化粧い桜に紅を差す
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唐突ですが私が初めて紅を引くキッカケとなったのは、母が鏡台の前に座り、鏡で顔を確認しながら唇を赤く塗っている姿がトテモ印象的で紅を引いた後、薄く笑う顔が綺麗だったからです。それは大人になった今でも強く記憶しております。
 
化粧に対して興味を抱いた幼少の私は、母が鏡の前にいないことを確認した後、鏡台に備えつけられた柔らかい丸椅子に腰を下ろし、お目当ての口紅を手に取りました。蓋を外し、クルクル回し動かせば、真紅色のソレが顔を出します。母がそうするように首を前に伸ばしながら、赤い口紅を上唇にソッとあてがい、下唇の方にもツツッ……と真横に引き、ムズムズと上下の唇を擦り合わせました。鏡に映る自身の顔を見れば、女の真似事をした小さい男の子がボンヤリ見詰め返しています。
 
ホウと熱に浮かれたように、唇に色付いた鮮やかな部分を見詰めていますと、鏡の端の方にチラリと映る母の姿に気が付きました。ギョッとして振り返ると、母は無言のまま足音を立てず近寄り、鏡面越しに私の顔をマジマジと見詰めています。母は何かと厳しく、粗相をすればすぐに手が出る性質の人でした。
 
ですので、キット打たれる……頬を叩かれると思った私は強く両目を閉じ、身を硬直させました。しかし母は意外な事に、ふうと浅く息を漏らし、私の小さな唇をハンカチで拭いながら「似合わない」と一言、少し目尻を下げ、薄く笑いました。明眸皓歯……何と云う美しくも朗らかな莞爾でありましょう。初めて母の温かい笑みを見た私は、嬉しさのあまりホロホロと泣いてしまいました。
 
……それから間もなく……一度だけでなく、また母の笑みが見たいと思った幼く愚かな私は、同じように紅を引き、積極的に化粧姿を母に見せるようになりました。しかし母は、感情のない無機質な目で一瞥するのみで何も云いません。母の怜悧な態度は、化粧癖がつかないように意図的に行なったものなのでしょうが……しかし、化粧に味を占めた私には逆効果でしかありませんでした。
 
母の笑顔が――そして微笑みが見たいと渇望と執着の入り混じった心持ちの中育った私は、やがて、人に隠れて化粧をするようになりました。
 
母の口紅を泥棒のようにくすねて使うわけにはいきませんので、コソコソしていますが、正攻法として正々堂々と恋人のプレゼントだと偽り、真紅の口紅を購入するようになっていたのです。
 
理性では……情けなくあまりにも慙愧的で、男がするべきことではない……と思いつつも、どうしても私は自分の行動を思い留め、止める事が出来ませんでした。一応断っておきますが、自身が女性になりたい等の変身願望は一切ありません。母が笑ってくれるかもしれないという、一度味わった喜びのために唇に紅を引くのです。強いて言うなら、煙草を吸うのは口寂しさのために欲しがるのだと聞きました。それに似た悪癖の一種なのでしょう。
 
「いつもご利用いただき、誠にありがとうございます」
 
ある日……数える程度の数だった口紅が十本の指をはるかに超えたそんな折……新しい色の口紅を買うため、いつものように馴染みの化粧店に足繁く通った時の事です。 
 
陳列棚に並んでいる色々な口紅を……中でも赤色のモノを吟味していますと、背後からソッと声を掛けられました。その人物は、いつの間に私の傍に寄ってきたのでしょう。自身の右後ろには、黒く上品なスーツに淡いピンクのスカーフを巻いた女性がニコニコと笑いながら立っていました。
 
「わたくし、化粧販売員のミヨコと申します」
 
「み、よこ……」
 
「イワナガ美容組合の商品をご贔屓してくださり、誠にありがとうございます。いきなりでございますが、あなた様に折り入ってお話がございまして……少し、お時間の方はよろしゅうございますか?」
 
彼女……ミヨコさんは目尻を下げた完璧な微笑を浮かべながらスラスラとそう言い、一歩近寄りました。
 
私は……どうせ他の化粧品を勧めてくるのだろう……と考え、疎ましさを感じていました。商品を選んでいる時に近寄ってくる店員を、この上なく邪魔なものだと考えている私には、彼女の勧誘など余計なお世話でしかなかったのです。それゆえ、つっけんどんな態度でキッパリ断ろうとしたのですが、彼女は素早く二の腕を攫み、耳元に口を寄せ小声でこう言いました。
 
「口紅がお好みのようで……私も赤い口紅は好きですよ」
 
あなたが使っているのでしょう、分かっておりますのよ……とミヨコさんは瞳で能弁に語りながら――
 
「あなた様にお話がございますのは……ホホ……そう険しく、そんなに激しく警戒なさらないでくださいまし。……話がございますのは、あなたに化粧をおすすめするのではなく、あなたが化粧を売る側に回って欲しい……タッタそれだけのこと……」
 
私は彼女の顔をマジマジと見詰めました。明らかに訝しげな態度を晒しているのに対して、彼女は物憂げな眼差しで、毅然と姿勢良く立っているだけ……。彼女は私の二の腕からソッと指を放し、陳列棚に並ぶ商品を1つ手に取り、言葉を続けます。
 
「イワナガ美容組合は、新なる発展と進歩のために男性職員を急募しております。殿方はあまりお化粧をなさらない所為か、男性の雇用数が少ないのです。そこで……化粧にご理解のあるあなた様を歓迎したく思い、不躾ながらもこのような話を致しております」
 
彼女の言葉は真面目で熱心なものでした。聞いている内に、イッソ買う側ではなく買わせる方へと立場を変えてみるのはどうかしらんとさえ、思われてきました。
 
この急激な心理変化は、”あなたが必要なのです”と、彼女に言われたことがキッカケです。母のトテモ厳しい教育と、冷たい態度の中で育った私は、女性に必要とされる事にこの上ない喜びを感じるようになっていました。少しでも媚びるようにお願いを……或いは、威圧的な態度で命令されれば、断る術などないのです。たとえ悪辣な犯罪行為でも、私はその願いや命令を聞き入れてしまうことでしょう。それぐらい女性という存在に参ってしまっているのです。
 
どうかしら? と返事を迫られ、女そのものに逆らえない私が承諾した返事を返せば再度腕を掴み、彼女が勤める会社へ私を案内しました。本社の案内は、軽い会社方針と経営理念の説明が行われました。
 
説明会が終わった後、彼女は「本社に勤める気持ちがございましたら、後日いらっしゃってください」とそう言い、私を解放しました。気持ちの整理などの時間の猶予をくれたのでしょうが、自身の気持ちはすでに決まっていました。ここで働いてみよう……もしかしたら天職かもしれないと前向きに考えつつ、指定された日にちに彼女に会いに行ったのです。
 
「マア……嬉しい。働いてくださるのですね? でも、務める前にチョット……わが社には研修期間があるのですよ。そこで会社の方針に合う方なのか、適正チェックがあるんです」
 
彼女はニコニコ笑いながらそう言い、私を会社寮へ連れていきました。研修期間中は寮生活が義務付けられている、とのことでした。
 
研修の内容は省かせていただきますが、蛸壺のような人間犇めく狭い部屋で2ヶ月の研修期間を問題なく終え、本社に勤めることが決定されました。研修期間でも薄々勘付いておりましたが、イワナガ美容組合はホントウに驚くべき場所でございました。一番ヘンテコだったのは、社内の人間は特別な立場の人間を除き、比良社員は男女関係なく、ミヨコと一括した呼び名を有していたのです。
 
「あなたも、ミヨコと名乗るようにしてくださいませ」
 
と、76番目のミヨコさん(私を勧誘して下さった方です)がそうおっしゃった時は、男が女性名を名乗る事に違和感を覚えました。しかし、それは最初の時だけです。働く内に分かったのですが、イワナガ美容組合の社員は、本物のミヨコ様に憧れを抱いており、彼女のように美しくなることに妥協や怠慢を許さず、弛まない努力を重ねているのです。
 
美の運動として記憶に新しいのは、社内放送員、“98番目のミヨコ”さんが、05年度から10年度のミス・ミヨコに輝いたことです。五年連続ミス・ミヨコに輝いたことを記念し、美の見本として彼女の顔になる洗顔クリームを発売したのですが、商品は瞬く間にヒット商品となり、お客様から沢山のお便りをいただきました。
 
“ミヨコ”の素晴らしさに改めて気がついた私は、いつしか女性名で名乗ることに抵抗などなくなり、寧ろ一種の誇りさえ自覚し、働く上で給金をもらうなどといったケチで即物的なものではなく、どこか崇高で充実した日々を送るようになりました。
 
「前回開発した姿見の鏡面を応用した、持ち運びし易い折りたたみ式の手鏡についてですが、色は薄いピンク、見た目で差別化を計りつつ……可能なら男女兼用の……失礼……」
 
それは、新商品の開発の為にホワイトボードでプレゼンをしている時のことでした。会議中であるにも関わらず、ポケットからPHSが甲高い音を立て鳴り響いています。私は会議室に集まった沢山のミヨコさん達に頭を下げ、会議室の片隅に引っ込みました。通話相手は直属の上司で、告げられた内容はあまりにも衝撃的でございました。思わず瞠目して、その瞬間言葉がつっかえたのは云うまでもありません。
 
「76番目のミヨコさんが……死んだ……」
 
通話を終えた私は会議室の皆に向けてそう言いました。ミヨコさん達は椅子から飛び上がらんばかりに驚き、否定の言葉を発していました。76番目のミヨコさん……私だけでなく、ここにいるミヨコさん達もお世話になっていたのです。先輩という年長者にして、尊敬に値する人物の訃報を耳にして、狼狽するのは当たり前……。
 
「誰が死化粧を……」
 
「私……私がするように言われました。直属の上司からの命令です」
 
自分の胸に手を当て窺うように発言するとミヨコさん達は、優しい口調で早く死化粧をするようにと云いました。私は丁寧に頭を下げ、会議室から出、堅苦しい水色のネクタイを乱暴に脱ぎ捨て、駐車場へ駆け出します。
 
76番目のミヨコさん……そうです……今回死亡したミヨコさんはアノ時、会社で働くように声を掛けてくださった彼女だったのです。76番目のミヨコさんは、トテモ親切に私のことを世話してくださいました。彼女は会社の先輩でもあり、人生の恩人でもあったのです。
 
そのミヨコさんが、自身が死んだ際、私に死化粧をしてくれるよう前々から託してくださったのでしょう。先程の上司の電話は死亡通知だけではなく、その報せも含まれていたのです。
 
駐車場に到着すると、アイドリングしたままの黒いワンボックスカーに、黒いスーツを着た男性が4、5人集まっていました。私が「死化粧をしに参りました」と告げれば、ソッと差し出される必要以上に重たい六角形の金属物。
 
暗く沈んだ顔で「お窺いしたいことがありますよろしいですか……?」と男に話しかければ「どうぞ……」という返事……。渡されたものを強く握り締めながらオズオズと口を開き、彼らに尋ねました。
 
「ミヨコさんは“誰”に殺されたのでしょうか」
 
「わかりません。例の財団か、他の組織か……。我々はミヨコさんのご遺体と商品の回収で手一杯でしたので……申し訳ないですが、 ハッキリとお答えすることは出来ません」
 
「ドチラにしろ、奴等がミヨコさんを殺したのですね」
 
私は託ち顔を浮かべ、車内の後部座席に入りました。車内では76番目のミヨコさんが2席分スペースを使い、横になっています。
 
彼女の死因は一目見てすぐわかりました。白い咽喉を大きく切り裂いた、惨たらしい傷があったのです。首からはドクドクと夥しい血を流し……ミヨコさんの顔は青白く……彼女の頬を撫でればまだ温かい……死んで間もなくといったところなのでしょう。
 
私は涙目で安らかな死顔のミヨコさんを眺めつつ、彼女の腹部に馬乗りになりました。ミヨコさんの髪を結ったヘアゴムを外し、髪の毛を指で梳きます。髪の毛がサラサラと動き、そのたび香ってくるのは、鉄錆と柑橘系の香水が混じった複雑な香りでした。その匂いを逃がさまいと、息を吸い込み肺へ満たし、涙を堪えました。だけど、息を吸う度に悲しく遣る瀬なくなって……まだ生きているのではないだろうかと現実を否定したくなって……でも、目の前にある現実を否定するには、その亡骸はあまりにも生々しすぎるものがありました。
 
ミヨコさんを見下ろしながら涙を一筋ハラリと落とし、決意を固めました。男から貰った金属物を高く持ち上げ、彼女の顔へ素早く振り下ろすのです。鉄塊はミヨコさんの顔に、一切ずれることなく狙った通り直撃しました。
 
二度目で鼻の骨が砕け、三度目で顔が平らになり、四回目で天庭の皮膚がベロリと剥がれ白い額の頭蓋が……六回……十二回……二十六回と続け、改めて彼女の顔を見ると、ズクズクに崩れ、グダグダに潰れた目も当てられない有様です。最早、誰なのか分からない相貌の相好は、先輩でもあり恩人でもある76番目のミヨコさんが死亡した事実を薄らげているような……そんな気がしました。
 
私は涙を流したまま、車外に出て、外で待機していた男たちに重たい金属物を返しながら、死化粧が終わったことを告げるのです。
 
「……済みました。ここまで顔を砕いてしまえば誰かわからないでしょう。”例の島”に流してくださいまし」
 
「お疲れ様です……これを組合長様があなたにと……」
 
「組合……美与子様? 本物の、美与子様からですか……ッ?」
 
男が私に差し出したのは、白牡丹の絵柄が施された口紅です。私はどこか呆然とした意識で「ミヨコ……美与子、本物の美与子様」と胸の内で繰り返しながら、口紅を受け取りました。

本物の美与子様から頂いた品は驚愕と云えるほどのインパクトがあり、男たちが荒々しく車のドアを閉め、発進した後でもその場から動けずにいました。ぼんやりしたまま車止めに腰を下ろし、美与子様から貰った口紅のキャップを取って、クルクル回し動かして筒の中身を検めれば、明るく派手なピンク色をしたソレが顔を出しました。私は直接唇に当て、スス……と動かし紅を引きました。小さい頃は不慣れか不器用ゆえか、ツツッ……と動かしていたのに、随分と滑らかな動作になったものです。

「綺麗ダナー」
 
この一声は口紅に対するものなのか、美与子様に対するものなのか、わかりません。 

ただ、ピンク色の口紅を少し上に持ち上げ、通常ならどういった化粧品の社員として、どのような女性に似合うのかしらんと頭を悩ませるところですが、今はそんな余裕はありません。無意識のうちに上唇の肉を食い破り、ポタポタと赤い雫を垂らしていました。その自傷が意味する悲愴は、人生の先輩を亡くしてしまった意味合いが含まれているのです。
 
悲しみが深すぎるゆえか肉を食い破ったと云うのに、あまり痛みは感じませんでした。ただ……顎を伝う血の感触で、唇を噛んでいる事実にハッと気付き、舌先でペロリと滴を舐め取りました。次いで歯で食い破った箇所と、顎を伝った血筋を親指で擦り、口の形をなぞります。綺麗に塗ったピンクがたちまち赤に上塗りされましたが、構いません。……私は、赤い口紅が一等好きでございましたから……。

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