非情のライセンス
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まことの証人は人の命を救う、偽りを吐く者は裏切者である。

20██年 01月 PM:21:00 臨時混成分隊- つぶら隊員 横田███

ベイブリッジ爆破事件より十数分後

気がつくと、周囲の一切は闇だった。

手足はやけに軽く、奇妙な浮遊感があり、そして恐ろしいほどに冷たい。
そして俺は、全身を覆っているのが膨大な量の液体である事に気づいた。

口の中に入り込んだそれは苦く、塩辛い。

俺は周囲の状況を確認する、ここは海面だ。
俺はそこに、仰向けに浮かんでいた。

少し向こうに、何かの連なった光が見える。
あれは高速道路だ、そして人工島、ジャンクション、工業地帯。

俺は空を見上げる。
そこには、月が浮かんでいた。天空にぽっかりと開いた穴のように。

感覚を研ぎ澄ませ、全身の状態をチェックする。
片足の感覚がない。否、片足そのものが、ない。

だが俺は、片手に何かを掴んでいた。
俺は覚醒し切っていない意識の中、これだけは絶対に手放してはならないと思っていた。

俺は、その掴んだものを凝視する。死体のような白い手だ。
月の光に照らされ、その白い手の持ち主が闇に浮かび上がる。

紙のような、死人のごとき肌の色をした女だ。
戦闘服を着込んだその女は、両瞼を閉じ、俺と同じ姿勢で海面に浮かんでいた。

視界を巡らせると、遠くにベイブリッジが見えた。橋の下段は、煙をあげて赤々と燃えていた。

そこで俺は、自分が何をしていたかを思い出した。この女が何者なのか、と言う事も。
俺の名前は横田███、機動部隊も-9("都の狩人")所属の狙撃手だ。

そして、この女の名は蛍雪けいせつ
連合の排撃班-尾宿あしたれの狙撃手だ。

俺たちは、政治的な都合でJAGPATO混成分隊-つぶらに組み込まれた。
そして、俺はこの女とバディを組み、五行結社の構成員と戦っていた。あの橋の上で。

戦いは当初、俺たちの有利に進んだ。だが、突如として無人機は俺たちにミサイルを放った。
俺と蛍雪は、衝撃で吹き飛ばされ、海面へと落下したのだ。

こうしてまだ生きていられる事が不思議だった。
俺の足は、太腿部から先がちぎれ飛び、そこから大量の血が流れ出している。
わずかに残った体温が、流血と冬の海によって吸い取られて行くのがわかる。

────まずい。

ふと隣を見ると、蛍雪の周囲が赤く染まっている事に気づいた。
彼女の胸元に、コンクリートの断片がナイフのように突き刺さっていた。
蛍雪の手首を掴む。手袋越しに、微かな脈拍が伝わってきた。
しかし、それは徐々に弱まっているように思えた。

俺は意を決して蛍雪の体を引き寄せる。片腕で蛍雪の肩を担ぎ、片腕と残った足を使い、泳ぎ始めた。
岸へ、岸へ行かねばならない。財団でもいい、連合でもいい、誰かに回収して貰わねばならない。

この女の体重は恐ろしく軽かったが、わずかに加わった重量すら、俺の体力を削っていく。

────俺は、一体何をしているのだ。

冷たい水を掻き分けながら、俺は自問自答する。
この女は連合の排撃班、俺たち財団にとっての敵だ。

────捨てていけばいい、この女はもう死んだ。

生存の本能か、はたまた理性か。薄れかかった意識の中で、もう一つの声が俺の脳裏に反響する。
だが俺は、水を掻き分け続けた。口の中に海水が入り込み、その度に呼吸は困難になる。

────このままでは共倒れだ。俺一人だけでも、生き残るべきだ。

岸、人工島の明かりはあまりにも遠く、そして俺の及ぶスピードはあまりにも遅かった。
全身の筋肉が悲鳴を上げている、水を搔いても、前に進む速度は遅い。
また水が口の中に入ってくる、咳き込みながらも少しずつ前へ。

泳いでいると言うよりは溺れている。全身すればするほど、俺は溺死へと近づいて行く。

片腕と残った片足の感覚は、失われつつある。

水の中で足掻く、だが、もう限界だった。体は徐々に沈みつつある。

────この女の手を離せ、不要重量を捨てろ。

わずかに残った理性が、俺に囁きかける。

────黙れ、まだ。

その刹那、強い明かりが差し込んだ。
耳をつんざく爆音、俺は最後の力を振り絞って空を見上げる。

サーチライトの長大な尾を引く巨鳥が空を舞っていた。
そして、波を蹴立てて接近するゾディアック・ボートも見える。

────財団のCSAR戦闘捜索救難チームだ。

高速艇から救命ブイが投げられ、俺は必死の思いでそれを掴む。
だが、もう片方の腕には蛍雪の腕をしっかりと掴んでいた。

機動隊員が俺と蛍雪をボートに引き上げた。
俺は口腔から血の混じった塩水を吐き出す。

どうにか呼吸が戻るが、体温は低下してゆく。

すると、傍にいた一人の女が俺の損傷部位をチェックする。

「負傷者の確保完了!ハッチ解放して!このまま収容するわ!」

女は、ヘリの轟音にも負けないほどの大声で叫んだ。
すると、ヘリは海上ギリギリの高度でホバリングを開始する。

ヘリの後部ハッチが開き、ゾディアックボートはヘリに向かって急速に進んで行く。
行き足を残したまま、ゾディアックボートはヘリの後部ハッチに滑り込んだ。

ヘリが海面を離れ、俺の意識は暗転した。


「連合との混成分隊?正気ですか?」

俺が連隊長からその話を聞いた時、財団は非常事態の真っ只中だった。

自衛隊の秘密部隊「夜鷹」への制裁。
JAGPATO内での審議の最中、財団の黒色分子が一斉に蜂起した。
その結果、首都で省庁を標的にした大規模テロが発生したのだ。

いや、それだけではない。

厄介な事に、テロリストの構成員には政府関係者、CI、五行結社からの離脱者も含まれており、状況は混迷を極めていた。俺の所属する機動部隊も-9("都の狩人")第二連隊は、テロへの対応に忙殺されていた。

情報も錯綜していた。

「財団内部に多数のスリーパーが紛れ込んでおり、それが始末された」
「一号理事が反逆罪で身柄を拘束された」
「省庁の対超常部門の多くがテロでダメージを受けた」

そして、俺たちは慌ただしく現場を駆け巡った。
テロの目撃者の拘束と大規模記憶処理、通行の遮断、情報統制。
この国の首都をその狩場とする機動部隊も-9の本領発揮、と言いたいところだが、どうしても限界があった。

五行結社の残した呪術的痕跡を抹消するための機材や方法を、即座に用意する事ができなかったからだ。
こういった事態には妖術者タイプブルーが対応するべきだったが、俺たちはその人員を多くは抱えていない。さらに増員を要求するなら、西日本統括サイトから蒐集院の関係者を増派して貰う必要がある。

だが、財団は獅子身中の虫を掃除している最中だった。
この状況で西日本側の人員を動かすことは、極めて困難であると言わざるを得ない。

そして、俺は連隊長から混成分隊への編入を告げられた。

「冗談を言っている暇が、俺にあると思うのか?」

大量の書類を捌きながら、連隊長は俺に冷たく言い放った。

「事態に柔軟に対応する必要がある。お前はその混成分隊に組み込まれる。選抜射手だ、光栄に思え。これは決定であり拒否権はない、直ちに現場に急行し、指揮官の指示を仰げ」

そして俺は愛用の狙撃銃をトランクに入れ、持ち場を離れた。行く先は紀尾井町地下。
よりにもよってJAGPATOの本部だった。

そのさらに下層階に、俺の新たな所属先があった。そこは広大な合同訓練場だった。

エレベーターが開くと、そこにゴリラのような大男が立っていた。
おそらくは元陸自の普通科、俺と同じ経歴の男だろう。

「よく来たな、俺は連合の“御蔵みくら”だ。お前が選抜射手だな?」

ゴリラは胴間声を張り上げながら言う。俺は無言で頷いた。

「横田と言います、あなたが分隊の指揮官ですか?」
「そうだ。来て早々だが、お前と組ませたい奴がいる。ついてこい」

俺は、御蔵の背を追いながら後についていった。

「他の隊員はどうしたんですか?姿が見えないようですが」
「他の奴らは出動待機中だ、あとはお前が加われば即座に任務開始の予定だな」

障害物コースや室内模擬訓練場キルハウスを通り抜け、俺たちは射撃訓練場に辿り着く。
いくつもの人型標的ソフト・ターゲットが並べられた、よく整備された訓練場だった。

そこに、あいつがいた。

黒い髪をポニーテールにまとめた女が、俺の視界に飛び込んで来た。
その肌は紙のように白く、整った目鼻立ちは美女と言って良かった。

戦闘服に覆われた細く、しなやかな体。だがそこには、生気が感じられなかった。
まるで死体のような陰鬱さを纏った女だった。

「紹介しとくぜ、こいつは“蛍雪”けいせつ連合うちの狙撃手だ」

“蛍雪”は俺に視線を向ける。まるで興味がない、と言った風の表情を浮かべていた。

「隊長、財団が提供できる狙撃手は彼だけですか?」
「ああそうだ。あまりバカにしてやるな、こう見えても選抜狙撃手だ」
「そうですか」

俺はこの女の態度に、自尊心を刺激させられた。
傷ついたと言う程ではないが、来て早々に蔑ろにされると言うのはなかなかに応えた。

「横田だ、よろしく」

俺はどうにか、この死体女に向けて言葉を発する事ができた。

「“蛍雪”、短い間だけれどよろしく」

女は、淡々と応答した。その言葉にも生気が宿っていないように思えた。
この歩く死体が連合の精鋭なのか?俺は今の状況に軽い危機感を覚える。

「今からお前らを“調整”する。時間がない」

御蔵はそう言うと、近くにあったコンソールパネルを叩く。
射撃場に並んだ人型標的がレールに沿って移動し、あるいは床に収納されていく。

そして、視界のかなり遠くに、二つの標的のみが残された。

「標的は1km先、タイミングを合わせて標的を射貫け。さあ、始めろ」

俺はトランクから、愛用のレミントンM24E1ESR1を取り出す。

別名M2010、アメリカ陸軍が2011年に正式採用した狙撃銃の一つだ。
その信頼性から、財団機動部隊もこれを採用している。

折り畳み式の衝撃吸収型ストックを開き、架台に置く。
銃の全島は約1,18mで、銃身の総重量は約6.5kg。
1kmオーダーの遠距離狙撃仕様であり、ヘヴィバレルを採用している。

特徴的なのは、八角型スケルトン断面の前床フォアエンドで、銃身上部及び両側面に設置されたピカティニーレール、そして上下左右側面・計7面にはショート・レール設置溝が備えられ、拡張性を増している。

俺はグリップを握り、スコープを覗き込む。そしてウィンテージ・ノブと呼ばれるダイヤルを回し、照準レティクルを調整した。

零点規正ゼロ・イン

弾丸は放物線を描いて飛ぶ、狙った場所と着弾点を一致させる必要があり、狙撃前にはこの作業が必須となる。
俺にとっては手慣れた作業であり、十数秒でその零点規正は完了した。

そこで、銃声が響いた。

俺は隣の射撃台にいる、あの女を一瞥した。
女の構えるレミントンMSR2の銃口からは、硝煙が微かに吹き出していた。

そこで、俺は奇妙な点に気づいた。
あのレミントンには、スコープが一切付いていないという事に。

「“蛍雪”、タイミングを合わせろ、と言った筈だ」

御蔵が重々しい口調で、あの女に注意した。
俺はとっさに、手元にあった小型の双眼鏡で、標的を見た。

人型標的、その頭部の中心は、綺麗な穴が空いていた。

つまり、この女はスコープなしで標的を打ち抜ける、という事になる。
1km先の標的を、だ。

────この女、一体何者だ。

俺はこの連合の狙撃手に、底知れぬ不気味さと、その狙撃術の恐ろしさを感じた。
だが、俺はそれを無視した。こちらも財団機動部隊、怪異や驚異に心を動かされるほどヤワじゃない。

俺は1発、試射を行った。照準調整は、これで完了した。

「横田、零点規正は終わったな?新しい標的を出す。もう一度だ」

俺は気を取り直して銃身と架台に身を預け、スコープを覗き込む。

そして、引き金を引き絞った。

乾いた音が響き渡る。

発射時の衝撃は、ストックの衝撃吸収機構が柔らかく受け止めてくれた。
俺の放ったウィンチェスター300マグナム弾は、人型標的の中心を射抜いた。

「そこまで」

御蔵が訓練の終了を宣言した。

「横田、“蛍雪”、こっちに来い」

御蔵は俺たちを呼び、俺と“蛍雪”は御蔵のところへと駆け寄る。

「良し、これなら十分だろう。“調整”はここまでだ」

得心が行った、と言う口調で御蔵は言った。

「これからお前と“蛍雪”は相棒バディだ、狙撃に付いては“蛍雪”こいつに従え」
「待ってください、今の狙撃で何が分かったって言うんですか?」

突然呼び出され、突然の訓練。相手は連合の人間で、相棒は得体の知れない死人のような女。
これでいきなり納得をしろと言われても、俺にはできない。

「まあそうだろうな、だがこいつを見ればどうだ?」

射撃場からキャタピラ式の無人機が勢いよくこちらへ向かってきて、御蔵の真横で止まった。

無人機は、そのロボットアームの先端に妙な物を掴んでいた。
御蔵はそれをロボットアームからもぎ取ると、それを俺に見せた。

それは、金属の塊だった。2つの銃弾が前後に噛み合った、かちあい弾
弾丸と弾丸が衝突した際に発生するもので、極めて珍しいものだと言えた。

「“蛍雪”はお前が撃つタイミングを見計らって、お前の放った弾丸のケツにブチ込んだのさ」
「そんな事が……とても信じられない、何かのトリックでしょう?」
「なら、納得行くまで試すしかねえな」

それから、俺は10回は撃ったと思う。
そして、射撃場から採取された弾丸は、全てかち合い弾だった。

「これ以上は無意味です」

あの女は、事も無げに言った。

「“御蔵”隊長、どう言う事なんですか」

俺は呆然としながら、御蔵に問う。

「こいつはな、妖術者タイプ・ブルーのなりそこないなんだよ」

連合の妖術者については、俺自身も何度かブリーフィングで聞いた事がある。
第六生命エネルギー「Eve」に干渉し、現実を歪曲する能力者たち。

「あいつは大規模な現実干渉を行うことはできない。できるとすれば、魔術経路を使った瞬間移動、そして、Eveを用いた“観測”だ。ターゲットの位置を見つけ、最適のタイミングで射撃できる。だから、射撃についてはこいつに従え、いいな?」

俺は憮然とした表情をしつつも、認めざるを得なかった。
上には上がいる、その事実をまざまざと見せつけられたからだ。

「さっき調整は終わりだと言ったが、まだ時間が必要みてえだな。“蛍雪”、あとはお前に任せる」
「了解しました」

“御蔵”はそう言うと、エレベーターの方へと歩いて行った。

“蛍雪”が俺を見る。死体のような白い肌、黒い髪、そして、どこまでも黒い瞳。

「あなたが標準的パーソナルな狙撃手だと言う事は良く理解できた。後は、私に合わせてください」

無機質な、感情の籠もらぬ声。俺は、この女から声が発せられているとはとても思えなかった。
まるで、銃そのものが言葉を発しているかのようだ。

「……了解した」


「私は頭を、あなたは心臓を打ち抜いてください。タイミングは私に合わせるように」
「俺が心臓を、あんたが頭を。了解だ」

これが、俺とあの女で交わされた取り決めとなった。
1時間ほどで、俺はあの女の射撃の勘所を、どうにか掴む事ができた。

しかし、得心の行かぬところはあった。俺たちはこれから何と戦うのだろう?
財団と連合の混成分隊。それならば、相対する敵はおそらく最悪の存在の筈だ。

「あなたは知らないようだから言っておきます。私たちがこれから戦うのは、五行結社です」


数時間後 臨時混成分隊-つぶら狙撃手 横田███ 横浜ベイブリッジ 主塔部頂上

風もなく静かな夜だと、俺は思った。

しかし、ここの頂上は肝が冷える。弾が飛んで来ない安全地帯、高い場所は好きだとは言ったが、どうやって降りるかもわからないような場所に置き去りにされるなどとは思ってもいなかった。

横田は“蛍雪”と共に、ここへ“転移”した。
首都に張り巡らされた魔術経路レイライン、それを用いた高速瞬間移動。

────“蛍雪”についても、あまり好きになれない。

蒼白な肌に整った目鼻立ち、だが、やはりあれはどこか死人を思わせる顔だ。

────連合にはあんな女しかいないのか。

“蛍雪”は、主塔頂上────大黒埠頭側から見て左側────に横田と転移した後、あろうことか、自らは主塔頂上から勢いよく跳躍、何もない虚空を蹴りながら反対側の主塔頂上まで移動した。

「狙撃のタイミングは私に合わせてください。私が頭を、貴方が心臓を」

そして、“蛍雪”は言った通りに標的の頭を撃ち抜いた。

────こいつは、本来なら敵だ。できれば対手にはしたくない。

だが、この仕事ももうすぐ終わる。聞けば、連合は妖術者に対する必殺兵器を所持しており、それをこれから使うという。それならば、あとはそれを待てば良いだけの話だった。俺はそう高を括っていた。

楽な仕事だ、これが終われば、サイトに帰ってゆっくり休める。

安穏とした俺の思考を、“御蔵”の無線が切り裂いた。

「UAVが奪われた!狙撃班、どこでもいい、退避しろ!」

衝撃が来た、耳から音が消失する。

そして湧き上がる炎。突然片足の感覚を喪失する。

意識はスローモーションとなり、俺はは自分の右足が切断されている事を悟った。
片足が、明後日の方向に飛んでいくのを見た。

しっかりと踏んでいた主塔のコンクリートの感触はなく、体は空中に投げ出されている。大量の出血。
そして、俺を抱える柔らかな感触。

横田は傍を見ると、そこに蒼白な顔をさらに真っ白にした女の横顔を見た。────“蛍雪”

────なぜ、この女は俺を助けるのか。

その理由については、俺はなんとなく察していた。

────“狙撃班”、どこでもいい、退避しろ!

この女はあくまでも、命令に従ったに過ぎない。だが────

彼女の体の中心には、巨大な金属製の棘が突き刺さっていた。

どこまでも落下する感覚。
海面が近づき、そして────


PM 21:20 サイト-8100 医療棟 財団CSAR戦闘捜索救難チーム 医療担当 天宮律子あまみやりつこ

「急いで!」

私、こと天宮律子は、部隊員に檄を飛ばした。
ストレッチャーを押しつつ、廊下を駆け抜ける。もはや、一刻の猶予もない。

「五行結社」構成員との戦闘は、混成分隊の奮戦により終結した。
しかし、それにより多くの機動隊員、そして連合の排撃班員が犠牲となった。

ついでに言えば、戦闘の際にUAVは奪取され、それのミサイル攻撃によってベイブリッジは現在も炎上している。
この事態を沈静化するべく、目撃者の記憶処理とカバーストーリーの流布が進行中だった。

連合側のチームが排撃班員を一人海の底から救い上げたそうだが、そちらは望み薄だろう。
私たち財団の戦闘捜索救難チームが拾い上げられた命も多くはない、たったの二人だけ。

一人は機動隊員の男性。右足を喪い、そして大量の血を失っており、低体温症のおまけ付き。
そしてもう一人の女性は……心臓近辺に金属片が突き刺さっていた。

処置室のドアを勢いよく開ける。

そこには白衣を纏った私の相棒、西園寺 眞子が居た。

「天宮さん、お疲れ様です」

眞子は、こんな時でも律儀に挨拶をする。

「患者2名緊急スキャン、始めるわ。サポートお願い」

医療棟の高度救命処置室は2部屋に別れている。第一処置室で患者の身体状況をスキャナで検索し、そののちに隣室の手術室へ移送するのが基本的な方法だ。

ストレッチャーの周囲に固定されていたスキャナが起動、展開する。
スキャナは、患者の損傷位置を特定し、数秒で医療用端末に転送した。

「どう!?」

私は大声で、眞子に尋ねる。

「横田隊員のバイタルは不安定です。しかし、適切な止血及び除細動器によるカウンター・ショックを与えれば蘇生は可能です!問題は、彼女の方です」

大型モニタに、患者の三次元立体透視図と、損傷部位が画面に表示された。
穿通性右心室損傷、バイタルの低下が顕著だった。

「ちょっと、私循環器系は専門外なのよ!?」
「じゃあ、やめます?」

眞子はこんな時でも落ち着き払った声で言う。

「バカ言わないでちょうだい!やるわよ!やればいいんでしょ!」

幸い、人工心肺装置は空きがあった。
私は頭の中でプランを組み立てる。

「胸部を切開、鉄片を抜去して開口部にパッチを当て、人工心肺を確立、その後細かな鉄片を抜去……これなら」
「助かる可能性はありますね。でも、問題が一つあります」

眞子の冷静な口調が、今回ばかりは若干腹立たしい。

自殺装置デス・スイッチ、でしょ」

それは、排撃班員の体内に内蔵されていると言われる、機密保全装置だ。
隠密行動中の排撃班員から、何らかの情報が奪取されうる場合、作動して即座に排撃班員の命を奪う。

「そうです。外科手術による侵襲的アプローチを行った途端、それが作動するかもしれません」
「そうね。そして、自殺装置については機密クラスの保全体制で守られていて、私たちには情報がない」

よほどの旧型であれば、体内のどこかに埋設インプラントされているだろう。
だが、スキャンの結果から判断するに、体内にそれらしい異物は認められなかった。

「機動部隊員用の埋め込み型機械式人口心臓を用いる、と言うのは?」
「望み薄ね。患者が拒絶反応を示せば、それで終わり」

そもそもそれは、インプラントではないのかもしれない。
何らかの呪術的な儀式による刷り込みかもしれないし、あるいは微小機械ナノマシンかもしれない。

そして彼女の体にそれが埋め込まれているのか、いないのか?それが私たちには分からない。
ここが連合のベースであれば、即座に自殺装置を解除できるだろうが、あいにくここは財団のサイトだ。

────人工心肺装置に繋いだとして、どれくらい保つ?

私は、戦闘捜索救難チームの衛生兵コンバット・メディックとして、決断を迫られる。

彼女の情報が欲しい。

だが、彼女の直属の上官は重傷を負い、現在連合のアウトポストに搬送中。

────確認をしている時間はない。

ここから先は、ギャンブルの世界になる。
胸部切開時にデス・スイッチが作動すれば、その時点でゲームオーバー。

だが、そもそも相手は連合の一員、財団としては助ける義理もない。
しかし……長年、戦場で医師として活動してきた私の本分が頭をもたげる。

「仕方ないわね、やれるだけやってみる。もし自殺装置が作動すれば、運がなかったと諦める」
「でも、人工心肺確立までたどり着けたとして、自殺装置がいつ作動するかはわかりません」

私は頭の中で思考を巡らせる。

────この非常時、JAGPATO条約軍はまだ解散されていない。

渉外部門・渉外政策局に申請すれば、連合側の人間をここに呼べるかもしれない。
そうすれば、何らかの方策は立てられるだろう。
排撃班員を救ったとなれば、財団としても、連合側に“貸し”を作れる。

それはきっと、悪くない条件の筈だ。頭の硬い連中も頷くだろう。

────私は、職務を前になんて汚いことを考えているのかしら?

だが、他に方策はない。この女性を助ける方法があるのだとすれば、悪魔とも取引する。
それが、医者だ。後の事は、命を救った後に考えればいい。

「彼女は私がやるわ。その代わり、連合側の医療班にも連絡を」
「わかりました、渉外部門渉外政策局総合オフィスに1人走らせます。そこのあなた、お願いしますね」

部隊員の一人が、急いで部屋を駆け出して行った。

────よし、これでいい。

「彼女はあたしが、そこの機動隊員はあんたがお願い。その程度の損傷なら、第一処置室の設備で間に合う」
「了解しました」

私は、隣室の処置室へとストレッチャーを移動させる。

────あんたを助ける義理はない、でも。


PM 21:25 サイト-8100 渉外部門渉外政策局総合オフィス ジョシュア・アイランズ外交官

私は、テーブルの上に山と積まれた大量の書類を素早く閲覧しつつ、今回の事案に対する所見を纏めていた。
1日前に起きた官公庁同時テロ事件、私はそれに対する後始末に忙殺されているところだった。

やるべき事はあまりにも多かった。

被害を受けた日本政府省庁との連絡の確保、生存者の確認と、後任人事の確認、そこから財団にとって望ましい人物を再検討する。ついでに連合側にも同様の確認を行わねばならない。しかし、これらは私が行うべき仕事の前段階でしかない。まずは地歩を整え、その上で、これから官公庁との交渉に臨まねばならなかった。

幸い、それらの仕事は今日の夜までには全てが完了した。
これで、テロが発生する前の秩序はどうにか取り戻せる筈だった。

しかし、それでも私の仕事は終わらない。

今回のテロ事案に置いて、前日の仕事はフルコースに於ける食前酒アペリティフに過ぎないのだ。

逮捕された反財団因子のリストや関連情報を読み解き、そこから財団内部部局と各官公庁・日本の政党との繋がりを見つけ出し、そこから更に交渉・調停の糸口を見つけ出す。

「後ろ暗い事をしている」と思いつつも、汚れた沼から足を引き出せない人間は多く存在する。
私はそういった人間を見つけ出し、交渉先に選び、あるいは選択肢から排除する。

そして、ようやく彼らの場所に出向き、今回の事案の収拾のために協力を依頼する。

諜報用語で言えば「炙る」とも言うが、無論相手先の欲しがるものを与えるつもりでもいる。
要するに、彼らの関係性の先にいる「蛇」を炙り出せればそれでいい。

しかし、検討するべき情報はあまりにも多かった。

私のデスクの背景のホワイトボードには、多くの人間の写真が貼り付けられ、それらは関係性を示す様々な色のストラップで結び付けられ、あるいは矢印が引かれている。

いい年をした大人が探偵ごっこに興じているように見えるかもしれないが、私は真剣だった。

私は部下から一枚の書類、最新情報の報告書を受け取る。
そして、内心舌打ちしつつ背後のCrazy wallから、一枚の写真を剥ぎ取った。

報告書にはこうある、“監視対象は自宅内で”服毒自殺”。

これでまた、別方面から交渉先を検討せねばならない。

ふと思う、私は何をしているのかと。
そもそもこんな仕事は、諜報屋の仕事ではないのか。だが、これも仕方がない。
信頼できるはずの組織に大量の“もぐら”が紛れ込んでいた。

ならば、誰を信用すればいい?

その“もぐら”は財団にもいたし、連合にもいた、日本政府内にも。
そうであれば、“もぐら”の先には後ろ暗い関係性がいくつも見つかるだろう。

これらの情報を整理した上でなければ、交渉にも当たれない。
正直、誰を信用すればいいかも、アテにはならないのだ。

────日本支部内部保安部門に連絡を取ってみるか?

私は、ふとそんな事を考えた。それが儚い望みだと知りながら。

日本支部内部保安部門、その統括次官であるグレアム・マクリーンは、今回の“もぐら狩りモールハント”の急先鋒だ。そして、内部保安部門は私たちにも情報の共有を行ってくれてはいた。

しかし、それは彼らが対象を捕殺した後の話だった。

保安部門の黒い手袋が場所を掃除した後には、チリ一つ残らないのが通例だった。
こちらは必死に交渉先を探していると言うのに、気がつけばその対象は彼らに捕らえられている。

緊急時だ、それは仕方ないのかもしれない。

だが、対象が消えれば、その背後にある暗いネットワークは霧散してしまう。
黒色分子が消えれば、その後を補う人間がいるはずだが、それすら残らない場合もあった。
そして、交渉のチャンネルも同様に消えてしまう。

あの白イタチどもの独断専行に、私はだんだん我慢がならなくなってきた。

しかし、仕事は続けなければならない。

私が把握しているCrazy wallと、保安部門の持つ情報のすり合わせくらいはしておきたい。
そうでなければ、私はいつまでたっても仕事を終える事ができないだろう。

それだけならまだ良かったが、さらに私に面倒な問題が降りかかってきた。
ベイブリッジが爆破された、五行結社との戦闘の結果だ。

これに対して、日本政府は必ず財団に文句を言ってくるだろう。
であれば、私たちは明日にでも関係各省庁に対する交渉に出向かねばならない。
部下は決済を求め、そのための書類が私のデスクに積み上がりつつある。

私はため息をつき、手元にあったマグカップにコーヒーを注ぐ。

────今日も、宿舎には帰れそうもないな。

そう思い、私はコーヒーに口をつけた。

その時だった、白衣を来た一人の大柄な男性が、オフィスに駆け込んで来た。

「アイランズ外交官!お話が!」
「……どうかしたのかね」

彼は語ったところに寄れば、戦闘捜索救難チームは2名の生存者を確保したそうだ。
ベイブリッジの一件の関係者、財団・連合の混成分隊の一員だった。
そしてその中に、連合の排撃班員がいた。その人物の治療のため、連合側に協力を要請する必要がある。

だから彼は、ここに来たのだ。

────面倒極まる問題だな。

私は内心でひとりごちた。

今の情勢下で連合側に連絡を取る事は可能だろう。
だが、向こうも警戒度を上げているに違いない。

下手をすれば、排撃班員の命を盾に取った交渉の前振りだと思われかねない。
この非常時に、またも問題発生だ。

────しかし、私以外の誰が、それをできるだろうか?

「わかりました、おそらく電話一本で済むでしょう。すぐに手配します」
「助かります!ありがとうございます!」

隊員は深々と頭を下げ、部屋を出て行った。

私は卓上の電話を秘匿回線に切り替え、このサイトに一番近い連合のベースに発信する。

「こちらはサイト-8100、ジョシュア・アイランズ外交官。現在、当サイトに排撃班員が一名重傷を負って運び込まれました。至急、医療関係者を当サイトに派遣してください。はい、至急です……」

相手先の担当者は、意外にもそれを快諾し、交渉は数秒で終わった。
これでいい。連合側もこの事実があれば、財団側との連携を密にしてくれるだろう。
今後の交渉ごとにもプラスになる。上手くいけば、明日で仕事も片付くかもしれない。

私はコーヒーを口にし、そして再び書類を手に取った。

その書類の向こうに、一人の白人男性が見えた。

「アイランズ外交官……君は今、どこに電話していたのかね?」

内部保安部門統括次官・グレアム・マクリーンが、そこにいた。


PM 22:10 サイト-8100 医療棟 臨時混成分隊- つぶら隊員 横田███

深く暗い闇の中から、俺は引き上げられた。

夢を見ていたように思う、あの女の夢だ。

目覚めれば、そこは白い部屋だった。

天井には、六角形のフレームに小さなLEDに昆虫の複眼のように収められた照明がぶら下がっていた。
あれは、手術に用いられる無影灯だ。俺自身、仕事柄何度かこれを見たことがあった。

部屋には、バイタル・サインモニターの断続的な電子音が響いている。
手足は輸血用のポンプで繋ぎとめられていた、そして、右足の感覚がない。

そうだ、思い出した。俺はあの時、足を失ったのだった。
それから────何か大事な事があった、俺は何かに執着していた。

暗く深く、冷たい海。流れ出る血潮、そして俺はその傍に、何か重要なものを────
俺はシーツの下から腕を引き出した、手のひらを握って開く。

────よし、動く。

「横田さん!意識が戻ったんですね、じっとしていてください」

一人の女医が、俺に話しかける。

「この指が何本に見えますか?」

女医が、俺に指を示した。

「1本、だろ。大丈夫だ、ちゃんと見える」
「良かった、視覚は正常のようですね。横田隊員、あなたは生還しました。お疲れ様でした」

女医は、深々と頭を下げた。俺は、なんと答えていいやら分からなかった。

「あなたは重症を負っています。このまま安静にして、治療に専念してください」

女医は、注射器のアンプルを傍のテーブルから取った。

「今から鎮静剤を打ちます、このままゆっくりと、休んでください」

注射器のアンプルを持った女医の腕を、俺は勢いよく掴んだ。

「待ってくれ。もう一人、居たはずだ」
「落ち着いて、あなたは安静にしている必要があるんです。でないと、命の保証はできません」
「もう一人居た!もう一人居ただろう!あいつは、あいつはどうしたんだ!」

俺はどういう訳か、全力で叫んでいた。そう、確かにもう一人居たのだ。
俺に傍に、確かな感触を伴って。そして、そいつは死にかけていた。

「教えてくれ、生きているのか?それとも……」

俺は二の句を継ぐ事ができなかった。
死んだのか?その一言が、どうしても言えない。

「落ち着いてください、彼女は現在第二処置室で緊急手術中です」
「生きて、いるんだな?」
「ええ、だからあなたは……まずは自分の事だけを考えてください」

その刹那、部屋の奥の扉が開き、白衣を着た女医が入って来た。

「眞子、ちょっといい?来て」
「天宮さん、一体」
「いいから、お願い」

二人の女医は、奥の第二処置室へと歩いていく。
いや、片方の女医が振り返って叫んだ。

「そこのあんた!医者を困らせるのはやめなさい!動いたら殺すわ!いいわね!」

大声を発した方の女は、そう言うと第二処置室へと入って行った。


PM 22:30 サイト-8100 医療棟 財団CSAR戦闘捜索救難チーム 医療担当 西園寺眞子さいおんじまこ

私は天宮さんに連れられて、第二処置室へと入った。
無菌テントの向こうに、患者の姿が見える。私は即座に患者のバイタル・サインを確認した。
確かに弱々しいサインではあったが、その心拍は安定しているように思われた。

「お疲れ様です、手術は成功したんですね」
「ええ、手術はね。でも、これを見て」

バイタルの推移をプリントアウトしたものを、天宮さんは私に示した。
患者のバイタルは、緩やかに、だが確実に低下していた。

「これ、どう言う事です?」
「分からない。人工心肺は確立した、鉄片も除去して縫合も完了、患者の心臓は安定に向かっている」
「やっぱり。自殺装置、ですか?でも、連合から連絡要員リエゾンが来れば、解除できる筈」

私は天宮さんの顔を見た、憔悴し切った表情をしていた。

「残念だけどね、そんなものはもう、来ないのよ」
「来ない?どうして?外交官は一体何をしていたんですか?」

渉外政策局のアイランズ外交官は、決していい加減な仕事をしない人員と言う前評判がある。

それは私もよく知っていた。だからこそ、彼に託したのだ。

「外交官は仕事をしたわ。確かに連合に連絡をした。その結果、救援要請は中止になったの」
「そんな、どうしてですか?」

天宮さんは、髪をかき上げながら吐き出すように言った。

「マクリーンが来た。だからあの患者は、もう死んでいる事になったのよ」


PM 22:30 サイト-8100 渉外部門渉外政策局総合オフィス ジョシュア・アイランズ外交官

私は、マグカップの黒い水面を見つめていた。
マクリーンは私が要請をするまでもなく、ここに来た。彼はつい先ほどまで、そこに居た。


「精勤ご苦労、君には随分と苦労をさせてしまったようだ」
「いいえ、これが私の仕事ですから。ところで、どういったご用件ですか?」
「まずは、我々内部保安部門が君の部局と“干渉”を起こしている事についての謝罪をしに来た」

マクリーンは私に向けて、小さく頭を下げた。

「迷惑をかけてしまい、誠に申し訳ない。埋め合わせはするつもりだ」

私は言葉を失う。あのマクリーンが、この私に謝罪を?
あの、ジェイムズ・アングルトンの再来と言われた男が。

組織の正常性維持のためならば流血も厭わぬ、あの、非情さの化身のような男が。

「まず、我々の持っている情報は可能な限り共有しよう。君がそこに描いているCrazy wallも、さらに有為な情報として更新できる筈だ。また、今から可能な限り、君たちと歩調を合わせる事を約束する」

それは、望外の申し出と言えるものだった。
これが本当なら、私の仕事上の懸念は全て解決するだろう。

「マクリーン統括次官、感謝します。これで、私の部局が抱える問題は解決します」
「これくらいどうと言う事はない。だが、一つ頼みごとをしたい。受けてくれるだろうか?」

私は背筋に怖気が走った。何か、この男の中で何らかのスイッチが入った。
神経質な白人男性と言う風貌からは察し得ない、冷たさを感じた。

「君が先ほど連絡していたところがどこなのか、私には分かっている。連合だね?」
「ええ、その通りです。」
「今がどう言った事態なのかは君にもよく理解できている筈だ、違うかな」
「もちろん、私は理解しています。それが、何か」

マクリーンの、眼鏡の奥の瞳が私を射抜いた。
私はそれを見つめ返す、私と同じ青い目。だがそこには、何者も写り込んでいないように思われた。

「連合の排撃班の女がこのサイトの医療棟にいて、治療を必要としている。残念だが、それは認められない」

────きっとこの男は、私が次にどう答えるか、どう反応するかも分かっているのだろう。

だがそれでも、私は口を開いた。

「何故ですか?そもそも彼らは、条約軍に基づいて組織された財団と連合の混成分隊です。条約軍が有効なうちは、我々は彼女を助ける必要がある。だからこそ、捜索救難チームは彼女をサイト-8100に収容したのです」

私は慎重に言葉を選びつつ、続ける。

「それに、彼女が助かれば、連合側の心証も良くなる筈です。今後の交渉にも良い影響を与えます」

マクリーンは、小さくため息をついたように見えた。

「君は排撃班というものの存在を分かっていない。あれはたった一人でも多くの仕事をする、例えば情報の奪取などにも十全な働きを見せる。だから本来、ああ言ったものをサイトに入れてはならないのだよ」

「しかし、その排撃班員は今現在意識不明の重体です。それが、どれほどの事をすると」

「君は知らないかもしれないが、私はこのサイトの状況を常時モニタしていた。そして、サイト内部のメトカーフ非実体反射装置に不審な反応があったのだ。ごくわずかな反応だが、“それ”は装置を通り抜けていた」

それは私にとって寝耳に水という発言だった。この日本支部の中枢ともいうべきサイトに、霊的異常実体が?
これほどまでに厳重に管理されたサイトの中を、目に見えない幽霊spookが動き回っている?

「それは、一体何なのですか?」
「連合はオカルト技術の見本市だ。そして、排撃班員は時に自らの精神を霊体的に投射し、自由に活動する」
「排撃班員が、霊体となってサイト内を移動しているというのですか?」
「そうだ。幸い、我々にはnPDN霊体実体化装置がある。例え霊体放射だろうと、実体化して捕らえる事は可能だ。実際、かの霊体は記録保管庫に侵入した形跡はない……だが、我々はあれを止める必要がある」

“止める”。それはつまり、排撃班員の生命活動をも止める事を意味する。

幽霊spookには間諜spookを。だから今、連合の人間に来られては困る。排撃班員が蘇生され連合側に回収されれば、情報侵害の証拠が連合側に渡ってしまう」

「このまま泳がせて、霊体固定化装置で捕らえればいいのでは?」
「霊体は自身を希薄化させ、身を隠している。捕らえるのには時間がかかる」
「私に、どうせよというのですか?」
「言うまでもない。連合側に再度連絡してくれればいい、かの排撃班員は既に死亡したと」
「できません、組織間の信義はどうなるのですか?」
「この暗く冷たい世界で、信義などと言うものが存在すると思っているのかね?」

マクリーンの目が私を見た。

だがその目には、何も写っていないように思えた。
あの瞳を覗き込んで、私はこの男の正体を悟ったような気がした。

この男の視界に、人間はいない。人間というものを一つの情報単位として微分し切った結果のみがある。
だから、この男の視界に私はいないのだ。ただそこには、私から読み取れる解のみがあるのだ。

だが、私はそれでも、マクリーンの瞳を見つめ返す。
青い虚ろの向こうに、この男の人間的な部分を探すほかない。

「私は外交官です。今まで幾度となく組織間交渉に身を投じ、そのいくつかを成功させてきました。マクリーン、あなたの行為はこの非常時に於いて、組織間の混乱をもたらすものでしかない」

「聞きたまえ。我々のような正常性維持機関の人間は、言うなれば皆が孤児みなしごだ。この世界は無情極まる。物理法則を無視するオブジェクトの群、それは人類が積み上げてきた営為を引きちぎり、粉微塵に踏み潰す」

「それは私も承知の上です、我々は薄氷の上に立っている」

「我々はオブジェクトを暗闇の中に押しとどめる。そして我々の情報もまた、等しく暗闇の中に留められねばならない。漏れた情報の一つが、世界の破局に繋がり得る。サイト-8100の情報もまた例外ではない」

「しかし、情報的な損害は軽微です。霊体を固定化した上で、排撃班員を尋問し、連合側に送り返せば」
「だが、君と私が知らない何かを、かの幽霊spookが見つけ出していたとしたらどうかね」
「バカな……あなたにこのサイトで知らぬ事などないはずだ」

────嘘だ、この男は嘘を言っている。
私はそのように信じたかった。

「財団のNeed to knowの原則を甘く見てはいけない。十二分にあり得る話だ」

私は、自らの足元に破局の種が埋まっている可能性を検討する。
それは、この財団という組織に於いて、警戒すべき事実でもあった。

────もしも、それが事実なら。

だが私は恐怖を振り払った。
立ち向かうべきは見えない恐怖ではない、この男だ。

「マクリーン、あなたは自身の職務を、財団の全任務に拡大してものを言っているだけです」

マクリーンは、自らの足元を這い回る鼠を許すつもりはないだろう。
この男は、防諜カウンターインテリジェンスに狂信者のごとき信仰を持っている。

だから彼は、財団を侵犯するものを、容赦無く叩き潰す。
理由は明白だ。彼はただ、そうしたいからそうするのだ。

「あなたは連合側に証拠の書類と、排撃班員の死体を突き返すつもりなのでしょう?」

一つの死体は数多くの事実を雄弁に語る。
それは、連合に対する警告となり得るだろう。

「ですが、それは認められません。JAGPATO条約軍が有効な今、我々が重視するべきは組織間の信義です。ここは戦場ではない。そこで不審な死があれば、追い詰められるのは我々の方です」

「アイランズ外交官、私は君の言う信義が裏切られるその現場を幾度となく見てきた。事実、それは裏切られ続けている。元政治局長が何をしていたか、財団日本支部一号理事が何をしていたか、知らぬわけではあるまい」

「それは……」

「君はこのオフィスに何時間いる?この大量の書類と共に君をここに追い詰めている原因、それは財団に対する裏切り行為を働いたものたちがいたからだ。その延長線上に、君は取り残されている」

それは、確かな事実だった。裏切り行為さえなければ、私はここにこうしてはいない。

「今ここにある全てが、信義の不在を証明している。私から言えるのは、これだけだ」

私はマクリーンの目を見つめ続ける。この男に人間的な要素など見つけることができなかった。
そして、私は今行なっている仕事について考えざるを得ない。

ここでマクリーンの要請を蹴れば、内部保安部門からの協力を得ることは難しくなる。
そうなれば、私はここで書類と共に日を送るだろう。できるはずだった交渉も、頓挫するだろう。

「私も君も、仕事を終えねばならない。そのためには、不安要素は1つでも除去せねばならない」

そして今、サイト-8100内で情報漏洩が発生した可能性がある。
これを看過したとなれば、私もまた、収容所に送られるだろう。

「さあ、外交官。君の権限に於いて必要な決済だ、連合に電話をかけたまえ」

そして私は言葉もなく、受話器手を手に取った。


その後、マクリーンは去った。渉外部門渉外政策局への協力を約束した上で。

私は息急き切ってここへやってきた戦闘捜索救難チームの隊員を思う。
そして、朗報を待って手術に望んでいる医師たちを思った。

────これは、裏切りなのだろう。組織人としても、人間的な意味でも。

私は冷え切ったマグカップの水面を見つめている。
それはもはやコーヒーではなく、冷え切った黒く冷たい液体だ。

こうしている間にも、排撃班員の体から、命と熱が失われていくだろう。
いや、それはもはや、既に失われた後なのかもしれなかった。


PM 22:30 サイト-8100 医療棟 財団CSAR戦闘捜索救難チーム 医療担当 西園寺眞子さいおんじまこ

私たちは状況を再確認する。患者のバイタルは今この瞬間にも徐々に低下している。
バイタルサインを示す電子音が、患者の奏でる最後の音楽となるだろう。
そして、その音はいつか消える。彼女の最後の音楽が、消えていく。

「別のチャンネルを使う手段はないんですか?紀尾井町には、連合のスタッフが」

私は諦めきれず、もう一つの手段を口にする。

「駄目だわ。今このサイト-8100は情報保全のため、レベル3の警戒態勢に入ってる。今ここで紀尾井町に連絡を取ったとしても、連合の人員はサイトに入ることができないようになってる」

「そんな……」
「残念だけど」

その時、背後で大きな物音がした。
そこには、横田隊員がいた。


PM 22:32 サイト-8100 医療棟 臨時混成分隊- つぶら隊員 横田███

俺は何か恐ろしい事が起きているように思えた、それが何なのかはわからない。
だが、医者たちが隣室へ行ったきり戻ってこない事が気にかかった。
俺に鎮静剤を打つ事なく、それでも医者たちは戻ってこなかった。

俺は意を決し、ベッドから這い出る事にした。

体に繋がっている輸血用チューブを強引に引き抜き、床に倒れこむ。
そして、匍匐の体勢で床を這い進む。体のあちこちから血が流れ出すが、気にする必要はない。

目の前にドアがあった、這った状態ではドアを開けられない。
俺は壁に手を当てつつ、無理矢理に体を直立させる。

全身から汗と血が吹き出すが、構わず手のひらを壁に張り付かせる。
壁に体重を預けつつ、体を少しずつ直立させる。白い壁には、血がこびりつく。
俺はどうにか体を直立させると、そのままドアに向かって倒れ込んだ。

ドアは運よく奥開きのものだったらしい、ドアが開き、俺は床に倒れた。
女医たちの声が聞こえる。

「別のチャンネルを使う手段はないんですか?紀尾井町には、連合のスタッフが」
「駄目だわ。今このサイト-8100は情報保全のため、レベル3の警戒態勢に入ってる。今ここで紀尾井町に連絡を取ったとしても、連合の人員はサイトに入ることができないようになってる」
「そんな……」
「残念だけど」

「おい、どういう事だ?」

俺はどうにか声を張り上げ、女医たちに尋ねた。
何か、恐ろしい事が起きつつある。

「横田さん!?」

女医の一人が、声を上げた。

「あんた、何やってるの!動いたら殺すと言ったわよね!どうしてベッドから降りたの!」
もう一人の女医が、俺に駆け寄ってくる。顔には、怒りの形相を浮かべていた。

「今からあんたをベッドに戻すわ、動かないで」
「待て、聞いたぞ。あの女は助からない、のか」

女医たちは顔を見合わせた、そして二人とも押し黙っていた。

「何が起きているんだ?俺たちは財団と連合の混成分隊だ、あんたはそいつを救う必要がある」
「無駄よ、諦めなさい。これからあんたをベッドに戻す。眞子、手を貸して」

俺はバイタルサインの音を聴いた。

「何が起きているのか、俺にも分かっているよ先生。自殺装置デス・スイッチだろ?そいつを止めなきゃいけないんだろ?俺にだって、それくらいの事はわかる」

医者にカマをかける事にした、ここまでは、俺にとっても予想の範疇だった。
だが、それ以上の事が起きている。俺はそれを知る必要があった。

「ええ、その通り。そして、この子は霊体投射でサイト内を歩き回ってる。このまま放置すれば、情報漏洩は確実。だから、上の連中はこの子を見殺しにする事に決めたのよ」

なるほどな、と俺はようやく状況を把握した。

「今私たちに必要なのは、助かる人間だけを助けること。それだけよ」
「あ、あんたたちは医者だろう?医者ならこいつを助ける義務がある」
「彼女は覚悟の上で霊体投射を行った。私たちにできるのは、彼女のバイタルが0になるまで待つだけ」

恐ろしい事が起きている、それは事実だった。
俺と“蛍雪”、どちらも財団と連合という巨人の肩の上に乗った存在だ。
そして、巨人同士が“蛍雪”を死なせる事に決めたのだ。

俺は意を決して口を開いた。

「クソ喰らえだ。あんたも、上の連中も間違ってる」

俺の言葉を受け、女医の表情はさらに険しいものになった。

「あんたがそこまでする必要があるの?惚れた弱みでもあったの?いい加減になさい!」
「繰り返し言うぞ、俺たちは財団と連合の混成分隊だ。俺は同僚の命を救う義務がある」

俺は腰のホルスターから拳銃を抜き、それを自分自身に向けた。

「あの女は心臓に損傷を負ってる。なら、俺の心臓を使え」
「あんた、何を────」

「俺は知ってるんだ、自殺装置は概ね心臓に設置されている。それなら、心臓ごと取り替えればいい」
「やめなさい!それに、自殺装置が具体的に何で、どこに設置されているか、私たちにはわからない」
「なぜそれがわかるんだ?そんな事、やってみなくちゃ分からないだろう?」

あ────

俺はそこで、もう一人の女医が声を漏らすのを聞いた。


PM 22:35 サイト-8100 医療棟 財団CSAR戦闘捜索救難チーム 医療担当 西園寺眞子さいおんじまこ

「天宮さん、横田隊員の提案は私たちにとって考慮すべきものかもしれません。それ、いいかも」
「眞子、あんた何言ってるの?」
「私たちはちょっとした思い違いをしていたかもしれません」

ちょっとした閃きが頭の中に浮かぶ。そして、その閃きは現在の状況に結びつく。

────うん、悪くない。これなら説明がつく。

「もういい、こいつをベッドに戻す。鎮静剤は私が打つ、あんたは手を貸して」
「待って、説明しますから」
「ああもう、どいつもこいつも────いいわ、手短にお願い」
「ありがとうございます。端的に言えば、自殺装置は“心臓そのもの”である可能性が考えられます」

自殺装置、それは確かに私たちにとって謎の多い代物だ。しかし、今回の場合、自殺装置は即効性のものではない可能性が非常に高い。そしてその設置場所がどこなのかも分からない。でも、視点を変えてみたらどうだろう?

「方法はわかりませんが、患者のバイタルを徐々に低下させると言う事が可能なのは、心臓の脈動運動に直結します。それが少しずつ弱まっていると言う事であれば、おそらく連合は、患者の心臓に何らかの細工を施しているんです。それが呪術的な何かなのかはわかりません。でも、これなら説明がつきます」

「つまり、あんたはこう言いたいのね。心臓そのものを取り替えれば、患者のバイタルは安定すると。でも、横田こいつはどうするつもり?」

「機械式の埋め込み型人工心臓があります。臓器の提供元にはそれを移植すればいい」
「助けた後に、患者が殺害される可能性は?公式には、もう患者は死んだ事になってるのよ?」

それは、今の状況を考慮すれば十二分に考えられる事だった。
第一に、私たちがやろうとしている事は財団規則に触れる行為でもある。
そして、今このサイトにはマクリーンがいる。

────露見すれば、私も天宮さんも、いや、捜索救難チーム全員が収容所送りになる。

「眞子、妙な事は考えないで。サイトが閉鎖状態である以上、どこも危険だわ」

今私が考えている事は、多くの人を危険に晒すかもしれない。
それは許される事だろうか?組織内に於いては身勝手を通り越した行動に違いない。

でも、私たちは財団職員である以前に医者だ。そして助けるべき患者ががここにいる。
幸い、患者を助ける方法は既に見つけた。そして、私たちが手を伸ばせば命まで届く。

────本当に、因果な商売だ。

「マクリーンのSIGINT部隊がサイト中を監視してるわ、すぐに察知される。やめるべきよ」
「わかってます。でも天宮さん、それで納得できます?」
「納得?納得ですって?あたしが納得しているとでも?でも、私たちは規則に従う必要がある」
「ええ、私も納得できません。彼女は治療して送り返すべきです」

天宮さんは、しばらく目を閉じて考えていたようだった。
彼女はほんの数秒、低下していくバイタルサインを聴いていたように思えた。

「いいわ、やりましょう」

私は天宮さんに、頷いた。
これで私たちは一線を越える。失敗しても成功しても、命はないかもしれない。

「それで、何か考えはある?」
「誰か一人、抱き込むしかありません。機械式人工心臓の確保も必要です」
「それなら一人、アテがある。やってみましょう」

そして、天宮さんは横田隊員を見つつ言い放った。

「命を賭けてもらうわ、異存はないわね?」

その言葉を聴いて、横田隊員は拳銃を下ろした。


PM 22:37 サイト-8100 渉外部門渉外政策局総合オフィス ジョシュア・アイランズ外交官

電話が鳴った、私はそれを取る。相手先は連合だろうか、だとするならば隊員の安否の再確認か。
もしそうなのであれば、私は彼らに対して巧妙な嘘をつかねばならない。
しかし電話の相手は、私にとって予想していなかった人物だった。

「戦闘捜索救難の天宮よ。アイランズ外交官、今から私の言うことを聞きなさい」
「ドクター天宮、それは一体……」
「あんた、日和ったわね?相手がマクリーンなら無理もないけど、本当にそれでいいの?」
「それは……」

私にとって、それは手痛い一撃だった。確かにそうだ、私は自らの職責と人命を秤にかけた。
そして、私はその結果、彼女を死なせる事を決断したのだ。私にとっては最適の判断だった。

だが、その判断は最適であっても最良と言えるだろうか?

「いい?時間がないから良く聞きなさい。まず、サイト-8100の資材保管庫から人工心臓を一基調達して医療棟へ。それから、こちらの処置が完了した後、連合に連絡を取りなさい。“遺体の回収”を依頼するの、いいわね?」

「あなたは、一体何を?」
「いいから言う事を聞きなさい!あんたの信義が試されているのよ」
「私は────」


AM 00:00 サイト-8100 搬出口 ジョシュア・アイランズ外交官

エレベーターのドアが開いた。
白いシーツを被せられたストレッチャーがエレベーターを抜け、駐車場へと滑り出る。
私は、その様子をただ見ていた。連合の輸送車は、既に到着していた。

輸送車のサイドドアが開き、スーツを着た黒髪の男が一人、アスファルトの上へと降り立った。

私はこの男を見て、全身が総毛立つ気分がした。この男は、ただの外交官ではない。

男は私を視界の中に捉えると、ゆっくりと歩み寄って来た。

「ミスター・アイランズ。私は世界オカルト連合極東部門精神PSYCHE部門の、曲水ごくすいと申します」

「なっ……」

連合極東部門の支柱を成す男、それがこの、曲水ごくすいという男だった。
財団に於ける掟を熟知し執行するのがマクリーンなら、連合極東部門に於いてはこの男がそれだ。
言ってしまえば、彼は財団日本支部に於ける主要敵プリンシパル・アドヴァーサリーなのだ。

その彼が、私の目の前になんの警戒心もなくその姿を晒している。
影武者の可能性もあるだろう、何にせよ、“遺体”の引き取り手は彼である事は確かだった。

「ミスター・アイランズ、今回の事は残念でした」
「いいえ、我々の力不足でした。財団を代表して、謝罪いたします」

私は深々と頭を下げた、それを、曲水は笑みを浮かべて受け流した。

「いいえ、お陰で手間が省けたというものです。では、遺体はこちらに」

私が頷くと、天宮と西園寺が、ストレッチャーを輸送車の方へと押し出す。

輸送車のバックドアが開き、連合のエージェントが、“遺体”が載ったストレッチャーを車内に運びこむ。
その時、私は背筋に悪寒を覚えた。曲水がこちらを見ている、否、私の背後に居る誰かを見ている。

私は思わず背後を振り返る。そこには、マクリーンが居た。

「ご機嫌よう、ミスター・曲水。こんなところで遺体の引き取りとは、随分と念の入った仕事ぶりだね」
「ご機嫌よう、ミスター・マクリーン。死体の出迎えとは、痛み入ります」

二人の男は、ストレッチャーを挟んで笑顔を交わしていた。
彼らはお互いを主要敵と見做している。それゆえに、彼らの間に憎悪は不要だった。
彼らは相手の弱みを握るために大量の情報を検索し、あたりをつけ、背後に回ろうとする。

だからこそ、ここは彼らの戦いの場ではない。
ただ彼らはここで睨み合い、互いの優勢を誇示している。

「私はそれが、本当の遺体であるかどうかを確認していない。もしよければ、確認させてくれないかね?」
「残念ですが、それはできません。そもそも、彼女が死んだと連絡をして来たのは財団あなたがたです」

二人は穏やかな笑みを交わしている。

この間にどのような逡巡と攻防が展開されたのか、私にはうかがい知ることができない。

「それもそうですな。ミスター曲水、今回は誠に残念でした」
「ええ、私も残念です。財団の方々にはご尽力頂きましたが、どうやら彼女の命数はここまでのようです」
「本当に残念です、本当に」
「ええ。それでは、ミスター・マクリーン。私は彼女を同志の元に送らねばなりません」
「承知しています。では、ご機嫌よう」

曲水はそう言うと、エージェントに合図をした。
“遺体”は車に運び込まれ、曲水は車に乗り込み、そして輸送車は走り去って行った。

それから、そこには私と、天宮医師、西園寺医師、そしてマクリーンが残された。

「君たちの職務に対する熱意のほどは理解できた、君たちは忠実だ。殊更職務に対してね」

マクリーンは私たちを見据えてこう言い放った。

「光栄ですわ、マクリーン。私たちはするべき事をしただけです」

天宮医師の目には、静かな炎が宿っているように見えた。

「そうだな。そして君たちは、職務に忠実なあまり、重要な事を見失ったのでは?」

マクリーンはあの目で、私たちを見据えた。何者も写っていないような、あの目で。
私たちはもう、彼にとっては存在しないのかもしれない。

私は旧ソ連の、独裁者の写真を想起する。
かつてその傍に写っていた士官は、フィルムから抹消された。

彼はやろうと思えば、記憶のフィルムから私たちを消し去ることができるだろう。
財団の全記録からも、多くの人々の記憶からも。私たちは存在しなくなるだろう。

「あたしたちを消したいならやりなさい!とっくに覚悟はできてる!」
「ちょ、ちょっと!天宮さん、待ってください」

慌てた西園寺が、天宮を止めに入った。

「君たちは財団の規則に違反した。君たちがそれに自覚的であるか否かは関係ない。追って処分が降るだろう」

マクリーンは、私たちを見つめながら言う。あの虚ろな瞳で。

「待ってください、マクリーン。我々はどのような違反を犯したのか、それをお聞かせ願いたい」

私は、マクリーンに問いかける。この際、どうなろうとも構わないという気分だった。

「言うまでもなく、サイトの情報漏洩に対する荷担だ。これは君たちが思っているほど軽くはない」

「しかし、あなたはサイト内の警備状況を全体的に把握していた筈だ。霊体が希薄化していたとあなたは言ったが、それでも霊体の移動先を察知する事はできた筈だ。なぜそこで、霊体を捕らえなかったのですか?」

マクリーンの瞳の奥に、奇妙な光が宿った。
それも当然だろう。私はあろうことか、彼に正面から抗弁したのだから。

「つまり、君は私にも落ち度がある、そう言いたいのかね?」
「その通りです。あなたはやるべきことをせず、ただ排撃班員が死ぬに任せた」
「仮にそうだったとしても、君たちの規則違反は消しようのない事実だ」
「いいえ。それならば、あなたの罪の方が重い」
「ほう、聞かせてもらおうか」

私は大きく息を吸い込み、言葉を続けた。

「この二人は排撃班員の命を救いました、連合側は彼らに感謝するでしょう。しかし、あなたは捜索救難チームの救命行動を助ける事はせず、それを妨害するよう私に命じた。もし、この二人を収容所送りにするならば、連合側から痛烈なアクションがある筈です。その時、あなたはJAGPATO調停裁判所の被告席に立つ事になる」

私は、そこまで言い切った。息が切れそうだった。
マクリーンは私を見ていた、その表情には笑みが浮かんでいる。

「見事だ、アイランズ外交官。私を脅して見せるとはな……確かに君の言う通り、かの排撃班員の抵抗は大したものではなかったとも。恐らく、情報漏洩についても些細なものに収まった筈だ。だが、君たちの行動が、財団の規則を逸脱したものであると言う事は変わりない……そこで、君たちに尋ねたいことがある」

再び、マクリーンは私たちを見た。

「知恵ある者のケテルはその知恵である、愚かな者の花の冠はただ愚かさである。君たちはどちらだ?」

マクリーンの声が、重々しく響いた。それが私には、死刑宣告のように聞こえた。

「聖書の箴言?笑わせないで!どの口がそれを言うのよ!」
「天宮さん、待って。これ以上はまずいです」
「西園寺医師、君はどうだ?」

突然名前を呼ばれた西園寺は、一瞬、きょとんとした顔をした。
そして、彼女は笑みを浮かべてマクリーンを見据えつつ、答えた。

「まことの証人は人の命を救う、偽りを吐く者は裏切者である。私も、天宮さんも、アイランズ外交官も、みんな職責を果たすために全力を尽くしました。全ては命を救うためです、そこに偽りなんてありません」

マクリーンは西園寺から視線を外すと、誰に言うでもなく呟いた。

「天宮医師と西園寺医師、君たち捜索救難チームは少し、遠い場所に行ってもらう事になるだろう。アイランズ外交官、君は今後しばらく監視対象となる。人事考査にもそれなりの失点がつく事を覚悟したまえ」

そして、マクリーンは静かに踵を返した。

「いいかね?二度目はない」

そう呟くと、彼はエレベーターで地下へと潜って行った。
まだもぐらを狩るつもりなのか、恐らくはそうなのだろう。

そして私たちは、どうにか一命をとりとめたようだった。

西園寺医師は、床にぺたり、と尻餅を付いていた。
それを、天宮医師が助け起こしている。

私は、地下へと潜って行ったマクリーンを想起する。

「しかし、誰が見張りを見張るのか?」

私の微かな呟きは、大気の中に小さく溶けて消えた。


三週間後

PM10:00 サイト-8100 医療棟 臨時混成分隊- つぶら隊員 横田███

また、夢を見ていたと思う。何の夢なのかは、わからない。
俺はベッドに横たわり、ただただ天井を眺めていた。

あの日、俺は死を覚悟した。だが、意外にも、俺は一命をとりとめた。
そして目覚めてすぐ、ナースコールを行った。そこに、天宮と、西園寺と言う女医が来た。

そして、俺に手術の結果を伝えた。

結論から言えば、俺の心臓は問題なく、“蛍雪”の身体に移植された。
“蛍雪”のバイタルは安定し、彼女は一命をとりとめたそうだ。

サイト内の警戒態勢は解除され、そこに連合のエージェントが訪れた。
“蛍雪”は回収され、連合のベースへと移送された。

そして俺は、機械の心臓を得ることになった。自分でも、なぜこうしたのかはわからない。
ひとまず、この新しい心臓をこの身体に適合させねばならないだろう。

医者の話によれば、数週間ほどの安静とリハビリを行えば、以前のように動けるようになるそうだ。
あと数日は安静が必要で、ベッドから離れる事はできない。だから俺はただ、天井を見つめていた。

すると、病室のドアが開いた。入って来たのは、スーツにスカート姿の女だった。
顔は紙のように白く、黒髪をラフなポニーテールにまとめた、生気を感じさせない女。

「“蛍雪”……」
「久しぶりですね」

その口調は、久闊を叙すと言うような、温かみのあるものではなかった。
俺はと言えば、ベッドに横たわりながら、あの女の瞳を見つめる他ない。

どこまでも黒い瞳、あの時と変わらない。

「お前、もう動けるようになったのか?」
「お陰様で。連合の超常医療は驚くほど進んでいるんです……ここなら盗聴器もない、ゆっくりお話ができますね」
「あんたには、それが分かるのか?」
「分かるからこそ、ここに来ました。あなたに、話したい事があったから」

淡々とした喋り方、涼やかな、だが活力など感じさせぬ死人のような声。

「あんたに、雑談の趣味があるとは思わなかったよ」
「日常会話なら私もします、あなたが財団の人だから話も弾まなかった。ただそれだけです」

やはりこうだ、この女は万事この調子だ。だが、それが今だけは良い事のように思えた。

「結論から言います、あなたは私を助けるべきではありませんでした」

“蛍雪”の黒い瞳が、俺を刺し貫く。なんだ、この女は何を言っている?

「私は連合のベースで意識を取り戻した後に、ここで何が起きていたのかを知りました。どうやら、財団側の警戒網も、甘くないようですね。でも結果的に、あなたたちの情報を持ち帰る事ができました」

「お前……じゃあ、上の奴らの判断は間違ってなかったって言うのか?」
「そうです。だから、あなたは私を助けるべきではなかった」
「あんたは凶状持ちってわけか。そんな奴が、どうしてここまで入ってこれた?」
「混成分隊は現在も有効、それは財団と連合の合意の上に成り立っている。許可証さえあれば入る事はできます。それに、あなたたちは私の行動を完全に捕捉できず、私の犯行を立証する事もできてはいません」

財団は連合をこそ、もっとも警戒し、あるいは信頼すべき相手と見ている。
連合も同じだ。だがそれは、利用しあい、あるいは盾にするべき相手でしかないと言う事か。
分かっている筈だった、所詮俺たちは敵同士なのだと。だがそれを、俺は無意識に拒否し続けた。

「俺たちは、あんたを助けるためにできる限りの事をした」
「ええ。あなたたちの熱意には頭が下がる思いです、本当にありがとう。でも、そうするべきじゃなかった」

俺の意識は、あの時の深く、暗く、冷たい海に戻っていた。
俺は確かに同僚を助けた筈だった。だが、違ったのだ。

俺は初めからあの暗い海に一人、取り残されていた。
この女もそうなのだろう、最初からお互い一人だったのだ。

しかし、それでも俺は、問わずにいられなかった。

「なら、ならなんで、お前はあの時俺を助けたんだ?」
「私たちは連合と財団の混成分隊。そして私は命令を受けた。ただ、それだけです」

俺はこの女の瞳を見つめ返す、そこには俺が写っているだろうか。

そもそもこの女は、俺を見ていたのか。きっと、そうではなかったのだろう。
生き延びるために全てを利用する。それは俺たち財団機動部隊も、同じ事だ。

「なのに、あなたは私を助けた。自分の心臓を他人に与える事までした。どうして?」
「それは────」

俺はその問いに答える事ができない。

あの時、あの暗く冷たい海に、この女を捨てて一人生き延びなかったのは何故なのか。
この女に心臓を捧げ、医師たちに命令違反のリスクまで犯させて、俺は何故この女を。

俺の沈黙はどれほど続いたのか、俺には思い出す事ができない。
それは1分程度にも思え、あるいは永遠に続くとも思われた。
俺はただ一人、暗い海を漂っている。助けは来ない。
ただ冷たい海面を、あの女の言葉が風のように吹き渡っている。

「可哀想な人。自分が何をしているか、あなたには分かっていないのね」

俺は口を噤み続ける、“蛍雪”の哀れみにも、答えを返す事はない。

「私たち混成分隊は、継続されます。新たに人員を拡充し、再編成されます。あなたも体調が戻り次第、分隊に復帰するでしょう。でも、それは仮初めの事。いつか私たちは、再び敵と味方に別れる事になる」

そこで“蛍雪”は姿勢をかがめ、その生気のない顔を、俺に近づけた。

「それでも私はあなたに借りがある。あなたの心臓は私の中にある。これはきっと、何かが間違っている」

────違う。

俺は叫び出したかった。俺は、お前を助けるためにそうした。
命を賭けて心臓を差し出したんだ。だが、俺の叫びは心の中で微かな囁きとなり、消えていった。

「もし私たちが敵と味方に別れたら、あなたは私の心臓を撃ち抜きなさい」

俺は暗く冷たい海の中でもがいている、血が体を伝い、体温は失われてゆく。

「どうしてだ?」

どうして。俺はようやく、その問いを放つことができた。
ただ、その一言だけを。

「あなたの心臓はあなたのもの、それを取り返しなさい。もしもあなたが遅れたら、私はあなたの頭部を容赦無く撃ち抜く。あなたの心臓は、もうあなたの中にはないのだから」

────また、会いましょう。

“蛍雪”はそう告げると、病室を出ていった。俺は一人病室に残された。
暗く冷たい海の中に一人取り残されながら、俺は決意した。

あの女だけは、必ず俺が殺す。

それだけが、あの女が俺に望んだ唯一の事柄なのだから。
それだけが、あの女が俺に手渡した唯一の許可証ライセンスなのだ。

それはただ一つ、非情と言う名の。

光一つない暗く冷たい海の中、俺は静かに目を閉じた。

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