庖丁と鬼
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 おりのような倦怠感を抱えたまま立った厨房は閑寂としており、少し寒かった。壁の掛け時計は既に七時を打ち、東の空はぼんやりと白んでいるものの、空を覆う薄雲によって窓から差す光は弱々しく、依然として厨房は蛍光灯から注ぐしろい光線に支配されていた。もうここには来ないだろうからと、今まで世話になった道具たちと清水に対するささやかな感謝のつもりで始めた仕事だったが、厨房にある莫大な量の庖丁を研ぐのは、病に倦み疲れた老人には堪えるものがあった。

 最後の一振りに手を伸ばそうとして少し躊躇った。厚く寸詰まりな刀身、黑い水牛柄の口輪、いちいの柄。石榴倶楽部の調理人『秋津』がその名と共に代々受け継ぐザクロ  即ち人肉を捌くための庖丁である。その切れ味とザクロ調理に用いられてきた歴史をして倶楽部の面々に人切り庖丁と呼ばれる代物だが、寧ろ一切の手ごたえを感じさせない切れ味は調理に不向きでさえあった。『秋津』の名と共に石榴倶楽部に関わる一切を清水に譲り渡した今となってはあまり関わりたくない代物である。
   そもそもこれは研がなくて良い気がする。
 否、使っていない庖丁ですら研がなければ朽ちて使い物にならなくなる、ましてや幾度となく使ってきた、そしてこれからも使い続けられるであろう代物である。研がなくてはならないだろう。
 柄を掴んで引き寄せ、刃を砥石に当て、そろりそろりと研ぎ始める。蛍光灯の明かりを反射し、ちらちらと刃が鈍く明滅する。
 ちら。
 ちら。
 ちら。
 皓い光が網膜を刺激するのに合わせて、厨房での記憶が刹那的に甦る。
 想起される記憶は常に赤を基調としていた。桜色の肉、臙脂えんじの臓物、赤、赤、赤。調理場を彩る赤色は無論、肉に由来する色であり、即ち屍体したいの色であった。

 ふと、庖丁を研ぎながら人肉を夢想する様はまるで山姥やまんばのようだと思い、直ぐにそれは不適であると思い直し苦笑する。性別が違う。山姥は女だ。では男の私は山爺やまんじいになるのだろうか。あるいは  

 鬼か。

 古来より人を喰うのは鬼の領分だ。否、洋の東西を問わず人を喰う怪異に事欠くことはないし、わが国でも人を喰う妖怪変化の類は多いと聞く。しかし、本邦において人を喰う異形の筆頭は紛れもなく鬼なのだ。ならば、人を喰い剰え調理して提供する私は立派な鬼なのではないか。
   なんども喰ったからなあ。
 鬼は、顔は醜悪、肌は赤、青、黄、黒、筋骨逞しく、虎の皮の褌を締め、角を持つと云う。夜の闇の彼方に潜み、人間の富を奪い取り、人を取って喰らう。「人を喰うこと」以外、どれも私に当て嵌まる特徴ではない。私と鬼を結び付けるのはその一点にすぎないのだ。しかし、人を喰う者は大概鬼と呼ばれる。思うに、鬼とはその外見以上にその行動様式  人殺しにしろ人喰いにしろ  非人道的あるいは反社会的だとされる行為によって鬼と見做されるのではないか。角やらなにやらは鬼の象徴にはなろうが、それはあくまで人と鬼とを区別するための外見的差異でしかない。言い換えれば角さえなければ、姿容すがたかたちが人間ならば、人と鬼との区別はつかないのだ。
   判らなかったもんな。
 今になって思えば石榴倶楽部の面々は悉く鬼であったと感じる。好々爺とした老人、麗しい女性、赤ら顔の男、彼らは皆一見人のように見えた。事実、会が終わり人波に紛れ店を去る彼らを、再び人波から見つけ出すのは至難の業であった。しかし、彼らは人を喰うことを至上の享楽とする紛れもない鬼であった。彼らは店の前で人として落ち合い、人として食卓に座り、鬼と成って食事を済ませた後、また人の姿を纏い京の街に消えていった。倶楽部において、食前から人の衣を脱ぎ捨て、鬼と成るのはザクロを調理する私一人だった。屍体の処理、喰べるための解体、その仕事の鮮やかさを人の領域ではないと称してくれたのは浮田翁だったが、あれは暗にお前は鬼だと、そう云っていたのかもしれない。

 それでも、私は自分を鬼だと思いたくないのだ。

 人理に悖ることはたくさんしたけれど、それには矢張り葛藤やら懊悩があったし、後悔もあったのだ。人を喰いはしたが、それで誰も悲しませたりはしなかったのだ。人から指示されて、喰ってもいい屍体だけを不承不承捌いて喰ったのだ。そこらにいる人間を攫って喰うなんてことはしなかった。喰うために人を殺すことなどたった一度もなかったのだ。

 手元の庖丁が鈍く光る。

   いや、
 殺している。
 私はこの手で、老婆を一人殺めている。
 そうだ思い出した。殺したじゃないかあの老婆を、喰ってくれ喰ってくれと煩かったばあを殺してばらして切って並べてみんなで囲んでうまいうまいと喰ったじゃないか。
 何故忘れていたのだ。

 老婆を殺して喰うと云う話を持ち掛けてきたのは浮田翁だった。訊けばその老婆は人に喰われたいと翁に語ってきたそうである。
  彼女はね、両親と夫亡くして、一人息子にも先立たれましてな。孫にも恵まれず、一人寂しく暮らしてるうちになんだか虚しくなったんだそうです。仏教でも基督キリスト教でも、死んだら極楽やら天国やら、まあ死後の世界が御座いましょう。彼女はそれを信じられなくなった。死んだらそこで終わりって気付いたんだそうで、つまり死ぬことに意味を見出せなくなったそうです。死後の世界は存在せず、また自分が死んでもそれを悲しむ者もいない。死ぬ意味を失った彼女は生きる意味も一緒に失ったと仰っていましたね。終わりよければ何とやら、終わりが無意味なら途中も全部無意味だと、そう悟ったそうです。でもね、ただ死ぬのではなく、誰かに喰われて死ねば、喰った側の記憶に残るし何より身体の一部として残りますでしょう。文字通り誰かの糧となり、美味しく食べられること。彼女はそこに自分が死ぬ意味を、ひいては生きる意味を見出したんですねえ」
 翁は老婆の気持ちをそう説明した。
 老婆の言い分はさっぱり判らなかったが、私は彼女の解体を請け負うことにした。躊躇ったことと云えば老人なんか喰っても美味くないのではと云うことだった。浮田翁は
「秋津さん、老人の肉というのはね、なかなかうまいもんですよ。柔らかくて臭みがない。若い肉の方が美味いと云う話は人を喰ったことのない者の法螺話です。フランスの民俗学者ピエール・クラストルも『老婆の骨髄は特に美味である』と報告しています。最近では薬漬けでない健康的な老人を食べる機会は減っていますし、なんと彼女はまだ生きています。美味いザクロを食べるためには死後直ぐに屍体を処理しなければなりませんから、これはこの上ない好都合ですな」
 期待してますぞ  そう云い彼女を解体する日時を指定して去っていった。なんやかんや言って浮田翁は新鮮なザクロを喰べることしか考えていなかったのだろう。もしかしたらあの老婆は彼の詭弁に唆されてその身を捧げるに至ったのかもしれない。

 後日、寝台に横たわった老婆を私は殺した。
 死の直前、老婆が何か云っていた気がするが、思い出せない。
   あの老婆には非道ひどいことをしたなあ。
 首を撥ねる感覚だけがいつもと違った。当然である。あの時老婆はまだ生きていたのだから。普段の要領で刃を入れたら骨がつかえて随分焦った。あの時私は厚い別の庖丁を持ち出し、骨を叩き割ったのだ。腹を裂いた瞬間に立ち込める獣のような腥さ、僅かに異なる赤に彩られた臓腑はらわた、割烹着に染み付く血のまだら模様、首さえ落ちれば後は平時と何ら変わらなかった。

 かつて老婆を解体した庖丁を水で濯ぎ、均一に研げているかを確認しながらぼんやりと思う。
 矢張り私は鬼なのだろうか。
 鬼という存在が残虐な異形の象徴であるならば、その言葉が人間に対し使われるとき、それは明確な否定と批判の意味を持つ。鬼とは、「人間」の否定形だ。残虐な行為を犯した人間に対し、お前は「人間」ではないと貼り付ける「非人間」のラベルが鬼と云う記号だ。殺人鬼、食人鬼。私が石榴倶楽部の面々を指して鬼と呼ぶのは、彼らを自分と同じ人間だと認めたくないからである。しかし、私も他人からすれば人を喰った人非人、即ち鬼と呼ばれるのだろう。他人を指して鬼と呼ぶのは容易い。しかし、自らを指して鬼と呼ぶのは  自らを人間でないと認めることに他ならない。
 そんなのは厭だ。私は、自分を鬼とは認めない。

   人を殺して、人を喰って、今更どんな弁明をするのだ。
 頭の中で声がする。
   認めろ。お前は鬼だ。人の道を踏み外し、人の理に背いた鬼だ。
 違う。私は人だ。今となっては後悔しかない。何故人を喰ったのだ。何故人を殺めたのだ。苦悶と懊悩の波に押しつぶされそうだ。そんな鬼はいないだろう。
   嘘をつくな。お前はあの老婆の、顔も声も覚えていないのに。
 嘲笑うようなその声は。
 ああ。
「味だけは確り覚えているじゃないか」
 何故か浮田翁のものだった。

 庖丁を台所に置き、厨房の隅に置いてあった丸椅子に腰かける。
   あの老婆は美味かったな。
 老婆の肉は好評だった。倶楽部の全員が私の仕事を褒めたたえ、六角さんに至っては涙を流し私に握手を求めてきたのだ。あの時の私には後悔も懊悩もなかった。

 時刻は八時半を過ぎている。既に日は登り切ったはずだが、窓の外は薄昏い。雨が降るかもなと思った。ぼんやりと外を眺めていると跫音あしおとが聴こえてきた。神経質そうに踵を鳴らすこの音は並岡だろうなと思ったら案の定仏頂面の並岡が厨房に入ってきた。窶れた私を見てしばし言葉を失っていたようだがやがて意を決したように口を開いて、なぜ俺じゃなく清水を板長にしたんだと訊いてきた。
 どうでも善い質問だった。所詮並岡は頭打ちだったし、為らば若く伸び代のある清水に任せようと、その程度の理由だった。否、並岡は我が強く些細なことで客を殴るような白痴たわけだったから、謂われたことに諾々と従う清水に『秋津』を継がせた方が石榴倶楽部としても安泰だと心の底で思っていたのかもしれない。何れにせよどうでも善いことだった。私は心を鬼にして心にもいことを云った。

「何を勘違いしてるのからないが、石榴倶楽部の件が無くたって、お前みたいに腕の悪い料理人は板長にするつもりはなかったよ。」

 並岡は少し時間を掛けてその言葉を咀嚼すると顔を真っ赤にして掴みかかってきた。なにやら訳の判らないことを怒鳴っているが既に言葉としての体を成していない。自らの怒号で更に怒りを増幅させ、指数関数的に加速する怒りはまるで爆発のようであった。並岡が台所に在った庖丁を掴み、それを私の肩口に振り下ろす。肉が断たれる感覚がした。
 あの老婆もこんな感覚だったのだろうか。
 動揺して、興奮して、錯乱した並岡は尚も私に刃を振り下ろし続ける。体を庇おうと掲げた右の掌に刃が当たり、何本かの指が切り飛ばされる。私の絶叫は更に並岡の興奮に拍車をかけたようで、辺り一面の景色が壁やら床やらないまぜになって赤く染まってゆく。

 刹那  
 並岡の握る庖丁の。
 散々人を切り裂いてきたその庖丁の刃に写る景色がぐにゃりと醜く歪んで。

 にやりとわらった。

 ああそうか鬼はこの庖丁だったのかそうだなこの庖丁は肉を切る感覚なんてなかったあれは肉を喰ってたんだ屍体に刃を当てた瞬間むしゃむしゃと人切り庖丁なんてちゃんちゃらおかしいそれを云うなら人喰い庖丁だ全部この庖丁が悪いんだ俺は悪くない俺は鬼じゃない庖丁の魔性に中てられた哀れな男なんだ俺は否庖丁が嗤うなんてそんなの有り得ない単に庖丁は風景を反射しただけなんじゃないか即ち嗤ったのは並岡か俺かどちらかじゃないか並岡は憤怒の形相だしこれはこれで鬼のようだけどならば嗤ったのは俺なのかこんな時に嗤えるなんて非人道的だ反道徳的だ反社会的だ人間じゃない矢っ張り俺は鬼なのか違う鬼じゃない俺は鬼じゃない確かめてやる
 そう思ったのだけど。
 並岡が横に薙いだ刃が何の抵抗もなく私の首を跳ね飛ばしたから、その後のことを私は知らない。

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