特異敵対事例026-111:作戦名"嚥下"
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それは少女の叫び声から始まった。
毛布をはね除け、頭を抱えて小刻みに肩を震わせるその姿は、蛇を前にしたネズミの如く怯えているように見えた。
そのあらん限りの絶叫に肝を潰した警備担当は、支柱をへし折らんばかりに椅子の背もたれに押し付けていた背中を弾くように浮かせると、硬化ガラス越しに少女の様子を覗き見た。
少女は更に深く、深く頭を抱える。ガラス越しであっても、彼女が荒く息をつき、全身から熱い汗を吹き出しているのが見てとれた。
少女の恐怖、困惑、忌避の念がありありと伝わってくる。彼女を知る者にとってそれらは常識的な光景だった。恐怖と絶望の日々。誰もがそれを知っていた。
だが、警備員は気付いただろうか。今回の少女の姿に、これまでとは異なった感情が秘められている事に。蹲り、縮こまる矮小な姿とは裏腹に、その内に暗黒の激情が渦巻きつつある事に。
その事に早く気付いていれば、彼はそれを目撃する前に受話器を手に取れたかもしれない。
だが、遅過ぎた。"それ"の始まりを目撃してしまった彼は、あまりの衝撃に一切の動作と思考を停止させてしまった。

少女の姿が緑に滲む。少女の全身から吹き出る汗が、暗い緑色の粘液へと変貌していく。それは流れ落ちず彼女の皮膚に堆積し、更に自らを増殖させる。
湧き出て、変化し、増殖する。そして繰り返す。緑色の粘液は瞬く間に少女の全身を鎧のように覆い尽くした。だが増殖はそこで留まる事無く、更にその塊を巨大にしていく。
塊は、やがて全体の粘液の流れを操り、形を作り始めた。山羊の如き足、猿の如き胴と腕に、刃の如き爪、狼の如き頭。粘液は形を成すと一瞬の内に凝固し形状を固定する。粘液のヒダは波の如き文様の羽毛へと変化し全身を覆い、両眼の空洞には少女の燃えるような瞳が覗いた。
それは、まさに獣だった。呪われた獣そのものの姿だった。

明らかに元の少女のものではない、腹の底にまで響く竜のような咆哮と共に、それはたやすく収容壁を突き破った。
そこでようやく、警備員は全身から冷や汗を迸らせながらも受話器を掴み上げる事が出来た。


なんで俺がこんな格好しなきゃならねえんだ?
機動隊員用の機動服に身を包んだエージェント・保井は不服そうに廊下の真ん中を歩く。
同じ廊下を行き交う研究員や作業員の慌ただしさは彼の眼中には無い。彼が思うのは、収容違反が発生したからと言って何故フィールドエージェントである自分がこんなクソ煩わしい機動服を着せられて会議室に向わせられているのか、ということだけだ。
彼は今朝方、サイト-8141で収容違反に伴う区画封鎖が実行された旨の連絡を任地で受けた。その手の業務連絡は広範な活動を期待されるエージェントにとっては日常茶飯事であったが、この日はいつもと事情が違った。
彼が受け取ったのは業務連絡の他もう一つ、最優先業務命令であった。そういった業務命令そのものも別段珍しいものではなかったが「あなたは本日5:12より臨時機動部隊ヘ-33"逗留者"へと配属されました。直ちに下記の電話番号へ連絡し、当該収容部隊長の指示の下サイト-8141に急行し作戦に参加してください」等という乱暴な文面は初めて目にするものであった。
そして付記された電話番号へ連絡すると、サイト-8141の指定ロッカー内の装備を着用の上同サイトの第8会議室へ来い、との指示を受けて彼は今こうしているのである。

何をさせるつもりかは大方予想がつく。収容違反が起き、区画が閉鎖され、対処が進行中に現場に呼ばれたのだ。保井自身がそう呼ぶ「クソScip」を再収容しろ、ということなのだろう。
だが、それでフィールドエージェントである保井に声がかかったという事は、人手が不足しているか、あるいは、特殊な事情があるのだろう。
せめて、その特殊な事情の方では無い事を祈りつつ、彼は第8会議室の扉を無遠慮に開け放った。

会議室は、普段のがらりとした殺風景さを捨て去り、多くの機材と人に溢れていた。
慌てて運び込まれ、乱雑に並べられた数々の機器に、だらしなく床中に広がるコード類。
全ての機器にはそれに向かって何らかの作業なり連絡なりを行っている人員が置かれ、様々な報告と命令が常に飛び交っているようであった。
それはまさに簡易司令室の様相を呈し、そして保井は財団の会議室が何故あんなにも無駄に広く作られていたのかを知った。

「コード・保井だな?」

会議室を見回していた保井に声をかけたものがあった。中央で、5名を前に立つ老齢の偉丈夫は、その身なりと威容、そして襟章の本数からして恐らく「上官」というものに当たる人物なのだろう。
保井は、己がエージェントである事はひとまず置いておくとして、素早くその偉丈夫へと敬礼した。

「敬礼は不要だ。財団は軍事組織ではないし、"逗留者"のメンバーは全員が軍経験者という訳でもない。敬礼はかえって統制を乱すだけだ」

偉丈夫はそう言いながら歩み寄り、真剣そうな表情を全く乱さず右手を差し伸べた。保井がそれに握手で応えると、偉丈夫は自ら「黒堂だ」と名乗った。
「早速だが保井、これから今回の事例の説明と本作戦のブリーフィングを行う。ついて来てくれ」
黒堂は直ぐに中央の方へ向き直り、そこで待つ他の5名の下へと向かった。保井もその後をついて行き、5名の輪に加わる。
そしてざっと5名の表情を見比べるが、全員が防護マスクによって顔面を覆っているため、目しか見る事が出来ない。そしてその目も、間も無くゴーグルによって隠されるだろう。
彼らの目つきは一様に落ち着いており、一人一人が相当の場数を踏んで来た事を思わせたが、それにしても保井を含めて6名のみで収容違反に直接対処をするというのは、人数として少な過ぎた。
サイト-8141周辺には機動部隊の駐留所もあり、事実保井がここまで来る途中多くの機動部隊員と思しき人物とすれ違った事を考えると、人手不足による人数とも思えない。
ならば、ここにいる連中は特殊な事情によって集められた人員なのだろう。保井が危惧した通りに。

「さて、まず諸君らはある特殊な事情によって集められた。これからその特殊な事情について説明する」

黒堂が保井と同様の語彙で以て説明を開始した。6名は黒堂が手をついている卓を囲み、この騒がしさの中で黒堂の言葉を聞き逃さぬよう集中する。

「本日午前1:39、SCP-026-JPが未確認の現象を発現させ脱走した。対象は全身を未確認の物質で覆った上で、これまで見られなかった凶暴性を発現させ、サイト-8141施設と人員に対し無差別攻撃を開始したため、1:56に敵対的知的生命体と見なされ特異敵対事例宣言が当サイトの管理官により発されている。これは、オブジェクトが未知の性質を発現させるのと同時に、財団に対して攻撃的な敵対行動をとった場合に発される緊急事態宣言の一種だ。つまり、理性を失った獣が檻を破ったということだ」

SCP-026-JP。保井も報告書にざっと目を通した事のあるオブジェクトだ。
だが、これまで有害物質の生成という形でのみ損害を与え得る可能性のあった026-JPが自ら脱走し、破壊行動を取るという事態は・・・保井も初めて報告書に目を通した時には想像だに出来なかった。無論、今も実感に足る感覚は得られていない。
しかし、黒堂がおもむろに卓の中央にタブレットを置き、いくつもの画像フォルダを呼び出した事で保井は実感を得た。自分がこれから、何を相手にしなければならないのかを。

「これらが、収容を破ったSCP-026-JPを映した画像だ」

6名が同時にタブレットを覗き込む。
そこに映っているのは、3m近い体躯を持つ二足歩行の緑色の獣だった。かつての華奢な少女の面影は微塵も無く、赤く燃える瞳が、自らの手で引き裂かれる生命を見据えていた。
分厚く頑強な胴と腕は簡易隔離壁を豆腐の如く容易く砕き、人体をただの肉塊へと変える。爪と牙は鋼鉄をも貫き、強靭な脚は高性能で知られる財団のカメラを嘲笑うかのように、被写体の輪郭のブレを引き起こさせていた。

「作戦中、対象は"サラ"と呼称する。これは今回の件の関係者の氏名と重複していない名称だ。いちいちSCP-026-JPだの対象だのと呼んでいては、伝達に遅延や齟齬が発生しかねんからな」

そう述べながら、黒堂はタブレットを操作して今度は動画を呼び出した。

「"サラ"は警備員9名を含んだ31名を殺害し、第4区画に76%、第3区画に47%の損害をもたらした後区画完全封鎖用の防護壁によって第3、第4、第5区画ごと封じ込められたが、内部の観測機器は全て破壊されたため現在の状態は不明だ。その映像と生存者の証言から、"サラ"の身長は2m89cm、体重は780kg、握力は1320kg、脚力は100mをおよそ5秒で走り切る程度と試算されたが、瞬発力に於いては初速からの最高速を実現するに至っている。咬合力、背筋力、腹筋力は未知数。腕力はその力に比べて破壊対象の構造物が余りに脆すぎるため計測不能。その上、これらの数値はあくまで最低値でしかない。初期報告から"サラ"はSCP-026-JPを核とした何らかの粘性液体によって構成されていると思われる。体表は凝固しているが内部は粘液のままで、その液体圧力がこれらのパワーを生んでいると思われる。損傷は粘液の増殖によって直ちに修復されるため、直線的な攻撃の多くは無力化されると考えていい」

動画は、黒堂の言葉を裏付ける内容の映像を流していた。
警報、怒号、悲鳴、絶叫に包まれながら、獣は通りがかるもの全てを蹂躙し破壊していた。
だが画像では感じ取れなかったものが映像にはある。それは、獣の咆哮だ。
音割れを伴いながら響く咆哮はまさに獣性そのものでありながら、どこか人間的な激情──憎悪のようなものを感じさせた。怒れる獣。この表現がまさに相応しい生き物であった。

「そして、本作戦の概要に入る前に、その前提の特殊性の説明を──」
「そこは私が説明しましょう」

と、黒堂の説明を遮って輪に入って来た者がいた。灰色のスーツを着た、この場の喧噪に不釣り合いな程にこやかな雰囲気を纏った男である。
彼に話を遮られる形となった黒堂だったが、表情にも態度にも変化は一切見せず、むしろ打ち合わせたかのようにその紳士を隊員たちに紹介した。

「神山博士だ。本作戦の立案に当たって、氏からは部隊員の選抜に多大なる助言と推薦を頂いている」
「どうも、よろしくお願いします」

保井がちらりと視線を横に流すと、彼の挨拶と同時に数人の部隊員の目元に皺が寄ったのが見えた。神山博士がどういう人物なのか、彼らは知っていたのだろう。
保井はと言うと、特に気にしなかった。評判を聞いていない訳では無かったが、珍妙な財団職員の一人、としか考えていなかった。
そして神山博士自身も、特に隊員たちの反応を気にするでも無く、説明を始めた。

「SCP-026-JPは以前から井沼博士の暴挙により、対人恐怖症に罹っていました。そしてその事による健康状態の悪化は、継続した毒性物質の生産に繋がっていましたが・・・本事例は、恐らくその延長線上に存在する未知の反応に由来するものでしょう。即ち、環境または状態の変化によって既知の性質が未知の反応を示したのです」

懐から一枚の皺だらけの紙を取り出し、卓に置く神山博士。紙は、SCP-026-JP報告書を印刷したもののようだった。

「粘液はSCP-026-JPの汗が変化したものと思われますが、これまで汗から物質が生成された例はありません。体表に接触している状態で生成された例もありません。食器に乗せられていない状態で生成された例もありません。しかしこれまで観察された例は全て、SCP-026-JPにとっては受動的な生成物でした。新陳代謝の結果の排出物も、他者の手によって切り取られた組織も、SCP-026-JPが能動的に生産したものではありません。その点でオブジェクトの性質と反応はこれまで一貫したものでした。対人恐怖症となってからも、オブジェクトは人間という存在に対する広範的な漠然とした恐怖による健康の不調から、有害物質を生成していたに過ぎません」

報告書内の該当する記述にボールペンで印をつけながら解説する神山博士。黒堂は腕を組み、神妙な面持ちでそれを見下ろしている。

「しかし今回、本事例の直前に行われたメンタルセラピーによって、ある徴候が見受けられました。そこにはこう記述されています。『対象は恐怖に対する一種の慣習化を通じて自らの精神状態と向き合い、その原因を探りつつある。対象の精神が未成熟であることを考慮すると、これらは原因に対する対象の憤激または憎悪を促進する可能性がある』。つまり対象は恐怖の原因を憎悪することで、恐怖を克服しつつあったのです。その原因は、恐らく井沼博士、ひいては我々財団そのものだと考えられます。そして遂に、これまで受動的に性質を発現させてきたSCP-026-JPは、明確な対象を持った憎悪による興奮状態から身体の健康に変調を来すという無意識的能動によって性質を発現させ、より有害的、ひいては特定の対象に敵対的な物質を生成したのです。人間全体に危害を及ぼす毒物ではなく、財団に狙いを絞った敵対的毒物──つまりはこの粘液を生成し、更に自らもこの粘液の影響に曝され敵対的形態を取ったのだと思われます」

保井はついため息をつきたくなった。トラウマを抱えた怒れる十代の暴走。クソScipにかかれば、その程度の事がこれ程までの惨事を引き起こしてしまうのか、という事実に彼は心底呆れ返ったのだ。

「つまり、これは本来特異的な現象というよりも、ただ単に未知であっただけでSCP-026-JPの本来の性質を考えれば既定の現象の一つであったと考えられます。食物としては、恐らく『敵対的チーズ』と言った所でしょうか。そして、これからが本題なのですが──皆さん、既にお気付きかと思います」

神山博士の言葉に、保井は更なる嫌な予感を得た。
この機動服を着た時点で気にはなっていたものの「後で支給されるだろう」と捨て置いていた事実。それが頭をもたげたのだ。

「皆さんには本事例の対象SCP-026-JP-Unn、本作戦通称"サラ"を鎮圧して頂くのですが、今回殺傷能力を持った武装の使用は一切禁止されます」

思わず呼吸を止めたのは、保井だけでは無かった。黒堂は渋い顔で目を閉じるだけであったが、隊員たちの多くは息を呑んだ。

「"サラ"に対する攻撃の多くは無力化されますが、それでも理論上全ての攻撃から確実にSCP-026-JPを防護する訳ではありません。そして"サラ"の核であるSCP-026-JPに対する損傷は、生成物の有害性の増進と、更なる有害な排出物の生成を招きます。よって殺傷力のある武装を使用しての鎮圧は、かえって更なるセキュリティ違反を誘発する恐れがあります」

隊員たちに割り当てられた機動服には武装が全く存在しなかったばかりか、着替える前のボディチェックにより、彼ら自身が予め所持していた武器も全て没収されていたのだ。
"サラ"に傷を負わせる事に多大なリスクが付随するのは承知しているが、それでも丸腰であれの前に放り出されるというのは、最早ただの殺人に他ならないようにも思えた。
しかし、これは最優先業務命令。拒否という選択肢は存在しない。拒否した所で、首根っこを掴まれて簡易記憶処理を施された上で現場に無理矢理押し出されるだけである。

「特殊な事情って、そういう事ですか」

隊員の一人が遂に声を上げた。年若い、男の声だった。

「ええ、そう言う事です。だから私はあなた達を推薦しました。武装を前提とした戦術に長けた機動部隊では"サラ"に対処出来ません。人海戦術も、徒に被害を拡大するだけでなく予想外にSCP-026-JPが損傷を受けてしまう可能性を高めるだけです。ですので、エージェントであるあなた達が相応しいのです」

常に恵まれた装備と十分な人員を揃えて対処に当たる機動部隊よりも、不安定な装備に不確定の情報と人員で当たらねばならない事が日常的であるエージェントの方が、非武装時のイレギュラーな事態に対応しやすいだろう。
理屈は分かってはいるのだが、それよりも彼らは、彼ら自身が全員エージェントであるのを今初めて知った事に驚いていた。

「あなた達は過去の実績から、特にイレギュラーな事態への対応力、そして生存能力が高いと判断された人員です。保井、大月、浜寺、西成、D、コールマン。以上6名、全員の生還を祈っています」

神山博士はそう結ぶと一歩退き、代わりに黒堂が歩み出た。

「この時点で、質問のある者はいるか?」

直ぐさま手を上げた者がいた。黒堂がそちらに視線を送ると、その者は重篤な訛りを患った猫のような声を撒き散らした。
「黒堂さんよォ、"サラ"を区画に閉じ込めたってんなら、それで収容って事にすりゃァいんじゃねェかい?」
「区画封鎖による封じ込めは一時的なものだ。この状態が継続された場合、SCP-026-JPの飢餓または栄養バランスの偏重による健康状態の悪化が"サラ"の強力化を招く可能性がある。そうなれば区画封鎖用の隔離壁とて保たんだろう。そうなる前に、確保し、鎮静化させなければならない」
「・・・なんとマァ」

時間をかければかける程、厄介な事態になっていく。だからこそ、十分な人数と準備が揃う前に作戦を実行しなければならないのだろう。
こちらが万全の状態を整えた時、"サラ"がどうなっているのか分からないままでは非常に危険なのだ。しかし今なら、その戦力はある程度想定が可能なのである。

「他には無いか?」

黒堂の言葉に応える者はいなかった。どの道やるしかないというのであれば、最早訊くべき事は無かった。

「では、作戦概要を説明する──」


大仰な音を立てて、区画封鎖用隔離シャッターが閉まり、区画の再閉鎖が確認された。
6名の隊員は各々がゴーグルの情報モジュール機能をONにし、ヘルメットの電磁ファイバーを活性化させる。ゴーグルのレンズ部分に薄い水色の光が走り、様々な情報を伝える数値や文章を視界の端に出現させた。

『司令部だ。通信能力の活性化を確認。各自報告せよ』

黒堂の声が同時に6名の耳に入る。ヘルメットの内部空間は、それそのものが高性能のスピーカーであり、マイクであった。

「大月、通信異常ありません」
「浜寺、異常ない」
「西成、通信異常・・・回復しました。耳が挟まってたようです」
「保井、通信異常ナシ」
「D、通信に異常は無い」
「コールマン、異常ねェよォ」

各々が順番にヘルメットの通信機能を確認し合う。ゴーグルに備わっている識別機能のおかげで、機動服に身を包んだ状態でも誰が誰なのかは判別が可能だった。
そしてそれぞれの能力は、先程のブリーフィングで黒堂から簡単に説明されている。ならば次に行うべきことは、状況の確認だ。
6名はカメラ機能をONにし、自らが目にしたものと同じ映像が司令部へ送信されるようにした上で、通路の先に視線をやる。そこにあるのは、破壊、破壊、破壊。これのみであった。

まず彼らの目の前の床には、階下へと続く巨大な穴が開けられており、更にその穴の上を越えた先には、廊下をほぼ塞ぐ形で瓦礫が積み上っていた。
これでは、封鎖区画内の様子を探りに行けないのも道理であった。無人ドローンを送り込んだ所で、あっという間に進めなくなってしまうのでは仕方が無い。Dクラスを送り込んだ所で、真新しい情報が得られる前に喪失する可能性が高い

『施設に備え付けられている消火装置の一部は故障している。封鎖区画外への延焼の可能性は無いが、内部では火災に注意を払え』

黒堂のその言葉に全員が「了解」と返した所で、任務が開始される。彼らがまず行うべきは"サラ"の捜索であった。その点については、スリーマンセルで二組に分かれる方法が予定されていた。
そこで早速、コールマン、保井、西成らのA班が床の穴を通って階下へ、大月、浜寺、DらのB班が携帯梯子を使って穴を渡り廊下の奥へと進んで行く。

A班が降りた先では、小規模な火災が発生しているようだった。火のついた書類がそこかしこに散乱している。そしてそれらを縫うようにして、あの緑色の粘液の残滓が廊下に残っていた。
「"サラ"の痕跡を発見。追跡する」
『了解。必ずしもその先に居るとは限らないが、十分に注意せよ』
「了解」
保井と黒堂のやり取りが隊員全員に送信されると、A班の3名は唯一の武装と言える機器を腰のホルダーから抜きながら、西成を先頭にしたフォーメーションを組んで前進を開始した。

今回、殺傷用の武装が使用出来ない代わりに、急遽用意された捕獲用の銃が6名に支給されている。
見た目はスコープのついた大きめのハンドガンと言った風情だが、グリップのつまみを操作することで様々な機能を切り換える事の出来る代物である。
だが、そのどれもが殺傷力に欠けており、あの"サラ"を相手にするには全く心許無いように思えた。

廊下の壁に並ぶドアの一つ。その左右に保井とコールマンが張り付き、突入の態勢を整えた後に西成が扉を開け放つ。"サラ"が見つかるまで彼らはこの作業を繰り返す。
『こちら浜寺。廊下を塞いでる瓦礫の一部除去を開始する。スキャン機能をONにするからモニターを頼む』
『了解。映像の解析と送信までのラグは0.31秒だ。留意せよ』
『了解』
B班と本部とのやり取りがヘルメットの中に響く。実際の所、"サラ"がスキャンによって捉えられるのならばわざわざ探す必要は無かったろう。
だが"サラ"が機動部隊に気付いて激しく動き始めれば、その動きに巻き込まれた種々の物品の動きはスキャンで捉えられるだろう。足を止めて瓦礫を除去しなければならないB班にとっては、その程度のものであっても"サラ"の不意を突いた先制攻撃に対処するには十分だった。

尤も、彼ら6名は37分間"サラ"を発見する事は出来なかったのだが。

「こちら保井。想定された作戦ポイントのセーフティ領域内の探索が完了。"サラ"はセーフティ領域外に居るものと思われる」

露骨に苦々しい表情で保井は司令部へとそう報告した。とは言っても、彼のその表情を見られる者は誰もいないのだが。

『了解。ではプランBへとシフトする。B班、作戦ポイントDへ向かえ。A班はセーフティ領域外10m地点へ移動の後、指示あるまで待機せよ』
「了解」

移動の命令があり、それに従って瓦礫と粘液の間を縫うように廊下を進み始める保井、コールマン、西成の3名。その途上で不意に口を開いたのは、エージェント・コールマンだった。

「よォ、お前、よォ、聞いてるかよ?」

声は通信機器を介して伝わってくる。ゴーグルに映るコールマンの姿に、現在の発声者を示すマークが現れた。

「保井、つったなァ? お前。あの保井だろォ?」

応えて良いものかどうか、保井は一瞬躊躇った。作戦行動中の私語は慎むというのが、基本的な原則だったからだ。
だがコールマンの言葉は司令部にも届いていように、注意は為されない。他のエージェント達からも反応は無い。黙認されている。
恐らくは、少々の会話如きで集中力が乱れるような人間ではない、と見なされているのだろう。事実、間延びしたような声を響かせながらも、コールマンの動作と目配せには微塵の隙も見られなかった。
隊の現在地点も探索済みのセーフティ領域内であるため、無用な指示を出すぐらいならばある程度は任せよう、という事なのだろう。であるならば、保井は取りあえず応えてやるのが良いような気がした。

「ああ」
「ほォー、へェーん。"若老兵"の保井がねェ。頼もしいじゃねェの」
「・・・そうか。急にどうした?」
「ああ、いや、ねェ。今回の任務の人選、ただの再収容任務にしちゃ大分気合入ってんなァと思ってよォ」
「事態の深刻さを考えれば、これでもまだ不足な方だろう」
「そうかよ? "傷猫"の西成、"熊落とし"浜寺、"顔無し"大月、"帰還するD"、そんで"暴れ馬"コールマンだぜェ? こんな豪華メンバー集める手間かけるならよォ、他にも色々出来るんじゃねェのかァ?」
「・・・ユーラシアの砂漠じゃ、どう戦ってたんだ?」
「んん?」
「"暴れ馬"だろ」
「ほォ、俺の人事ファイル読んでたのかよ」
「元テロリストで、元要注意団体メンバーでもあるからな」
「過去ってェのはどう隠しても太陽か地面のどっちかには見つかっちまうもんだなァ。まァいいけどよ、俺が言いたいのは、こいつァ何かの実験なんじゃねェかと思ってなァ」
「現状のリスクと吊り合う何かが進行してるとは思えんが」
「現状のリスクを素直に負う筈が無い、と読むべきだぜェそこは」

確かに、と保井は自らの内に生じた納得を認めた。
だが、それは即座に頭の隅の戸棚へと押しやられる。その戸は、どうでもいいものを押し込んでおくためのものだった。
何か思惑があった所で、知った事ではないのだ。ここに至ってしまえば、やるべき事はただ一つしか無いのだから。あの隔壁を通った時点で、何が起こるのかは決まってしまっているのだ。
ならば、探りを入れる事など意味が無い。作戦を遂行する。それ以外に無いのならば、それのみを行うだけだ。

「そこまでだ。余計なものを任務に持ち込むな」

保井のそんな意思を汲んだかのように、通信機器越しでエージェント・Dがコールマンをたしなめた。コールマンが気のない返事を送り、口を噤む。西成は保井とコールマンの前方を行進し、一度も二人の方へ気を向けはしていなかった。
そしてコールマンも、気抜けしたような声とは裏腹に、寧ろ足取りはより用心深く足下を探っていた。
そう、問題は無い。ただひたすらにやり通すだけだ。

「セーフティ領域外10m地点に到着した。指示あるまで待機する」

西成の声がヘルメットの中に響く。どうやら目的地点に辿り着いたようで、司令部からは短く『了解』とだけ返って来た。

黒堂によって説明された今回の作戦は、単純である。
財団施設内には、こういった事態に備えて戦闘に有利な構造として設計されている場所が幾つかある。
それら有利な構造の地点を仮想交戦ポイントと定め、そのどれか一つに"サラ"を誘き寄せ、罠を張って捕獲する。
セーフティ領域とは、その仮想交戦ポイントを中心に定められた領域であり、"サラ"に追いつかれる事無く安全に仮想交戦ポイントまで逃げ切れる限界距離を指し示す。
つまりセーフティ領域外で"サラ"と遭遇した場合は、仮想交戦ポイントまで撤退する途上で必ず"サラ"に一度は追いつかれるのだ。
そして何とか仮想交戦ポイントで首尾よく捕獲に成功した場合、その場で即座に"サラ"の背面からSCP-026-JP本体を、粘液の塊から引きずり出す。
背面側は前面に比べて粘液の層が薄く、またSCP-026-JPは大量の粘液から引きずり出された場合、粘液の敵対的な影響下から離れるだろう。そうなればSCP-026-JPは肉体の疲労から失神し、統制する者を失った粘液の塊は、廊下に散らばる粘液の残骸と同様運動能力を喪失するだろうと言うのだ。
釣り出し、罠に嵌める。遥か昔より繰り返されて来た、単純な作戦だ。
しかしだからこそ、それは小さな失敗、小さな偶然で大きな被害をもたらし得る。特にセーフティ領域外では・・・

「報告ゥ」

そんな状況で、再びコールマンの間延びした声が響いた。
そこら中に破壊の爪痕と粘液が飛び散った廊下で響く気の抜けたような声は、かえって不気味なものを感じさせた。

『どうした』
「"サラ"の奴、多分近くだ」

保井は思わずギョッとした。コールマンはふざけたような声と態度の男だったが、セーフティ領域外でまで冗談を言う男であるならばここに呼ばれてはいない。彼も非常に優秀なエージェントの一人であるのだ。
で、あるならば、彼は何かを感じたのだろう。保井と西成は目配せすらせず、素早くコールマンを中心に廊下の二方を見渡せる位置についた。

『何かあったのか?』
「壁の粘液が、床のより新しい感じだ。あいつ、賢いな・・・俺たちの移動ルートを読んでたみてェだ。壁の粘液が、天井の通気口まで続いてやがる」

どすん、という重い音が廊下右方の壁から響いた。

「逃げねェと。こりゃ、罠だ」

全てを言い終わる前に、保井、西成、コールマンの3名は駆け出していた。それとほぼ同時に廊下の壁が爆ぜた。そう、文字通り爆ぜたのだ。
その奥から飛び出して来た巨躯の怪物は、それが突き破りはね飛ばした壁の破片ですらが凶器となる膂力で彼らに迫る。獣そのものの咆哮が鳴り響き、力強い歩みで彼らを狩り立てる。
その体躯は今や明らかに3mを越え、一歩毎に廊下全体が軋むようだった。
SCP-026-JP-Unn、通称"サラ"。変貌を遂げた憎悪は、今や敵意と獣性のみを燃料とし赤い瞳を燃やしていた。

「司令部、会敵した! 作戦ポイントDに向かう!」

走りながら西成が怒鳴り散らす。通信機器越しに聞こえる司令部の喧噪が大きくなったような気がした。

『こちら司令部。作戦を開始する。A班は誘導を続行。B班は進捗を報告せよ』
「こちらB班。たった今ポイントDに到着した。現状問題無し」

「了解」と応えるべきだったが、保井もコールマンも西成もそんな事は出来なかった。直ぐ後ろまで、もう"サラ"が迫って来ていたからだ。とても"サラ"の咆哮に対抗出来るだけの声を出す余裕は無かったからだ。
今だけは、足が千切れんばかりの全力で走らざるを得なかった。実際に足が千切られたとしても、全力で走るしか無かった。
だが、それでも、彼らと"サラ"との距離は決して広がる事は無く、むしろ急速に縮みつつあった。足場が悪い上に、運動能力の差は歴然としていたのだ。

「くそッ」

ゴーグルに映し出される後方カメラの映像を見ながら、最後尾の保井は歯を噛み締めた。ゴーグルの奥で、彼の右目と左目の大きさの差が更に広がった。
ポイントDまでは残り35mで、途中一度曲がらなければならない。このペースでは、間違いなく全員追いつかれるだろう。
ならば、最後尾を走る自分の役割とは? それは一つしか無い。

「足止めする。援護無用」

保井はそれだけ言うと、走りながら捕獲用銃の銃口を、脇の下から覗かせるように後方に向けて、引き金を引いた。
銃口からは、特殊柔軟処理を施した細芯IWRCワイヤーネットが飛び出し、"サラ"を鷲掴まんとする手のように広がった。
だが金属ワイヤーのネットでも、勢い付いた"サラ"に対しては足を鈍らせる事すら出来ず、左腕の一薙ぎで軽く除けられる。
だが左腕を振る事で、その間"サラ"が何者にも攻撃を加える事が出来ない時間が一瞬だけ生まれた。その一瞬を使い保井は反転し立ち止まったのだ。

「了解」「了解ィ」『了解』「B班了解」

四つの声が同時にヘルメット内に響く。
"サラ"はそのまま保井に突っ込んで来るが、その足を一瞬だけでも遅らせる事が出来れば、コールマンと西成は作戦ポイントまで辿り着く事が出来るだろう。
ならばその一瞬のために命を張る事は、使命でも義務でもない。当然、だ。当たり前の事として、危険の最前線に立つ。

──いつもの事だ。

"サラ"が右腕を大きく振りかぶる。保井がその動作の動き始めを見て咄嗟に腰を落とすのと同時に身を屈めた瞬間には、その直ぐ頭上を丸太の如き一薙ぎが通過していた。
大量の汗が吹き出し、直ちに"サラ"の一薙ぎが作り出した風圧によって飛び散るのを、保井自身はっきりと感じた。
しかし、縮み上がっている場合ではない。保井は姿勢を低くしたまま左前方──"サラ"の右腕側へと飛び込む。"サラ"は今この時も足を止めていない。高速で移動する胴体との接触は、それだけで保井を行動不能に至らしめるだろう。
だが、だからこそ、振り切った右腕が再び保井を捉える前に、"サラ"の横をすり抜けられるのだ。

捕獲用銃のグリップのつまみを左に捻りながら、飛び込む。その頭上を再び"サラ"の一撃が通り抜けた。保井は空中で必死に身を捩りながら、捕獲用銃を振るい引き金を引いた。
捕獲用銃のスコープのような部品の先端が発射され、ワイヤーを引きながら飛行を始める。ワイヤーは先程のネットの素材と構造をより太く頑強にしたもので、容易く千切れはしない筈だ。
捕獲用銃を振るいながらワイヤーを射出したため、ワイヤーは空間を薙ぐように横の放物線を描きつつ"サラ"へと飛来し、胴体に巻き付いた。
ワイヤーの先端部は物体との接触を感知すると、接触面を微かに開口して空間を作り、その空間を真空にすることでしっかりと吸着する。それと同時に、保井は捕獲銃のグリップに取り付けられた専用の金具に、腰のフックを引っ掛けた。

その直後、保井の体は弾かれるように飛び出した。

"サラ"は足を止めない。保井を牽引しながら走り続ける。武装した男一人を、まるでリボンの尾のように軽々と牽き走る。
保井は凄まじい牽引力のため空中に引き上げられ、高速で廊下を飛んでいる。空気抵抗と慣性力のため姿勢は安定せず、上下も左右も判断がつかない状態で、必死に瓦礫を避けようと懸命だった。
回転する視界と平衡感覚の中で、ぶつかりそうな瓦礫を瞬時に見分けて防御姿勢を取る。瓦礫にぶつかった体がピンボールのように弾かれ、痛みが走る。そしてその都度、巻き付いたワイヤーは"サラ"に食い込んだ。

保井の体重とワイヤーは"サラ"の走行速度自体にはなんら影響を及ぼさなかったが、その存在は"サラ"にとって障害と認めるに足るものとなっていた。微かに後ろに引っ張られるような断続的な感覚と、胴体に食い込むワイヤーの感覚。
それらは単に感覚だけであったが、だからこそ無視出来ないものとなっていた。邪魔。己の激情を撒き散らすにあたって、それは決して無視出来ぬ感情であった。

更に強くワイヤーを引かれるのを保井は感じた。走りながら、"サラ"がワイヤーを掴んで思いっきり保井を引き寄せたのだ。しかも、それと同時に"サラ"は自らの瞬発力を生かし急停止する。
前方への慣性力が急激に増加した状態で"サラ"のみが停止すれば、どうなるか。保井は「おっと」と呟く事すら出来なかった。
カタパルトか、はたまたスリングショットのように、保井は"サラ"を追い越しその前方へと飛ばされる。
一瞬だけ弛んだワイヤーがあっという間に伸びきると、それがピンと張る寸前に"サラ"は再びワイヤーを力強く引いた。
強く引っ張られる力と、引き戻される力。その力にワイヤーは耐えられたが、保井の腰に取り付けられたフックは耐え切れなかった。一瞬でぶぢりと引き千切れ、それでも尚消費し切れなかった慣性力によって保井は廊下の彼方へと飛んで行く。
投石の如き原理で打ち出された砲弾は、壁へと迫る一瞬の間、保井を吹き飛ばすために足を止めた獣を見た。
そして、それが直ぐさま廊下を曲がって視界から消えたのを見ると、死すら感じさせる速度の中で、こう呟いた。

「──良し」

全身に走る衝撃と共に、それが衝撃だと感じる間すら無く保井の意識は拉げた。


『保井の信号途絶を確認。注意せよ』

司令部からの報告に短く「了解」と応える各隊員。

「こちらB班、準備完了」
『了解。所定の位置へ待機し、自己判断で"サラ"の捕縛にあたれ』
「了解」
「こちら浜寺。捕獲用武装機能の最終確認を要請する」
『了解。異常無し』
「了解」
「こちらD。"サラ"の映像と位置情報が欲しい、モニター情報を共有してくれ」
「今それどっこじゃねェ! 司令部!」
『西成とコールマンのモニター情報を全隊員と部分的に共有する。3、2、1、共有開始』
「来た来た来た来た来た来た!」

叫ぶコールマンの後方から"サラ"が追って来ていた。瓦礫を跳ね飛ばし、殺意を撒き散らしながら床を砕いて迫る。
西成は黙して走り、コールマンは自らを鼓舞するように叫びながら走る。二人の様子はまるで異なっていたが、二人とも必死であった。だが二人の速力が限界に達していたのに対し、"サラ"は加速し続けていた。
距離は縮み、確実に二人を殺せる射程内に、二人の頭部が入った。"サラ"の左腕が振り上げられる。
しかしそれが横薙ぎを放つことは無かった。前に出る筈だった"サラ"の右足が空中で停止したのだ。"サラ"はバランスを崩し、つんのめる。それと同時にコールマンと西成は左右へ散開した。
左右へ散開。そう、ここは廊下が十字に交差した、十字路地点である。そしてこの十字路地点こそが、作戦ポイントDなのである。

"サラ"の巨体が初めて倒れ伏す。予め専用の硬性ワイヤーが2本、"サラ"の足を引っ掛けるように張られていたのだ。それらは巨体の足を捉えるため高い位置に張られていたが、おかげで西成とコールマンは、少し身を屈めるだけの不自然ではない動きでワイヤーをやり過ごせたのである。
"サラ"が倒れた場所は十字路地点の中心点。そして三方には、浜寺、大月、Dが捕獲用銃を構えて待っていた。

"サラ"が顔を上げるのとほぼ同時に、三方からネットが射出された。
ネットは"サラ"のほぼ全身を包むと、網裾のおもりに内蔵されている通電装置が作動。電磁石と化したネットは互いをしっかりと固定し合うのと同時に、"サラ"を締め付けて動きを封じる。
そこに、西成とコールマンが覆い被さった。半田ごてのような形状の電熱器で"サラ"の背中を切り開き、そこからSCP-026-JPを引きずり出すためだ。

しかし、コールマンが電熱器にスイッチを入れ、西成がネットが動かぬよう押さえ付けた直後、"サラ"は唸り声を上げながら、のっそりと立ち上がり始めた。

「動作の鈍化には成功。完全な抑止には至らず」
『直ちに摘出せよ』
「おいおいおいおいおいおい」

コールマンは焦りを覚えた。何とかしがみついて体を固定しながら"サラ"の背中を切り開くのは、大変に時間のかかる作業に思えたからだ。
しかし、もし"サラ"が激しく暴れ始めたら、もう二度と機会は巡って来ないだろう。ネットによって一時的に動きを抑制出来ている今こそがチャンスなのだ。
他の3名もそれを理解してか、捕獲用銃からワイヤーを射出し"サラ"の四肢に巻き付ける。そして捕獲用銃を床に置いてグリップのつまみを右にひねると、捕獲用銃は床の一部であるかのように床へと固定されビクとも動かなくなった。

だが、全ては一時しのぎに過ぎない事を誰もが即座に理解した。
ぼごり、という形容し難い音と共に、"サラ"の体表が泡立ったのである。
緑色の体を構成するものは肉ではなく粘液だ。ならば、形状は本来意味を為さない。神話のようなこの形体も、あくまで仮に過ぎないのだ。
体表の泡立ちが、まるで沸騰しているかのように激しくなっていく。
覗く双眸の奥で更なる怒りが燃え上がる。
篭った泡音の混じる咆哮が響き渡る。

「"サラ"の未知の反応を確認。解析を要請──うおっ!?」

報告を始めていたDは思わず仰け反って倒れた。
"サラ"の至る所が隆起し、ネットの編み目をすり抜けるようにして多数の触手が形成されたからだ。そしてその内の一つが、Dの眼前を掠めたからだ。

「こちらD! 未知の形体だ! 指示を頼む!」
『こちら司令部。作戦に変更は無い。任務を継続せよ』
「了解! 西成とコールマン両名の一時離脱を許可されたし!」
『許可する』
「二人とも離れろ、危険だ!」

三方へ伸ばされる触手をDは避け、大月は瓦礫で防ぎ、浜寺は受け流す。腕ほどの太さがある触手は、鞭ほどの速さは無かったが、威力と重さは数倍以上の武器となっていた。
そしてそれに狙われた時、最も危険なのは"サラ"の背中に張り付いて動けないコールマンと西成の二人であった。

「待てェ! あともうちっとなんだよォ!」
「囲んで再度ネットで拘束を試みる。ここは危険だ」
「やっと焼き切れたんだ! 腕突っ込むぐれェは待てるだろ!」

コールマンの言葉を無視して、西成はコールマンの襟首を掴んで雪崩れ込むように床へと倒れる。"サラ"の背中から引き剥がれた二人が倒れ込むのとほぼ同時に、3本の触手が"サラ"の背中を叩いていた。
ぱっくりと開いた部分から、僅かにSCP-026-JPの背中が覗いていた。後2秒も余裕があればそれを引きずり出す事が出来ただろう。しかし、その時間は無かった。

「クソ、離脱だァ!」

そうなってしまっては、もう行える事は全く無いのだった。コールマンと西成は急いで離脱を試みる。
しかし、今や燃える瞳を残して触手の集合体と化した"サラ"は、執拗に二人へと攻撃を行った。二人は立ち上がる事すらままならず、這いつくばり、身を捩りながら攻撃をかわすしか無かった。

「"サラ"の背中は開けたか!?」
「開けたァ! 熱残ってる間ァ修復も無い!」
「浜寺さん、接近出来ますか?」
「無理だ! 攻撃が激し過ぎる!」
『修復までの時間は後39秒だ。それまでに接近し"サラ"を無力化せよ』
「大月、ワイヤーで狙えないか!?」
「SCP-026-JPを傷付ける恐れがあります」

触手と、捕獲用銃のネット、そして互いの言葉が飛び交う。
しかし疲れ知らずの"サラ"に対して、尋常ではないスタミナと集中力を要求されている隊員の面々の限界は近かった。
避け切れない。近づけない。時間が無い。それら全ての問題は、一撃必殺を旨としていた先程までの"サラ"とは全く異なる物量戦術が生み出していた。

『メッセージをお伝えします』

しかし突如、通信に全く未知の音声が割り込んで来た。
機械で作ったような不自然さを持つ、物静かな音声。それが全員のヘルメット内に響き、そして誰かが疑問の声を上げる前に、その音声は言葉を続けた。

『『こちら保井。任務に復帰する』との事です』

"サラ"の真上の天井が爆音と共に砕け、巨大な金属塊が突き抜けて来た。
金属塊は腕のような形の突起を伸ばし、回転しながら"サラ"の触手を根元から切断する。そして着地し、体を伸ばすと、それは3m程はある巨大な人型機械のようだった。

「どうだ!」
『損害として不十分です。修復可能な部位を破壊したに過ぎません』

その巨大な人型機械の頭頂部にいるのは、それをスーツのように纏い、ヘルメットの無い頭部のみを露出させたエージェント・保井。そしてSCP-210-JPであった。

皆が、驚愕の中で一瞬の硬直を得た。
その隙に"サラ"から攻撃されなかったのは、その驚愕の元凶である人型機械が"サラ"の触手を破壊してくれたからなのであるが、その事に気を回すゆとりも無いのだった。
ごぼごぼと濁った音を混じらせながら"サラ"は吠え、再び触手を繰り出し人型機械へと振るう。どろりと流動する粘液の隙間から、赤い瞳が保井を捉えていた。
人型機械は巨大な両手で触手を掴んで受け止めると、まさに万力と同様の力で固定した。

『こちら司令部。状況を報告せよ』
『こちらSCP-210-JP。エージェント・保井のヘルメットは機能を破壊され、予備通信装置の送信機能も喪失しました。そのため私が代理で通信を行っています』
『事態は隊員の映像から把握している。SCP-210-JPの機能は保井によって制御されているか?』
『私はフレームの構築と通信の代行を行っているのみです。機能制御の権限は現在全てエージェント・保井が保持しています。真偽についてはスキャン解析によって確認してください』
『今しがた解析を完了した。証言の有効性を認める』
『ありがとうございます』

司令部とSCP-210-JPの間で素早くやり取りが交わされる。
様々な事が今ここで起きていたが、何を最優先すべきなのかは司令部がいち早く察していた。
"サラ"の背中が閉じ切るまで、時間がもう無いのだ。
ならば、しなければならない事は一つだけだ。

『こちら司令部。SCP-210-JPを臨時的に保井の個人的武装と認める。SCP-026-JP確保を最優先とし、連携して作戦を遂行せよ』

この言葉の最中には、既に彼らは動き出していた。
"サラ"は新たに触手を繰り出し、隊員達を攻撃しようと試みるが、触手は攻撃に移る前に人型機械に捕えられた。"サラ"が粘液を用いて腕を増やすのと同様に、SCP-210-JPは金属を用いて腕を増やし、その制御を保井に明け渡していた。
真正面から"サラ"と人型機械は組み合い、互いに抑えつけ合った。

『状況が対象の攻撃腕生成能力を上回りました。増殖の速度が低下しています』

"サラ"が急速に何本もの触手を次々と生成した事で、粘液の増殖速度が触手の生成速度に追いつかなくなった。つまり、その分修復速度が遅くなり、開かれた背部の粘液層が更に薄くなるのである。
保井はそれを聞くと、体を大きく後ろに引き、巴投げのような要領で"サラ"を引き倒した。もちろん実際に投げるためではなく、"サラ"を自身に覆い被さるようにする事で、背部を露出させるためだ。

そしてその瞬間を的確に掴んだのは、エージェント・浜寺であった。
その巨躯に似合わぬ速度で"サラ"に寄ると、背中に組み付くのと同時に両腕を深く"サラ"の開いた背中に差し込む。

「どっせい!」

気合一声。浜寺の腕が、核であるSCP-026-JPの腰に回されるや否や、彼は腰を落とし足を床に固定して一息に少女の体を粘液の塊から引き抜いた。燃える瞳が粘液の奥に引っ込み、直後にその本体が"サラ"の背中から、粘液の欠片を飛び散らせながら引き出された。

「よし!」

その瞬間、保井は人型機械から射出されるようにして脱出した。
同時に人型機械はSCP-210-JPの制御によって転がり、核を失った粘液の塊を組み敷くと、全身を変形させ粘液の塊をすっぽりと包み込む球形へと変化。最後にSCP-210-JPが球形から離脱し保井に受け止められると、球形は高熱を伴う爆発を内部で引き起こした後、ばらばらと崩れた。
その残骸にあるものは、先程まで隊員達を苦しめていた粘液の、焦がしたチーズのような残滓だけだった。
浜寺の方は、引きずり出したSCP-026-JPに付着している粘液の欠片を携帯洗浄装置で洗い流していた。

「どうだ!?」

保井が叫ぶ。大月とDが駆け寄り、SCP-026-JPの状態を確認する。司令部からは状況報告の催促があった。

「・・・SCP-026-JPは失神している。"サラ"は完全に無力化、有害物質の生成も見られない」
「バイタルサインも良好です。外傷も無く生命活動に支障は見られません」

報告を聞いた黒堂のため息が、各員のヘルメット内部に響いた。そこにあるのは、隠し切れない安堵であった。

『SCP-210-JPは?』
『こちらSCP-210-JP。機能に問題はありません。武装の解除も完了しています。速やかな再収容の実行をお勧めします』
「こちら西成。SCP-210-JPに敵対的または活動的な反応は見られません。臨時収容のための部隊の派遣を要請します」
『了解した。本作戦は終了とし、直ちに再収容措置に移る。指示あるまで現状を維持し待機せよ。以上、通信を一時終了する』

黒堂の言葉の直後に、微かに歓声のようなものが漏れ聞こえて来た。
作戦成功。イレギュラーな事態続きの中でも、全員が無事に義務を果たしたのだ。
司令部との通信は一時解除され、6名のエージェントと2つのSCPオブジェクトのみがそこに残された。
保井はSCP-210-JPを布に包んで金属と直接接触しないようにし、浜寺はSCP-026-JPを目覚めさせないよう、そっと抱き上げる。

「ブッハァーーーーーッ」

わざとらしい程大きな息をついて倒れ込んだのはエージェント・コールマンであった。その姿は「もう動きたくない」と言わんばかりであった。

「キツい任務だったな」

その隣に保井が腰を下ろす。ヘルメットが壊れた際のものか、額から出血していたが、コールマンも保井自身もその事を気にする様子は無かった。

「キツいなァ、いつも通りだ」
「そうだな」

倒れた状態から、後ろに回した両肘だけをついて胸から上を起こすコールマン。その二人の視線の先にあるのは、浜寺に抱き上げられ、Dに頭を保持されているSCP-026-JPであった。

「ついさっきまで、アレに殺されそうになってたんだな」

SCP-026-JPの姿は居眠りしてしまった少女そのものである。
保井もコールマンも、それが凶暴な獣を駆る異常存在であることは重々承知していた。それでも尚思わずにはいられないのだ。不条理が生み出す、更なる不条理を。
ままならない事は無数にある。しかしそれでも生きている。棺桶の中に臓物を撒き散らすまでは、そのはらわたに不条理を押し込んで生き続ける。その事に耐え切れない者は・・・あのSCP-026-JPのようになる。財団の中でも外でも、その事は変わらない。その鬱積した不条理の吹き出し口こそが、SCPオブジェクト等の異常存在に結びつくのだろうか・・・保井は過去、そのような事を考えた事があった。

「まあ、いい。やるべき事はやった」

しかし今更、存在を問うて何になる? それは自分の仕事ではない。
エージェントである自分が何を為すべきか。結論は大昔、彼自身が生まれる前よりも既に用意されている。確保、収容、保護。それのみだ。この不条理に満ちた世界が不条理で在り続けられるように。存在の正体ではなく、存在そのものを頼りに生きるだけだ。

「そういやお前よォ、よく210-JP持って来れたなァ。元々お前のセキュリティクリアランスじゃ収容室にゃ入れないだろ?」

布に包まれたSCP-210-JPを見下ろしながらコールマンは疑問を投げかけた。SCP-210-JPが予め収容違反を犯していたのならばそう通達が来るだろう。つまり今回のSCP-210-JPの加勢と言う名の収容違反は、作戦行動中に起きたものだ。それも保井の手によって、人為的に。
ならばただのフィールドエージェントである保井が、SCP-210-JPの収容室に入るにはセキュリティをクリアしなければならなかった筈であった。

「ああ、まあ、壁にぶつかって突き破った先が収容室の手前だったんだが・・・神山博士の死体があってな。それで、拝借した」

そう言いながらズボンのポケットから保井が取り出したのは「神山 孝蔵」と書かれたIDカードであった。そこに記されているのは「セキュリティクリアランス3(文書または施設へのアクセス時のみ有効)」の文字である。
保井はそれをグシャグシャに握り潰すと、未だ微かな炎を上げている粘液の塊の残滓へと放り込んだ。
コールマンはハッと短く鼻で笑うと、上体を完全に引き起こした。

「俺が管理官だったら、お前ェは解雇だな」
「構わん。静かに死ねるならな」

SCP-210-JPの入った包みを持ち、保井は立ち上がった。
それぞれ大きさの異なる両目には、何も宿っていないようだった。
達成感も不安も安堵も激情も無いその瞳は、ただこの場の静かさだけを讃えているようだった。

暫く後、SCP-026-JPの寝息すら聞こえ始めた時に、特異敵対事例宣言が解除された旨の通信が司令部から送信された。


事件から4日が経過し、サイト-8141の機能はほぼ完全に復旧した。
破壊を修復し、損失を補填し、いよいよ後は人員の再配置を行うのみとなっている。
非日常が急速に日常へと戻って行くその中で、一人と一匹がオフィスで向かい合っていた。オフィスの入り口には「臨時管理官」と書かれた札が下がっていた。

「事態はほぼ予定通りに落着したと見て良いでしょう。210-JPの使用以外は、ですが」

灰色のスーツに身を包んだ男が、デスクの上に置かれた水槽、更にはその中で頭をもたげているカナヘビへと話しかける。

「そうみたいやね。で、どう思てんの?」

カナヘビが奇妙な声を上げる。それは人の言語のようだったが、スーツの男は驚きも怯みもせず、当たり前のように応答した。

「エージェントによって構成される臨時機動部隊に関する制度については・・・本事例の成功を取り上げる事で、正式な提案が可能となるでしょう」
「210-JPの収容違反も誘発したみたいやけどねぇ?」
「重要なのは結果です。それにこの提案が受理されようが却下されようが、それは誰にとっても無視出来ない実績となるでしょう。エージェントに対する補償制度の拡大と絡めれば、人望と存在感を更に高める事が出来ます。それらはあなたのものなのですよ、管理官殿。それに今回の事例は、SCP-026-JPの特別収容プロトコルの見直しにも繋がるでしょう。あなたが兼ねてより進言していたように、です」
「そんなんが実績って認められるんやったら、せやろなぁ」

カナヘビの声には若干の不満が含まれているようだった。
スーツの男は笑顔を崩さないまでも、困ったように首を傾げる。

「まあ、取りあえずは、今回の作戦に参加したエージェント達は可能な限り同時に運用出来るように組ませましょう。後は管理官殿の御随意になさってくれれば、今回の件を皮切りに、制度改革まで発展させることが出来るかもしれません。その時、財団はより良く生まれ変わるでしょう。管理官殿の裁量によって」
「今回の事『これ幸い』とか思てへんやろねぇ」

カナヘビの表情は爬虫類故に読み辛かった。しかしスーツの男は、自身が試されている事をありありと感じていた。

「まさか。私の兄まで亡くなっているのですからね。変に勘繰られては困りますよ」

スーツの男の言葉に対し、カナヘビは無言を貫いた。
だが、その小さな両手を水槽内部に据え付けられた装置に押し付けると、水槽は取り付けられた羽によって飛行し、スーツ男の眼前まで移動した。
そして水槽は男の眼前でホバリング態勢に入り、カナヘビは水槽の中を這って真正面からスーツの男の表情と対峙した。

「SCP-026-JPが裏で研究者達になんちゅうて呼ばれとるか、知っとるやろ?」

まるで詰問するような口調にも、スーツの男は怯むことは無かった。
そして真っ直ぐに、カナヘビの問いに答える。

「『現代のハイヌウェレ』」
「その通り。ハイヌウェレは、殺されてバラバラにされた女神の名前やけど・・・その後どうなったか知っとるやろ?」
「バラバラにされた両手が、彼女を殺した者たちへの呪いに使われ、呪われた者たちは人、あるいは獣へと姿を変えたそうですね」

スーツの男の返答によって、水槽がやや後退した。カナヘビは装置の方へと戻り、スーツの男から向かって右側へと水槽を移動させ始めた。

「ボクも財団のエージェントやから、あんまりオカルティックな事はもう言わへんけどな、人の姿も獣の姿も、アレにとっては意味があると思とんねん。せやから、アレがほんまに怒りとか憎しみでああなったんやったら・・・そのまんまだと、またおんなじようになるやろ。ボクが言うとるのは、それだけの事や」

その言葉は、カナヘビである彼だからこそ本来の意味とはまた違った意味を持っていた。
スーツの男はただ黙って、その話を聞いていた。

「甘ぅ見んのも、安ぅ見んのも禁物や。ボクはキミの真意にも、210-JPの事にも目ぇを瞑る。代わりに、その事だけは絶対に守ってな。首をあっちに向けながらで事足りる程、ボクらが相手にしてるもんは可愛げがあるもんやあらへんからね」
「肝に銘じます」

水槽に向かって頭を下げるスーツの男。カナヘビはそれを背中で受け止め、「帰ってええよ」と告げた。
スーツの男はそれを受け、出口であるドアの方へと歩み寄る。
しかしドアノブを捻り、僅かに開いた所で彼はカナヘビの方へと向き直った。

「ああ、そうそう。私の真意ですが、私の目的とあなたの目的には一切違いは無いと思いますよ。確保、収容、保護。それこそが私が存在する理由であり、あなたがまだ生きている理由であり、"嚥下"作戦が実行された理由です」

カナヘビは興味無さげに、その言葉を背中に受け続ける。詐欺師の言葉を受け流す弁護士のように、その背中に揺らぎは無かった。
スーツの男はその姿に対して小さくため息をつくと、さっさと部屋から退出した。
残されたカナヘビは、鼻から息を吹き出すと、水槽をデスクの上に移動させる。
そして水槽に取り付けられたアームを操作して、デスクの上の書類にしっかりと、判を押した。
その書類は、さきほどのスーツの男が持ち込んで来たものであり、こう題が振ってあった。

『サイト-8141管理官罷免決議文書』

カナヘビが人の顔を持っていたなら、口角を下げ、深いため息と共に椅子の背もたれを軋ませていただろう。


もう二度と起きない事を願う。
エージェント・保井は仕事が一つ終わる度に、心の中でそう呟く。
彼の足下では今、エージェント・コールマンが異常存在を取り押さえていた。
青年の形をした異常存在は全身の細胞を波打たせ、全身の細胞を囁かせながら、拘束から外れようともがいている。

「くっそこのッ! 関節が全然極まんねェ! うおッ大人しくしろテメェ!」
「そのまま押さえていろよ」
「いいからさっさとしろッ」

保井は注射器に麻酔薬を詰め、針から空気を抜くと、異常存在の首筋を左手で押さえるのとほぼ同時に素早く麻酔を注入した。
これまでの追跡と戦闘の経緯から、異常存在は自らの身体構造に大幅な改変を加える事が出来ると思われたため、改変が行われる前に薬剤による鎮静を素早い動作で行う事が有効、と二人は結論付けていた。
結果は大当たりのようで、異常存在は全身の細胞を数度に渡って震わせると、だらしない革服のように地面に伸びて気絶した。
それでも、警戒のためにコールマンは拘束を続けていたが、首を絞めても何の反応も無かった事から、完全に気を失ったと見なし、ようやく離れる事が出来た。

「畜生、手間ァ取らせやがって」

荒く息をつきながら立ち上がるコールマン。
保井はその隣へと移動しながら、収容部隊へメールを送信していた。

「これで良し。後は回収チームが来るまで待機だ」
「おう。で、何か言う事あるか?」
「何?」
「こいつを追って9kmも走ったんだぞォ?」
「ああ。生きているオアシスを砂漠で一週間追い続けるよりは楽だったろう?」
「お前はホント見た目の若さがあてにならねェな」
「そんな奴ごまんと居るさ」

軽口を叩きながら携帯電話を懐に入れる保井。
コールマンは既に息切れから回復しつつあり、最後に深く呼吸をすると完全に落ち着いた呼吸を取り戻していた。

「いやァしかしこれでやァっと休暇が取れるぜ。まあたった一日だけどなァ」
「休みがあるだけマシだろう」
「まァそうだな。久々に酒と煙草漬けになって帰って来るぜ」
「程々にしろ」
「やァだねェ」

軽い言い合いに、深刻さは微塵も無い。お互いに砕けた心持ちで会話している事がよく分かる、流れるようなやり取りだった。それでも二人ともが気絶している異常存在を見下ろし、その挙動に注意を配っていた。

「そういやァお前休暇はどう使うんだよ」
「休暇は休暇らしく使う。じっくり休むつもりだ」
「ゴロ寝で潰すのかよ・・・もったいねェなァ。なんなら一緒に飲むかァ?」
「・・・やだね。お前とはもう二度と飲まねえ」

日常的な会話で時間を潰していく二人の携帯電話が同時に鳴った。それはメールの着信音であり、着信音は業務連絡の到来を告げるものであった。
二人が急いで携帯電話を取り出してメールを確認すると、二人は二人ともその携帯電話を彼方に投げ付けてしまいたくなった。

『あなたは38分前より臨時機動部隊つ-14"番狼"へと配属されました。直ちに下記の電話番号へ連絡し、当該収容部隊長の指示の下サイト-8112に急行し作戦に参加してください。尚、本作戦への任命を以て明日の休暇は取り消しとさせて頂きます』

世界が意味と不条理で満たされ続ける限り、彼らは必要とされるだろう。

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