褪せない宝石
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私の耳は貝のから 海の響きをなつかしむ

ジャン・コクトー、堀口大學訳


 女のスニーカーが、昼の砂浜を踏みしめる。ゆっくり一歩一歩進みながら、彼女は波打ち際を横目に見て歩く。
 物騒で理不尽な事象が増えつつある近頃は海に近づく人間も減ったが、彼女は未だ海を恐れない。あの波濤の下には不可思議で美しい世界が、今なお存在している。そのはずだ。忌むことはない。

 幼い頃の夏の日、彼女はその輝きの中へと招かれた。
 ある大事故に遭った影響で子供の頃の記憶は茫洋としがちなのだが、光る海中の印象は今も残り続けていた。明確な像を頭の中に結ぶことはできないが、それを現実に見たのだと信じていた。

 煌く水中の世界を見せてくれたのは、誰だっただろう。何度もその声を思い出そうとした。その姿を思い浮かべようとした。けれども、どうしてもその人は戻ってきてくれない。
 きっと楽しい時間だったのに。きっと宝石のような日々だったのに。子供だった日々の思い出は、蜃気楼より不確かだ。
 身寄りをなくした彼女に親身になって後見人まで選んでくれた病院の先生たちは、思い出せずとも良いと励ました。漠然とでも、価値ある日々だったという印象さえ残っていれば大丈夫だ、と言っていた。

 海に向けていた視線を砂浜の上に移し、なおもぶらぶら歩く。やがて巻貝が一つ落ちているのを見つけ、彼女の表情が明るくなった。跳ねるように、その貝殻へと走り寄る。
 いそいそと拾い上げると、彼女はそれを自分の耳へと当てた。こうしていると、海鳴りに似たざあざあという音の合間に誰かの声が聞こえるような気がするのだ。
 沈んでいた記憶が、貝を通じて帰って来る。波に乗って戻ってくる。何度も彼女に語りかけた、まるで王様のように尊大な誰かの声が、その言葉が。

 だしぬけに警報が鳴り響いた。耳をつんざく大音量に、びくりと肩を震わせる。誰かがかつて語ってくれたはずの言葉は、結局渦の向こうに行ってしまった。
 もうすぐ海の底の底から、死せる魚たちを統べた恐ろしい女王が上がってくる。それを知らせる為の警報だった。いつから、誰が鳴らしているのかわからないが、その音に逆らう者はいない。
 女王の姿を見てはいけない。見れば気が狂い、苦しみ悶えて死ぬのだ。それが陸を目指す理由は知られずとも、その事実だけは広められた。人々は理不尽に迫り来る女王を恐れ、そして海を恐れるようになった。今どき海岸に近付く人間は少ない。
 彼女も巻貝を放り出し、海を背にすると急いでその場を離れだした。

 それでも彼女は、未だ海を恐れていない。一度だけ、巻貝を振り返った。
 海の中には、ガラスのように輝く世界もある。そこには尊大で少し感傷的ながいる。
 彼女が走り去る頃に、王は波を割って巨躯を現す。そして遠く逃がした姫を守る為、女王の進軍に立ち塞がるだろう。
 彼女にそれを知る由は無い。けれども、泡沫のような思い出は輝かしい宝石であったことだけは、覚えている。

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