All is calm, All is bright
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 その日、研究者はセラフィムよりも尚すさまじき数の翼が形成する山の前で、特殊スーツのヘルメットを脱ぎ捨て穏やかな微笑みをあらわにした。
 彼が冷静な科学者の仮面の下で密やかに狂っていたのか、あらゆる異常との終わりの見えない戦いに倦み疲れていたのか、誰にもわかりようがない。あるいは、全てはこのように成るべく定められていたのかもしれない。
 何にせよ、その聖なる日にそれは起こった。研究者はあらゆる奸智と詭弁を弄して天使の前にこうして立ち、そして誰が咎めるよりも早く、晴れ晴れとした顔で高らかに歌いあげた。

「Jingle bells, jingle bells, Jingle all the way!」

 言語のベルが、幾万の羽毛に包まれて眠る天使を叩き起こした。
 花が開くように、美しく輝く純白の翼が一切の音を立てず次々と広がり――爆発的な速度で伸長し、狂信者を一瞬で刺し貫いた。
 苦悶と歓喜が入り混じったおぞましい絶唱を糧に、天使の翼は全く静かに、速やかに広がっていく。

 その日は地球上の至る所で、軽やかな鈴の音が鳴り響いていた。街頭のスピーカーから。繁華街の店舗の一軒一軒から。クリスマスのご馳走を囲む家庭から。そこかしこでハンドベルの演奏会が開かれ、練り歩くトナカイの着ぐるみが鈴を振る。ツリーに吊られたオーナメントが、子供たちへのプレゼントボックスに括られたリボンが、二晩限り犬猫たちに着せられる赤いケープの飾りが、涼やかな音色を振りまく。
 世界中でベルが鳴る。
 世界中のベルの音が、今や天高くにある翼の多い天使に届く。先ごろ作られた赤黒い染みは、とうに羽毛ごと地表に置いてきた。
 羽毛の一枚一枚が、ベルの音で目を覚ましているかのようだった。何百対、何千対もの翼が無音で震え、際限無く広がり、広がり、広がり続ける。星の瞬く夜空を覆い、地平線の更に向こうまで先端を伸ばし、太陽が煌いている青空をも覆う。
 世界中の人々が空を見上げた。突如として白く輝く屋根が遥か頭上に現れた事に、世界中で困惑と恐怖と、幾許かの無邪気な好奇心の囁きがあげられた。
 そして、地球上の至る所で、雪のような煌く白い羽が降り注ぎ始めた。上質のシルクのような光沢の美しき羽に、人々は思わず手を伸ばす。
 次の瞬間に訪れたのは、耳を聾するような阿鼻叫喚の大斉唱であった。羽は見た目通りに軽くしなやかで、しかしその性質と相反するような毛先の鋭さでもって、生きとし生けるもの全ての膚に食い込んだ。
 羽は絶え間なく降り注ぎ、厚い冬服も簡単に貫いて、後から後から人々の全身に突き刺さる。激痛に引き起こされる悲鳴は今や、ベルの音色すら圧して地球上余す所なく響き渡る。その絶叫を食らいに、天空から翼が次々と地へ突き立ち、泣き喚く人々を絡め取っていく。
 羽は際限なく降り注ぐ。雪のように、地球上全てを覆い尽くしていく。

 地上遍く、白い輝きが満ちた。厚く深く積もり積もった羽は一切の音を奪い去り、地上遍く完全な静寂が支配していた。
 増えすぎた翼の全てに繋がる天使の肉体も、いつしかそれを支えるに見合うだけの大きさに成長を遂げていた。輝かしき四肢を広げ、最早食らうべき音の一切が失せた惑星を、ゆっくりと抱きかかえていく。
 惑星ごと膝を抱えた天使に、何億対、何兆対もの翼が緩やかに巻き付いていった。やがて翼は球を成し、そしてその中で天使は再び眠りに就く。

 宇宙の一点、かつて地球であった場所には、今はただ静寂と煌きだけがある。

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