではあったとはいえ)日本人、すなわち日本語話者がアンソン多島海の加盟以前から同盟に定住していた事を物語っている。

アンソン多島海の実存世界離脱と同盟への加盟

1850年、アンソン多島海は南部諸島の助けを借りて実存世界を離脱、晴れて同盟の一員となった。この内実存世界の小笠原群島や大東諸島に近かったイキマ島(Ikima Island)やアブレ・オジョス島(Abre Ojos Island)などでは日本語が主に使用されており、これが公式的には日本語話者の定住の始まりとなる。しかしながら、小島群であり人口もそこまでは多くはないというアンソン多島海の性質上、日本語話者が爆発的に増えるという事はなく、その数は1853年に行われた調査においてはわずか1,278人となっている。
ただし、これまでの日本語話者のほとんどが上記の中村藤右衛門のような偶発的な漂着者である事を考えると、これは大きな一歩であったと言えるだろう。

『百鬼夜行の大亡命』

資料:アンソン多島海における日本語話者人口の推移

年(西暦) 人口数(人)
1850 1,222
1853 1,278
1856 1,371
1859 1,463
(中略) (中略)
1868 1,809
1871 3,412
1874 5,001
1877 7,021
1880 8,507
1883 9,011
1886 9,821

(出典:ガンヂス島庁情報政策課編『アンソン多島海人口等調査報告書』)


『百鬼夜行の大亡命(The Great Exile of Pandemonium)』として知られる一連の大規模な実存世界からの亡命事件の始まりは、1855年3月、債務の履行が不可能となりいわゆる「夜逃げ」(随分と規模の大きな夜逃げだが…)を敢行した、備後国の没落商人である二代目三宅屋利兵衛(Miyake-ya Rihei Ⅱ)とその一族郎党、そしてその「夜逃げ」に便乗する形で彼らの船に乗り込んだ、吉備の濡烏(Nure-Garasu of Kibi)および倉敷の化け狐(Bake-Kitsune of Kurashiki)を代表とする妖怪の一団がアブレ・オジョス島の警備隊と接触、亡命を希望した事件である。

この事件において、二代目三宅屋利兵衛はともかく、吉備の濡烏と倉敷の化け狐は実存世界における技術の発展と、ヨーロッパ・アメリカなどの進出により、自分らが科学的に観測・存在が実証される事に対する恐怖を亡命の理由としており、これを受け同盟は亡命を受け入れる事を決定した。

この事件からしばらくは平常とさほど変化はなかったが、1868年以降の明治維新を期に日本から同盟への亡命希望者が大量に増える事になった。中には上記の二代目三宅屋利兵衛のように身を持ち崩したり、もしくは何らかの理由で地元や日本にいられなくなった者、例えば明治維新前は幕府に弾圧されていたキリスト教徒や尊王攘夷派、維新後は新政府軍より逃れた旧幕臣などといった人間もいたが、その大部分は吉備の濡烏らと同じく科学技術の発展や観測への強い恐怖感や忌避感を亡命の理由とした妖怪たちであった。

彼らの亡命理由が同盟の理念とある程度合致していた事、そしてアンソン多島海の開拓に多大な人的資源が欲されていた事なども相まって彼らのほとんどは亡命を許可され、こちら側にて暮らすようになっていく。
当然ながら彼らの母語は日本語であり、そのため同盟における日本語話者は爆発的に増加した。上記の表の通り、アンソン多島海における日本語話者人口は1853年には1,278人でしかなかったのが、『百鬼夜行の大亡命』が落ちついた1886年には9,821人となっていたあたりにその勢いが感じられるだろう。

余談ながら『百鬼夜行の大亡命』の最初の亡命者の1人である二代目三宅屋利兵衛であるが、彼はアンソン多島海においてアブレ・オジョス島を本拠地に一から商売をやりなおし、今度こそはある程度の成功を収めた。経営こそ彼の一族からは離れたものの、彼の始めた商店はアブレ・オジョス島において三宅屋百貨店(Miyake-ya Department Store、スリーラインズ・イン・ハウスと言えばわかる読者の方も多いだろう)として今もなお存続している。

日本語の今とこれから

1938年以降の艦隊(Armada)との武力衝突においてはアンソン多島海も無縁ではいられず、数々の攻撃を受け、あるいは兵士として故郷を旅立ち、結果として多数の住民、すなわち日本語話者が失われる事となった。
この時の打撃は大きく、実存世界における太平洋戦争の勃発と、その後の日本をはじめとする枢軸国の敗戦に伴う同盟への亡命者はある程度いたがその傷跡を埋めるには足りず、最大時は1万人を超えた日本語話者人口も減少し、2004年には6,904人にまで減少する事になる。

しかし、山田禎彦氏がその著になる幻島同盟の手引き・ウェッブ版において解説している通り、アンソン多島海におけるタガログ語、英語、そして日本語の三言語話者教育の義務化といった行政・民間双方の努力により、2005年には数十年ぶりに日本語話者人口は増加し、続く5年間でも微増傾向にある。

日本語のルーツである実存世界日本ではいざ知らず、アンソン多島海は今の所出生率は右肩上がりであり、少子化とは無縁である。これはすなわち日本語話者も増えていくことをも意味しており、数十年もすればきっとかつての勢いを取り戻すことができるだろう。

確かに主に南部諸島で人気を博している鬼まんじゅうなどのようなアンソン多島海、元を正せば日本ルーツの菓子やその他の物品は日本語なくとも楽しむ事はできるし、実際日本語とは無縁な人々も楽しんでいる。

しかし、である。

個人的な話ではあるが、我が義父、つまり妻・翔子の父である山岸康太は日本ルーツの伝統芸能である猿楽の囃子方を務めている。この猿楽は日本語あっての文化だ。
また、鬼まんじゅうという菓子の名前は鬼、すなわち日本由来の妖怪にちなんでいるのだが、これは日本語での意味を理解していないとわからない事実でもある。

このように、日本ルーツの伝統や文化は当然ながら日本語と密接な関係がある。ともなれば、日本語が完全に消えてしまったら、その時その伝統は、文化はどうなってしまうだろうか?
伝統や文化の本質や素晴らしさがこの先も失われず、この擬存世界でも、細くとも長く続いていくよう願うものである。

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