KTE-3317-Green Sunset "顔のない厥起将校(Faceless/フェイスレス)"はレスポンスレベル2及び3に設定されている。我々はこの男と、その周辺人物たちを70年近く追跡し、遂に討伐に成功していない。対象の発見次第、0811排撃班"忍び足ソフト・ステップス"へ通報することを義務付けるものとする。"決して一人でやるな"
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「逃がすなよ」
「はい」
昼下がりの霊園に、喪服の男たちが二人。痩身な方の青年が、道路挟んだ向かいのベンチを覗き見た。彼のサングラスに搭載された超小型サーモグラフイーが、ベンチの上にいるネコ科動物のシルエットを映し出す。
「間違いありません。目標の猫です」
「よし、確保だ」
2人の男が姿勢を低くして、ベンチの陰から出てくる。あからさまに怪しい喪服の二人組が昼間の道路を横断していく有様は、かなり異様なものであったが、この猫にさえバレなければいいのだ。丸まって昼寝をしている猫は男たちの接近に気が付く様子もない。
「確保」
「はい」
痩身の男──育良啓一郎は網を振り下ろした。猫の上に白い特殊な合成繊維でできた網がまとわりつき、スイッチを入れると網の口が自動的にすぼまった。猫は身じろぎ一つせず、平穏な眠りを続けている。
「熟睡だな」
保井虎尾がサングラスを外すと、二つの異なる瞳が露わになる。しかしその視界に猫の姿はない。サーモグラフィーで見えていたはずの猫の姿は、肉眼ではとらえることができないのだ。
「透明猫か」
不意に、網の中にいた猫が目を覚ました。肉眼の保井にもすぐにそれが知れたのは、この猫の瞳が唯一透明ではない部分だからだった。黒い紡錘形に囲まれた翡翠色が、状況を把握しようとしきりに左右へ振れる。やがておおよそのことを理解したのか、透明猫は暴れるでもなく、今度は捕獲者の二人の顔を見比べ始めた。ずいぶん間抜けな猫だったが、この小さな獲物こそ、カナヘビが『理由あり』で捕獲を命じた異常存在だった。
「透明なだけで、ただの猫なんですね」
「ああ。さっさとケージに入れて持ち帰ろう」
この格好は目立つしな──保井は無人なはずの周囲を見回した。霊園の雰囲気は極めて長閑であり、皺ひとつない喪服の二人組は、かえって大げさだった。
木場購買長がこだわった特殊合金製のケージへ猫を放り込めば、それで仕事は殆ど終わったも同然ということになる。
「さっさと帰るぞ」
「はい」
保井はイヤホンを付けた。普段は何ももつながないことが多かったが、今回は無線機を使うためにそうもいかない。懐に手を伸ばしてボタンを二、三度操作すると、周辺警戒にあたっているはずの仲間たちへつながる──はずだった。
「………………」
いや、周波数帯は間違っていない。何かが起きている。
「……保井さん」
先ほどとは打って変わって沈痛な育良の声が、背後から聞こえてくる。その声にただならぬ違和感を感じ取った保井は、あえて後ろに振り返らずに、「どうした」と最小限の声量で応えた。
「もし違ったらいいんですけど……」自動拳銃の入っている腰に手を当てたまま、育良は目を泳がせる。「あそこの木陰に一人、僕らを見張ってる奴がいます」
「どうして分かる」
「保井さんが動くと同時に一瞬、向こうで光学迷彩のノイズが走りました」
猫は鳴き声一つ発しない。保井は特段表情を変えずにケージを背負った。育良の目配せに保井は頷きもせず、顎で一番近い出口を指し示す。
「こちら育良。餅月さん……ここから最も近いセーフハウスってどこだっけ」
『あれ、もしかしてお客さんがいた?』
切羽詰まった様子の育良の忍び声に、懈怠な返事を寄越したエージェント・餅月は、待機していた車の中でどうやら居眠りをしていたらしい。
『あー、使えそうなのは日野博士の施設外自宅のあるマンションかな。今外出中みたいだし』
「ああ"ひのけん"ね……」
努めて平静を装いながら育良は、耳に当てていたスマートフォンを一度離して、送られてくる地図データを確認した。距離はおよそ500メートル。餅月が今暖めている車を利用すれば、すぐにでも到着することが出来る距離だ。
『でも、部屋に籠城なんかしたらそれこそ袋の鼠じゃないの?』
「いや」確信を持った声で育良は言った。「そこなら相手を一定時間足止めできるはずだ」
『じゃあ、応援を呼んでおくよ』
「頼む」
「話は終わりか?」
気がつくと、保井が横目に育良を覗いていた。一瞬心臓を跳ね上げた育良は、あわてて落としたスマートフォンを拾い上げると、はい、と答えた。
「かなり近くにセーフハウスがあります。そこで応援と合流しましょう」
「………………」
育良の報告に答えようとした保井は、ふと何かに気が付いたかのように、公園のある一角に目を向けた。桜の木陰に置かれたベンチに、10代と思しき少女が座っている。眠っているのか、時折吹く風が服をなびかせても、少しも直そうとしない。
「どうしたんです?」
「いや、なんでもない」
気味の悪い胸のつかえを感じながら、保井虎尾は後輩エージェントに頷いて見せた。
「行こう」
「わざわざKTE-3317をやめて猫ちゃん狩りとはね」
南中する太陽の下、風になびく長い赤毛の麗しい北欧系の美女が、標準実地礼装ブラック・スーツ1のスポーツウェアに収まりきらない武骨な肢体を投げ出している。
「その猫は既に財団の手に渡っている。取り返すのはそう容易じゃない」
そう諭した白人の男の手には、分解されたスナイパーライフルの部品がある。慣れた手つきでそれらをテニスバッグの中へ詰め込んでしまうと、すっくと立ちあがった。狙撃で財団エージェントたちを片付ける仕事はようやく終わり、これからいよいよ猫の直接回収に向かわねばならない。
「指揮通信車CC C。こちら"頭足類Pääjalkaiset"。第1フェイズを終了した。"ウィスパー"の連中と合流する」
首筋の紋様に手を当てて、"頭足類Paajalkaiset"と名乗った女が独りでにしゃべり始める。秘匿性の高い思念伝達通信システムは、彼ら排撃班の最もよく使う連絡手段の一つだった。思念伝達に必要な用意は、驚くほど少ない。事前に準備すべきなのは交信者同士の血判と、共有される術式、そして冷静な頭──それだけ、と来ている。もちろん有効範囲に限界はあるが、それは戦略上全く意識されないレベルの些末な問題に過ぎない。
『こちら指揮通信車CC C・"揚げ足取りNitpicker"了解。班長へつなぐ』
通信兵の中国訛りの英語が答えると、頭足類はそばに立つ物憂げな男──"三本足Dreibeig"を見上げた。三本足は頷いて、同じく首筋へ手を当てて通信に参加する。
『こちら"早足Trot"。よく聞け。KTE-3317の偵察に当たっていた"蹄Hoof"から報告があった。奴は今財団の連中の保護下にあるようだ』
「ああ!?」頭足類が素っ頓狂な声を上げた。「あたしらがあんなに苦労して捕まえられなかったんだぞ!? 一体どうして」
騒ぐ頭足類を手で制した三本足は、しかし驚きを隠せない様子でいた。
「財団が……」
『そうだ』
通信相手の"早足"は彼ら0811排撃班の班長職にある男だった。数十年に渡って暗殺任務に従事してきた経験のある老兵だ。
「自分で捕まりに行ったのか? じゃあやはり……」
『ああ。財団が猫の回収に動いたのもそのためだろう。猫確保の折には交戦も辞するな。以上』
「頭足類、了解」
「三本足、了解」
通信を終えた頭足類は、嬉しそうに口角を吊り上げた。両の拳を胸の前で打ち付け、「班長どののお墨付きだ!」と叫ぶ。「大暴れしてやれるぞ。たまにゃこういうのがないとな」
「落ち着け。"ソフト・ステップス俺たち"は暗殺部隊だということを忘れるな」
副班長格の三本足は頭足類とバディを組んでまだ1年だったが、だいたいこの女の特性は理解しているつもりだった。所属する0811排撃班-"ソフト・ステップス"の一癖も二癖もある班員たちの中でも、群を抜いて気性が荒く、また少々命令無視の傾向があった。その代わり腕は立つ。GOC極東部門の中でも彼女の格闘戦技能は1位、2位を争う。
「お前に言われなくてもわかってる。我らが血の最後の一滴までTo The Last Drop Of Our Blood」
部隊モットーを口にした頭足類が、打ち合わせた拳の片方を相棒に向ける。作戦前にやる儀式を、仕切り直しの意味を込めてもう一度やろうという魂胆であるらしかった。
「我らが血の最後の一滴までTo The Last Drop Of Our Blood。さあ、かかるぞ」
次の瞬間、彼らのいた屋上は無人になった。
長閑な霊園のベンチに座ったまま瞑想していた"舌切り雀Mute Sparrow"は、ゆっくりと目を開いた。718評価班唯一の女性班員は決して職務に怠慢なわけではなく、今まさに一仕事を終えたところなのである。この短時間のうちに、大人二人分の波形を識別できるようにするのは容易なことではなかったが、彼女の集中力にかかれば決して無理という話ではない。
「………………」
予知をやめた舌切り雀は一つ大きく伸びをする。この後のスケジュールもなにもかも聞かされていたが、眠さがそれに勝った。全神経を集中する波形識別を行った後は、急に疲労がこみ上げてくる。
首筋をさすった舌切り雀は、一旦浮かしかけた腰を、再びベンチの上に置き直す。雑嚢から地図を取り出して、サインペンで線を引く。地図上にはすでに長大な赤い線が浮かんでおり、その全てはこれまでの"猫"の足跡とすなわち符合する。
彼女は、GOCで言うところのType Greenだった。
しかし彼女はこうして存在を許されており、あまつさえ評価班に籍を置く身としてある。このあどけない現実改変能力者は、実のところGOC極東部門の"歩く備品"なのだった。少女は人体の発するエネルギー、そして空間内部に存在するエーテルの波を"検知する"才能を生得的に持っていた。
本来ならば殺害あるいは無害化されるところを、当時は特 殊 立 会 人スペシャル・オブザーバーであった"親不知Wisdom Teeth"によって助命され、評価班の一員として雇用された。
とはいえGOCもそう簡単に信用してくれるわけではなく、彼女の頭蓋の中には、今も排撃用の小型爆弾が埋められている。
「おい、お前」回想にふけっていた舌切り雀は顔を上げた。そこには当時と変わらない、不機嫌そうな幼顔がある。「任務はどうした。奴らの追跡は」
「…………できる」
手にしていた地図を差し出すと、親不知は耳珠を押して通信を始めた。労いの言葉を待っていたにも拘らず裏切られた舌切り雀は、彼をきつく睨み付けたが、当の親不知はさっぱり気が付かない様子で排撃班員と話し込んでいる。
「──ああ、"猫"はうちの班長と"喉仏Adam's Apple"が追ってる」
『了解した。早足から聞いていると思うが──この、黙れ──そちらに一旦合流する』
通話先の三本足は後方で騒いでいる頭足類を黙らせているらしく、時折声が離れて折檻と思しき音が混じる。うちではあり得ない現象だ、と親不知は背後の静かさに感謝の念を抱いた。
「……聞き及んでるよ。お宅も大変だな」
『お互い様だろう』
ふと親不知が振り返ると、恐ろしい形相の舌切り雀と目が合った。
餅月の運転が荒いことを今更のように思い出した保井は、助手席で不機嫌そうに窓の外を眺めていた。追っ手が付いていることは最早疑いようが無く、早晩追跡者たちと相まみえることは誰もが予想していた。
「くそ……無線が通じない。やっぱり、他の連中はもう」
「やられたか」
保井がいやに冷静な口調で言った。付近に展開している機動部隊へ救援要請を出したはいいものの、このままでは追いつかれる目算が高い。育良たちには敵が見えていなくとも、敵は育良たちを捉えているのだ。
「救援もセーフハウスに呼ぶの?」
餅月が低身長者用のペダルを踏み込みながら、後部座席の育良に向けて聞く。直後に入った急激なカーブに「うぐぐぐ」と喉を鳴らした育良は、ひどく青ざめた顔を上げる。
「……つ、追跡者は多くて四人……たぶん、振りきれない。だからそこで迎え撃って、さっさとサイトに逃げる」
「ふうん、そんなに上手くいくものかな」
「でなければ死ぬだけだ」
保井は何のことはないといった様子でいる。作戦立案者である育良は、保井の言葉が自分に向けたプレッシャーなのではないかという疑念に駆られて、固唾を飲んだ。
「上手くいくよう、祈りましょう」
「上手くいくさ」
年下なのに敬語も使わない先輩エージェントの無表情には、少なくともプレッシャーに相当する意味合いは含まれていないようだった。
「さあ、もう着くよ」
公道上で華麗なドリフトを決めたセダンが、マンションの前で急停車する。道中シートベルトに四回ほど殺されかけた育良は真っ先にふらふらと降りて、植え込みに飛び込む。
「おい、大丈夫か」
ケージを肩に下げた保井が背中をさすると、大小硬軟入り交じった吐瀉音が放出される。保井は少し顔をしかめたが、育良が自分に向かって振り返るとすぐにその表情を引っ込めた。
「ありがとうございます。だいぶ楽になりました」
「任務に支障が出ないようにすればいい」
「まったくだね」非難のこもった育良の視線を受け流した餅月は、すぐにパワーウィンドウを上げた。「じゃあ、車隠してくるから」
「ああ。頼む」
「先に行っていてください。僕は後で餅月さんと合流します」
「やっと暴れられる」
拳を打ち合わせた頭足類の後背では、三本足が不安そうにカービンを構えている。
「おい、頭足類」冷や水を浴びせ掛けるような三本足の声音に、頭足類が振り返る。その顔には、興が削がれたぞとでも言わんばかりの眼つきがある。「奴らがここにいることは筒抜けだが──まだ俺らが勝つと決まった訳じゃない」
「知ってるぞ、そんなこと」
馬鹿にするな、と言ってカービンのマガジンを確認すると、初弾を装填する。慣れた手つきで二、三度構える振りをしてみせると、それを背中に戻してしまう。
「またそれか」
いつものように散弾銃を取り出してきた同僚に、三本足はあきれ顔を向けた。すると、またしても不機嫌そうな顔が振り向く。
「なんか文句があるのか」
「相手を即死させるつもりか」
「Type Greenにはそれが一番いい」
「今回はGreenじゃない。Smittyだ」
「知ってるよ。──時間だ。始めよう」
コードネームの由来となった長い赤毛を揺らした女は、室内戦用ホワイト・スーツのバイザーを下ろした。オキュラス・ディスプレイにVERITASの起動を告げるメッセージが浮かび、"主要生体反応: 2"というアラートボックスが現れる。
このVERITASはAEF2、そしてEVE3と呼ばれる、本来不可視のエネルギーの流れを可視化することのできるほぼ唯一の兵器だった。
三本足は一足先に準備を全て整えており、首にある思念伝達術式を起動させる。
『EVE反応あり。総数、二。舌切り雀の追跡トレース通りだ』
『突入班より指揮通信車CC Cへ。三本足、頭足類、突入します』
三本足の無線とほぼ同時に、頭足類がドアの施錠を散弾銃で吹き飛ばし、ドアを強引に開く。開いた隙間に三本足が身体をねじ込み、「排撃班だ!」と流暢な日本語で叫んだ。
中には誰かがいる様子がない──少なくとも、肉眼で見た限りには。
広々とした3LDKの部屋だ。靴を見る限りでは、どうやら一人暮らしの女性が住んでいるものと思われた。
間取りは既に、電子戦担当の"揚げ足取りNitpicker"から送信されていた。これを微弱ながら感知されるEVE波と組み合わせて考えると──敵の潜んでいる位置は、一番奥の寝室のウォークイン・クローゼットだ。
『……交互に行く』
リビングまでに部屋は三つある。頭足類に背後を任せた三本足は、トラップを警戒しながらドアの前に立つ。VERITASによるEVE波測定で既にこの部屋が無人であることは確実だったが、どんな形で退路を塞ぐための仕掛けがなされているか、分かったものではない。何しろ相手は財団なのだ。
三本足がホワイト・スーツのやや過剰気味な脚力でドアを蹴破り、すぐに耐衝撃姿勢を取った。しかし、予想されていたような爆発も衝撃もない。姿勢を改めてライフルを構え直した三本足は、左手の指先に搭載されたサブカメラを部屋の中に少しだけ入れ、内部の様子を確認する。
大きな窓のある部屋には、書籍が溢れかえっていた。巨大な書架二つを満たすほどの大量の本は床にまで及んでおり、いかにも研究者の部屋という雰囲気だ。
『さすがに機密書類は置いてないみたいだな』
『あまり触るなよ、ブービートラップがあるかもしれん』
『ああ』
本には手を触れず、灰色の甲冑騎士は一通りVERITASで部屋を走査する。特筆すべきものはなく、トラップ設置の形跡も見あたらない。
『クリア』
三本足が無事に廊下に戻ると、そこからしばらくしてからも何ら問題は──リビングに設置されていたターレットは例外として──発見できなかった。残すところ二部屋となっていたが、ここまでに要した時間はわずか200秒ほどしかない。素早くクリアリングを済ませていく二人にとっては、クローゼットの中に潜んでいる財団エージェントが多少、不気味に映った。最も、向こうとてこちらが既に位置を割り出しているとは想像もしていない。VERITAS技術は、GOCが財団への流出を防いでいる数多くの技術の一つだった。
リビングの真ん中で火を噴き上げているターレットの残骸を踏み越えて、排撃班の二人は寝室のドアの前に立つ。VERITASの生体感知センサーは、ここに目標がいることを声高に主張している。一息にドアを破壊しようとした三本足は、『待て』という頭足類の制止によって、構えた脚を下ろす。
『クレイモアだ。教本通りに置いてやがる』
彼女の鋭敏な戦闘勘が働いたらしい。VERITASはドアの向こう側に小さな長方形の板が並んでいると示している。大きさといい形状といい、クレイモア地雷であることは確実だった。ホワイト・スーツを着ていれば何のことはないトラップだが、少なくとも足止めぐらいは食らうことになる。
『どうする』
『こうする』
言うや否や頭足類はドアを思い切り蹴飛ばした。ドアの下半分だけが裂けて飛んで行き、クレイモアの仕掛けごと部屋の空中で爆発四散する。寝室は一瞬にして火の海となり、家主──日野博士の預かり知らぬところで、既にこの家はかつての面影を失いつつあった。
『結局ドアを壊すのか』
『知っているのと知らないのでは変わるだろう?』
残った上半分も散弾銃で吹き飛ばした頭足類は、大破炎上しているダブルベッドを軽々と蹴り上げて、裏に何もないことを確認する。背後では三本足がドレッサーを一通り走査し終えて、部屋にあるめぼしい家具を調べ上げていく。
『──クリア。あとはそこだけだ』
三本足が立ち上がって振り返る。周囲の火の手は最早、消火器程度では消し止められないほどになっていた。時間はあまり残されていない。
『行こうか』
部屋の一角には引き戸がある。いわゆるウォークイン・クローゼットで、VERITASビューで中を覗き見た二人は驚きを露わにした。
『なんだこれ……』
奥行き1.5メートル程度はあろうかというクローゼットの内部には、衣装がぎっしりと保管されている。しかし、それよりも重要なのはそのさらに奥にある生体反応だ。
『隠し空間がある』
奥の壁にはシェルターが偽装されている。壁に隠蔽された入り口が開いており、人一人と猫一匹に相当する反応があった。ここに至るまで一切動きを見せなかったが、それが単純な降伏ややり過ごしを狙うものとも思えなかった。
ドアが乱暴に開かれ、銃を持った二人組が中になだれ込む。そこにはおよそ──少なくとも世間一般の基準では──実用性に欠けた衣装が保管されている。
『この服は』
『コスチューム・プレイってやつだろ』
『ああ、あれか』
文化らしい文化と言えばヘヴィメタルかそれ以外かの区別しかつかなかったFinn4の頭足類が、コスプレを知っていることは奇跡に近かった。
『ここの家主の趣味か』
『これも全部燃えちまうさ』
萌えだけにな──そんな会話は非常に迅速に行われている。会話をしながらでも室内の安全確認が終えられ、その会話も思念伝達システムによって実際に一言も発することがない。戦闘時の高速思念伝達システムは、通常の発話の数十倍の速度で会話を進行させる。
部屋の照明が点いている。逃げ込んだエージェントが消し忘れたらしく、天井を見上げた頭足類は、部屋全体がやけに頑丈な装甲で覆われていることに気が付いた。照明近くには独立電源も見え、この部屋自体の役割がどんなものであるかを物語っている。
「──そこに隠れているのは分かっている」
思念伝達ではない声が発せられる。三本足が壁に向かって常套句で警告する。その背後では、頭足類が散弾銃を構えて控えていた。
「抵抗を止め、出てこい。エージェントについては助命の余地がある」
VERITASが描き出す人型に、動きがあった。三本足が片足を少し後ろに引き、予期せぬ事態に備える。VERITASは人型が動くたびにその走査精度を高め、徐々に形状を収束させていく。成人と思しき──EVEは性別によって若干異なる波長を示す──男、そしてケージに入れられた猫がシェルターの内部に確認できる。男はシェルターのものと思われるコンソールに手を伸ばす。
『来る』
ドアは意外な方法で開いた。壁自体がドアの体積分──先んじて抜けた床とともに──下に落下し、中から人影が飛び出してくる。隠れていたエージェントは勢いのまま、三本足の右をすり抜けようとする。
「くそっKusipää !!」
迷うことなく頭足類は散弾銃を連射した。しかしその鉛玉の群れはことごとく弾き返される。猫用にしては巨大なケージが、小弾を全て弾いていた。
「緊急省略コードEOC: F!」
振り向きざまの三本足が、掌より少し大きい円筒を投げる。それは瞬時にエージェントの足元まで飛んでいき──一瞬を経て炸裂する。
視界をまっさらに漂白する閃光と、最早認識できないほどの轟音。その二つが狭い室内を何百周と駆け巡る。バイザーの自動光量調節に助けられた頭足類は、飛び込んできたエージェントの腹部を──多少加減したうえで──殴打する。くの字型に体を折り曲げたエージェントは、そのままシェルターの中まで吹き飛ばされる。
その場には、一見するとどこにも蓋がないケージだけが残された。
『"猫"を回収しろ。すぐさまこの場を離脱する』
『了解、副班長どの』
ケージの中にはぐったりとした猫がいる。閃光手榴弾の威力で気絶したようだが、生体反応を発する以上生きているとみて間違いない。
頭足類は大腿部に装着されている高周波ブレードを引き抜いて、ケージに刃を当てる。ケージの素材はかなり固く、数秒をかけて切断しなければならなかった。ブレードの震動で気が付いたのか、猫──の形をした熱源──が空いた穴から飛び出してくる。
「あっ」
『頭足っ……!』
三本足の絶叫に頭足類が振り返る暇はなかった。
天井が飛んでくる。液化した天井そのものが。照明のソケットを中心に、天井の構成物だったはずのものが吹き付けられてくる。罠だと気付いた三本足が離脱しようとして、盛大に失敗する。足元に絡みついた"天井だった"液体が、尋常ではない粘度で足を引っ張ったのだ。
頭足類は立ち上がろうとした姿勢のまま固まった。スーツの出力を上げて液体を引っ張れば引っ張るほど、力を受けた液体の粘性が強まる気配がある。頭足類は腹の底からうなり声を上げた。
「どうなってやがる!」
「……やはり木場さんはすごい」
シェルターの方から声がした。三本足が指先についていたカメラを向けると、そこには閃光手榴弾で気絶したはずのエージェントが立っている。
エージェント──保井虎尾はトラップのスイッチを投げ捨てると、黒い耳栓を両耳から外した。閃光手榴弾の轟音を完全に遮蔽して見せたこの耳栓こそ、木場購買長お手製の代物だった。
「悪いがそのままでいてもらう。じきに救援が来るからそれまで待ってろ」
天井の確保用ケミカルジュースは既に停止していたが、吹き付けられたジュースは膜を作って、さらに排撃班員たちの自由を奪う。保井はそんな地獄絵図の上を平然と革靴で踏み、歩いていく。部屋の天井は灰色がむき出しになっており、先ほどの独立電源はこの装置のためのものだった。
「クソエージェント! ウチらは絶対に諦めねえからな!」
破れかぶれに頭足類が叫んだが、保井は振り返らない。
「地の果てでも必ず追い詰める!」
「どうしたんだい、お嬢ちゃん」
背後から近付いてきた大人二人が、少女に話しかけた。
「………………」
少女・餅月榴子は答えない。
「エージェント。質問に答え──」態度を一変させた男の一人の股間に、餅月の蹴りが食い込んでいる。「うっ」
崩れ落ちた男の一人、"喉仏"は情けない声を上げてうずくまった。もう一人が銃口を向けるのを察知していた餅月は、素早く身を沈めている。小さな手が"本音"の銃口の向く先を変え、引き金を引かせない。
「ちっ!」
すばしっこい小娘の挙動に内心舌を巻きながら、本音は一旦飛び退く。しかし相手は待ってくれない。餅月はたった今しがた倒れた相棒──"喉仏"が戦線復帰する前にことを片付けるつもりだ。ファイティングポーズを取った少女が、身を素早く入れ替えながら隙を伺う。
本音はバレルの短い短機関銃を捨て、徒手空拳でこの少女と渡り合うことを決めた。踵が若干地面から浮き、背を丸めて頭をかばう。
初めに仕掛けたのは餅月だった。不規則な運歩から急に地面を蹴り、素早く間合いを詰めてローキックを繰り出す。本音はそれを見切っており、片膝を上げるだけの最小限の動きで回避する。同時に、上げた足とは逆の方の拳で餅月の横顔を狙う。
しかしそのフックは餅月の手刀に遮られる。鋭い痛みが両者を襲ったはずだが、お互いの脳内物質がそれを麻痺させた。餅月はすかさず中段へアッパーカットを狙う動きをしたが、これは陽動だった。本音はそれを読み切ることができず、咄嗟にフックをしていない左手で中段をかばう。
餅月の狙いは顎だった。外を受けていた手が瞬時に本音の顎を捉える。鈍い音がし、餅月が決まった──と確信したその刹那、餅月の鳩尾へ容赦のない膝蹴りが入る。
小さな体が浮いた。しかし、ダメージコントロールにぬかりはない。視界の隅に映っていた相手の挙動を察知していたことで、膝蹴りの入る直前に腹部へ力を入れておくことができた。
「……っふう」
顔をしかめたエージェントを、ラテンとアジアの混じった本音の顔が嘲笑う。
「なかなかやるじゃねえか。お嬢ちゃん」
「……ふんっ!」
小さな体躯を活かして本音の追撃を振り切ると、"お嬢ちゃん"はすぐさま攻撃に反転する。餅月の手の中で何かが閃き、それを辛うじての距離で交わした本音の肘に縦一本の筋が入る。ブラック・スーツのおかげで切創とまでは行かなかったが、明らかに鋭利な刃物傷だった。
「ナイフたあ物騒な」
喉を鳴らす元海兵隊員の顔に余裕の二文字はない。餅月が休む暇なく斬撃と突撃を繰り返してくるのを、踊るようにして回避していく。そのうち餅月の顔に疲れが出てきた。本音はその瞬間を待つ。
──餅月の刃の残像が、その瞬間だけ大振りだった。本音はそれを退却のサインだと受け取り、防戦一方だった体勢を直ちに攻撃へ転じさせる。防御を一切考えないストレートキックが、ナイフごと餅月の腕を叩く。完全に虚を突かれた餅月が反撃する暇なく、本音の次の一撃が鼻先をかすめる。ナイフを手放してしまった餅月は、起死回生を狙って床に手を突く。
「あ!?」
本音が声を上げたのも束の間、餅月の姿勢は天地逆転し──回転しながら強烈な蹴りが繰り出される。突然のカポエラに面喰った本音は、それでも冷静さを失わなかった。餅月が距離を取ろうとして手の置場を変えた瞬間を狙って、捨て身の体当たりを仕掛ける。
固いブーツの底が脇腹を捉えたが、本音はそれに構わずそのまま餅月を押し倒す。餅月が短い悲鳴を上げ、素早く取り押さえられる。
「動くな嬢ちゃん。──落ち着け、俺にそんな趣味はねえ」
「っち、この野郎」
口汚く罵ろうとする餅月の頭をコンクリートに押し付けた本音が凄む。
「おい、黙れ。そして質問に答えろ」
餅月のナイフはいつの間にか本音のものになっていた。それを首筋に当てられた餅月の表情がゆがむ。
「おっと、危ねえ」ナイフを突きつけられているにもかかわらず、餅月は本音に噛み付こうと抵抗を繰り返す。本音はそれを見て実家の犬を思い出し、余計に顔つきをきつくした。あの犬にいい思い出はない。「質問その一だ。どうしてお前らが猫を追ってる?」
「グルルルル……!」
歯を食いしばって精一杯本音を見上げる餅月には、明らかに回答の意思が欠如していた。
「ダメだな、こいつは。悪いがベースへお持ち帰りTAKE OUTだ」
そう言って本音がナイフを振り上げ、餅月が覚悟を決めた──次の瞬間。
銃撃音がしたかと思うと、馬乗りになっていた本音の巨躯が崩れ落ちる。
「遅くなってごめん、餅月さん」
「遅えよ育良っ!」気絶した本音を殴り飛ばしながら、餅月が立ち上がる。「死ぬかと思ったよこっちは!」
「すみません、餅月さんの運転でダウンしていたんです……」
まだ血の気が戻り切っていない育良の顔が、皮肉に微笑む。その手にはゴム弾を満載した小銃が握られている。
「許してやる。そこの奴は?」餅月が顎で示した先には、いつの間にか手錠をされて失神している先ほどの男がいた。「──大丈夫みたいだね」
育良たちが慣れた手つきで二人の評価班員を縛り上げていると、猫を抱えた涼しい顔の保井がやって来る。
「……当初の作戦とは違うようだが」
「どうしたのその服」
勲章だ、と嘯いた保井の来ている喪服のジャケットには、見事に巨大な手形が付いている。殴られた跡であることは察しがついた。
「育良も良く知っていたな、あんな仕掛け」
マニュアルにないだろう──保井が感心したように言うのを、くすぐったそうに育良は頷いた。
「よく遊びに行きますから、あそこには」
「そうか、それは残念だ」
保井は悲しそうな表情を浮かべた。どうしたんです、と聞く育良に、保井は無言で上を指さす。もくもくと黒煙が上がっているベランダが、一つだけある。
「まさか……」
「奴らに容赦を期待する方が間違いだ」
「そんな、新居だったのに」
「ますます残念だ」
そう言い残した保井は、がっくりと膝を突く育良をよそに車へ近づいていく。中では餅月が既にエンジンをスタートさせている。
「かわいそう、日野博士」
「仕方のないことだ」
「そうかもね、家の一軒ぐらい。……おーい、育良! はやく行こう!」
餅月はけろっとした表情で育良を呼ぶ。
保井はその様子を横目に見やりながら、小さく、それでも愉快そうに、鼻を鳴らした。
少し、時を遡らねばならない。
「今更、どの面下げて来たんや、キミ」
エージェント・カナヘビの放つ頭蓋に残るような高音が、水槽に据え付けられたスピーカーから流れる。眼前に座っている青年軍人は、その声に辟易した様子で中空を仰いだ。
「よく言う。国賊め」
「………………」話にならんとでも言わんばかりにそっぽを向いた爬虫類は、横目遣いに青年を見やった。「結婚式でも行くんか? その並襟」
「とんでもない。──当時の上司にきちんとした服装で会おうと思ってね」
足を組んでいた青年が立ち上がると、窓から差し込んできた月光が彼の顔半分を照らした。その表面には何も──文字通り何も──なく、ただ滑らかな表皮が広がっている。まだ瑞々しいその皮膚が、この青年の実年齢を隠していた。
「ついこの間か? ウチのエージェントに手出したのは」
のっぺらぼうなどに今更動じないカナヘビは瞼を半分ほど上げて、鋭い目つきになった。カナヘビにとっての数少ない感情表現の手段であったが、当の三川十七はその表情などには目もくれず、ブラインドの降りた窓へ視線を移している。
「彼を収容しようとは思わないのか?」
「どうして」
突起や陥没の一切取り払われた顔に、眼球が一つ現れていた。取り残されたかのように存在している右目は、鈍い動きでカナヘビを捉える。水槽越しのカナヘビは、趣味の悪い抽象画でも観覧するような目つきでそれを見返し、人外なる両者はそのような奇妙な出で立ちで視線を対峙させた。
「財団はそういう場所ではなかったのか」
「役に立って危なくないんなら使う、それだけのことや」
「なるほどね」三川がわざとらしい所作で頷いて、部屋の調度を手に取って弄び始める。「まあ、あの連中よりは多少柔らかい頭なのかもしれんな」
「そろそろ教えてくれや──一体何の用で来た」
サイト-8181管理者は忙しい身であったから、時間の浪費はあまり好くところではなかった。70年前の因縁などこの爬虫類には興味がなかったし、一方的に敵視しているのは今も昔も三川の方なのだ。半ば呆れつつも、カナヘビはこの男の執念深さだけは評価していた。
「KTE-3317-Green Sunset」
「……あ?」
「物好きもいるものだな、奴らはわざわざそんな渾名を与えて私を追っている」
爬虫類にも表情はあるのだな、と三川は思った。こちらを見上げているカナヘビの瞼に、いやに力がこもっているように見える。それはどこか愛嬌を感じさせるようにも思えたが、そんな感情を励起させられること自体三川にとっては不愉快だった。
「GOCの連中とも揉めてるんか」
「君らよりも付き合いは古いのでね」三川はブラインドの紐を引っ張り、真夜中を閉じ込めている窓ガラスに自らの姿を見る。「ここ七十年ずっと逃げ続けている」
「キミを確保するのはウチや」
少し熱っぽい語調でそう言ってみせたカナヘビは、水槽を前足で軽くたたいた。答えるように鼻を鳴らした三川は、カナヘビがそんな性質の人間ではないことを知っていた。蒐集院の末期、その政柄を握ったこの男が何をしていたのかを忘れられるほど、三川は清廉な青年ではありえなかった。
「君らの機動部隊とGOCの連中は、どちらが手強いのかな」
いつの間にか三川の右目は真っ新な肌の下に埋没して、新たに半月状の唇が出現していた。言行共に不穏な元部下を前にカナヘビは嫌悪を露わにして、前足で自らの頭を数度撫でた。
「保護してほしい、ってことか?」
お断りや──カナヘビは水槽の中の枝の上に寝そべった。諸知が毎週取り替えているこの枝は、カナヘビにとってお気に入りのスペースで、大体ここに寝そべるときは機嫌が良いときだった。老獪なサイト管理者は、三川の生殺与奪を自らが握っているということに多少、満足感を得た。
「少し違うな」
カナヘビの動きが止まり、やや怪訝そうに──感じられる──目を細めた。忙しなく出入りしていた舌が沈黙し、枝の頂上に緩慢な所作で陣取った爬虫類が何か言葉を発する前に、並襟の男は二の句を継ぐ。
「保護してもらいたいものがある」
財団幹部とKTE-3317の接触。
早足からの報告を受けたベース-FE-392はPHYSICS部門総監部の喧騒は、いつにも増して混沌としたものだった。全くの予想外というわけではない。だが、少なくとも陣頭指揮を執るGOC極東PHYSICS部門総監の"篳篥"にとっては、喜ばしいものではなかった。
「なるほど」部門総監の標準的な格好である雑面が言った。「KTE-3317と財団幹部が接触した数十分後、今度は猫と財団が直接接触を果たした。これが偶然であるはずがないな?」
『はい』
秘匿思念伝達をしていると、"篳篥"の脳裏に早足の老獪でありながら武人然とした顔立ちが脳裏に浮かんでくる。KTE-3317を巡る極東部門70年の歴史の殆どは、この男をなくしては語れない。ヴェトナム戦争中にGOCへ引き抜かれた早足は、戦争終結前からインドシナ地域でのKTE-3317追跡任務に従事していた。それから半世紀以上が過ぎてなお、現場に立ち続けている。
『財団と奴らが、結託していたのかもしれません』
「いつから」
『我々には想像もつきませんな。逃亡中のKTE-3317に関わる資金ルートには必ずブラックボックスのようなものが存在していた。いわゆる記憶処理の痕跡が。とすれば、はなから』
語る老兵の言葉端には、抑えられない感情の一端が現れていた。笑み、それとも怒り。思念伝達が伝えるのは何も言葉だけではない。そこに宿る感情もまた伝達される。しかし"篳篥"は、そのどちらとも判断しかねた。
「70年だ。その間ずっと我々は追い続けてきた。その膠着状態が打破されたのが、7日前の財団エージェントとの接触案件だ」
『ウィスパーの舌切り雀には、また役立ってもらいました』早足の調子が元に戻っている。『連中が舌切り雀に反応したということは、やはり"喇叭吹き達"の計画が続いているのでしょうか』
「その件は我々幹部会議に任せてもらおう。お前は目の前の任務に集中せよ」
『はい。それでは』
「ああ」
脳裏から気配が消える。思念伝達を終えた"篳篥"は、深々と椅子に身を沈めた。早足には危ういところがある。70年も追い続けた獲物が突然姿を現したことに、大分神経を昂らせているように見えた。
「我々は我々の仕事をしよう」
部門作戦運営官へのホットラインの受話器を、"篳篥"はおもむろに取った。
マンションの死闘とほぼ同時刻。
彼からすれば随分おざなりな警備であったかも知れない。現にこうして財団機動部隊は、彼の"外出"を許している。もとよりカナヘビは、彼を止められるとも思っていなかったかもしれない。
早速契約を破って監視の目を逃れた三川は、路地裏を悠々と歩いていた。
"猫"は無事、財団のエージェントたちが保護したという話であったし、GOCの連中も順調にその跡を追っている。今のところ彼の企てに支障はない。
いつの間にか外は昼下がりとなっていて、目の慣れない三川は日陰を選んで歩いていく。機械的に歩を進めながら、脳裏で水槽の中に閉じ込められた宿敵の顔を思い浮かべる。久方振りに顔を合わせた████──今はカナヘビと名乗っているようだが──は、相も変わらず癪に障るあの話し方を改めていないようだった。一途に自らの延命と保身に走ったあの████は、未だ死んでいない。爬虫類の皮の下には、醜い老人の魂が生きている。
だが、奴を殺すための時間ならばあとでたっぷりと取れるだろう。今は自分の役割を果たすことに集中しなくてはならない。
「──ちょっと、そこの」
明らかに自分を対象とした声に、三川の思考はそこで中断された。思っていたよりも発見が早いことに、三川の中では小さな驚きが沸き起こる。歩を止めてゆっくりと後背の声の主の方を向くと、声の主が少し離れた場所に立っていた。くすんだ金髪に碧眼の男。黒いスプリングコートで身を包んだ長身が、三川の化けている警備要員に向けて少々険悪な表情で問う。
「この辺りは俺らが捜索する。お前、所属は?」
「て-1小隊です」ドッグタグを探って出すと、機動部隊員と思しきエージェントはずかずかと近づいてきて真偽を確認する。始末した警備要員の持っていた本物だ。そう簡単には見破れないはずだった。「あなたは?」
「コールマン。エージェント・コールマン。本部小隊だ」ドッグタグを三川に突き返した男はぶっきらぼうに言い、コートの裏から取り出した自動拳銃をおもむろに突き付けた。「そいつの死体はついさっき見つかった。今すぐ戻らねえとズドンだぜェ。カメレオン野郎」
酷悪な愚弄を伴う笑みが、コールマンの顔に描かれる。警備要員のまま三川は顔をしかめて、どことなくスラヴとゲルマンの混ざったような、この男のいががわしい容貌を見つめ返す。
「君が、中東で行方不明になったあのテロリストか」
「おや、ご存じでいらしたとは。光栄至極だ」
潜伏中に三川が集めていた情報の中にあった、レバノン政府と散々揉めていたというテロ組織のリーダー。類稀な指導者は突然行方不明となり、組織は解体。その資産も雲散霧消した。ユダヤ人だらけの組織の中で浮く白人の男の顔は、今でも覚えている。
「君も組織を裏切って財団に行ったわけだな」
「ああん?」意味が解らないといった風情でコールマンは目を細める。いかにもといった様子で、わざとこのような反応をしているらしいことは、三川にもすぐに察しがついた。銃口を突き付けながら、なおも情報を引き出そうとしている。「間違えて撃っちまいました、で一発ぐらい構わないんだがなァ」
三川の表情が急に変わったことに、コールマンは目敏く気が付く。そして間もなく、それが自分の強迫によるものではないことも理解した元テロリストは、銃把を握る手を弛緩させる。
「……その弾は、向こうの連中に使った方がいい」
振り向いた二人の視界で、突然景色の一部が周囲とずれ込み始める。その大きなずれは徐々に細かく元あった景色から分離され、人型をかたどるように収束し、やがて色彩が消え失せる。
「排撃班のお出ましか」
光学迷彩の中から立ち現れてくる灰色の巨躯をみた三川は、不敵な笑みを浮かべている。散々やりあってきた好敵手を前にした帝国軍人は、警備要員の顔のまま丁寧に一礼した。
「ご機嫌いかが、GOCの皆さん」
「GOCィ?」
素っ頓狂な調子の声を上げたコールマンは、何処から取り出してきたのかアサルトライフルを手にしている。この男の危惧と怪訝の入り組んだ視線に答えるように、"強化戦闘服ホワイト・スーツ"に身を包んだ排撃班員は声を発した。
「財団のエージェント。どうか我々の邪魔立てをしないでいただきたい。そこにいるのは我々の追う脅威存在だ。粛清させてもらう」
「おいおい」コールマンはライフルを持っていない方の手を、ひらひらと振る。「名も名乗らずに頼みごとたァいい身分だなァ?」
「失礼」ホワイト・スーツのバイザーが独りでに上がる。そこには精悍な日本人の男の顔が、上半分だけのぞいていた。「私はGOC排撃班の"蹄Hoof"」
自己紹介をすませた蹄は、視線によってコールマンに同様の手続きを促す。コールマンは数秒の間わざとらしく視線を逸らしたりして見せていたが、ややあってからようやく応じる。
「俺はコールマン。──馬面、お前の要求には応えられねェ」
一瞬戸惑った表情を見せた蹄は、"馬面"が自分のことだと気付くと無言でバイザーを閉じた。
「おい、怒らせてどうする」
三川が脱兎のごとく路地から抜け出そうと駆け出す。
「仕方ねえだろ、事実だからなァ」
ホワイト・スーツが大口径のライフルを構えるのを、コールマンは逃げながら視界に捉えた。「危ねェ!」とっさに三川もろともゴミ捨て場に飛び込み、その靴先のわずか10センチ先を銃弾がかすめていく。休む間もなく立ち上がった二人は路地を抜け、開けた通りに出る。
「──止まれ、KTE-3317!!」
走る男二人の後方から、轟音とともに衝撃波が大気を震わせる。思わず脚がもつれたコールマンは、一瞬だけ後ろを振り返る。ホワイト・スーツが地面を踏みしめて、スタンディングスタートの姿勢をとっていた。──今にも襲いかかってくる。
「足の速い野郎だァ、やっぱ馬面だな!」
ピンの抜けた手榴弾の群れを投げやって、コールマンはそう叫んだ。三川もいつの間にか振り返っていて、汗の滴一つない顔に笑みを浮かべている。
「違いない」
次の瞬間、その笑みは爆風にかき消された。ものの見事に手榴弾の段幕に突進したホワイト・スーツは、爆発に巻き込まれて動作を停止した。しかし、その傷はあくまで表層部分にとどめられ、スーツの機能に何ら支障を来すことはない。だが、生身の人間二人はそうもいかなかった。ぎりぎり殺傷範囲から抜けたに過ぎなかったコールマンたちは、爆発からの零コンマ何秒間かを宙に浮かんで過ごし、それからすぐに地面を数メートル転がった。
「──ぐぎっ!!」
その一連の暴力的な舞踊の幕を引いたのは、一時停止していた機動部隊の車両だった。この車両が装甲化されていなかったことは幸運だった──万一これが装甲車であったら、二人は慣性と鋼板の間で圧死する末路をたどっていただろう。
「おい、生きてるかァ? カメレオン野郎」
激痛を乗り越えて口を開いたコールマンは、言いながらも目を正面から離さない。爆炎は間もなく晴れる。一キロ分はあるTNT爆薬の衝撃には、ホワイト・スーツといえども多少の足止めを余儀なくされるだろう。
持っていたはずのライフルが、どこかに飛ばされてしまっていることにコールマンは気付く。痛む背中や節々を無視して──この男はそれを可能とする呼吸法を体得していた──たった今、自分たちが叩きつけられたワンボックスカーのスライドドアを強引に開く。
「コールマン、大丈夫か」
「ああん? なんのこたァねえよ」乗っていた同僚たちの気遣いもよそに、火薬の甘い匂いをまとったコールマンは、車内に積まれているロケットランチャーを引っ掴む。「それよりも、あれ、どうにかしろォ」爆炎の中から焦げた灰色の甲冑騎士が現れる。その歩みは一見して鈍重であったが、それが見かけだけであることは先ほど痛いほど理解した。
「排撃班か……!」
コールマンは腕で車内のざわめきを制すると、車を颯爽と降りる。そこにはまだ三川の身体がぐにゃりと横たわっており、エージェントは舌打ちをした。
「ありったけの火器を持って来させろォ」
ピンク色の火炎を一瞬噴き出したロケットランチャーから、一直線にロケット弾が飛翔していく。ホワイト・スーツはうろたえるような様子も見せずにすぐさまライフルを連射し始めた。自らを正確に出迎える銃弾の雨によって、ロケット弾は数秒のうちに撃墜される。それこそが、コールマンの狙いでもあった。炸裂した砲弾は、周囲に密度の高い白煙を瞬く間に拡散・展開させる。電波欺瞞を含んだ煙幕はホワイト・スーツと車両の間に霧状のカーテンを降ろし、全くその姿を隠してしまう。
「全速力だ、出せ!」
三川を車内に引き上げたコールマンが叫ぶ。タイヤが甲高い悲鳴を上げて回転し、突き飛ばされるように車両が走りだす。バックドアから銃だけを出した機動部隊員たちが、迫りくるホワイト・スーツに応戦している。負傷した三川とコールマンは奥に押し込まれ、一時の休息を取っていた。
「……おい、三川」
「……うるさい」
三川の頭が不意に持ち上がった。現実改変が解けたのか、先ほどまでの警備要員とは別の顔になっている。
「死んだかと思ったのによォ」
「すでに死んでいるようなものだ」
ぶっきらぼうな言い方には、先ほどまでの余裕が感じられない。コールマンはそれに少し違和感を覚えた。血で汚れた、淀んだ瞳がコールマンの顔を覗き込む。
「お前は見逃しておいてやる」
「あ?」
三川にまだ、立ち上がるだけの力が残っていたのは意外だった。急激な蛇行を繰り返す車内にあって、しっかりとした足取りでドアに手をかける。コールマンは慌てて立ち上がったが、機動部隊員が止めに入ったのを見て再び座る。
「どこへ行く気だ」
「どこへでも」
三川が不敵に笑ったその時、車両全体が跳ねた。
とうとうホワイト・スーツに追いつかれたのか──それとも運転を誤ったのか、それは分からなかった。車両が横転し、その内容物が一瞬でシェイクされる。瞬く間に床と天井の間で跳ねまわった複数の身体が、相互にぶつかり合ってお互いを壊しあう。コールマンがその中で意識を保っていたのは、自分に向かってライフルが飛んでくるのが見えた、その瞬間までだった。
「…………!」
目を覚ましたコールマンは、すぐに自分の身体がこれでもかと固定されていることに気が付いた。この男があの死のカクテルシェイカーから生き延びたのは幸運だった。骨を十数本折るというのは十分重傷の範疇だったが、そもそも車内の人間が死亡六名、重傷一名、行方不明者一名という状況であったのだから、それでも幸運といわねばならない。
「行方不明……」救援に来た隊員から報告を受けたコールマンは、一瞬天を仰ぐように顎を上に向けて、それからすぐにため息をついた。「三川か」
何も言わずに頷く隊員の姿を認めると、金髪のエージェントは不機嫌そうに眼を閉じた。
「あのカメレオン野郎」
現在。
市街地のど真ん中で燃え盛るマンションを隠し通すのは、さすがに財団やGOCといえども難事だった。
「この、起きろへぼ班長!」
親不知は気絶している718評価班班長の頬を叩いた。敵のゴム弾かなにかで頭を撃たれたらしく、額のあたりに青あざができている。近くで同じように倒れ伏していた喉仏は既に起きあがっており、いずれも後ろ手に手錠をされた状態で発見されていた。
「ん、んん……?」
財団のフィールドエージェントに無様な敗北を喫した評価班長・本音が薄目を開くと、そこには恐ろしい形相をした部下がいる。親不知は、なかなか起きない上司に向かって容赦なく二度三度とビンタを浴びせる。
「いい加減起きろ」
「……猫は」首を振った部下を見た本音は、一度持ち上げかけた首を再びアスファルトの上に置いた。しくじったのだ、自分は。「早足に怒られる……」
本音がかつて所属していたアメリカ海兵隊偵察部隊の大先輩に当たる早足は、かなり彼に厳しいことで有名だった。今回の失態をあの鬼教官が許すはずはなく、身震いが止まらない。
「俺と喉仏は上の排撃班の連中の救出に行く。舌切り雀を見ていてくれよ班長」
「ああ……」
親不知はずいぶん弱った班長を見てため息を吐いた。早足の怒髪天は何となく想像が付き、そしてその犠牲は主にこの男となることも予見できた。しかし今はそんなことに構っている暇はない。
火事に気付いて住民が続々と飛び出してくるが、その中に財団エージェントらしき人影は見えない。もしかすると住民全員がそうなのかもしれなかったが、そうだとすればいまだにホワイト・スーツが救難信号を出していられるはずもない。
猶予はないのだ。
人の逆流を押しのけながら階段を昇っていくと、火元の部屋が見えてくる。ドアは開け放たれたままで、黒々とした煙が濛々と広い大気へ向けて拡散されていく。マシンピストルを構えた喉仏が、警察特殊部隊の出自を感じさせる身のこなしで部屋の中を素早くクリアリングし、親不知もその後について行く。
部屋はまるきり無人で、ところどころに侵入者の形跡がある。ホワイト・スーツのものと思しき足跡がいくつかあるが、それ以外の痕跡がないということは、まだあの二人は無事だということになる。
「頭足類! 三本足!」
最も火勢の激しい部屋にたどり着くと、ガスマスクに搭載されたディスプレイが反応を見せた。味方の識別波を発する灰色の甲冑騎士2体が、床に倒れている。しかしその姿はベージュ色の粘液に殆ど覆い隠され、ぴくりとも動かない。
「無事か、二人とも」
『………………』
返事がない代わりに、粘液の一部が持ち上がった。恐らく腕であることが知れ、無念そうに床に伏す。財団が用意したトラップに、見事に引っかかったというわけだ。喉仏が冷静に粘液の成分を調べ、手榴弾を取り出す。
「爆発的な衝撃によってしかとり除けんだろう。ホワイト・スーツに爆発反応装甲でも取り付けておけばよかったが」
元僧侶の評価班員は伏したままの二人に状況を伝えると、手榴弾を粘つくベージュ色に沈めて行く。ホワイト・スーツに内気循環機構があったのは僥倖だった。そうでなければ今頃、この間抜けな排撃班員たちは、窒息あるいは中毒で死んでいたに違いなかった。
「惨めだ」
「全くだな」
消防隊の姿をした財団機動部隊が到着したマンションを見上げ、敗北者たちはわずかな休息を取っている。舌切り雀はその間にも猫の追尾にいそしんでおり、親不知は自分が何も貢献していないことが腹立たしく思えた。負けるような相手がまだいるならよいが、そもそも戦ってすらいない。
と、そこに通信が入る。
「──こちら親不知」
相手は早足だった。真っ先に矢面に立つのは自分か、と少し情けなくなる気持ちで、青年は早足のがなり立てる声を遠くに聞いた。
『ふざけるな! 追え! 逃がすなどありえんぞ!──お前たちといい、"蹄"といい、無能者揃いか……!』
親不知は思念伝達を切りかけた。早足がこんなに怒るのは珍しい。そういえば大昔に──ベトナムにいた頃の彼は、それは恐ろしい軍曹で通っていたらしいという噂があった。
「ひとまず、うちの本音と喉仏は回収しました。あの二人も救出はしました、けど……」
『なんだ、どうした』
「手榴弾を使いました」
『あ?』
親不知はそれ以上の説明を拒否するように、思念伝達を打ち切った。次いで非難の視線を隣で休む三本足に向ける。
「もとはと言えばあんた方が不甲斐ないからでしょう! どうして俺がこんな怒られなきゃならないんです」
「分かったよ……」力なく三本足が言うと、思念伝達術式の描かれている首に手をやる。「……班長、三本足です。──すみません」
『………………』
聞こえてくるはずの怒号がない。
「……班長?」
いやに静かな鬼の老兵に、三本足の表情が急変する。術式が間違っていたか──三本足は慌てて思念伝達を切断して、接続に誤りがないことを知る。怪訝に思いつつ再接続を図ると、これは何の問題もなく行われ、ますます三本足の混乱をあおった。
「なんだ、どうなってる……」
『──おい、三本足』
突然の自分を呼ぶ声に三本足は身体を痙攣させた。しかしよく聞いてみるとそれは早足の声ではない。
「だ、誰だ」
『同僚の声を忘れたか、"揚げ足取りNitpicker"だ』
「……お前か」跳ね回る心臓はそう簡単に静まらなかったが、多少は落ち着きを取り戻した三本足は一つ咳払いをする。その様子は何となく向こうに伝わっていたらしく、笑う息遣いが聞こえてくる。「班長はどうした、俺は班長に繋いだはずだぞ」
『あんまり怒っているもんだから遮断してやったんだ』
お前の頭のためにな──と揚げ足取りは付け加えた。感情の高ぶり過ぎた者が思念伝達を使用すると、その思念が受信側の神経へ悪影響を及ぼす。班全体の通信を統括する立場の彼からすれば、こんな芸当は朝飯前のことだった。
「……そうなのか」
三本足の顔に青色が戻ってくる。早足が本気で怒っている姿はまだ数えるほどしか見たことがないが、そのどれも、瞼の裏からそう簡単に離れてくれるような代物ではなかった。
『代わりに俺が班長の下した命令を伝える。──頭足類、親不知、舌切り雀も聞こえてるな?』
すぐに全員から返事が返ってくる。
『KTE-3317及び"猫"追跡排撃班は利用可能なすべての資産を利用し、対象撃滅にかかれ。KTE-3317は必ず"猫"との合流をはかるものと見られる。現在追跡中の財団エージェントを含めあらゆる障害を排除せよ。0811排撃班班長の現場判断により、これより本任務はレスポンスレベル3以上と指定する』
「3以上?」
頭足類が訝しそうに繰り返した。妙なレベル指定であることは一目瞭然だ。3以上、では具体性がない。
「搦め手だ。本来脅威評価で使う言い回しだぞ」親不知が険しい表情で言った。「ホワイト・スーツを衆人環視の状況で使うつもりなんだな」
『そういうことだ。むろん光学迷彩の使用が義務づけられる』
「班長はここで奴を仕留めるつもりか」
『班長60年越しの悲願だ。おまけに"猫"も生け捕りとあればベースも文句の付けようがない』
「──了解した。評価班の二人にはこちらで伝える」
三本足が立ち上がると、揚げ足取りの気配がふっと脳内から消え失せる。伝達が切れたことを示す合図だ。
「なんとしても奴を捕獲するぞ。──10分後に出発する」
「機動部隊──ってか、サイトはあとどれぐらい?」
「要請を出しているので、もう十五分も走れば」
追っ手を一網打尽にしたことで、車内には先ほどよりは幾分楽観的な雰囲気があった。
「油断するな。あれで全部とは思えない」
保井は助手席から後部座席に移って、しきりに周囲を気にしている。平日午後の裏通りは、車はおろか人の往来さえもが少ない。ケージの中にいる猫は、つい先ほどまでの大人しさが一転してずいぶん騒がしい。途中で餅月が買ってきたキャットフードを与えても、さっぱり落ち着くそぶりを見せないのだ。
「猫がうるさいのが気にかかる」
「飽きちゃったんじゃないの?」
運転席から身を乗り出した餅月がケージの中を覗いてみても、すぐには猫の場所が分からない。透明な毛皮に遮られていた目玉が、覗き込む者に気付いて細くなる。
「ならいいが……」
「あの」不意に助手席の育良が口を開く。「ちょっといいですか」
「どうしたの?」
「もう、僕ら追いつかれちゃってるかもしれません」
「何」すぐさま保井が反応する。「どこだ」
油断なく警戒していた保井にすら感じ取れなかった異変を、育良は敏感に嗅ぎ取ったらしい。
「周囲の屋上からずっと視線を感じてるんです」
「それだけ?」
「待て。こいつの勘にはある程度信用がおける」
どうしてそう感じた──? 保井は真剣な表情で育良に詰め寄った。年上の後輩は奇妙な首の動きで、正面と車内を交互に見やる。
「周囲の屋上からずっと視線を感じてるんです。██████街道に入ってからずっと。どっかで僕らのことを──」
その瞬間。フロントガラスに黒い何かの滑空が映った。
車内の三人は、事態をすぐに飲みこめはしなかった。迫撃砲のものと思しき砲弾は、着弾して炸裂するや否や、濛々とした煙を上げ始める。
「本当に来てた……!」
手すきの二人は手早く臨戦態勢をとり、急停車した車内に緊張感が張りつめる。煙幕弾はかなり先の方で破裂したらしく、車の周囲はまだ視界が確保できていた。
「あっ──あれ!」
育良が指を差すまでもなく、他の二人にも見えていた。煙幕の中にたたずむ異様な人影。双眸から放たれているらしい青白い光は、およそ生身の人間のものではない。
「アイアンマン……?」
そんなわけあるか、と餅月が肘で育良の脇腹をつついた。しかしつつかれたところで育良の正気は定まらず、うわ言のように続ける。
「で、でも、あれ」
「……排撃班」
苦々しく言う保井は、ケージを後部座席下のシェルターに押し込んだ。
その光点は、"猫"がまだ生きながらえていることを意味していた。
魔導技術で灯されている赤い点が地図の上を移動していくのを、三川十七は静かに見守る。
──今のところ、全ては彼の思惑通りに事が運んでいるようだった。
だが、まだ"雨"──奴らは"雀"と呼んでいるようだ──は生きているのだ。連中が始末し残した神の落胤を消し損なえば、必ず後顧の憂いとなり──現に、三川自身が"雀"の能力のために追い詰められていた。不完全とはいえ、"雀"の追跡能力は彼と、彼らにとって十分脅威となりうる。
「奴らは機動部隊と合流するつもりか」機動部隊の展開状況なら、さきほどホワイト・スーツから逃げおおせたときに大方把握していた。やがて光点の行方を睨む三川が、表情を険しくする。「──なんだ?」
先ほどまでは、あえて大通りを避けるように進路を取っていた財団のエージェントたちが、急に大通りへ躍り出たのだ。移動の速度も安定しない。恐らく車を使っていることは察しがついていたが、あまりにも移動速度に緩急が付きすぎている。まるでなにかを、避けようとしているかのような挙動なのだ。
「……追いつかれたか、排撃班に」そろそろ"猫"もなりふり構っていられないはずだ。財団の手で"雀"を始末させるとすれば、次がラストチャンスになる。「──財団諸君のお手並み拝見だ」
大通りに逃げ込む育良の作戦は、失敗に終わりつつあった。
人通りの多い大通りを選んだにも拘らず、排撃班は全くお構いなしで攻撃を仕掛けてきていた。流石に重火器は使用できないようだったが、車両の装甲もたかが知れている。何度も屋根やガラスに銃弾が跳ね、火花が散る。
「これ……騒ぎになることは免れないですよ……」
飛んでくる不可視の銃弾を回避しつつ、法定速度を守るなどということは不可能に近かった。そもそも、見えない相手から飛んでくる見えない銃弾を回避するということが不可能だった。
排撃班は後方からと、上空からの二手に分かれて車両に肉薄してくる。いずれも光学迷彩を使用して周囲から姿を隠しているようだったが、その攻撃の手は生半可なものではない。人目を避けるために反撃を封じられているエージェントたちは、ただその攻撃を避け続けるしかない。
「とにかく機動部隊の封鎖地域まで急げ。奴らだって財団と本気で事を構えたりはしたくないはずだ」
周囲の人々が、火花を上げて走るスピード違反のセダンを興味深げに見ている。あとで隠蔽するのは渉外部門の仕事とはいえ、事態をこじらせてしまった責任を保井たちは感じていた。
「──"舌切り雀"だ。"舌切り雀"を狙え!」
いやにくぐもった響きを伴った青年の声が、突然車内に聞こえた。
「なに、育良! こんなときに!」
「今の僕じゃありません!」
餅月は、思わず後ろの保井を見た。保井も餅月と同じく声に気が付いて振り返ったらしく、視線が交差する。
「あんた……なわけないか」
「………………」
保井は無言でシートのカバーを引き剥がした。シェルターのスライドドアの向こうから、まだ声がしている。慎重な手つきで、保井がドアを開いていく。
「あの女を殺せば──ん!?」突然明るくなったことに気付いた"猫"が顔を上げ、驚きを露わにした保井と目が合う。「やっと開けたか、エージェントども」
「しゃべった……」
育良は咄嗟に尻ポケットから紙片を取り出した。それには奇怪な紋様が施されており、白い文字で『簡易ミーム汚染判定試験紙』と書かれている。この模様が一部でも見えなくなっていれば、ミーム汚染の疑いがある。目を数度ごしごしとこすった育良は、自分が正常であることを間もなく知る。
「なんです……これは」
「"舌切り雀"を狙え。そいつがお前たちの居場所を連中に伝えているんだ」
「待て」シェルターに向けて銃口を向けた保井は、警戒心をむき出しにした表情で問うた。「何故お前が口を利ける」
「そんなこと知るか、私はもとからこうだった」
「報告書にはなかったですよ、そんなの!」
パニックになりかかっている育良が叫ぶ。保井は頷き、ダブルアクションのスライドを引く。
「こいつは麻酔銃だ。お前の声を聞かなかったことにもできる」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」猫は慌てた様子で首を振った。それに合わせて、可視部分である目玉が激しく左右に揺れる。「私は散々あの連中に追われてきたんだ、お前たちより私の方が詳しい! 当然だろう!」
判断が付きかねたのであろう、保井が助手席の育良へ視線を送る。育良は細かく首を横に振り、判断のボールを保井へ向けて投げ返す。
車は、相変わらず尋常ならざるドライビングの最中にある。餅月の運転の粗さは意外な形で役立ち、未だ奇跡的に車両は致命傷を食らわずにいた。GOCとて衆人環視の状況で機関銃のフルオートを試す気にはなれず、死のカーチェイスは市民たちの目の前で続けられている。
保井は判断に費やせる時間はそう長くないことを知っていた。一瞬、気の迷いを振り切るように瞳を閉じると、銃を降ろす。
「……話の通じる連中で良かった、あんた、名前は」
「お前が名乗れ」
「そうだな、私が名乗るべきか。私は、ラファエル・ツェーザル・マヌエル・メルヒオール・クノール──」名乗りの終わらぬ途中で保井は溜息を吐き出し、ドアを閉める素振りをした。「──またの名をタマ! これでいいか」
「シンプルな方が好きだ。──話を聞こう」
「財団相手にこの武力行使は後々問題になりますよ、班長」
"揚げ足取り"は、薄暗い指揮通信車の中にたたずむ老兵を見上げる。
「実力行使、と言ってもらおうか」老兵──0811排撃班長・早足はそう言って、胸ポケットに手を伸ばし、車内禁煙であることを思い出した。「財団とKTE-3317の結託は明らかだ。大義は我々にある。もしなんかあったら俺の首だけで済むようにしてやる」
上司の本気の表情に、揚げ足取りは半ば辟易する思いで戦況を映した画面に向き直る。"ウィスパー"・"ソフト・ステップス"合同任務班の連中は、暴走を続ける車に大分手こずっているようだった。
「このままでは機動部隊との接敵は避けられません。今すぐにでも追撃をやめた方が──」
「それがどうした。KTE-3317確保任務を継続しろ──命令はきちんとお前が伝えたのだろう」
早足は、表情一つ変えずに言う。最早揚げ足取りには、この男が正気かどうか判断が付かなかった。吐き出される戦力分析を精査しながら、揚げ足取りは、早足の言う60年に及ぶ因縁について考えた。そんなに因縁が大事なのか、死ぬ必要のない人間を殺しかねない作戦まで立てるほどに。
「ここから1キロ先に財団機動部隊が規制線を張り、域内を封鎖して戦力を展開しているようです。総数約2個小隊。4両の装甲車、同じく4両の輸送車が確認できます。砲科兵はいないものとみられ、これは排撃班でも十分制圧可能です。また、物理的障壁としてフェンスを敷いたようです。展開座標付近は、PSYCHE部門が以前に財団サイト所在地の可能性を示唆していました。そのため万が一付近の施設内部に増援が存在した場合、想定外の事態に発展する危険性があります」
「そうか」
口元にかすかな笑みを浮かべた老兵は、今年で齢96だった。歳にしては随分姿勢はよく、会話も挙動にも支障がない。GOCの開発した初期ロットの長命化処置者という噂について、この男が否定あるいは肯定したことは一度もなかった。
「全班員は、機動部隊と会敵後も変わらず継戦せよ」
班員の了承が聞こえてくる。早足の笑みはますます深く刻まれ、それを見守る揚げ足取りの背筋には悪寒が走った。
──狂っている。この男は、やはり、まともでない。
「時に揚げ足取り」
「はい」
揚げ足取りは慌てて首を元に戻したが、しかし早足は天井近くのモニターに目を奪われているようだった。ゆっくりと再び顔を早足に向けても、老兵は見向きもしない。
「何故、俺がここまで3317にこだわるかが分かるか」
「いいえ」
そうだろうな、と早足は言った。
「分からんだろう──俺は、一度あいつに命を救われた」青年が怪訝な表情をすることを待っていたかのように、早足は笑った。「同い年だから、だそうだ。お前はもっと別の仕事に就けなんて、テロリストに叱られた」
揚げ足取りは何も言わずに、昔日を回想する班長の姿を見守る。
「奴は、100以上のオブジェクトを日本軍から持ち逃げした」
「………………」
聞いたことのない話だと揚げ足取りは思った。もしかすると、セキュリティクリアランス違反の事柄なのやもしれない。
「聞いたことがないかね? 帝国の遺産ライヒス・エルベの噂を。旧日本帝国とナチス・ドイツの持っていた資産の一部が、今も捕捉されないままでいると」
「その噂は……耳にしたことがあります」
仲間内でも何度か話題に上ったことがある程度の、与太話だったはずだと、揚げ足取りは思い出す。
「その話の一部は本当だ。実際にそう言う脅威存在はあり──それを持っているのがKTE-3317だ。ほぼ全ての所在が未だに掴めておらん。GOC最初期から今に至るまでの失態の一つだよ」
そしてそれは俺自身の失態の歴史でもある──熱っぽくそう言った早足は、狂気をもはらんでいるかのような濁った瞳を見開いていた。
「KTE-3317を殺すわけにはいかん。殺しても死ぬような奴ではないが」
今の話を信じるべきか、揚げ足取りは判断を下すことができなかった。60年沈殿し続けた羞恥と復讐心が、人をここまで変容させるものなのか。それを判じるには、少なくとも彼に経験が足りなさすぎた。
「あいつもこうなのかもしれん。KTE-3317も。俺と同い年だというのなら。あいつがなんのために100年も生きているのかは知らんが──」
早足は、そこで言葉を切った。
「あいつの人生を終わらせてやるのは、俺だ」
史上最悪がこの場に舞い降りてくる。
財団機動部隊とGOC排撃班の衝突。
「くそ……」
親不知たち718評価班-"ウィスパー"はあくまでも舌切り雀の護衛に回るように、という指示だった。
親不知もそれで文句はなかったのだ、今までは。元々そのために"ウィスパー"へは配属されていたのだから。しかし、ことここにいたってまたお守りの役目ということに、多少不満を抱かないではなかった。
718評価班-"ウィスパー"は、有事の際には"ソフト・ステップス"と合同で高レスポンスレベル事案への対処を認められた、特殊な経緯を持つ評価班なのだ。その主任務はソフト・ステップスのそれと同じく、暗殺。"ウィスパー"は、結成が"ソフト・ステップス"よりも遅く、合同班となったのもつい最近のことだ。そして結成間もなくから数ヶ月、彼らはある人型脅威存在の追跡任務に専従させられていた。
KTE-3317-Green Sunset。フェイスレス。顔のない男。あるい、100の顔を持つ男。
舌切り雀の雇用は紛れもない僥倖だったと親不知は思った。考え得る限りトレーサビリティーの低い怪物相手に、この絶対追跡能力は──諸々の弱点はこの際目をつぶるにしても──切り札とも呼べる存在に等しい。
そうであればこそ、舌切り雀の護衛は確実に最重要ファクターだった。
「今回の相手は財団だろ……?」
そう、別に相手は舌切り雀の能力に気づいている訳ではないのだ。何故かKTE-3317は知っていたような素振りを見せたが、長きにわたる追跡戦のうちに情報が漏洩した可能性は大いにありうる。
ともかく、相手は舌切り雀を知らないとはいえ強大な戦力を持っていることに違いはない。一人でも多くライフルマンに割きたいところを、何故か班長は護衛に回ることを命じた。
「……そんなに、イヤ?」
戦場から少し後方を走る車の中には、彼女と二人しかいない。
「こういうときは一人でも多く戦う人間が必要なはずだ」
彼らには時間がなかった。ぐずぐずしていれば、確実に財団の増援がくる。もちろんGOCの増援がくる可能性だってある。だが、果たして極東部門にどこまでの覚悟があるのかを測りかねていた親不知には、増援にそこまでの期待を寄せられなかった。
「……私は、死にたくない。だから、嬉しい」
正直だな、と親不知は思った。
親不知がまだ特殊立会人だった頃──舌切り雀を見つけたあの時。彼女は物言わぬ抜け殻になり果てていた。脳への多大な負荷を伴う強力な追跡探知能力は、彼女の記憶にすら影響を及ぼしていたらしい。
当時彼女が覚えていたことはただ一つ。自分の名前とおぼしき言葉──"雨" それだけだった。
世界超保健機関の報告を受けて現場に訪れた親不知が、何度も何度も足繁く彼女のもとを訪ね続けたことは今でも、共有される二人の思い出なのだ。
「死にたくなくても、死ななきゃいけないときはある」
親不知は、退屈そうにカーオーディオのスイッチを入れた。舌切り雀は、それきりなにも言わない。
断続的な爆発音を遠くに聞き、親不知は加勢を求める無線を待った。しかしそれも来ない。排撃班の実力なら、猫を確保することもそう難しい話ではないはずなのだ。
「……けど、班長がなにをそんな心配してんのか分からないけどさ、お前が死ぬようなことはまずねえよ」
言った後で照れくさくなってしまった親不知を見て、舌切り雀は笑う。
「つまり、その舌切り雀っていうエージェントが俺たちの居場所を筒抜けにしてるってことか」
「そうだ。そして私もそいつに追われていた」
なるほどね、と餅月がハンドルを急激に回しながら言う。
「特徴は? 聞く限り若そうだけど」
「あんたよりはデカい。十代後半だろう」
餅月の眉がぴくり、と動いたのを見逃さなかった育良が、慌てて口をはさむ。「珍しいな、GOCが子供を使うなんて」
「財団ならあり得るからな」
保井の言葉に一瞬車内の空気は凍り付いた。ただ一人──一匹──事情を知らないタマだけが周囲を見合し、「なんだ?」と素っ頓狂な声を上げる。
「お前実は十代とかなのか?」
「………………」
次の瞬間、トランクにひときわ大きい衝撃があった。かなりの負荷がかかり、前輪がほんの数秒の間地面から浮き上がる。保井は反射的にライフルをリアガラスに向かって構えた。
「乗られたか」
リアガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走る。この車両のガラスは特殊な製造法でできており、簡単な衝撃では破損しないことを売りにしていたが──あいにく木場購買長の手は入っていなかった。
「掴まって!」
餅月がハンドルをいきなり限界まで廻し、車両が踊り始める。前輪を中心に車両は同心円を描いたが、間もなく回転の中心が後輪に移った。ホワイト・スーツの重量のせいで後ろに重心が移動していたのだ。車内に尋常でない慣性が働き、タマが窓にたたきつけられる。保井は顔をしかめながら窓の外を睨み、ホワイト・スーツが一旦離れたことを確認する。
「離れたぞ!」
「よっしゃあ!」目にも止まらぬ早さで餅月がギアを入れ替えハンドルをさばき、ただちに回転が収まる。「あともう少しだよ!」
やけに静かな助手席をふと見やった餅月は、育良がGに耐えきれず失神しているのを見つけた。ギアにやっていた手をおもむろに放した餅月は、その鼻っ柱に思いきり拳を叩きこむ。
「痛いっ!」
「起きろ、育良!」
「陣地はそこか」
保井が指さす先には、黄色いテープと不思議な模様のフェンスが、通りを遮るように走っている。
『こちら機動部隊より。エージェントへ。車両ごと中へ入れ。封鎖を解く』
機動部隊と思しき通信が入り、ようやくタマは安堵の息を漏らす。だが、後方からはまだ排撃班たちが追ってきている。
「こちらエージェント。了解。後方に敵が複数。このままだと連れて帰ることになる」
返答の代わりは銃声だった。重機関銃の掃射が同時多発的に車の後ろを薙ぎ、姿の見えない騎士たちが火花を上げる。
「これは心強い」
保井の肩に乗っかったまま、タマが笑った。車は迷うことなく開いたフェンスの内部に飛び込み、機動部隊の車両の間を縫って停車する。
「まだ降りるな」
制止されたタマは不満そうに保井を見上げたが、急に鳴り響いた爆発音にその表情を引っ込めた。どうやら、付近のビルの機関銃座でなにかがあったらしい。
「こんなフェンスでどうにかなるんですか!? こんなの悠々飛び越えてきますよ連中は!」
育良は青ざめた顔に絶望をより一層深くして、拳銃を手が白くなるまで握りしめた。恐慌状態の育良を前に保井は何も言わず、無線から出る指示を待っている。
フェンスには物理的障壁という意味以上に、呪術的防護の役割があった。魔力を帯びるように編まれたフェンスの金網が結界を張り、フェンスの内外を遮断しているのだ。
そのことには排撃班も即座に気が付いた。重機関銃座の十字砲火を装甲で無理矢理押し切った頭足類は、足をへし折った重機関銃をフェンスへ向けて撃ち放した。金色の金属塊は結界を前に無惨に砕け散り、舌打ちした頭足類は近くに隠れていた機動部隊員へ向けて機関銃を放り投げる。
『ダメだ相当強い、魔術祈念弾が必要だ』
『各位機関銃座の無力化後、障害を排除しつつフェンス中央部へ集結しろ』
現場指揮官の三本足が隊員の小銃を捻り上げながら言う。すかさず他の三人の内の一人──"蹄"が声を上げる。
『想定より戦力が充実してるぞ』
『付近に"サイト"があるとの報告がある』
増援で駆けつけた四人目・"車輪Wheel"は冷静に事態を分析していた。排撃班の面々にとって状況はかなり悪い。
無論ホワイト・スーツ擁する排撃班が敗北する可能性は低いが、こうなってくると目標抹殺と撤退命令どちらが早いかという話になる。
『どちらにせよ蹴散らさなきゃ近づけないぞ!』
頭足類や三本足と同じく汚名返上に燃える蹄は、今も一人機動部隊員を"無力化"した。脚部スラスターを吹かしての高速の足払いが、まとめて相手の足を二本とも叩き折る。
彼らはここに来て、まだ誰も殺していなかった。それは班長たる早足の指示ではなく、三本足の現場判断によるものだ。彼とて、早足の思惑を測りかねていた。
『機関銃座全て沈黙。第二段階だ』
屋上の厄介者をあらかた片付け終えたホワイト・スーツたちが、次々と地上へ降り立つ。その姿は、本来不可視のものであるはずだ。しかし財団機動部隊の兵卒たちは狼狽えることなく、正確にその目標を狙って攻撃を仕掛けてくる。
散開して遮蔽物の後方へ後退した排撃班員たちには、心当たりがある。『空間受動レーダーか』
『実質的に迷彩が無効化されたようなものだ──どうする、三本足』
街路樹の裏に隠れている車輪が、擲弾筒の備え付けられた左腕を上げる。
『そのままやれ、分かってるな』
次の瞬間。勢いよくコルク栓を抜いたような音が連続して、3つの金属球が空中を飛んでいく。気がついた機動部隊員がグレネードと叫んだが、数秒も立たぬうちに3つすべてが炸裂した。
焼夷手榴弾の爆風が、大気を掻き回す。気流が撹拌され、空間受動レーダーの凍った目はこれから数秒間全くの盲に成り下がる。ホワイト・スーツたちはこの機を逃さなかった。直ちに街路樹や路肩のポストの陰から飛び出し、フェンスを守る装甲車たちに向かって走り出す。
機動部隊員たちとて、決して全くの無力というわけではなかった。最新式のフルフェイスヘルムは消防関係の技術が応用され、爆風の中であっても常温の酸素を供給することが出来る。問題はその異常事態の中で冷静に反撃ができるかという点で──そこに排撃班員たちと、わずかな差があった。
爆風の帳が強引に打ち破られて、レーダーにない都市迷彩の甲冑騎士が躍り出る。頭足類は地面に手で着地すると同時に、近くにいた機動部隊員のアサルトライフルを蹴り飛ばす。思わず仰け反った隊員の胸に、非致死性──彼女の基準で──のブローを叩き込む。一人目がアスファルトへ崩れ落ちる頃には、既に二人目へ向かって頭足類は跳躍していた。
二人目の被害者となる予定の隊員は、冷静に銃口を向ける。ライフルの銃身に擲弾筒が備え付けられているのが見えたが、頭足類はホワイト・スーツの耐爆性能に全幅の信頼を置いていた。しかし、飛んでくる頭足類を迎え撃つグレネードに、彼女はかすかな違和感を覚えた。だが構っている暇はない。組織的反撃のないうちに、できるだけ多くの隊員を無力化しなくてはならないのだ。
グレネードがホワイト・スーツの表面に触れる。頭足類は意に介さない。通常のグレネードで貫通できるような装甲ではないのだ。時限を迎え、グレネードが爆発する──かと思いきや、そのままグレネードは表面に張り付いたままだ。爆発もない。一瞬混乱をきたした頭足類は、目の前の隊員がもう何発か発射していることに気づくのが、一瞬遅れた。
グレネードは特殊な粘着爆弾に変えられていたのだ。次々に機体の表面にグレネードが吸着し、頭足類は着地するとそれを剥がしにかかろうとする。が、指をグレネードに触れさせた途端、全て一斉に起爆した。ホワイト・スーツの外装は対戦車ロケットランチャーを想定したものだったが、密集した榴弾の衝撃は侮れぬものだった。奇跡論による慣性制御で機体の内部へ伝導する衝撃は減衰されるが、それでも感覚を一旦麻痺させられる程度の衝撃が、頭足類を襲う。
爆風は既に止んでいる。凍った眼を取り戻した機動部隊員たちが、地面に膝をついたホワイト・スーツにアンカーを打ち込み、地面に縛り付ける。
その様子を黙って見ている排撃班ではなかった。粘着グレネードを身体に抱えた蹄は、即座に機体を捻って向きを変えると、近くにあった装甲車のドアを突き破った。そのまま爆破された車が地面を跳ねると、あくまで無傷のホワイト・スーツが飛び出してくる。蹄は、頭足類を縛りあげる隊員たちの背後に近づいていく。
『小癪だな、財団』
この上なく正確無比な銃撃が、ホワイト・スーツの両腕から放たれた。
『電磁防護下にない隊員を撤退させて、空間受動レーダーの感度を最大まで上げろ! 四体の人型装甲はまだ全部生きてる!』
『魔方陣の損傷が激しい! 魔術技師を呼んでくれ』
『一人やられた。メディック!』
『──エージェントへ。予想よりも状況が悪い。サイトの内部へオブジェクトを移送する。これから指示に従え。いいか?』
戦場を飛び交う無線の中から、明確にこちらに合わせた内容が飛んでくる。車内の三人と一匹はその声に全神経を集中させた。
「こちらエージェント。聞こえている。オーバー」
餅月がハンドルに手をかけたままで答える。
『猫を安全に輸送するため、陽動車両を作る。こちらの車両が今そちらに向かう。それに猫をそのまま乗せ、そちらは空のケージを輸送しろ』
「つまり囮、ということか」
無表情に保井が言うと、そうだ、と返事が返ってくる。その直後、車の右方で甲高いブレーキ音がした。宣言通りすぐに輸送車が迎えにきたのだ。降りてきた隊員たちが遮蔽幕を展開し、後部座席のドアを開ける。
「無駄だ」タマは保井の後ろに隠れた。「どうせ私の波長が舌切り雀にはバレているんだ、すぐに見破られる」
「それはどうかな」
隊員の腕の中には、白い毛並みの上品そうな猫がいる。それを一目見たタマは「ああ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「奴らはかなり高度な生体センサーを持ってる、だからこれで目をくらます」
「そんな──」
「もちろん二匹とも遮蔽幕に覆わせてもらう。──正直気休めにしかならないが」
隊員たちの手際は見事だった。保井の手で渋々引き渡されたタマは、恨めしそうな瞳で隊員たちの目をにらんでいる。替わって引き渡された白い猫は、誰かの飼い猫のような外見である。首輪こそ付いていないが、血統書が同梱されてきそうな気品ある顔立ちだ。
「こりゃ得したな」
隊員の軽口に、保井は微笑みかけて見せた。お互いの車両のドアが閉ざされ、遮蔽幕が下ろされる。その場にいた全ての車が発進すると同時に、背後で雷が落ちたような騒音が轟いた。結界は破られた。彼らを守る絶対の防壁はもうない。
この機動部隊が指揮所を置いている収容サイト-8120のビルは、ここからたった100メートルに位置していた。その正面出入り口へ一直線に向かうのは、本物を乗せた車両だけだ。他の陽動──例えば餅月たちの車両──が目指すのは、街中に設置された緊急用出入り口だった。
機動部隊の輸送車とエージェントたちを乗せたセダンは、命がけで敵を分散させなければならない。
「機動部隊にかくまってもらえば何とかなると思ったけど、全然そんなことなかった!」半ばヤケになりつつある餅月は、同乗者の二人を一瞥した。「あんたらと一緒に死ぬなんて──鬼食ちゃんと一緒が良かった!!」
「黙って運転しろ」
保井は珍しく苛立たしげに言った。リアガラスを見れば、とうとう光学迷彩をやめたGOCのアイアンマンたちが、高速で近づいてくるのが見える。
『散開しろ』
短い無線が飛んでくる。車両の群れは十字路に差し掛かって3方向へ別れた。透明猫・タマを乗せた車両は右へ。餅月たちは直進し、それ以外は左折して車列が3等分される。
「……おい」
後方を睨んでいた保井の声は、心なしか震えているようにも聞こえた。
「どうしたんですか、保井さ──」
振り返った育良の目が見開かれる。しかし、そこには何もない。そう、文字通りそこには何もいなかったのだ。あのホワイト・スーツたちも。陽動の車両には一切目もくれず、アイアンマンたちは一直線に本物の猫の乗る車へ向かっていった。
「まずいぞ……これが例の現実改変能力者の力か。餅月、すぐに向こうに合流したほうが──」
「待ってください」育良がさえぎった。「機動部隊の防御陣地すら突破されたんです。僕らにできることはありません」
「しかし、このままだと確実に、猫は」
「僕に考えがあります。警備の本部へ連絡を入れましょう」
ほんの少し、前。
『舌切り雀はちゃんと追跡してきてるな?』
三本足が後方待機の車両に思念を飛ばす。
『ああ、1キロ後方にいる』
親不知の返事を受けた三本足は、破れた結界のフェンスの上で、器用にバランスを取る。
『対象が移動を開始した。俺たちのVERITASだと猫の波形が複数確認できる。どれが本物だ』
今まさに走り去っていく車を前方に見据えて、排撃班全員が舌切り雀の言葉を待った。
『……前から2両目の右。黒い輸送車がそう』
『了解した。──行くぞ!』
排撃班のホワイト・スーツたちが、最高速度で駆け出す。とたんに周囲で突風が巻き起こった。風を身に纏いながら進む4人のホワイト・スーツは、まもなく全速力で遁走する車列に追いついた。最早光学迷彩はいらないだろうと考えられた。空間受動レーダー相手に、一々爆弾を投げていてはキリがない。
『全員対象車両をマーキングしてトレースしろ。あの車に乗っている者に関しては生死を問わん。カウントに合わせろ!』
三本足の指示を全員が受領するのを待って、三本足がカウントダウンを始める。10カウントが減っていくうち、車列が3方向へ散開していった。が、構わずに本命のいる車両だけを追いかけ続ける。残り5カウント。
『4、3、2』
彼らの武器が火を噴くその一瞬手前。突然車両の一台が、急停車してホワイト・スーツたちに向かって──相対的に──突っ込んでくる。
『──1! 撃てFire!』
陣形を崩したホワイト・スーツたちが、一斉に目標へ向けてウォー・ペンシル──超小型精密誘導弾──を放つ。しかしそのタイミングが、そのとき若干ずれた。誘導弾は間違いなくその車両を狙っていた。しかし、金属製のケージが窓外へ放り出されるほうが、ほんの一瞬だけ早かったのだ。
その一両だけが突如爆発炎上した。その衝撃波のあおりを受けて、周辺を走っていた車両も大きく乱れるか、あるいは横転する。サイト-8120施設のたった30メートル手前での出来事だった。
どこか暗い場所。夕暮れの陽光の届かない、冷え切った暗所。サイト-8181から遠く離れた──実際はどれほどの距離なのか、誰も知らない──場所で、エージェント・カナヘビは水槽から檻に移し替えられていた。
日本支部理事会。
"彼ら"がカナヘビをここへ呼んだのだ。
「こんにちは、カナヘビ」
"獅子"の低く通る声を、カナヘビは遠くに聞いた。意識がまだ朦朧としている。ここへ連れてこられる前に投薬されていたのだろう、彼は重い首をもたげた。
「ああ……理事のみなさん、ごきげんよう」
刹那、照明が点灯する。突然のことに目がくらんだカナヘビが、徐々に周囲を認識できるようになると、そこがまるで裁判所の法廷のような場所であることに気が付いた。自らは檻に入れられており、目の前には扇形の長机に並んだ人物たちが、彼の様子をうかがっている。
「それでは査問会を開会する」机の中央に座する代表理事・"獅子"が改まった口調で宣言する。「サイト-8181管理者・エージェント・カナヘビ。君はこの査問会に於いて嘘を吐くことは許されない。もし偽証が露呈した場合、最悪終了という形の処分もありうる」
「はい」
ボーイソプラノは、普段の気勢が嘘のように静かだった。理事たちはその反応を受けても一切表情を変えることはなかったが、露骨に鼻白んでいる人物もいた。
「私が出頭命令書を読み上げます」調査保安局長の近衛が、机の端に立っている。「エージェント・カナヘビは、去る██月██日、財団81地域ブロック諜報機関指定要注意人物第█████████号・通称・三川十七と結託し、これを故意に逃がした疑いがあります。さらに本件においては世界オカルト連合極東部門との衝突も確認されており、先方から日本超常組織平和友好条約機構JAGPATOへの提訴がありました」
この根拠について、なにか間違いが──と近衛が言い終わるのも待たずに、カナヘビは言った。
「間違っておりますなあ」カナヘビはしおらしい様子のまま、俯いている。「ボクは故意に三川を逃がしていないし、連合が提訴? 仕掛けてきたのは向こうです。ボクの指示ではありません」
笑っているな、と近衛は勘付いた。不遜な爬虫類は、いかにも疲れ切った老人のような態度を装っているつもりらしい。だが、その実この状況を乗り切る知恵を最大限働かせているのは容易に想像がつく。
「少し、質問をしてもいいかね?」理事の一人が手を挙げた。理事会の渉外役の"若山"は日本超常組織友好条約機構での財団側全権大使として、この事件の矢面に立つことになる人間だ。「カナヘビ、君はどうしてあの男と組もうと思ったんだね? 君なら分かるはずだ、要注意人物との協働など財団では考えられないと」
カナヘビは言葉を選んでいるらしく、すぐにはその問いに答えない。数秒の沈黙があった。それを理事たちがどう受け取ったかはカナヘビの知れるところではなかったが、少なくとも近衛の心証は悪いな、と冷えた笑みを浮かべる余裕が彼にはあった。
「三川十七には確実に企みがありました。ボクにもその内容は分かりません。けれど、それを確かめるには彼の計画の一端を知る必要があった」
「その結果がこれかね」
"若山"は感情のない声で言った。感情がないように聞こえるのは、最高権力者ゆえの習慣であろうとカナヘビや近衛は推測した。この発言には、理事会の苛立ちが表れている。
「考えても見るべきです。我々財団は三川十七を70年間見失っていた。だがGOCはその間も追い続けていた。そしてつい一月前、その三川は突然日本に姿を見せた」
「──だが君は、それをみすみす取り逃がした」突然"稲妻"が口を挟み、近衛の方へ顔を向ける。「おっと失礼。発言を許してくれるかね」
ええ、と近衛は頷き、眼前で繰り広げられるカナヘビの窮地を冷やかに見守った。
「君が蒐集院のころから財団に貢献してきたことは、我々も良く知っている」
"稲妻"は確か内部保安の親玉だったな──カナヘビは脳裏に財団日本支部のヒエラルキーを思い浮かべながら、その言葉に耳を傾ける。
「だからこそ、我々は驚いているのだ。君が、そんな判断すらできないとは思わなかったから」
「……ちょっと待っていただきたい」カナヘビは不意に顔を上げ、理事たちを見回す。自らに注意が注がれるのを待ち、自らしか持たぬ切り札を高らかに宣する。「三川がボクに言ったことがあります」
「ほう」
"獅子"が腕を組み、首を少し傾げた。しばらくは黙っていよう、ということらしく、他の理事たちも居住まいを正した。
「三川はボクに例の"猫"保護要請を出すとき、GOCの襲来を予見しているかのような口振りでした。彼を拘留したこと自体が、財団とGOC間での紛争の火種になると彼は言い切ったのです。GOCは三川に対して何を焦っているのでしょう? 表立って敵対行動をとる価値が彼にはあったのでしょうか。それとも──」
堪え切れなくなったかのように、"升"が口を挟んだ。
「お前は"帝国の遺産ライヒス・エルベ"の話をしているのか」
周辺の理事たちは一斉に"升"の方を向いた。自らの失言を認めぬかのように"升"は首を振り、そのまま口をつぐんでしまう。
「この場にはふさわしくない者もいますが、あえて答えましょう」
カナヘビは近衛の方へ一瞥もくれなかったが、彼自身は理解していた。明らかに自らの知識の埒外の会話が、ここでなされていることに。しかし退席することは許されない。近衛がこの場に於いて進行役を仰せつかっている以上、踏みとどまらねばならない。
「ライヒス・エルベは無関係です。あるいは、少しは関係しているかもしれませんが、明らかにそれとは異なる、GOC側の機密にかかわることです」
「何故断言できる」"獅子"の言葉の調子は、最初のころと一切変わりがない。「君は何を知っている?」
「GOCが我々の人間を殺してでも、猫を奪い返さなければならないことがその証左です」カナヘビは檻の柱に前脚をかけた。「GOCでさえまだライヒス・エルベの所在を掴めていない……諜報の分析は、あなた方も知っているでしょう」
理事たちは互いに顔を見合わせると、何事かをひそひそと話し合い始めた。近衛が途中で呼ばれ、カナヘビの方を数度ちらと見る。やがて話がまとまったようで、"獅子"がカナヘビへ向けて声を発した。
「君の言い分はよく分かった。──ならば、君にこれから同行を申しわたす」
どこへ、と聞くほどカナヘビは鈍くなかった。
「JAGPATOの臨時防衛委員会の会合へ出席してもらう。君の話の真偽を確かめようじゃないか」
硲はざま 是高これたかは慌てていた。
数時間前、GOCが財団の収容部隊へ突如攻撃を仕掛け、数十名に及ぶ死傷者を出した。攻撃についてGOCは財団側の倫理的違反行為が原因であると主張し、財団はそんな事実はないと反駁している。日本、いや世界で一位と二位の超常関連組織が武力衝突を──しかもこの国で、起こしたというのだ。
幸いまだ全面戦争という形には至っていない。両組織指導部は、冷静さを保っている。
会場ビルのロビーを早歩きで進んでいく青年は、JAGPATO5のエージェントだった。主要組織間での調停業務を責務とする彼は、本来半勤であるところを返上してこの場に来ている。
「硲さん、会合に両組織の代表者が到着しました」
後方から硲に追いついてきた女性職員が、早口に言った。
「岑、声明の方はどうなってる。草案提出までどれぐらいの見通しだ」
岑みねと呼ばれた女性は、耳のトランシーバーに手をかけた。小声でやり取りを数秒ほど続けると、岑は了解したように頷いた。
「少なくとも、あと一時間半ほど」
「かかるか……まあいい。会合を始めよう」
巨大なチーク材でできたドアを押し開けると、そこには無機質な内装の会議室がある。天井は20メートルほどあろうとかという高さで、中央の壁には、JAGPATOの紋章──真紅の旭日の下に、ペンローズの三角をモチーフにしたカラフルな正方形、そしてそれらを包む水色の尾を引く霊魂──があしらわれている。
会場にはすでに、会議参加者が集まっていた。向かって右側の机が財団側代表の日本支部理事、"若山"と"稲妻"。左側がGOC側代表の極東部門幹部会議より、作戦運営官"龍笛"とPHYSICS部門総監の"篳篥"。そしてオブザーバー参加として財団からサイト管理者のエージェント・カナヘビが、右側の特設台の上にいる。
「みなさん、ご多忙中の中お集まりいただきありがとうございます。私は日本超常組織平和友好条約機構・防衛計画委員会主任調停官の硲 是高と申します」
「停戦協定を結ばせようということだろう」"篳篥"が、雑面に隠された顔を硲に向ける。「それなら、まずその前にはっきりさせなければならんことがある」
「財団はGOCが攻撃を停止さえすればいつでも撤兵の用意がある」
「冗談ではない」"稲妻"の言葉に"篳篥"はすかさず反応した。「財団がKTE-3317と猫の引き渡しにさえ応じてくれれば、このような荒事には発展しなかった」
まあ、まあ、と宥めながら硲は左右の机の間に立った。
「少し落ち着いてくださいご両人」硲はわざわざ両方の机に歩み寄って、それぞれの主張を鎮める。「私はこの場に於いて、あなた方両者から秘密の壁というものをなくしたい。それが一番の紛争解決への近道です」
硲は双方の顔を見比べた。いずれも何かしが遮蔽物が覆ってしまっていて、表情はよく見えない。だが相譲るという気概が微塵も感じられないことは、確かだった。ここまでの巨大組織が──たとえそれがほんの一端であっても──ぶつかり合ってしまえば、その動きを止めるのは尋常な手段では解決できない。
「財団はGOCへ、GOCは財団へ。それぞれ要求がある。それをここで堂々と主張すべきだ。遠回しに嫌味を送る必要も、水面下で足を蹴りあう必要もない。この場は恐らく世界で最も機密の保持された空間の一つです。なんなら私たちは出て行ってもいい」
「ほな言わせてもらいましょうか」
水槽から声がした。カナヘビがいつの間にか、水槽の壁にべったりとくっついている。硲は小さくうなずいて、「では、財団からということでも?」
「異議ナシ」
それまで黙っていた"龍笛"が、突然口を開いた。
「ええかな?」
カナヘビは今更のように理事二人の方を見た。"若山"はしばらく無言でカナヘビを睨んでいたが、黙認するとでも言いたげに前へ向き直った。
「GOCのみなさんに、一つ言って先に行っておきたいことがあるんです。三川十七……そちらで言うところのKTE-3317と協定を結んだのは、他ならぬボクやいうことを」
"篳篥"が背もたれに寄りかかった音が、いやに大きく聞こえた。その場に緊張が走る。
「"猫"に関しては、おたくら逃がしたんと違います? あの時"猫"は三川の制御下にあった」
「………………」
GOCは黙ってカナヘビの高説を聞こうという姿勢であるらしかった。硲はカナヘビの一言一句、一挙一投足に細心の注意を払い、その発言の真意を汲み取ろうと試み続けている。
「財団は三川十七との表層的な提携によって、奴の企てのほんの一端でも掴むつもりであったのです。──GOCは、どういうつもりなんですか? あなた方の手から離れたものを収容することの何が問題なのでしょうな?」
「それがあなた方の手に負えればいいが」"篳篥"は静かに言った。カナヘビのソプラノとは打って変わって、壮年の男声が会議室の壁に吸い込まれていく。「あなた方がまだ本音を隠しているようだから、我々もぼやけた言い方をするほかないが、あなた方は取扱い方を誤っている。あなた方は本当にあの"猫"の狙いを知らないのか? そうまでして三川十七から猫を引き離したくない理由でもあるのかね?」
「どういう意味や、ソレ」
カナヘビは目を細め、頭を撫でた。
一台のセダンが、速度制限の何倍かの速度で駆けていく。その運転席には10、11歳ぐらいの少女が座しており、助手席には気弱そうな青年、後部座席には左右異なる鋭い目つきの男が座っている。
育良の作戦とは、つまるところ、タマの言っていた通りにすることだった。"舌切り雀"の無力化。GOCの持つ生けるレーダーピケット。10代の少女。機動部隊の小手先は、その少女によっていともたやすく見破られたのだ。ホワイト・スーツの化物どもを相手取るよりは、そちらを叩く方がまだ可能性はある。もちろん、そちらにもどのような敵がいるか知れたものではなかったが。
警備本部へ連絡した育良は、規制範囲とその付近で避難していない人間のうち、10代の女性が何人確認できるかを聞いた。周辺区域のあらゆる監視機能を全て支配する財団の天文学的検索能力は、その条件に合う少女がたった2人であるとした。
すなわち、餅月と"もう一人"だった。
「連中、大分速く移動してるみたいね。他の警備班も見つけられてないって」
「"猫"は、タマは無事なのか」
「死んでいたらその時点でGOCも手を引くでしょう。でも、連絡は何も」
答えながら、育良は周囲を見回している。規制範囲が広げられて無人となった市街には、当然ながら車両の一台も走っていない。保井は冷静な育良の様子を見て、少し目を細めた。
「育良、お前やけに冷静だが」
「はい?」
「もしその舌切り雀ってのを目の前にして、お前、それを殺す勇気はあるのか」
育良は保井の顔を見たまま、数秒間固まった。
「……分かりません、その時になってみないと」
「……まあいい」保井は顔を窓外へ向け直した。視界を、背の低いビルが流れて行く。「いざとなったら俺が殺す」
沈黙に包まれた車内では、餅月が景気づけに流した『鋼鉄のウルフヘッド・外伝』のオープニング・テーマだけが流れていた。
「これを着ろ」親不知が舌切り雀に手渡したのは、濃灰色をしたポンチョだった。グレイ・スーツに利用される技術を応用した、簡易型の擬装衣だ。「降りるぞ。この車はもうダメだ」
自らも灰色の外套を被った親不知は、もたつく舌切り雀を急かして車から降ろす。
「財団の連中、多分監視カメラか何かで居場所を割り出したんだろう」
周囲を警戒しつつ、親不知は手に持ったPDWの銃把をきつく握り締める。周囲に財団の手の者は見当たらないが、上空にはヘリが飛んでいる。決して攻め込んだホワイト・スーツたちの監視用というだけではないだろう。一刻も早く、車から離れたほうが良い。
二人は走り出した。グレイ・マントにはもちろん光学迷彩機能があったが、それはホワイト・スーツのものとは異なり、移動すると迷彩が崩れてしまう低性能なものだった。これでカメラはごまかせても、実際の人間の視界は欺けない。
「"猫"が、わたしのことを、しゃべったのかも」
少々たどたどしい調子で、舌切り雀は言った。「ああ、それはあるな」と親不知は答えて、封鎖範囲を抜ける方法を考える。おそらく包囲網を狭めるべく検問の数も増やされているはずだ。
「早いところ逃げる手立てを探さないと……くそ、排撃班の連中はまだかよ」
『俺たちだけじゃ不満か』周囲で警戒を続けている718評価班長の本音が、聞こえているぞといわんばかりのタイミングで話しかけてくる。『早足も言ってたろう。位置が知れてないうちにホワイト・スーツを派遣すれば、それこそバレる。──それに俺らも』
「たかだか財団のエージェント一人に伸された連中が何言ってる」
本音が何か必死に抗議しているようだったが、親不知はそれを無視した。二人の周囲には、本音と喉仏の二人が展開している。だがそれも結局は"目"を増やす以上の意味はなく、機動部隊の攻撃に対しては無力なものにすぎない。
「ジリ貧ってやつか、こりゃ──」
「親不知」
舌切り雀が脂汗を浮かべて、親不知の肩に手をかけている。
「なんだ」
「3317が、いる」
「何っ」
親不知は後ろで怯えた表情を作る舌切り雀の姿を認め、VERITASの電源を入れる。灰色を基調とした視界にカラフルなエネルギーの流れが描画され、元特殊立会人は慣れた手つきで望遠モードに切り替えた。直線距離で7、800メートルのところに猛スピードのバイクに乗った人型が検知されている。その人物が発する波長には、識別タグが設定されていた。
「KTE-3317-Green Sunset……」
『排撃班へ連絡しろ。俺らがまず確保に行く』
「了解」本音と喉仏がKTE-3317の下へ向かうのをよそに、親不知は指揮車の早足の下へと連絡を入れる。「──こちら親不知です。KTE-3317が現れました。座標は██████。至急手配を──」
『了解した。すぐに送らせる!』
老人とは思えない気迫で早足が答え、すぐに思念伝達が切れる。もう数十秒もすれば来るだろう、と親不知は今来た道を戻って走り出す。できるだけ早く、KTE-3317から舌切り雀を離さなければならない。それが彼に与えられた至上命令なのだ。
財団の警備要員たちを避けつつ、大通りを外れてその場を離れて行く。しかし舌切り雀の表情から怯懦の色は消えず、むしろ濃くなっていく一方だった。
「どんどん、近づいてくる」
「何やってる、班長とあの坊主!」
「だめ!」
同僚を罵った親不知は、またしても舌切り雀の叫び声に思わず後ろを振り返った。
「財団のエージェントが! 向こうに、いる!」
「マジかよ」
引き返すわけにはいかない。本音と喉仏が、今まさに戦っているはずなのだ。エージェントたちを乗せた車は約400メートル先から急速に近づきつつあり、親不知は素早く手近にあった路地裏に駆け込んだ。下手に動くとグレイ・マントの光学迷彩のボロが出てしまいかねず、ポリバケツの裏で息をひそめる。
「動くなよ。迷彩は脆い」
無言でうなずいた舌切り雀を、親不知は抱きしめるようにマントで覆いかぶさった。やがて走行音が近づいてくる。舌切り雀が固唾をのむ音を耳元に聞きながら、車がいよいよ路地の前を通過していく。
「…………行ったか」
車は何事もなく通り過ぎて行った。
親不知は覆いかぶさるのをやめ、安堵したように溜息をついた。背後の少女を振り返れば、かなり憔悴しているようにも見える。
「おい、大丈夫か」
「……あ」
舌切り雀がぐったりと親不知に倒れ掛かると、思わずバランスを崩した青年はポリバケツを盛大に巻き込んで転んだ。中身がさほど入っていなかったことで、バケツが車道まで転がっていく。決して小さな音ではなかった。親不知は倒れ込みながら、周囲を慌てて見回す。
「何の音だ」
案の定、付近の警備要員が騒ぎに気が付いたようだった。数人が、路地に向かって駆け寄ってくる気配がある。
「っ、まずい!」迷いなくベルトからサイドアームの自動拳銃を1丁抜いた親不知は、その黒い金属塊を舌切り雀に渡す。「使えないだろうが、渡しておく。動くなよ」
室外機の上に舌切り雀を登らせ、フードのファスナーを上まで閉じさせる。このまま動かなければ光学迷彩は有効な状態を維持でき、警備要員の目を欺くこともできるだろう。親不知自身は路地の中央に立ち、PDWのセーフティーを解除して待った。数秒もすると、三人の警備要員がポリバケツを確認しにやって来る。
「誰もいない……? さっきはここに誰かいたはずだぞ」
「独りでに倒れるなんてあり得るか、この近くに誰かいたんだ」
「HQに連絡する」
会話をする三人が、路地に潜む評価班員の二人に気が付く様子はない。親不知はじりじりと、三人に向かって距離を詰めて行く。姿勢を低くし、足首まで隠すマントを地面に引きずりながら、確実に仕留められる距離まで近づいていく。
「分かった。俺たちは奧を調べる」そう言って、警備要員の一人が足を一歩踏み出した瞬間だった。待ち伏せていた親不知が突如姿を現し、PDWの銃身で警備要員の顎を殴り上げる。突然の事態に残る二人が一瞬呆気にとられているうちに、若き評価班員はPDWの銃身を容赦なくその手首に打ち込んだ。持っていたサブマシンガンが手から離れ、対処に動こうとした警備要員たちの顔が苦悶に歪む。流れるような動作で片方の警備要員の脚を払った親不知は、相手がよろめいた隙に首筋へ銃床の一撃を落とし、残る一人に向き直る。
「くっ、こんなとこに隠れていやがったのか」
「………………」無表情な青年は、相手がサブマシンガンを持ち直すよりも早く動いていた。射線をほんの少しだけ避け、PDWの引き金に指をかける。「死ね──」
刹那、親不知の体勢が崩れる。何者かが彼の脚に飛びついたのだ。見ればそれは最初に沈めたはずの警備要員で、親不知は自分の詰めの甘さに大きく表情をゆがめた。三人目の警備要員は既に彼のPDWを叩き落とし、親不知の首に腕を巻き付けている。大の大人二人に地面へ引き倒された親不知は、それでもなお抵抗をやめようとしなかった。
「警備HQへ! こちら"て-1、エコー"! GOC工作員一名を確保! 至急応援求む」
『こちらHQ、付近のエージェントをそちらに向かわせる。アウト』
数秒もしないうちに、先ほどの車のものと思しき急ブレーキの音が響いてくる。親不知は舌切り雀の方を見た。状況を打開するには、もう彼女しかいない。
だが、彼はそんなつもりでは毛頭なかった。
『わたしが、撃たないと』少女の思念伝達の声が、親不知の脳裏に響き渡る。『助けが来る前に、やられちゃう』
「ダメだ……」親不知は的確に関節を押さえようとする腕に抗いながら、うわ言のようにつぶやいた。「ダメだ、撃つな」
『大丈夫、わたしなら』
「──やめろっ!」
姿のない銃声が、鳴った。不意に青年を抑え込もうとする力が弱くなり、二度目の銃声でそれは完全に消え去った。弛緩した腕から逃れた親不知は、自分の顔に手を伸ばした。まだ鮮やかな赤色をした液体が、掌一面に付いていた。二人の警備要員は頭を撃ち抜かれて事切れており、助かる余地などないことは明らかだった。
「そんな……」
「親不知、大丈夫」
今や殺人者となった少女が、室外機から降りてくる。無垢だったはずの手が親不知に向かって差し伸べられ、彼はそれをうつろな瞳で見上げた。舌切り雀にだけは、手を汚させたくはなかったのに。それが単なる自己満足に帰着するであろうことは、彼とて承知の上だった。だが、これは違うと、親不知は彼女の手を振り払いながら考えた。
銃を渡したのは自分だ。自分が殺させたのだ。
「……行こう。奴らが来る」
『こちら警備HQ、エージェント・餅月へ。指定した座標へ向かえ。オーバー』
「了解、アウト。──って、え!? これさっき通ったところじゃない!」
「一体なに」
育良が聞こうとした瞬間、急速にブレーキがかかって車が急停車する。車内のものが一様に慣性に押され、シートベルトに咽喉を食い込ませた育良が「うぐぐぐぐ」と嗚咽のような声を漏らした。餅月の荒っぽい方向転換が済むと、育良の顔は先ほど以上に青くなっていた。
「窓を開けろ。状況を確認する」何ともなさそうな保井がシグのアサルトライフルを取り上げて、臨戦態勢をとった。「おそらく光学迷彩だろう。向こうも俺たちの捜索に気が付いたんだ」
窓が開いた次の瞬間、耳をつんざくような銃声が二度、鳴る。
「今、銃声が!」
「何が起こってる……!」
『こちらサイト-8120司令部より、エージェントへ』突如として、急報を知らせるブザーが無線機から流れる。『そちらへホワイト・スーツ2体が向かった。こちらは依然交戦中だが、そちらへ数個部隊を派遣する。アウト』
「そんな……どうして」
「その舌切り雀ってのがよほど重要なのかな」
餅月はしきりに上空を気にしている。いきなりホワイト・スーツが空から降ってくれば、この車両などひとたまりもないことは誰もが想像できた。
『こちら追撃部隊より。エージェントへ。ホワイト・スーツは我々より20秒早くそちらに到着する。それまでなんとかして持ちこたえてくれ』
「なんとかって!」
育良が無線相手の機動部隊指揮官に向かって叫ぶ。つい先ほどまであの猛威を目にしていた人間からすれば、大変な過大要求だ。
「何とかできなければ死ぬだけだ」それよりも、と保井は言った。「"猫"は、まだ生きてるのか」
『ああ。サイト内部で保護されたはずだ』一瞬、車内に安堵の空気が流れる。しかしすぐに指揮官は語気を硬直させた。『もうそちらに来るぞ!──幸運を』
餅月が華麗なドリフトを決めたと同時に、周囲のアスファルトが轟音を伴いながら波打って弾ける。隕石でも落ちてきたかという爆発が視界をふさぎ、"それ"が来たのだと知れる。
強化戦闘服。通称: ホワイト・スーツ。おかしなことに、先ほどとは違って光学迷彩は解けていた。そのヘルムには、赤いタコの足が巻き付いたデザインがあしらわれている。『よう、エージェント』
保井が何かに気が付いた表情をする。
『戻ってきたぜ』
バイザーが開き、頭足類の整った顔立ちが露わになる。
「日野博士の家にいた奴か」餅月たちは既に車から脱出していた。近くに、遮蔽物として役に立ちそうなものはない。「一度建物の中に入った方がいい」
『出てこい。抵抗しなければ殺さないでおいてやる』
少し外国語訛りのある日本語が、赤毛の美女の口から放たれる。その瞳は車の裏に隠れた保井を確実にとらえており、鋭い眼光は先ほどの恨みを忘れていない。威嚇的な武装の施されたホワイト・スーツの右腕が上がり、マシンガンの銃口が向けられる。
『──時間がない。もう時間切れだ』
頭足類の姿が地上からふっと消え、その場には抉られたアスファルトが残る。瞬きの終わらぬ間に、保井の目の前に灰色の甲冑騎士が現れる。
「くそっ」引き金を引く前に、銃身は捻じり上げられていた。なす術なく、保井の首がホワイト・スーツの魔手に締め上げられる。「がああ……」
その背後から音もなく、空中を四、五個の金属球が滑空していく。振り返るまでもなく、掴んだ男を持ったままホワイト・スーツはそれらを避けた。空気に触れると粘着性を獲得する例のグレネードたちは、的を失ってむなしく地面に転がる。仲間が移動しながら擲弾筒を使ったらしかった。
『二度も同じ手は食わない』
失神した保井の身体を放り投げると、頭足類のホワイト・スーツが警告を発する。敵性戦闘部隊が接近──財団機動部隊のお出ましだ。既に舌切り雀と親不知はこの場を離れているはずで、ここに連中を足止めできれば警戒網の外に逃げきれるだろう。
倒れた男の仲間は沈黙を保っていた。下手に攻撃を仕掛ければ位置を知られるとでも考えていたのだろうが、あいにくVERITASは全てを見通していた。機動部隊が到着する前にこのエージェントたちだけでも片付けておくが良い。
ホワイト・スーツは、再び跳躍した。植え込みの裏に隠れている痩せた男の目の前に着地すると、心底怯え切った表情と目が合う。頭足類は若干の失望を覚えながら、ホワイト・スーツの掌でその顎を叩く。
『造作もない』
いとも簡単にダウンしたエージェントの手には、なにかのリモコンが握られていた。そのスイッチから、弛緩した指が離れる。
頭足類はその異変に気が付くのが、ほんの一秒、遅れていた。エンジンの咆哮を背中に聞いた刹那、文字通り飛んできたセダンが頭足類を吹き飛ばす。
「ほら、起きて育良。もう保井たち行っちゃったよ」
遠隔運転システムを"悪用"した"ミサイル・カー"のスイッチは、餅月と育良の二人が持っていた。
「ひどい作戦でしたね……餅月さんの」
先にやられた方がスイッチを離すことになっていたでしょうと餅月は言い、育良の恨み言を突っぱねた。「動ける?」
「い、行けます」
立ち上がろうして失敗した育良が、餅月の小さな腕に受け止められる。
「無理しないで。あとは任せよう」
「はい……」
そのまま育良をひょいと担いだ餅月は、保井たちが向かっていった方角を睨んだ。陽が、もうすぐ沈みきる。
「排撃班でもなければこの程度か」
"本音"の遺骸を丁重に寝かせた三川は、数メートル先でもがいている"喉仏"のもとへと歩み寄った。左脚と右腕を奪われ、激痛と怯懦のにじむ双眸が三川を睨みつけている。
「先に地獄で待っていてやる」
どうやら元々僧侶であったらしいこの評価班員は、そのような文句をひねり出すのが精一杯のようだった。三川は冷ややかな笑みを返して、首を振った。
「地獄から来た人間に言う言葉ではない」
「じきにホワイト・スーツたちがここに来る……。お前を、地獄へ引きずり込んでくれる水先案内人だ」
そうか、と言った三川は、先ほど奪った自動拳銃を喉仏の額に近づけた。はじめはいよいよ迫った死に怯えた表情を作った喉仏だったが、一つ息を吐くと、仏門の徒らしく無表情になった。
「死ぬのは怖くない」
「そうか」顔のない男は、持っていた拳銃をスーツの裏に仕舞った。「見上げた根性だ。殺さないでおいてやる」
喉仏の表情が急変した。ここまで激痛に耐えてきた男の顔が、突然苦悶に崩れ始める。
「待て、殺せ」
「………………」三川は残念そうに笑い、しゃがみこんで耳元へ口を近づける。「坊主は好きじゃないんだ。悪いな」
「殺せ! 殺してくれ! 頼む!」
死という解放を遠くへ押しやられた男が、歩き去る背中に向かって叫び続ける。哀れな評価班員はこれから失血を待つ間、常に激痛に晒され続けなければならない。満足そうな三川の背後で、一度、銃声が鳴った。振り返ると、そこには頭を撃ち抜かれた喉仏が横たわっている。だが銃を撃った張本人の姿は見えない。
「もう来たか」
三川がそう言い終わらないうちに、彼の身体は数百の弾丸に引き裂かれた。挽き肉のような有様となった死体が、その場に倒れ伏せる。不意に光学迷彩が解けた1体のホワイト・スーツが現れ、死体を検める。
「ダメだ。デコイか」
喉仏の介錯を優先したのは、結果的には正しい判断だったのかもしれない。現実歪曲が解けた惨殺死体を見下ろす三本足は、忌々しそうに舌打ちをした。
『舌切り雀が探知したんじゃないのか』
『その時までは、本物だったのかも!──蹄、しゃべってる暇があるなら援護して!』
三本足が戦線から抜けたことで、交戦中のサイトにとどまった二人は苦戦を強いられているようだった。1秒たりとも無駄にできる時間はない。三本足は足元の死体に、左手をかざす。ホワイト・スーツの掌から青白い光線が幾条も放たれ、スキャニングが即座に開始された。KTE-3317への手がかりが残っていないか探してみても、大した情報は得られない。分析結果から確実にわかるのは、この男が財団の人員であったことだけだ。
三本足が二人の評価班員の遺骸を回収に戻ろうとしたとき、緊急の思念伝達が入った。
『こちら指揮通信車CC C・"揚げ足取り"。三本足へ、聞こえるか? どうやら頭足類がやられた。舌切り雀の護衛に回ってくれ。オーバー』
「了解。頭足類はどうなってる。オーバー」
『分からん。捕虜になった可能性が高い。とにかく急げ』
バイザー上に地図が展開すると、味方を表す青い二つの輝点を、その十倍以上の赤い輝点が追う様子が映し出される。舌切り雀のそばには親不知がまだいるようだが、かなりの数の機動部隊員に追われているらしかった。
ホワイト・スーツが跳躍する。夜が半ばを侵襲した空を。
「追いつけ、逃がすな!」
黒い戦闘服に身を包んだ機動部隊員たちに交じって、喪服の上にボディアーマーを着込んだ保井虎尾がいた。灰色のマントに包まれた幼い背中に向かって弾丸を放つ機動部隊員たちの中に、思案顔は一つもない。考えてはやっていられないのだ。GOCの猛攻に打ち勝つには、この手段しかないという言説が彼らの諦念を助けている。
「サーマルでも検知できない、あの二人が着ている迷彩は相当な代物だ」
途中で車を奪ったGOC工作員の二人と追撃部隊の距離は、徐々に詰まってきていた。しかし工作員の二人が財団の規制範囲を抜ける前に追いつけなければ、この追いかけっこの勝敗は持ち越されることになってしまう。
車は蛇行を繰り返し、ゴム弾の雨をなんとかしのいでいる。時折目標・"舌切り雀"と思しき少女の工作員が実弾で応射してくるが、それがだれか機動部隊員を傷つけるということはなかった。少女が撃とうとするたびに、運転している青年が車体を意図的に揺らしているにも思われたが、真偽は定かでない。
保井が乗っているのは一番先頭の車両だった。
「保井、お前今日は散々だな」
隣でエージェント・越前が豪胆に笑う。後方にいても役に立たないという理由から最前線の車両に回された彼は、先ほどから随分と保井に馴れ馴れしく接してきていた。
「まだマシな方だ」
車載の機関銃のハンドルを左手に持ち、保井はぶっきらぼうに答えた。その受け答えにも越前は、そうかそうかと何がおかしいのか笑うことをやめない。無愛想に保井が黙っていると、越前は急に血相を変える。
「お前さん、あの子を撃つ理由とかを考えてるんじゃないだろうな」
保井の目が横に滑り、それまで合わなかった二人の視線が交差する。越前はこれまで見たこともないような深刻な表情で保井の顔を覗き込んでいた。
「俺は撃つ時には撃つ」
「だろうな、お前さんは撃つだろう。だがな」年上のエージェントは正面へ向き直り、口元に笑みを取り戻す。「ああいうのを撃つときに理由を考える奴は、いつか自分に対して引き金を引くようになる」
「…………………」
保井は男の横顔にかかる翳に、眉をひそめた。越前の経歴を詳しく知っているわけではなかったが、今の言葉には明らかに彼なりの事実が含まれているように思えた。保井が口を開こうとしたその瞬間、車体が大きく揺れる。
「何が起きた!?」
銃座のある荷台から運転席へ向かって、越前が叫ぶ。
「目の前の地面が急に!──ホワイト・スーツか!」
光学迷彩に隠蔽された人型が、車両の周囲を走り出す。地面にはその足跡が次々と刻まれ、徐々に保井たちの乗る車両へと近づいてくる。
『こちらCCC。総員、電磁防護マスクを装着せよ。空間受動レーダーを使用する』
保井の両の目に付けられたコンタクトレンズ型ディスプレイに、警告の表示が現れる。首元まで覆うマスクをかぶった保井は、隣の越前がいつの間にか消えていることに気が付く。
「どこへ……!」
周囲を見回した保井は、車両のすぐ近くで火花が散ったのを見逃さなかった。見ればそこには、ホワイト・スーツと並走しているエージェント・越前が壮絶な殴り合いを演じている。目を疑う光景に、機動部隊員たちが呆気に取られているのを発見した越前は「前を見ろ! もう目標は近い!」と叫び、彼らの正気を取り戻させる。
逃げる工作員たちも、ホワイト・スーツと越前が演じる死闘に気が付いたようだった。同乗する少女の工作員は持っている拳銃を取り落とし、動揺を隠せない様子にも見える。
「早く、今のうちに追いつけ。射程に入ればこちらのものだ」
ゴム弾の威力では車の外装を完全に破壊するのは困難であったが、かといって逃げる車を破壊すれば中の工作員も無事では済まない。
『ロケットランチャーで奴らの前の道路を破壊する』
後方の車両に乗る隊員からの無線だった。保井は姿勢を低くする。車両のどれかには誘導弾を装填したロケットランチャーが積まれていたはずで、咄嗟にその方法を思いついたのだろうと思われた。
『カウント、3、2、1! 発──』
無線はそこで急に途切れ、代わりに爆発音が大気を伝わってくる。思わず後ろを振り返った保井の目に飛び込んできたのは、炎上する後続車両と、それらを避けようとして混乱に陥る車列だった。先ほどのホワイト・スーツが、越前を振り切ってここへやってきたのだ。コンタクトレンズのディスプレイが示すレーダー図には、確かに車列の上を飛び回る人型の姿がある。
「くそっ」
保井はゴム弾の満載された機関銃のハンドルを取り、それを後方へ向けようとする。しかしその試みは途中で阻まれた。車列を飛び石のように渡ってきたホワイト・スーツが、機関銃の銃身を先んじて銃撃したのだ。レーダーの中の人型が、すぐそこにまで迫って来る。保井は腰に手を伸ばし、実弾の入ったサイドアームを抜いた。9ミリパラベラムごときで止められる相手ではないことは、百も承知だった。
「ここまでか」
その時、中空を切り裂くように飛ぶ影が見えた。保井はそれを瞬時にホワイト・スーツだと思ったが──それは違った。保井のいる戦闘車の荷台を飛び越えて、明後日の方向へ飛んで行ったシルエットは、精密誘導弾のそれだった。
「今だ、行け!」
飛び上がろうとするホワイト・スーツを、取り押さえる人が見える。白い血を満身から噴出させる越前が、いつの間にか一本になった腕でホワイト・スーツの首を絞め上げている。その姿はあからさまに人間ではない。
「越前さん……あなたは」
「早く! 道に穴を空けてやった!」
越前の、金属が剥きだしになった腕が軋む音がする。保井は前へと向き直った。車両は間もなく工作員たちを乗せた車に追いつく。地面に穿たれた穴の前に立ち往生していた車から、青年と少女が姿を現す。走ってでも逃げようという魂胆であるらしかった。
「逃がすかよ」
保井が荷台を飛び降りると、数人の機動部隊員たちもそれに続いてくる。逃げる彼らの恰好は聊か奇妙で、濃灰色をしたマントで全身を隠している。隊員の一人がゴム弾で容赦なくその背中を撃つ。どうやら多少は当たったようだったが、それでも彼らの遁走を止めるには至らない。
工作員たちが角を曲がり、その後十数秒のうちに保井たちがそこへ追いつく。しかし、そこには男の工作員の姿はなく、足を引きずって逃げる少女だけがいる。男の方の姿はどこにも見当たらない。
「どこへ行った!」
捜索をしている暇はない。隊員の一人が無線をしようと耳に手をやったその時、銃声が響いた。
無線をしようとした隊員の頭からどす黒い血が飛び散ったかと思うと、立て続けに二度銃声が鳴る。保井の周りに立っていた隊員たちがことごとく地に伏し、保井は咄嗟にその場で前転した。自分を狙ったものであろう銃弾が靴先をかすめ、保井は自分から三メートルもない距離にある郵便ポストを睨んだ。
──そこにいる。
すかさず実弾の応射を数発撃ち放すと、その空間にノイズが走るようにして光学迷彩が破れる。立ち止まっていないと、光学迷彩の効果は発揮されないようだった。保井は無心に自動拳銃の引き金を引き続け、ポストの裏から男の工作員が現れたと見るやそこにも数発撃ちこんだ。
濃灰色のマントに数個の穴が開き、工作員──"親不知Wisdom Teeth"は反撃に出る。保井を狙った銃撃は全て外れ、距離を詰めてくるエージェント相手にナイフを抜かざるを得なかった。
親不知は獣のような咆哮を上げながら ナイフで迫りくる保井の肩を突かんとする。しかしそれもまた空を切り、上体を捻った保井の左ストレートが親不知の顎を捉えた。
意識が飛びかけた親不知はすかさず体勢を立て直して次撃を防ぎ、打ち払いに使った腕をそのまま攻撃に利用する。親不知はナイフを持つ手首を返して、保井の右腕に突き立て、同時に保井は膝蹴りを水月へ叩き込んだ。
お互いの動きが一瞬止まり、取っ組み合いを回避しようと保井が一歩引いた瞬間を親不知は見逃さなかった。痛む腹部を無視してナイフを投げ、保井の意識がそちらに向いた機を狙って、親不知は地面に落ちた拳銃を拾い上げる。
「じゃあな!」
引き金が引かれるのと同時に、保井の蹴りが手首を叩き折っていた。狙いはエージェントの頭から大きく逸れ、銃弾が脇腹を貫く。保井は鈍く短い悲鳴を上げて、その場に倒れ込む。
最後の気力を振り絞って、保井は走り去る工作員の背中へ自動拳銃の銃口を向ける。すると何故か、越前の言葉が脳裏をよぎった。──俺は、いま、理由を考えてなどいない、のに。
銃声が一発、鳴った。
だが、保井は引き金を引いていなかった、いや、引けなかったというべきか。かと言ってこの銃声は、逃げ去ろうとする青年へ向けられたものでもなかった。何かに気が付いた様子の親不知が、舌切り雀の逃げ込んだ路地へ走っていく。たちまち、青年の悲鳴が轟いた。
男は笑っていた。
少女は既に呼吸を止めており、今まさに命の灯火を吹き消されようとしている。暗い路地に漂うのは血と硝煙の匂いか、あるいは悲嘆と狂気だった。死にゆく舌切り雀を見つけた青年は、男の顔をその脳裏に刻み付けてやろうと睥睨する。
「殺してやる」自動拳銃を構えた親不知は、笑いながら後ずさる男の眉間へ向けて照準を固める。「殺してやる!」
銃弾はいずれも男に届かなかった。男の指には、まだ熱を帯びた弾丸が挟まれている。KTE-3317──三川十七は、冷えた笑みを崩さぬまま、踵を返して歩き出す。
「悪いな。これでも、君たちには何の恨みもないつもりなんだ」皺一つない並襟の上に載った顔を、親不知は最早思い出すことができなかった。「ただ、彼女には死んでもらうほかなかったが」
殺意の感じ取れない三川の言葉に、欺瞞が混在していようとは到底思えなかった。親不知は憤怒を全身に湛えて、それでもなお冷静さを保持せねばならぬ苦境に立っている。この化物相手に銃が通用しないのであれば、彼の持つどんな手段も望む結果を得はしないだろう。
不意に、"五戒"を親不知は思い出す。
「……"お前は消耗品ではない"」
この場で成すべきことは一つしかなかった。横目で床に転がる亡骸を見やる。決して安らかなものではない。額が割れ、恐怖に歪曲された表情が彼女の最期を物語っている。なるべく顔を見ないようにしながら、彼は重たくなった舌切り雀を抱き上げた。
路地を抜けると、財団機動部隊と思しき武装した人間たちが親不知"たち"を取り囲んだ。後ろを振り返ると、路地にはもうあの男の姿はない。
親不知はその肢体に、まだ温もりが残存していることに気が付く。腕の中で徐々に冷えてゆく現実に、彼はいよいよ耐え切れなくなった。
機動部隊員たちの対処はあくまで冷静だった。泣き叫ぶ青年の身体を取り押さえ、遺体と引き離そうと幾本もの腕が伸びる。親不知はあくまでも抵抗した。叩き折られた手首の痛みを忘れ、伸びる腕に噛み付きさえした。手を焼いた隊員の一人がスタンガンを持ち出し、親不知の首筋に突き立てようとする。
『待ちなさい!』いつの間にか、彼らの直上には財団のヘリがホバリングしていた。『既に財団とGOCは停戦に合意しています。これ以上の戦闘行為は認められない』
メガホンを持った人間が、ヘリの開いたドアから人だかりを見下ろしている。硲は、尚も親不知を拘束しようとした隊員を一喝すると、ヘリを付近のビルの屋上へ降ろさせた。そして今度は屋上から、メガホンで叫ぶ。
『間もなく両軍の指揮官が君たちに武装解除を命じるはずだ! 戦闘行為を即刻中止しろ! 私は日本超常組織平和友好条約機構JAGPATOの調停者だ!』
まだやろうという人間はその場にはもういなかった。親不知は隊員たちから解放され、舌切り雀の亡骸は、彼女自身が着ていたグレイ・マントに丁重に包まれ、地面に安置された。
その場に、どちらの勢力のものともつかぬ車両が続々と集合し始める。
「無事か、親不知」
車から降りてきたのは、すっかりくたびれた様子の"早足Trot"だった。先ほどから押し黙ったままの親不知は、地面にへたり込んで動かない。早足は深いため息を吐いた後、見覚えのある濃灰色の布に包まれた人型に気が付く。
「……我々は負けた」
「いいえ。停戦です」
後ろからやってきた"揚げ足取りNitpicker"がそう言って、タブレット端末を早足に見せる。そこには、出頭命令と班長の解任通達の文字がある。
「とにかく、一度引き揚げましょう。忙しいのはこれからも一緒です。──それと、お耳に入れておきたいことがもう一つ」
なんだ、と力なく振り返る目の前の老人に向かって、揚げ足取りは思念伝達を使った。
『"猫"が財団のサイトから脱出していたようです。KTE-3317と合流したのでしょう』
『徹頭徹尾我々の負けというわけか。俺の首だけで済めばよいが』
皮肉に笑った早足は、親不知と舌切り雀を指揮通信車に乗せるよう指示を出すと、それきり車から降りてこようとはしなかった。
月明かりが彼らを照らしている。今や戦場は静まり返っていた。
「GOCの連中は何を隠している」"獅子"は停戦決議の後も、それだけを問い続けていた。「我々へ牙を剥いた理由はなんだ」
「彼らにとって、我々はもう敵なのでしょう」"若山"はそう答えて、背後で武装した職員に囲まれている水槽を垣間見た。「三川十七がわざわざあのようにカナヘビに接触したというのであれば、あの爬虫類にもまだ利用価値がある」
「"負号部隊"か」
「我々の周りで、70年前の亡霊がまだ生きている」"獅子"が独り言ちるのを、"若山"がその心情をくみ取るように引き継ぐ。「"帝国の遺産"を引き連れて」
理事たちの表情は冴えない。無論、それらは隠されていたが。
「舌切り雀ハ失ワレタ。我々ガ持ツ彼ラヘノ唯一ノカードヲ失ッタトイウワケダ」
ベース-██-███へと帰還した"龍笛"の第一声は、それだった。"篳篥"はかぶりを振り、椅子に身を預けた作戦運営官に向けて諫言でもしようかという勢いで口を開く。
「"喇叭吹き達トランペッターズ"の創製に彼らが成功したという確証はありません。──我々でさえも失敗した」
「ダカラコソ、彼ラガ財団ノ協力ヲ得タト考エルノガ自然ダロウ」
「"猫"どもと財団はやはり同一組織なのかもしれません」
雑面は言葉を無表情にする。GOC極東部門のトップは「モウ、疲レタ」と言うと、そのまま寝息を立て始めてしまう。"篳篥"はしばしの間瞑目すると、人を呼んだ。
揺れる水面に、凹凸のない顔が像を結んでは途切れ、波に砕ける。それらを全て受け止め、切り裂いて進む艦体には、旭日旗が縫い止められている。夜半の海を、昨日へ向けて進んでいく彼らの行く手に、"幻島"たちが待ち構えていた。
「申し訳ない。あなたを危険にさらしてしまった」
「本心とは思えんが」二つの翡翠色がのっぺらぼうを映して、猜疑に歪められる。「結局"雨"の始末はお前自らか」
「はい。ですが、財団とGOCの離間は上手く行ったようです」
「そうだな……上出来だろう」
見上げる猫のそばには、例のケージが置かれている。
「それは、気に入ったんですか」
まあな、と答えた猫は、ケージの外を数度引っ掻いて見せた。ケージには傷一つなく、代わりに猫の爪が研がれてしまっている。目しか見えなくとも、笑っているのだということは三川にもすぐ知れた。
「ここにロゴか何かを入れるといいかも知れんな」
「手配しましょう。うちにはそういうのを得意としている者がいる」
「期待しておこう」
猫はケージの上に座ると、不可視の尻尾を振り続けている。海風は冷たく、甲板の二人にも遠慮なく吹き付けてくる。風になびいた髪を青年軍人が押さえつけると、その顔には、あるべきところにあるべきものが戻っている。
「本土決戦は近い」鳶色に光る瞳は狂気を発し、猫をとらえて離さない。「あなた方がいなければ、ここまで来れなかった。とても感謝しています」
猫は、青年軍人を見つめている。
「──カオス・インサージェンシー」
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